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第17話 物流・棚卸編 ― 在庫は幻、怒号は実在

 ――午前九時。社内に、異様な緊張が漂っていた。

 総務課長・藤井仁(36歳)は、湯呑みを片手にパソコン画面の在庫一覧を見つめていた。数値だけは整然としている。だが、実際の棚を見た者なら誰でもわかる。あの数字は「虚構」だ。

 製造ラインが完成報告を上げるまで部品の引き落としがされないこの仕組み――藤井の頭を何度抱えさせたかわからない。着手時には在庫が“あるように見えて”、完成して初めて“無いことが判明する”。それが、今この会社で起きている混乱の根源だった。


 その日、調達部が中心となる棚卸会議が開かれた。

 出席者は、調達部長(77歳)、鼻毛爺い(80歳)、物流部の最長老(89歳)、その相棒であるカラオケ(79歳)、そして総務課の藤井。

 会議室のドアを開けた瞬間、藤井は空気の重さに胃が痛くなった。


「では、棚卸結果のご報告をお願いします」


 藤井が声をかけると、鼻毛爺いが胸を張って立ち上がった。

 鼻毛が陽光を反射して微妙に輝いている。蓄膿のせいか、しゃべるたびに鼻音が混じる。


「はい! 在庫はすべてチェック済みです。数もピッタリ合っております!」


「ピッタリ?」藤井が眉をひそめた。


「ええ、ピッタリですとも!」

 そう言い切る鼻毛爺いの背後で、最長老が申し訳なさそうに視線を逸らした。


 カラオケがすかさず口を挟む。

「そうそう、在庫表と“おれの感覚”でもだいたい合ってる感じでしたねぇ。ほら、長年の勘てやつですよ」

 その“勘”が問題なのだ。


 藤井は深くため息をつきながら尋ねる。

「具体的な数、確認しました? 現物と帳簿、突き合わせて。」


 鼻毛爺いは得意げに答えた。

「最長老が全部チェックしてくれました! 手書きで! だから完璧です!」

 その瞬間、最長老が控えめに手を上げた。


「いやいや……帳簿の字が読めんのはワシぐらいだけんどな」

 静かな笑いが起きた。だが藤井は笑えなかった。

 最長老の字は達筆すぎて、誰も読めない。彼が“正確に”管理している意味が、まったく伝わらないのだ。


 調達部長が苛立たしげに言った。

「おい藤井君、何をそんなに突っついとる。棚卸は全員で確認して数字も合っとる。それ以上何がいるんだ」


「いや、実際の棚を見たら“数字通り”ではないんです。

 完成報告が上がるまで在庫引き落としがされないので、仕掛中の部品が――」


「ややこしいこと言うな!」

 調達部長が机を叩いた。

「無いなら買う、あるなら使う。それでええじゃないか!」


「……だから、その“ある”が帳簿上だけなんです」


 沈黙。

 やがて、部長が呆れ顔で鼻毛爺いを見た。

「なぁ、鼻毛。お前、在庫無かった言うて追加発注したの、あれ結局どこにある?」


「へ? ええと……初めて聞いた話ですねぇ」

 “いつもの口癖”だ。

 鼻毛爺いが約束を忘れるたび、藤井の寿命は一日縮む。


 その瞬間、会議室のドアが勢いよく開いた。

「皆さん、どういうことですか!」


 ――社長だった。

 威圧と覇気を混ぜた“怒鳴るですます調”が炸裂する。

「仕入れが増えすぎております! 売上に対して四割を超えるなど、あり得ません! 私は何度も申しました、仕入れ比率は四割以内が理想です! なぜ守れないのですか!」


 藤井の脳内で“また始まった”という文字が点滅した。

(……理想論という名の現実逃避、発動だ)


 社長は続ける。

「これはもう、経営の恥です! 何のために私は“法令遵守”と“効率経営”を掲げているのですか!」


(……怒鳴りながら“法令遵守”って、どんなギャグだよ)

 藤井の内心の毒が止まらない。


 調達部長がたまらず反論した。

「社長、今回は現場の事情もあります。仕掛品の関係で――」


「言い訳は聞きません!」

 社長の怒鳴り声が会議室を震わせた。

「あなたの“事情”で在庫が増えるのですか! あなたは私に“幻の部品”を作るつもりですか!」


「いえ、あの……」


「黙りなさい! 私は、怒っております!」


 “怒っております”という冷静な宣言ほど怖いものはない。

 その場にいる誰もが目を伏せた。

 鼻毛爺いだけが場違いなタイミングで手を上げた。


「社長、在庫は無いけど、きっと気持ちは残ってます!」


 社長の顔が一瞬止まり、次の瞬間、爆発した。

「気持ちで商売ができると思っているのですか! 私は仏門ではありません!」


 調達部長が苦笑いで取りなそうとする。

「まぁまぁ社長、在庫が多いのは、豊かさの証拠ということで――」


「豊かじゃありませんッ! 浪費です」

 社長の“ですます調”が地響きに変わった。

「あなた方は在庫を金だと思っていないのですか! 金を倉庫に積んでどうするのですか!」


 カラオケが口を挟んだ。

「いやぁ、でも社長、モノがあると安心しますよねぇ。うち、在庫多いと気持ちも豊かに――」


「黙りなさいッ!」

 会議室に再び怒号が轟いた。

 “カラオケ”というあだ名が皮肉に響くほどの沈黙が落ちる。


 社長は机を叩きながら言い放った。

「私は怒鳴っているのではありません、指導しているのです!」

(……いや、完全に怒鳴ってる)


 調達部長は肩をすくめた。

「社長、現場はギリギリで回してるんですよ。これ以上締め付けたら、誰もついてこれませんよ」


「では、在庫を燃やせばいいのですか! 違うでしょう! 私が求めているのは、理想的な在庫です!」


 その“理想的な在庫”が何を意味するのか、誰もわからなかった。

 ただ、鼻毛爺いがまた手を上げた。

「社長、それなら心の在庫を数えましょう!」


「お前はもう黙っていなさい‼︎」


 最長老がそっと口を開いた。

「社長、あの……ワシ、在庫表は全部手帳に書いとるんですけどな、これが正しい数やと思いますよ」

 そう言って手帳を差し出す。

 達筆すぎて、まるで経文。誰も読めない。


「これが……数字ですか?」社長の声が震える。


「はい、読めませんけどワシは読めます」


「読めないものは資料ではありません!」

 机を叩く音が再び鳴り響いた。

 藤井は胃の痛みを堪えながら、内心で毒づく。


(……ここはもはや、宗教法人だな。帳簿より信仰、数字より念仏。次は“在庫供養祭”でもやる気か)


 社長が立ち上がり、怒鳴り声を放った。

「もうよろしい! 在庫が合わないのは怠慢です! 今すぐ修正してください! 私は結果しか見ません!」


 その“結果”という言葉が、皆の耳に“数字を合わせろ”と聞こえた。

 こうして、棚卸会議は“帳尻合わせ大会”に変わった。


 翌日――。

 帳簿上、在庫は“完全に一致”した。

 数字だけは美しい。

 社長も満足げに頷く。


「見なさい、努力は結果を生むのです!」


 藤井は静かに在庫表を見つめた。

 空の棚に貼られた“在庫あり”の付箋が、風に揺れている。

(……これがうちの“仮想通貨”か)


 最長老が小声でつぶやく。

「藤井君、在庫、昨日より増えとるような気がするんじゃが……」


 藤井は乾いた笑みを浮かべた。

「それが、うちの“成長戦略”なんです」


 鼻毛爺いが鼻を鳴らして言った。

「立派ですなぁ、社長の方針通り、うちはどんどん豊かになっとる!」


 空の棚を前に、“在庫は幻、怒号は実在”。

 この会社の経営哲学は、またひとつ新しい伝説を生んだ。

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