第33話 品質監査編 ― “魂の是正処置”
朝の総務室。
藤井仁(36歳)は、湯気の立つコーヒーを前にして深い溜息をついていた。
AI導入の記憶がまだ新しい。
あれからというもの、社内では「AI」「DX」「クラウド」という単語が禁句になり、
代わりに「紙」「印」「根性」が社是のように掲げられていた。
そこへ、一本の電話。
ISO審査機関からだった。
「来週、定期監査に伺います」
藤井はコーヒーをこぼした。
(……また、あの戦争か)
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昼。
社内放送が鳴り響いた。
「全社員にお知らせします。来週、ISO定期審査が入ります」
その瞬間、職場の空気が一気に重くなる。
組立部長:「……それ、食いもんか?」
藤井:「認証制度です」
加工部長:「ああ、あの“紙を出す儀式”のやつやな」
「正確には品質管理の国際規格です」
「でも結局、紙ばっか出すやろ」
「……否定できないです」
お局がぼそり。
「ペーパーレスとか言ってたくせにね。もう“ペーパー多レス”よ」
技師長:「ほう、デジタルが実体化したか」
藤井:「それ紙です」
「魂が宿っとるな」
「……重みです」
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審査前日。
社長の怒鳴り声が廊下まで響いた。
「藤井くん! この“是正記録”とはなんですか!」
「不具合や苦情の改善履歴です」
「そんなもの、我が社には存在しません!」
「先月、倉庫で社員が滑って転倒しましたが」
「それは“運動不足”じゃないですか!」
お局:「もう病院も匙投げるわね」
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審査当日。
審査員が到着した。
背広姿の初老の男が名刺を差し出す。
「本日はISO9001定期審査を担当いたします」
社長は威圧感たっぷりの笑顔で応じた。
「私は法令遵守の経営をしております!」
まだ何も聞かれていない。
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第一部:総務審査。
審査員:「内部監査の記録を見せてください」
藤井:「こちらです」
「……これは手書きですか?」
「はい、クラウド化しましたが、社内に電波が届きませんでした」
「デジタル化は?」
「ファイル名に“デジタル”と書いてあります」
「……なるほど」
(納得された!?)
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第二部:現場審査。
調達部長が胸を張る。
「うちは義理人情で品質守っとる!」
「ISOでは数値的保証が必要です」
「義理が数値にできるか!」
「いえ、そうではなく」
「信用こそが数字だろう!」
「……それも違います」
「なんだと!そこまで言うなら不合格にしろ!」
「争うところじゃないです!」
物流部では最長老が出荷帳を広げた。
「ここに全部書いていますよ…」
「……これは楷書ですか?」
「いや、手習いです…」
「読めませんね」
「わたしも最近見えなくなってきました…」
「……」
お局:「抽象芸術として保存すれば?」
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午後。
審査員が組立部で尋ねた。
「作業標準書の最新版を見せてください」
組立部長:「せやない!」
「……?」
「最新はわしの頭や!」
「つまり手順書が頭の中に?」
「うん! 印刷コスト削減や!」
「……ISOの理想とは真逆です」
「ならISOが間違っとる!」
藤井は慌てて割って入る。
「部長、これが最新版です!」
「それ、昨日作ったやつやな!」
「はい、だから最新版です!」
「……完璧や!」
(論理崩壊、完了)
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夕方。
審査員の疲労がピークに達した。
総評が始まる。
「総じて皆さん、大変“情熱的”です」
(褒めてないな)
「ただ、文書の一元管理が不明瞭です」
「……クラウドと机と神棚に分散してます」と藤井。
「神棚?」
「魂のバックアップです」
お局:「もう宗教法人にした方が早いわね」
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社長が誇らしげに立ち上がった。
「我が社は“心管理”を重んじております!
文書に頼る企業は、魂が弱のです!」
審査員:「……ISOは品質管理の規格です」
「品質とはすなわち心です!」
(出た、品質=心理学理論)
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夜。
藤井は机に向かい、是正報告書を作成していた。
「データの一元化」「記録の明確化」――
打ち込む手が震える。
そこへ、社長が現れた。
「藤井くん、どうでしたか? 審査の方は」
「“改善の余地あり”だそうです」
「素晴らしい! それは“伸びしろ”だ!」
「つまり“未完成”です」
「未完成こそ、進化の証ではありませんか!」
「……社長、それ、是正拒否ってことです」
お局が通りすがりに言った。
「アンタの頭が“無限改善中”なんじゃないの」
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翌朝。
社長は朝礼で高らかに宣言した。
「諸君! 我々はISO審査を乗り越えました! 我が社の品質は世界水準です!」
藤井:「“是正勧告付き”でしたよ」
「是正とは“学びの機会”です!」
「…つまり“課題”です」
「課題がある会社は伸びるのです!」
お局:「課題だけで成り立ってる会社ね」
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夜。
藤井は一人、報告書の最後に小さくメモを書いた。
『品質とは、心ではなく記録である。
……けど、この会社は記録より根性を信じてる。』
その瞬間、背後から声。
「藤井くん、まだ書いとるのですか…」
最長老だった。
「また手帳に何か書かれるんですか?」
「ふむ…今日の総括です…」
彼の手帳には、こう書かれていた。
『ISO、去る。魂、残る。』
『是正、放置。笑顔、維持。』
藤井は吹き出した。
「……それ、報告書より正確です」
最長老はページを閉じ、静かに言った。
「書類は消えても、人間は残る。
――だから、うちは潰れないんですよ…」
蛍光灯が一つ切れた。
光の下、最長老の手帳が微かに輝いて見えた。
――この会社、是正不能。




