閑話 営業部慰労会 ― “説教居酒屋の夜”
金曜18時、チャイムが鳴ると同時に、社内に響くのは低く太い声。
「本日は慰労会を開催いたします。皆さん、覚悟を決めてください」
その“覚悟”という言葉の響きに、総務課長・藤井仁(36歳)はそっと胃薬を取り出した。
(慰められる前に、精神が削られるんだよな……)
会場は駅前の老舗居酒屋「鳥銀」。
提灯は半分消え、看板の“銀”の文字が剥げて“鳥”しか残っていない。
(もう、この店自体がうちの会社みたいだ)
先に到着していたのは、営業課長――通称“やるやる課長”。
バーコード頭を整え、緊張の正座。
「社長、いつもありがとうございます!」
「まだ何もしておりませんよ」
「いえ、先にお礼を!」
お局は呆れ顔でハイボールを掲げた。
「その“先手感謝”って、もう宗教じゃないの」
そこに、社長が登場。
背筋を伸ばし、声のトーンはまるで国会答弁。
「皆さん、本日は日頃の労をねぎらいたいと思います。……ねぎらいとは、“成長を促す叱咤”でございます」
お局:「はい出た。“叱咤”=“説教”の言い換え」
社長が乾杯の音頭を取る。
「我が社は、数字より心でございます!」
営業課長:「はいっ! 心で営業しております!」
「その“はい”が軽いですね」
「……重くします!」
「重すぎます」
お局:「トーン操作で生き延びるサバイバル芸ね」
乾杯。誰も飲まない。
沈黙の中で焼き鳥が冷めていく。
社長が静かに切り出した。
「営業課長。A商事、どうなりましたか?」
「……再建不能に……」
「なぜ“再挑戦不能”と報告しないのです?」
お局:「倒産にポジティブさ求める人、初めて見たわ」
社長は淡々と、しかし確実に圧を上げる。
「私は怒ってなどおりません。ただ、“誠意”が足りないと感じております」
営業課長:「あ、ありがとうございます!」
「感謝が軽いです!」
「……重くします!」
「重すぎます」
お局:「振り子営業ね、もう」
二時間後。全員の表情は完全に無表情。
唐揚げはカチカチ、焼酎はぬるい。
そのとき――店主がやってきた。
眉間に皺を寄せた、いかにも職人気質の男。
「社長さん、すみません……」
「はい、なんでしょう」
「ここ、居酒屋なんです。静かにお願いします」
「承知しております」
「もう2時間、ずっと“説教タイム”ですよね?」
「教育です」
「教育は学校でやってください!」
「うちは、社会という名の学校です」
「なら、うちを教室にすんなぁ!!」
藤井:(親父さんキレてる……)
店主の声が少し上ずる。社長は逆に低くなる。
「お言葉ですが、店の雰囲気というのは、客が作るものです」
「お客さんのせいにすんな!」
「いえ、責任の所在を明確にしているだけです」
「屁理屈かよ!」
「いえ、理念です」
「理念を楯にすんな!!」
藤井:(もう完全に、論戦バトルモードだ……)
お局は微笑みながらグラスをくるくる回した。
「すごいわね、言葉のナイフ投げ合戦」
店主がついに声を荒げた。
「アンタねぇ! 飲み屋で部下に“心を売れ”とか“誠意を出せ”とか! そんなこと言って楽しいんですか!」
「私は楽しいです」
「開き直るなぁ!!」
「教育の一環でございます」
「教育って言えば何でも許されると思うなよ!」
「許されるとは言っておりません。“認めさせている”だけです」
「なにその強者理論!!」
場が凍りつく。藤井が小声でお局に囁く。
「……もうこれ、労使交渉じゃないですか?」
「違うわね。宗教戦争よ」
店主が最後の一言を放つ。
「二度と来るな!!」
社長は微笑んだまま静かに言い返した。
「……承知いたしました。“鳥銀”とは本日をもちまして、精神的取引を終了いたします」
「取引してねぇよ!!」
お局:「ああ、言葉のドッジボール。見事に決まったわ」
静寂。
店主は呆れ顔で厨房に引っ込み、扉が閉まると同時に、
社長は何事もなかったように笑った。
「いやぁ、良いお店でした。議論ができる店というのは、成長の場であります」
藤井:(成長してるの、被害だけなんだよな……)
帰り際、社長は振り返って言った。
「“鳥銀”には感謝しております。あれほど素直に怒ってくれる経営者は珍しい。……ああいう人材が、欲しい」
お局:「採用すんなよ」
翌朝。
藤井が出社すると、営業課長が蒼白な顔で封筒を持っていた。
「社長、“鳥銀”から……」
「何ですか?」
「“次回のご予約はご遠慮ください”とのことです」
「丁寧ですね。敵ながら見事な文面です」
お局:「敵認定、早いわね」
午後の会議。
社長は満面の笑みで宣言した。
「今後、“鳥銀”は我が社の教育対象外といたします」
営業課長:「……教育対象外?」
「ええ、“学ぶ価値のない相手”という意味です」
お局:「いやもう、こっちが学んでほしいわ」
藤井は静かにため息をついた。
(社長の言葉の力って……ほんと、“破壊兵器”だな)
その日の夕方、駅前を通ると、店の入口には新しい貼り紙があった。
『団体予約お断り(特に指導熱心な方)』
藤井はそれを見上げて笑った。
(うちの会社、ついに“教育熱心すぎて出禁”の称号を得たか……)
夜風が吹き抜け、提灯の灯が一瞬揺れた。
まるで、「もう二度と来るな」と言っているように。




