第31話 IT導入編 ― デジタル敗戦記
あの“売上10倍発言”から一か月後。
会社は、熱気とも焦げ臭さともつかない空気に包まれていた。
社長が唐突に宣言したのだ。
「今こそデジタルの時代です! 我が社もDXに挑戦する時がきました!」
朝礼に集まった社員たちは、ざわついた。
理由はひとつ。
“DX”という言葉の意味を、誰も知らなかったからだ。
「でぃー……それ、何ですねん?」
組立部長が手を挙げた。
社長は胸を張る。
「デラックスの略です!」
静寂。
(……もう敗戦の予感しかしない)
総務課長・藤井仁(36)は、額を押さえた。
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社長の説明によれば、DXとは「データを活用し、未来を切り拓く経営手法」だという。
だが実際の目的は、**「流行っているから」**である。
藤井は慎重に口を開いた。
「では、どの分野から進めますか? 経理? 在庫? 購買?」
「全部です!」
「……え、ぜ、全部?」
「そうです! 改革は全面戦争です!」
(全面敗北の未来が見える……)
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藤井は一応、顧問のシステム会社を紹介した。
しかし社長は即答した。
「外部に頼るのは他力本願です! 我が社には英知があります!」
……ない。
技師長はドラフターで図面を引く昭和遺物。
鼻毛爺いはFAXを“メールの親戚”と呼び、
最長老は「クラウドって雨のことか」と真顔で言う。
藤井は深くため息をついた。
(英知じゃなくて“遺産”です)
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数日後、社長室。
「藤井くん、あなたがクラウドを導入しなさい」
「はい、どの業務をクラウド化されたいですか?」
「全部です」
「えっ!?……具体的には?」
「それを考えるのが君の仕事です!」
(また出た、“丸投げ型変革”……)
こうして“クラウド導入プロジェクト”は、総務課単独で始まった。
対象は在庫管理、経費精算、勤怠、購買、そして社長のスケジュール帳。
藤井は三週間かけて資料を整え、導入マニュアルを配布した。
だが、その初日。
会社は一瞬で情報難民キャンプと化した。
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朝8時50分。
加工部長が怒鳴り込んできた。
「なあ、これ“パスワード”って何だ!? 入力したのに怒られたぞ!」
「何を入力されたんですか?」
「“加工部”だ!」
「それ、ユーザー名です」
「なんだと!? 二回打ったぞ!?」
次に鼻毛爺いが電話してきた。
「藤井くん、わしの画面が真っ白なんじゃが」
「電源は入ってますか?」
「……コンセントにさすのか?」
10分後、組立部ナンバー2が叫んだ。
「エラー出たっす!」
「何て出ました?」
「“更新してください”って!」
「それ、ブラウザの通知です」
「じゃあ更新したっす!」
「どうやってですか?」
「パソコンを叩いたっす!」
「……強制終了ですね」
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昼過ぎ。
物流部のカラオケ親父が大騒ぎしていた。
「藤井くん、わしのパソコンがしゃべったぞ!」
「しゃべった!?」
「“マイクが検出されました”って言うた!」
「それ設定の通知です!」
「YouTube勝手に流れんか? 著作権大丈夫か!?」
(もう著作権の心配より前に文明の話をしよう)
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最長老はノートPCを前に静止していた。
「最長老、どうされました?」
「字が小さくて読無いんです…」
「拡大しましょうか」
「いや、目を細めれば見えます…」
「……見えてませんよね?」
「いや、目をつぶると浮かんできます…」
藤井は天を仰いだ。
(クラウド導入って、もはや精神修行だな)
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一方、社長はご満悦だった。
「見なさい! 社員がデジタルと格闘している!」
(格闘というより敗走)
「この混乱こそ進化の証です!」
お局がぼそり。
「アンタの脳みそが“レガシーシステム”なのよ」
「失礼な! 私はデジタル派です!」
「じゃあスマホどこやったの?」
「……昨日、どこかに置き忘れて…」
「アンタのクラウド、もう蒸発してるじゃない」
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そして、悲劇が起きた。
サーバーが落ちたのだ。
原因は、調達部長が全員分のフォルダを削除したことだった。
「いや、バックアップってボタンがあったから押したんだ!」
「それ、“削除してバックアップを取る”機能です!」
「そんな日本語…罠じゃないか!?」
復旧しようとシステム会社に連絡したが、社長が止めた。
「外部を使うのは当社の恥です!」
結果、3日間データは行方不明。
FAXが再び復権し、社員たちは**“クラウド難民”**となった。
鼻毛爺いが叫ぶ。
「紙は裏切らんだろ!」
藤井:「裏切らない代わりに帰ってこないんです!」
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復旧後の全体説明会。
藤井がスライドを映す。
「クラウドとは、データを共有し業務を効率化する仕組みです」
「つまり、誰でも見られるんだな?」
加工部長が眉をひそめる。
「そんな覗き趣味みたいなシステム、信用できるか!」
「違います! 共有です!」
「わしの加工ノウハウが盗まれたらどうする!」
「盗まれませんよ!」
「藤井、お前が怪しい!」
「なんで僕が!?」
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ここで社長が立ち上がる。
「皆さん、デジタルとは“心の在り方”です!」
「……は?」
「機械は冷たい。しかし、人の情熱があれば温かくなる!」
「その情熱でパソコン壊したんですよ!」
「壊れるほど努力した証拠です!」
「努力の定義がバグってます!」
お局が腕を組む。
「アンタのDXって、“どうしようもない”の略でしょ」
社長が睨む。
「あなたは言葉遊びをやめなさい!」
「じゃあ行動遊びに変えましょうか」
「やめなさい!」
「じゃあアンタが止めなさい!」
(この会社、音声認識より会話が壊れてる)
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夜。
藤井はサーバールームで、一人ランプを見つめていた。
(アナログでもデジタルでも、混乱の中身は変わらない)
そこへ最長老が現れた。
「藤井くん、今日も遅いですね…」
「最長老、どうされてるんですか」
「これ、クラウドの控えですよ…」
手帳にはびっしりと手書きの数字。
「でも達筆すぎて読めません」
「わしも読めんようになってきた…」
「じゃあ意味ないじゃないですか!」
「いや、心には残っていますよ…」
「……デジタルより深いですね」
「そうでしょう。わしは“ハートドライブ”派ですから…」
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翌朝。
社長が朝礼で高らかに言った。
「次はAIです!」
全社員、フリーズ。
お局が呟いた。
「アンタが一番“アイ(愛)”に飢えてるのよ」
藤井は無言でパソコンの再起動ボタンを押した。
画面には一行。
《更新プログラムを構成中(1%)》
(……この会社のDX、まだ1%どころか、未起動だな)
彼は静かにコーヒーをすする。
その味は、苦く、アナログだった。




