第10話:安全再教育会議 ― “そして再び労基署案件へ…”
設置した安全対策板で転倒した従業員の労災保険の申請書を作りながら、藤井は震える手で原因欄に記した。
> 安全対策の一環として設置した防止板に足を引っ掛けたため。
(どう見ても“対策の副作用”だろ……)
書いていて恥ずかしい。
しかし書かねばならない。
「形式」を整えるのも総務課長の仕事だった。
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◆ 労基署の再臨
事故報告を上げて三日後、電話が鳴った。
「労働基準監督署です。今回の労災発生について、再発防止策をご提出ください」
あの声に、背筋がこわばる。
(まさか……また?)
半年かけて終えた是正が、まるで無かったかのように再開する。
「できれば“具体的な対策”をお願いします」
(具体的……その言葉、もう呪いに聞こえる)
電話を切ったあと、藤井は机に突っ伏した。
前回のベテラン監察官の顔がフラッシュバックする。
“再発防止策”の文字を見るだけで、胃が鳴った。
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◆ 社長、現場へ降りる
翌日、社長が乗り込んできた。
「私は法令遵守で経営をしている! これは“偶発的”事故だ!」
声は威厳に満ちていたが、藤井には虚しく響いた。
(偶発的って……自分が言い出した“安全対策”で転倒してるんですけど)
社長は拳を握りしめて言い放つ。
「安全第一とは“心構え”だ! 対策が事故を生むのは、想定の範囲内だ!」
(いや、心構え以前に物理的な長さの問題です)
社長の熱弁を横で聞いていたお局(71歳)がうなずいた。
「社長のおっしゃる通りです。安全とは気持ち。気が緩むと怪我をするのよ」
「だから防止板の“板”じゃなくて“意識”を見直すのよね」
「見直すのは設計図ですよ」
結局、会話は迷走したまま、「再教育会議」を開くことになった。
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◆ 再教育会議、開幕
午後三時、会議室に部長陣と藤井が集められた。
壁には大きく貼り出された新スローガン。
『安全第一、命は自己責任!』
(……いや、最後の一文が狂気なんですよ)
社長が開口一番、力強く言った。
「今回の事故は教育の不足が原因だ。再発防止には“再教育”しかない!」
加工部長(75歳)が腕を組んでうなる。
「うちは言われた寸法で板を付けただけでさぁ」
「その寸法が通路をふさいだんですよ」
「だから“寸法通り”なんだよ」
(そりゃ事故も通り道塞がるわ……)
組立部長(76歳)が追い打ちをかける。
「現場が急かされすぎなんや! 夜まで板打っとったんやで!」
「納期の問題じゃなくて安全の話です」
「安全も納期に入っとる!」
お局が議事録を取りながら言った。
「要するに、現場が頑張りすぎたってことね」
(“頑張りすぎた結果の労災”が一番困るんですよ)
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◆ 書類の中だけの安全
夜。
藤井は一人、再発防止策の報告書を作っていた。
“安全教育の徹底”“危険予知活動の実施”“防止装置の改善”。
書いているうちに、どこか虚しくなってくる。
(再教育の再発防止……いや、もう“再”が多すぎて数えられない)
報告書をプリントアウトしながらつぶやいた。
「安全第一、命は自己責任……いや、責任は全部、総務」
蛍光灯の光がじりじりと明滅した。
まるで会社そのものが、静かに笑っているかのようだった。
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◆ 労基署、三たび
翌週、電話が鳴った。
「藤井さん、再発防止策、拝見しました。非常に丁寧ですね」
「ありがとうございます」
「ですが、“教育の徹底”の部分が少々抽象的でして」
(出た、抽象的)
「もう少し“具体的”に、“いつ”“誰が”“どのように”教育したか……」
「……つまり、“再発防止策”の再発防止策ですね」
「その表現、使わせてもらっていいですか?」
(皮肉を引用するな!)
電話を切ると同時に、藤井は机に突っ伏した。
半年かけた是正が終わったと思ったのに、また“再”。
再々是正の始まりだった。
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◆ 結末 ― “安全”という無限ループ
翌朝、出勤すると、掲示板に新しいポスターが貼られていた。
『安全第一! 再発防止! 再教育は永遠に!』
(宗教団体かよ……)
通路の防止板は、今度は短すぎて意味をなしていない。
しかも固定が甘く、社員が蹴飛ばして外れる始末。
「藤井くん!」
社長が笑顔で言った。
「見ろ! これで完璧な安全対策だ!」
(いや、それ“安全撤去”になってます)
総務課長・藤井仁は、今日も労基署から届いた書類を見つめた。
再発防止策の提出期限――三週間後。
(“再教育”どころか、“再就職”の方が早いかもしれんな……)




