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第14話 営業部 ― “前年比200%の幻影”

 総務課長・藤井仁(36歳)は、朝のメールチェックをしている途中で、奇妙な静けさに気づいた。

 営業部の島が、いつになく騒がしくない。普段なら「受注報告です!」と景気のいい声が飛び交う時間帯だ。代わりに今日は、やけに落ち着いている。落ち着きすぎて、不気味だった。


 「おはようございます」

 と声をかけると、返ってきたのは、営業課長(68歳)の気の抜けた笑顔。

 「いやぁ、課長、すいませんね。ちょっと特殊案件でして」

 特殊、という言葉は、この会社で最も不吉な響きを持つ。

 藤井は内心で息を整えた。

 (またか……“特殊”の後に“倒産”がくる確率、九割超えてるんだよな)


 彼は営業日報を開く。先週、営業課長が誇らしげに報告していた“前年比200%達成”の案件が赤字でマークされている。

 「この“A商事”、納期は?」

 「ええ、年明けですよ」

 「入金は?」

 「いやぁ、それが……」

 営業課長の声が小さくなった。藤井は黙って指を動かし、ファイルを検索した。

 そこに、見慣れない封筒が挟まっている。


 ――大阪地方裁判所。

 目に入った瞬間、背中が冷たくなった。

 封を切ると、中から出てきたのは「民事再生手続開始決定通知」と、「債権届出のご案内」。

 そしてその隣に、すでに開封された形跡。誰かが見て、戻した形だ。

 (……やっぱりな)


 藤井は口を開いた。

 「課長、この通知、いつ届きました?」

 「え? あぁ、それ……三日前ですかね。あっ、でも心配いりません。“再建中”って聞いてますから」

 「管財人からの債権届出書、見ました?」

 「いえ、なんか難しいこと書いてありましたから。お任せしようかと」

 (任せるな。燃える手榴弾を投げ渡すな)


 頭痛を押さえながら、藤井は深呼吸した。

 社長の機嫌を損ねないように、この爆弾をどう処理するか。

 すでに期日は三日後に迫っていた。


 ――


 午後、社長室。

 社長(78歳)は重々しい声で言った。

 「どういうことだ。A商事が倒産した? 聞いていないぞ」

 「裁判所から通知が届いております。営業課長が一時保管していたようで――」

 「課長、保管とは聞こえがいいが、握り潰したのか?」

 「いえ、確認中でした」

 「確認に三日はかからん!」

 怒鳴りながらも、社長の視線は妙に優しい。

 藤井はその理由を知っている。

 この会社では“説教”が、最大の“免罪符”なのだ。


 社長はデスクの上で手を組み、目を閉じた。

 「いいか、課長。営業とは信頼だ。数字の上で取引が止まっても、心の上では継続している。倒産など、気の持ちようだ!」

 (……金融庁が聞いたら卒倒するな)


 社長はさらに続けた。

 「私はな、前向きな倒産という言葉を知っている。企業は倒れても信義が残る限り、それは“前進”だ」

 お局(71歳・前社長の従兄弟)がすかさず言う。

 「アンタ、それ、死んでも歩いてるゾンビみたいなもんよ」

 「黙りたまえ、これは経営哲学だ」

 「哲学で回るなら銀行要らないでしょ」

 (やっぱりお局は神。言いたいこと全部言ってくれる)


 社長は咳払いをして、無理やり締めた。

 「まぁ、倒産と言ってもな、私は“再建支援中”と呼ぶことにしている。報告書には“信義取引継続中”と記載しておけ」

 藤井はメモを取りながら、目の焦点を失った。

 (信義取引継続中……それ、倒産相手との心中って意味ですよ、社長)


 ――


 その日の夕方。

 藤井は債権届出書に必要事項を記入しながら、疲労感に包まれていた。

 (これ、もう内容証明の時期は過ぎてるんだよな……)

 かつてこの会社は、売掛金の回収が滞るたびに藤井が“内容証明職人”として封筒を投函していた。

 夜のポストの前で「これが営業支援か……」と呟きながら。

 あれから三年。支払条件確認書を全顧客に送り、回収はようやく正常化したと思っていた。

 だが、営業課長一人の“握り込み”で、すべてが逆戻りだ。


 お局が近づき、覗き込む。

 「アンタ、また倒産処理? ほんと、ここは“再建塾”ね」

 「ええ、まぁ。課長が通知を“確認中”だったようで」

 「確認中って、つまり見なかったってことでしょ?」

 「……まぁ、そうです」

 「ほんっと、男って都合の悪いもんはすぐ“確認中”にするのね。恋愛も仕事も同じ」

 (やっぱりお局、強い)


 その夜。藤井は残業室で債権届出のデータを整理していた。

 管財人弁護士からの説明会の案内を見つめながら、ふと笑ってしまった。

 (前年比200%、売上だけ倍。回収ゼロ。まるで数字が幽霊屋敷だ)


 社長室のドアが開いた。

 社長が姿を見せ、満面の笑みで言った。

 「君たち、いいニュースだ! “前年比200%”の件、まだ帳簿上は残っている! つまり“生きている”!」

 「……いや、社長、それは“未回収”という意味です」

 「うむ。未回収とは、希望が残っているということだ」

 (希望って……回収不能債権のことを詩的に言わないでほしい)


 翌朝、裁判所から正式に「再生手続中」の報が届いた。

 社長はそれを見ても眉一つ動かさない。

 「再生とは読んで字のごとく、生まれ変わるということだ。つまり我が社も生まれ変わるチャンスだ!」

 お局が小声でつぶやいた。

 「アンタの脳みそが生まれ変わった方が早いわ」

 (もう俺、何も言わん方が安全かもしれん)


 ――


 一週間後。

 管財人弁護士から、債権届出の受理通知が届いた。

 それは唯一、現実的な「生存証明」だった。

 藤井はホッと息をついた。

 (これで、せめて書類上は救われた)


 が、翌日。

 営業課長が呼び出されると、社長室から数時間にわたる説教の声が響いた。

 「信義とは何か!」「企業とは仁義で動くものだ!」「数字よりも魂だ!」

 そして終わると同時に、課長は晴れやかな顔で出てきた。

 「いやぁ、社長に叱ってもらいました。これで気持ち新たにがんばります!」

 (……免罪符、発行完了だな)


 藤井は天井を見上げた。

 (この会社では、説教が刑罰であり、同時に赦免なんだ。裁判所が何を言おうが、社長の声が判決だ)


 ――


 その後、報告書のまとめに追われる藤井の背中に、お局の声が飛ぶ。

 「アンタたち、倒産先を“前向き”って言ってる時点で後ろ向きよ」

 「そうですね……」

 「もういっそ、宗教法人にしなさい」

 藤井は苦笑しながら、ゆっくりとペンを置いた。

 (数字は生きて、会社が死ぬ。……これが、うちの循環取引だ)

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