第18話:人事査定編 ― 昇給ゼロと感謝の言葉
総務課長・藤井仁(36歳)は、朝からエアコンの効きの悪い会議室で、人事査定会議の資料を並べていた。
壁掛け時計の針が、重たく“カチ、カチ”と鳴っている。
昇給が止まって十年。給与台帳の金額欄は、十年前と同じ数字がびっしりと並んでいた。
いっそ化石標本として博物館に寄贈した方が、社会貢献になるかもしれない。
資料を束ねていると、ドアが勢いよく開いた。
社長(77歳)が姿を現した。白髪をオールバックに撫でつけ、胸には金のネクタイピン。
開口一番、低く響く声で言う。
「藤井くん、今年も固定費は一定です」
(また出た……“固定費一定理論”)
藤井の脳内に、赤い警報ランプが点った。
社長は机に手をつき、圧を放ちながら続けた。
「社員の生活は安定してこそ幸福なのです。毎年数字が変わると不安になるでしょう? だから変えない。それが、私のやり方です」
(……じゃあ、電気代が上がった時は何で即座に切り詰めたんですか)
喉まで出かかった言葉を、藤井は胃のあたりで飲み込んだ。
そこへ、お局(71歳・前社長の従兄弟)がスリッパの音を響かせて入ってきた。
「アンタまた“経営哲学”やってんの? 毎年同じ話、もう10年聞いてるわよ」
「君は口が軽いね」と社長が不機嫌そうに言う。
「軽いのはアンタの財布でしょ。うちはいつになったら“重たい給料袋”になるのよ」
お局の皮肉が飛ぶ。だが社長は聞いちゃいない。
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会議は始まった。
藤井が昇給案ゼロの資料を配ると、社長は満足げに頷いた。
「うむ、これでよろしい。固定費は一定、賞与で士気を保つ。変動があると管理が煩雑になりますからね」
「煩雑なのはアンタの頭の中でしょ」とお局が呟く。
「何か言いましたか?」
「いいえ、“煩雑”って言葉の響きが素敵だなって」
(殺気を感じた……)藤井は心の中でそっと防御姿勢をとった。
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会議が進むにつれ、議題は「士気の維持」に移った。
「私は思うのです。昇給がなくとも、社員が感謝を忘れなければ、組織は強くなります」
社長は神妙な顔で言った。
お局が口元を押さえながら、「あー、それ、“宗教法人”の申請書どこにある?」と呟く。
「感謝が通貨になるのです」社長は力強く言い切る。
「今の世の中は感謝が足りない。ありがとうの一言が、給与の一万円に匹敵します」
(それ、法的に通用します?)
藤井はノートに“ありがとう=¥10,000?”と書いてから、すぐに線で消した。
※会計処理不能。
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会議が終盤に差しかかった頃、社長が唐突に言った。
「藤井くん、退職金一覧を見せてください」
嫌な予感が走る。藤井は封筒を差し出した。
中には十年分の変化がない退職金表が入っている。
数字が変わらないのだから、ある意味で完璧な安定性だ。
「うむ。見事に一定だ。素晴らしい」
社長は満足げに頷いた。
「……ただ、一部、金額が違うようですが?」
(あ、それ“感謝補正”前の生データです)
社長が眉を上げた。
「感謝補正?」
しまった、と藤井は口をつぐむ。
お局がすかさず助け舟を出す。
「ほら、社長。社員の感謝の気持ちで微調整してるって話よ」
「なるほど。柔軟性がある。よろしい」
社長は満足げに頷き、議事録に“感謝補正導入”と書き込んだ。
(……これ、ISO監査でバレたら死ぬな)
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昼を過ぎても、藤井のデスクには退職金一覧表が広がっていた。
ワープロで一行ずつ打ち直しながら、桁が合わないたびに胃が痛む。
昇給がないせいで退職金の年次計算が狂う。
十年分の勤務年数を積み上げても、金額は初年度と同じだ。
(これ、退職したら“働いても働いても据え置き人生”じゃないか)
午後三時。社長がふらりと総務室を覗いた。
「藤井くん、どうだね? 退職金の件は」
「はい、現在“感謝率”を再計算中です」
「うむ。社員には“感謝の気持ち”をこめて渡しなさい」
「……はい。気持ちで補填いたします」
(現金で払え)
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夕方。
お局が湯飲みを片手にデスクにやってきた。
「アンタ、また感謝で数字埋めてんの?」
「ええ。今日の私の残業代は“感謝4時間分”です」
「せめて“感謝割増”もらいなさいよ」
「割増も固定です」
「アンタ、宗教に向いてるわ」
(もう入信してる気がします……)
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夜、藤井は退職金一覧を社長の机に置いた。
そこには、新しい見出しが印刷されていた。
――「感謝の精算書」。
「社員の努力に報い、我が社の絆を強める」
そんな立派な一文の下に、全員の金額が“横一線”。
社長はそれを見て満足げに微笑んだ。
「これでいい。数字に差をつけると不公平ですからね」
「……平等ですね」
「そうだ。みな平等に感謝している」
(それ、逆に全員平等に不満なんですけど)
お局がぽつりと呟いた。
「ほんと、感謝って便利ね。払わなくても済むんだもの」
藤井は、印鑑を押す社長の横顔を見ながら思った。
(俺の次の査定項目、“感謝残高”とかになってそうだな……)
会議室の外では、古びた蛍光灯がチカチカと明滅していた。
“感謝”という名の光が、いつ切れてもおかしくない職場で、
今日もまた、数字の代わりにため息だけが積み上がっていく。




