暴れん坊令嬢!
すみません。うつらうつらと書いたので誤字脱字チェックが甘めです。
初夏の陽光がアルディア城下町の石畳を温かく照らす季節。例年ならば、中央広場は花々の香りと商人たちの威勢のよい掛け声で溢れかえるはずだった。青空市では新鮮な野菜や果物が山積みにされ、職人街からは金属を打つ音や木材を削る音が活気を生み出す。子供たちは噴水の周りを駆け回り、貴族の馬車が行き交う中、市民たちは平和な日々を謳歌する——そんな光景が、アルディア城下町の誇りだった。
しかし、今日の中央広場は異様な静けさに包まれていた。露店の数は例年の半分にも満たず、訪れる客も疎らだ。商人たちの表情には陰りが見え、威勢のよい掛け声の代わりに、囁き声が風のように広場を駆け巡っていた。
「また税が上がったそうだ」灰色の上着を着た中年の男が、パン屋の前でこぼした。
「伯爵様の命令だという……」パン屋は顔を歪めながら返した。彼の店の棚には、普段の半分ほどしかパンが並んでいない。
「この一月で三度目の増税だぞ。これで小麦粉の値段も跳ね上がった」男は周囲を警戒するように声を潜めた。
隣の八百屋の老婆が会話に割り込んできた。「うちの息子は税が払えず、先週、役人に連れていかれたよ。これ以上は生きていけない……」
その声は、石造りの壮麗なアルディア城の離れにある小さな書斎にまで届いていた。高く設えられた窓辺に立つ若い女性は、遠くの広場を見つめながら、深く息を吐いた。
エレノア・ド・アルディア。十八歳にして、アルディア公爵家の一人娘である。彼女は長い金髪を優雅に後ろで束ね、アルディア家の紋章が刺繍された淡い青色のドレスに身を包んでいた。その碧眼には、若さにそぐわない鋭い洞察力が宿っていた。
エレノアはレースの袖を翻し、窓の外から視線を移すと、背後で控える老執事に声をかけた。
「セバスチャン、町の異変についてもっと詳しく教えてほしい」彼女の声は柔らかいながらも、芯の強さを感じさせた。
老執事のセバスチャン・ウィロビーは、アルディア家に五十年以上仕えてきた老練な男だった。銀髪を整然と後ろに撫で付け、黒い燕尾服は一点の曇りもない。彼は背筋を伸ばしたまま、一礼して報告を始めた。
「はい、お嬢様。過去一月の間に、ロイド伯爵が管轄する地域で急激な税の徴収が行われております。特に南区の商人たちは、通常の三倍もの税を納めさせられていると」彼の声には長年の忠誠から来る真摯さがあった。
「最初は季節税の上乗せと説明されておりましたが、二度目からは『特別防衛税』という名目で、理由も明確にされないまま徴収されています。支払いを拒否した者は、『王国への反逆』の罪で投獄されているとの噂もあります」
エレノアの碧眼が鋭く光った。窓から差し込む陽光が、その瞳に冷たい炎を灯したようだった。
「父上は知っているのか?」
「公爵様は現在、王都での議会に出席されており、この件についての報告は……恐らく到達していないかと」セバスチャンは慎重に言葉を選んだ。「伯爵は公爵様の不在を見越したかのように、この政策を急速に進めております」
エレノアは静かに頷いた。彼女の細い指が窓枠をわずかに強く握った。
「わかった。なら、私が確かめよう」彼女の声には決意が滲んでいた。
「お嬢様、危険です。ロイド伯爵は最近、私兵の数を増やしており—」セバスチャンの眉間に深い皺が刻まれた。
エレノアは微笑んで老執事の言葉を遮った。「心配しないで、セバスチャン。私は父上の娘よ。アルディア家の血を引く者が、自らの領民の苦しみを見過ごすわけにはいかない」
彼女は書斎の奥にある大きな本棚へと歩み寄り、特定の本を引くと、棚がわずかに動いて隠し部屋が現れた。その中には、シンプルな茶色の外套と、市民の娘が身につけるような質素な服が掛けられていた。
「例の『装備』を準備して。今夜、町へ出るわ」
セバスチャンは深く息を吐き、諦めたように頭を下げた。「かしこまりました、お嬢様。しかし、くれぐれも慎重に」
エレノアの唇に浮かんだ微笑みには、冒険への期待と、正義を行う決意が混ざり合っていた。
「心配しないで、爺や。これがアルディア家の娘の務めだもの」
――――――――――――――――――――――――
南区の徴税所前には、早朝から長蛇の列ができていた。疲れた表情の商人や農民たちが、わずかな銀貨を握りしめている。夏の日差しが容赦なく照りつける中、列の人々は時折、不安げに前方を窺っていた。
徴税所として使われているのは、かつて穀物倉庫だった石造りの大きな建物だ。その入口には、赤と黒の制服を着た私兵たちが厳めしい表情で立っている。彼らの背には抜き身の剣が下がり、一部は小型の魔法銃さえ携えていた。
「次!」冷たい声が建物の中から響く。
順番がきた老農夫が、震える足取りで中へ入っていく。建物の内部は、外観からは想像できないほど豪華に改装されていた。大理石の床、金箔の施された柱、そして奥に据えられた立派な執務机。
その机の背後には、豪奢な衣装をまとった赤毛の男が高価な椅子に腰掛けていた。ロイド・グリフィス伯爵である。四十代半ばの彼は、細い口髭を蓄え、太った指には複数の宝石入りの指輪が光っていた。その傍らには、黒衣の秘書と、筋骨隆々とした護衛が控えている。
「名前と職業を述べよ」秘書が冷淡に命じた。
「マーティン・ホイール、農夫です」老人は震える声で答えた。
「所有地の広さは?」
「南区外れに四エーカーほど」
秘書は手元の帳簿を確認し、額を告げた。「特別防衛税として、銀貨二十枚」
老人の顔から血の気が引いた。「二、二十枚ですか? 先月は五枚だったのに……」
「新たな勅令だ。文句があるか?」秘書の声が鋭くなった。
「いえ、しかし……」老人は震える手から財布を取り出した。「これが全てです。銀貨七枚と銅貨十二枚。これ以上は家族が飢えてしまいます」
伯爵はようやく老農夫に視線を向け、嘲笑した。彼の目には冷たい軽蔑の色が浮かんでいた。
「こんな少ない額か?もっと出せるだろう。土地を持っているのなら、最低でも銀貨三十枚は払えるはずだ」
「伯爵様、これが全てです。冬の霜で作物の半分を失い、種代にもこと欠いて……」老人は震える手で帽子を握りしめた。
「知ったことか」伯爵は無関心に手を振った。「払えないなら、娘でも差し出せ。そう、あの可愛い赤毛の娘だ。城の下働きにしてやろう」彼の目に浮かんだ色は、単なる「下働き」を意味するものではなかった。
老人の顔が青ざめる。側近たちの薄笑いが広がった。
「いえ、娘はまだ十四です。どうか……」
「黙れ!」伯爵が机を叩いた。「貴族の命令に逆らうか? 税が払えないなら、別の方法で支払え。それが貴様らの義務だ」
老人は膝をつき、涙ながらに懇願した。「どうか猶予を……秋の収穫までに必ず……」
「護衛、この老いぼれを外に出せ」伯爵は冷たく命じた。「そして、彼の娘を連れてくるよう手配しろ」
二人の私兵が老人の両脇を掴み、引きずるように外へ連れ出した。彼の悲痛な叫びは、次の納税者が呼ばれる声にかき消された。
徴税所の外れ、露店の裏手にある人目につかない場所で、茶色の外套を羽織った一人の少女がその光景を見つめていた。エレノアである。彼女の唇が薄く引き結ばれた。
平民の服装に身を包み、髪を帽子で隠したエレノアは、初めて目の当たりにする現実に胸を痛めていた。公爵の城からは見えない、民の苦しみがここにあった。
「セバスチャン、これは単なる税の問題ではないわ」彼女は隣に立つ、同じく変装した老執事に小声で言った。セバスチャンは平民の古びた服装に身を包み、髭を少し伸ばして変装していた。
老執事は主人の横で静かに頷いた。「お嬢様、どうやらロイド伯爵は徴収した税の半分以上を私腹を肥やすために使っているようです。残りは私兵の雇用と、この建物の豪華な改装に消えています」
「法律上、伯爵に税の徴収権はあるけれど、これは明らかな権力の乱用よ」エレノアの目には怒りの炎が燃えていた。「あの老人の娘さんは大丈夫かしら……」
「暗部の者に確認させましょう」セバスチャンはわずかに首を振った。すると、彼らの近くにいた物売りが、ほとんど気づかれないほど小さく頷いた。アルディア家の暗部の一員だった。
「さらに調査が必要ね。今夜、冒険者ギルドに行くわ」エレノアは決意を固めた。「伯爵の横暴を止めるには、もっと情報が必要」
彼女は最後にもう一度、徴税所を振り返った。その視線には、貴族の娘としての責任感と、一人の人間としての怒りが混ざり合っていた。
「覚えておきなさい、ロイド伯爵。アルディアの名において、あなたの横暴は必ず裁かれる」彼女の言葉は誓いのように、夏の熱気の中に溶けていった。
――――――――――――――――――――――――
夕暮れが街を赤く染め上げ、商店や露店が次々と店を畳む頃、西区の裏通りは別の顔を見せ始めていた。日中は比較的静かなこの通りも、夜になると冒険者や放浪の旅人たちが集まる場所へと変貌する。
「竜の爪」と呼ばれる冒険者ギルドは、そんな西区の中でも特に賑わう一角に位置していた。外観は古びた二階建ての石造りの建物だが、その内部は驚くほど広く、様々な冒険者たちが酒を片手に情報を交換する憩いの場となっていた。
茶色の外套と簡素な服装に身を包んだエレノアは、ギルドの扉を押し開けた。彼女の正体を知る者は、この場にはいない。セバスチャンは彼女の安全を懸念したが、エレノアは暗部の戦士を二人だけ連れて、この場に来ることを選んだ。彼らは普通の冒険者に変装し、離れたテーブルに座っている。
ギルドの内部は、予想通りの活気で満ちていた。天井から吊るされた魔法の灯りが温かな光を放ち、壁には各地の地図や、過去の偉業を称える盾や武器が飾られている。ダークオークの太い梁が天井を支え、長年の煙で黒ずんでいるが、それが却って居心地の良い雰囲気を醸し出していた。
様々な種族の冒険者たちが、酒を飲み、食事をし、笑い、時には言い争いながらも、独特の連帯感を持っている。彼らの装備や服装は実に多様で、重武装の戦士から、軽装の盗賊、杖を携えた魔法使いまで、あらゆる職業の者たちがいた。
「おや、珍しい顔だね、お嬢さん」カウンター越しに、ギルドマスターのガレスが声をかけた。彼は五十代くらいの大柄な男で、かつては有名な戦士だったという。顔には古傷があり、左腕は義手に置き換えられていた。
エレノアはカウンターに近づき、低い声で言った。「情報を求めています」彼女は小さな金貨を滑らせた。「ロイド伯爵について、できるだけ詳しく」
ガレスは金貨を素早くポケットに入れ、周囲を見回した。店内は喧騒に満ちているが、それでも彼は声を落として話し始めた。
「危険な話題だな。あの伯爵は最近、自分の領地だけでなく、アルディア公爵の不在を利用して、南区全体を私物化している。税金は彼のポケットに消え、反対する者は……」彼は首に指を滑らせる仕草をした。
「消されるの?」エレノアは緊張を隠せなかった。
「そこまでは表立ってはやらんだろうが、行方不明になる者は多い。特に若い娘たちはな……」ガレスの表情が暗くなった。
別のテーブルからは、赤い髪の女性冒険者が話に加わった。彼女は三十代前半で、革の鎧と、背に短剣を携えていた。
「盗聴魔法に気をつけな」彼女はカウンターに近づきながら言った。「わたしはミラ。ここでは『紅の風』と呼ばれてる」
エレノアは静かに頷いた。「テッサと呼んでください」彼女は偽名を告げた。
「先週、税に抗議した鍛冶屋のハモンド親方が行方不明になったわ。彼は南区で最も優れた鍛冶師で、腕利きの魔法剣も打てる人だった」ミラは続けた。「その翌日、彼の工房は伯爵の側近が経営する会社の所有になった」
「強制的に?」
「表向きは『負債の返済』ということになっているが、ハモンドに借金なんてなかった。みんな知ってる」ミラの瞳には怒りが燃えていた。「それだけじゃない。伯爵は若い娘たちを『城の奉公人』として次々と集めている。帰ってきた者はいない」
エレノアは静かに情報を整理していた。彼女の頭の中で、徐々に状況の全体像が見えてきていた。
「他にも証拠はある?」彼女は尋ねた。
ギルドの奥のテーブルから、影のような男が近づいてきた。黒いフードを深く被り、顔の大部分は隠れていたが、その動きは熟練の戦士のそれだった。
「伯爵の屋敷の地下には、牢獄がある」男は低く落ち着いた声で告げた。「不当に捕らえられた者たちが働かされているという噂だ。南区の外れにある廃坑につながっているらしい」
「廃坑?」エレノアは首を傾げた。
「『廃坑』と呼ばれているが、実際はまだ稼働している。伯爵は秘密裏に、何かを掘り出させている」
エレノアの目が閃いた。「場所はわかる?」
男は頷いた。「案内できる。ただし、伯爵の私兵が厳重に警備している。簡単には近づけない」
「協力してくれるのね。報酬は惜しまないわ」エレノアは言った。
「報酬はいらない」男はフードを少し上げ、若い顔を見せた。その目には復讐の炎が燃えていた。「俺の弟も、あそこに囚われているんだ。三週間前、税が払えないという理由で連れていかれた」
エレノアはじっと男を見つめた。彼の眼には真実があった。「あなたの名前は?」
「レイフ。元王国軍の斥候だ」男は答えた。
「わかったわ、レイフ。協力してくれて感謝するわ」エレノアは静かに言った。その表情には、公爵の娘としての責任感が浮かんでいた。「明日の夜、伯爵の屋敷の裏手で会いましょう。案内をお願いするわ」
レイフは無言で頷き、再び影のように人混みに紛れて消えていった。
ミラがエレノアの袖を引いた。「気をつけな、テッサ。あんたが何者かは知らないが、素人には危険すぎる。伯爵の私兵は増えている。最近では魔法使いまで雇っているらしい」
「ありがとう、でも大丈夫」エレノアは微笑んだ。彼女の目には、単なる素人には見えない強さがあった。「私にも、頼れる仲間がいるから」
ミラは不思議そうな表情をしたが、それ以上は追及しなかった。「運が良ければな」彼女はそう言って、自分のテーブルに戻っていった。
エレノアはギルドを後にする前に、もう一度店内を見回した。様々な運命を背負った冒険者たちが、それぞれの生き方を選んでいる。彼らは自分たちの道を自ら選び、切り開いている。
一方、彼女は生まれながらにして公爵の娘という運命を背負っていた。しかし今、彼女は自分の意志で、守るべき民のために立ち上がろうとしていた。
「さあ、始めましょう」彼女は小声で呟いた。外套のフードを深く被り、夜の闇へと消えていった。
――――――――――――――――――――――――
三日後の夜、エレノアはセバスチャンと共に、アルディア城の地下室で緊急会議を開いていた。普段は使われない、古い武器庫を改装した密室だ。厚い石壁は外部からの盗聴を防ぎ、入口には暗部の戦士が警備に立っていた。
部屋の中央には大きな楢の木のテーブルが置かれ、その上にはアルディア南区の詳細な地図が広げられていた。テーブルの周りには、エレノアとセバスチャンの他に、暗部の隊長であるカイル、そして今夜だけの特別な参加者として、レイフの姿があった。
壁に取り付けられた魔法のランプが、柔らかな青白い光を放っている。エレノアは地図上の特定の地点を指し示しながら、冒険者ギルドと暗部から集められた情報を整理していた。
「ここが伯爵の私邸」彼女は南区の高台に位置する大きな建物を指した。「そして、この裏手にある小さな丘の中に、秘密の坑道の入口があるという」
レイフが頷いた。「その通りです。表向きは百年前に閉鎖された古い鉱山ですが、伯爵は三ヶ月前から、密かに再開発を始めました」
「何を掘っているんだ?」カイルが尋ねた。彼は三十代半ばの精悍な男で、額に一筋の傷があった。普段は城の警備隊長を務めているが、その正体は暗部の指揮官だった。
「魔力の結晶です」レイフは緊張した面持ちで答えた。「ラズライトと呼ばれる青い鉱石。魔法の増幅や、高位の魔法具の製造に不可欠な希少資源です」
セバスチャンの表情が曇った。「その鉱石は王国の規制品ではなかったか?」
「その通りです」レイフは頷いた。「ラズライトの採掘と所持は、王国の特別許可が必要とされています。無許可での採掘は重罪です」
「お嬢様、状況はかなり深刻です」セバスチャンはエレノアに向かって報告した。「暗部の調査によれば、ロイド伯爵は徴収した税金で私兵を雇い、さらに三人の魔法使いまで抱え込んでいます。彼らは王国北方の傭兵ギルド出身と思われます」
「さらに、伯爵は定期的に夜間、城の外へ出かけています」カイルが付け加えた。「おそらく、掘り出した鉱石の密売ルートを確保するためでしょう」
エレノアは静かに頷いた。彼女の表情は厳しさを増していた。
「それだけではないわ。ギルドの情報によると、伯爵の地下牢には少なくとも五十人の町民が不当に捕らえられている。彼らは強制労働をさせられ、伯爵の私的な採掘事業で働かされているのよ」彼女は、地図上の鉱山の位置を指で辿った。
「採掘事業ですか?」カイルが眉を寄せた。
「ええ。どうやら南区の下には、ラズライトの鉱脈が眠っているらしいの。伯爵はそれを独占しようとしている」
セバスチャンの表情が暗くなった。「これは単なる横領や権力乱用ではなく、反逆罪に相当します。王国の資源を密かに採掘し、闇市場で売却するなど……」
「そうね。だからこそ—」
会話は突然の叩きつけるような音で中断された。ドアが勢いよく開き、使用人が慌てて駆け込んできた。
「お嬢様!大変です!南区で暴動が起きています。伯爵の私兵が市民に発砲し、すでに死者が出ています!」若い使用人の顔は青ざめ、息も絶え絶えだった。
全員が驚愕の表情を浮かべる中、エレノアだけが冷静さを保っていた。彼女は立ち上がった。背筋をピンと伸ばし、その碧眼に決意の光が宿る。
「何があったの?詳しく話して」
「南区の市場で、若い娘が伯爵の私兵に連れていかれそうになったとき、鍛冶屋の息子が抵抗したそうです。それを見た市民たちが集まり始め……私兵が警告なく発砲したとのことです」使用人は震える声で報告した。
「犠牲者は?」
「三人の市民が命を落とし、十人以上が負傷したと聞いています。今も衝突は続いているようです」
エレノアは窓に駆け寄り、南区の方向を見た。夜空が橙色に染まり、遠くから怒号や悲鳴が風に乗って届いてくる。
「セバスチャン、準備をして。暗部を呼び出して」彼女の声は静かながらも、揺るぎない決意に満ちていた。「カイル、戦闘準備を。できるだけ市民への被害を抑えつつ、伯爵の私兵を押さえ込んで」
老執事は深く頭を下げた。「かしこまりました、お嬢様」
カイルは右胸に拳を当て、忠誠を示す敬礼をした。「ただちに実行いたします」
背後の壁面に隠された扉が静かに開き、黒装束の影のような人影が次々と現れた。公爵家に代々仕える暗部の戦士たちだ。彼らは十二人ほどで、全員が黒い軽装鎧を身につけ、様々な武器を携えていた。
「レイフ、あなたは私たちの案内を」エレノアは言った。「伯爵の屋敷と、地下牢への最短ルートを教えて」
レイフは緊張した面持ちで頷いた。「承知しました」
エレノアは素早く書斎へと戻り、普段は装飾用に飾られている家紋入りの細身の剣を手に取った。見た目は華奢だが、これは代々アルディア家に伝わる魔法剣だった。柄には魔力を増幅する小さな青い宝石が埋め込まれている。
彼女は身軽な動きができるよう、ドレスを脱ぎ、戦闘用の装備に着替えた。濃紺の上着に黒いズボン、そして肩から腰にかけて、アルディア家の紋章が刺繍された白いマントを羽織る。セバスチャンが持ってきた魔法具の杖も腰に差した。
準備を整えたエレノアは、窓辺に立ち、南区から立ち上る煙を見つめた。彼女の目には確固たる決意と、静かな怒りが燃えていた。
「今夜、終わらせるわ。ロイド伯爵、覚悟なさい」
――――――――――――――――――――――――
ロイド伯爵の屋敷は南区を見下ろす丘の上に建っていた。まるで領民を見下ろすかのように、豪華な石造りの建物は高台に君臨している。周囲を高い塀と鉄の門で囲まれ、十数名の私兵たちが警備していた。
夜空には満月が輝き、建物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。遠くの町からは、まだ怒号や悲鳴が聞こえてきた。暴動は収まる気配がない。
「伯爵様、南区の暴動は私兵によって鎮圧されつつあります」側近の男が、豪華な書斎で報告した。「反乱分子のリーダーたちは捕らえられ、見せしめのため公開処刑の準備が整いました」
ロイド伯爵は暖炉の前の高級な椅子に座り、満足げに赤ワインを口に運んだ。クリスタルのグラスが炎の光を反射して輝いている。
「よくやった。反抗的な連中には見せしめが必要だ。弱い者は支配されるためにいるのだ」彼は薄笑いを浮かべた。「明日からは税率をさらに上げよう。今回の『反乱』の処理費用として、倍額を徴収する」
「さすがです、伯爵様」側近はへつらうように頭を下げた。「また、あの鍛冶屋の娘をお連れしました。控えの間でお待ちしております」
伯爵の目が欲望に濁った。「ほう、あの赤毛の美しい娘か。後で呼べ。今夜は祝杯を上げるとしよう」
「その前に、許可をいただきたいことがあります」
その声に、伯爵と側近は驚いて振り向いた。部屋の隅から、茶色の外套を脱ぎ捨てたエレノアが姿を現した。彼女の腰には細身の剣が下がり、右手には魔力を帯びた杖が握られていた。
「何者だ!? 警備は何をしている!」伯爵は叫び、席から立ち上がった。ワイングラスが床に落ち、赤い液体が大理石の床に血のように広がる。
側近が剣を抜こうとしたが、影のように現れた暗部の戦士が彼の腕をつかみ、一瞬で武装解除した。側近は床に組み伏せられ、動けなくなった。
ドアが開き、二人の私兵が駆け込もうとした瞬間、黒い影が彼らを取り押さえた。カイル率いる暗部の戦士たちだ。
「あなたの私兵も、魔法使いも、もう助けには来ないわ」エレノアは冷静に言った。「彼らは暗部に押さえられているわ」
「暗部だと?」伯爵の顔が青ざめた。彼は一歩後退りしながら、壁に掛かった剣へと手を伸ばそうとした。
「その必要はないでしょう、伯爵」エレノアは数歩前進した。「大人しく降参なさい。そうすれば、不必要な流血は避けられる」
伯爵は壁から宝石で飾られた豪華な剣を引き抜き、身構えた。「小娘一人で何ができる?私は王国剣術大会で三位に入賞した男だぞ!」
エレノアは笑みを浮かべた。「試してみる?」
伯爵が剣を振り上げた瞬間、エレノアの杖が青い光を放った。魔法の障壁が伯爵の攻撃を易々と受け止める。剣が障壁に当たった衝撃で、伯爵は数歩後退った。
「魔法使い!?」伯爵の顔が歪んだ。「貴様、どこの魔法ギルドの者だ!」
エレノアは杖を振り、風の刃を放った。目に見えない刃が空気を切り裂き、伯爵の剣が宙に飛ばされる。武器を失った伯爵は、恐怖に目を見開いた。
次の瞬間、エレノアは驚くべき速さで距離を詰め、剣の切っ先を伯爵の喉元に突きつけていた。
「あなたの罪を数えましょうか、伯爵」彼女は冷たく言った。「不当な税の徴収、市民の拉致、強制労働、そして最も重い、ラズライトの違法採掘と闇取引」
「な、何を言っている……そんなことは……」伯爵は焦りを隠せなかった。
「降参なさい、伯爵。これ以上の抵抗は無意味です」
「くっ……小賢しい魔法使いめ……!」伯爵は後退りながら、胸ポケットから小型の魔法具を取り出した。彼はそれを素早く起動させる。
赤い光が部屋中に広がり、床から炎の柱が何本も立ち上がった。熱波が部屋中に広がり、壁の絵画や装飾が焦げ始める。
「おお、燃えよ! 燃え尽きよ!」伯爵は狂ったように笑った。
エレノアは冷静に杖を振るい、詠唱を始めた。「水よ、我が呼びに応じよ。流れよ、そして消し去れ」彼女の周りに青い魔力が渦巻き、天井から水の柱が現れ、炎を次々と消し去っていく。
「これで終わり?」彼女は伯爵を見据えた。その姿は、まるで伝説の魔法剣士のようだった。
怒りに顔を赤くした伯爵は、壁の飾り板を押し、隠し扉が開くと、そこに飛び込んだ。
「追って!」エレノアは命じ、自らも扉に飛び込んだ。暗部の戦士たちが続く。
狭い螺旋階段を駆け下りると、徐々に空間が広がり、やがて彼らは広大な地下洞窟に出た。そこには、青白い光を放つ鉱脈が壁に走り、その前で多くの人々が鎖でつながれ、採掘作業をしていた。囚われた町民たちだ。彼らの顔は疲労と恐怖で青ざめている。
洞窟の中央には、すでに掘り出された大量のラズライト結晶が山積みにされていた。その青い輝きは、地下の暗闇で幻想的に光を放っている。
「動くな!」伯爵の声が洞窟に響き渡った。彼は作業をしていた少女の一人を捕まえ、短剣を喉元に突きつけていた。「一歩でも近づけば、この者の命はないぞ!」
エレノアは杖を下げた。「卑劣な真似を……」
囚われた人々の間から、小さな騒ぎが起こった。レイフが姿を現し、「兄さん!」と呼ぶ若者に駆け寄った。レイフの弟だった。
伯爵は嘲笑した。「愚かな娘よ。正義感だけで世界は変わらん!この鉱山、この力があれば、アルディア公爵の座さえ奪えるのだ」
「そうはさせません」エレノアは静かに言った。
伯爵は少女を引きずりながら、洞窟の奥へと後退りしていく。「近づくな!彼女を殺すぞ!」
その時、伯爵の背後の影から、セバスチャンが静かに現れた。老執事は黒い戦闘服に身を包み、手には小さな魔法具を握っていた。
「お嬢様、ご無事で何よりです」彼は静かに言った。
「セバスチャン!?」伯爵は驚いて振り向いた。
その隙に、セバスチャンは魔法具を伯爵に向けて起動させた。青白い光が放たれ、伯爵の体が硬直した。
「魔法封じの術だ、伯爵殿」セバスチャンは静かに言った。「三十年前、わたしも王立魔法学院の卒業生でね」
少女はすかさず伯爵の腕から逃れ、レイフのもとへと駆け寄った。伯爵は魔法に縛られ、動けなくなって床に倒れ込んだ。
エレノアが前に進み出る。彼女の周りには魔力が青く渦巻いていた。
「あなたの罪は、税金の横領、市民への暴力、そして最も重い、反逆罪」彼女は厳かに言い渡した。「アルディア公爵家の名において、正当な裁きを受けていただきます」
伯爵は震えながら床に膝をつき、哀願し始めた。「わ、わたしはただ……富と力を……みなが望むものを……」
「あなたがほしかったのは、民の幸せではなく、あなた自身の欲望を満たすことだけ」エレノアは冷ややかに言った。「それが貴族としての最大の罪です」
「お前に何がわかる! この結晶があれば、王にも匹敵する力が……!」伯爵は最後の抵抗を試みた。
「それは叶わないわ」エレノアは言い、剣を鞘に戻し、外套のフードを脱いだ。月明かりが洞窟の隙間から差し込み、彼女の金色の髪と威厳ある姿を照らし出した。
――――――――――――――――――――――――
洞窟に静寂が訪れた。エレノアの周りに、解放された町民たちが集まり始めていた。疲れた顔には希望の光が戻りつつあった。
エレノアはゆっくりと伯爵の前に立ち、威厳に満ちた声で言った。
「私の顔がわからないのかしら、伯爵」
その声には、これまでにない威厳が満ちていた。若さを超えた、血統に宿る権威そのものが響いていた。伯爵は顔を上げ、月明かりに照らされたエレノアの姿をはっきりと見た。
「あ、あなたは……!」彼の目が恐怖で見開かれた。
エレノアはゆっくりと髪から銀の簪を取り、それを高く掲げた。簪の先端には、アルディア家の紋章である「翼を広げた銀の鷹」が輝いていた。
「エレノア・ド・アルディア。アルディア公国の嫡女にして、この領地の正当な統治者の娘だ」彼女の声は洞窟の隅々まで響き渡った。
伯爵の顔から血の気が引いた。「ア、アルディア公爵の……!」
「そう、あなたが欺き、裏切ろうとしていた公爵の娘だ」エレノアは一歩前進した。その姿は若さを超えて、まるで伝説の女王のようだった。「父上が王都にいる間、この領地を守るのは私の責務。あなたのような貪欲な輩に、アルディアの民を苦しめる権利はない」
伯爵は完全に気力を失ったように肩を落とした。「す、すべては王国のために……ラズライトは王国の力となる……」
「嘘をつかないで」エレノアは厳しく言った。「あなたは既に闇商人と取引していたことがわかっています。カイル、証拠を」
暗部の隊長カイルが一歩進み出て、羊皮紙の書類を取り出した。「これは伯爵の書斎から発見された取引記録です。ラズライトを隣国の武器商人に売却する契約書です」
「これは……偽物だ!」伯爵は必死に抵抗した。
「あなたの印鑑と署名がある。否定しても無駄よ」エレノアの声は冷たく響いた。
囚われていた町民たちからざわめきが起こった。その中から、一人の老人が前に出てきた。
「わたしの名はトーマス。南区の長老です」老人はエレノアに深く頭を下げた。「アルディア家の方が私たちを救いに来てくれるとは……」
「遅くなってすみません」エレノアは優しく微笑んだ。「もっと早く気づくべきでした」
「いいえ、あなたが来てくれただけで……」老人の目には涙が光っていた。
エレノアの声は洞窟中に響き渡った。「鎖を外しなさい。すべての民を解放するのよ」
暗部の戦士たちが素早く動き、囚われていた人々の鎖を次々と解いていく。鎖から解放された人々は、喜びと安堵の涙を流していた。
「私はアルディアの民の苦しみを無視できない」エレノアは囚われていた人々に向かって宣言した。「アルディア家は代々、民と共にあるもの。あなた方の安全と幸福が、私たちの存在意義です」
彼女の言葉には力があった。それは単なる若い貴族の娘の言葉ではなく、将来の領主としての決意と責任感が込められていた。民たちは彼女の周りに集まり、中には膝をつく者もいた。
「お願いです、立ち上がって」エレノアは慌てて言った。「私はあなた方と同じ、アルディアの一員です」
「公爵様が戻られるまで、私たちを守ってください」トーマス長老が言った。「私たちはあなたに従います」
エレノアは厳かに頷いた。「必ず守ります。それがアルディアの名にかけた私の誓いです」
暗部の戦士たちが伯爵を取り囲んだ。絶望した伯爵は完全に膝を折り、頭を床につけた。
「あなたの罪は、法の下で裁かれるでしょう」エレノアは最後に言い渡した。
洞窟の入口から、朝日の最初の光が差し込み始めていた。新しい一日の始まりだった。
――――――――――――――――――――――――
一週間後、アルディア城下町は活気を取り戻していた。中央広場では、かつて見られなかったほどの笑顔が行き交い、露店は活気に満ちていた。
伯爵の不当な税制は廃止され、徴収された税金は市民に返還された。地下牢から解放された人々は家族と再会を果たし、傷ついた家や店の修復が始まっていた。
ラズライト鉱山は一時的に閉鎖され、王国の調査官が派遣された。鉱山の権利は正式にアルディア公爵家に戻り、今後は王国の管理下で、適正な労働条件の下で採掘されることが決まった。
伯爵は反逆罪で王都へと護送され、裁判を待っていた。彼の側近たちも次々と逮捕され、南区の行政は一時的にアルディア城の直轄となった。
「幸いなことに、父上は来週には戻られる予定です」エレノアは城の会議室で、暗部の幹部たちに報告した。「それまでの間、私たちで町の復興を進めましょう」
「お嬢様、素晴らしい指揮でした」カイルは敬意を込めて頭を下げた。「暗部は恐縮ですが、あなたのような将来の主君に仕えることを誇りに思います」
「ありがとう、カイル」エレノアは微笑んだ。「あなたたちの助けがなければ、何もできなかったわ」
会議の後、エレノアは再び茶色の外套を身に纏い、セバスチャンと共に中央広場へと向かった。彼女は変装しているが、この一週間で、彼女の正体を知る者は少しずつ増えていた。それでも、公に公爵令嬢として振る舞うことはせず、変わらず民の中に紛れて歩いていた。
広場の片隅からその光景を見つめるエレノアに、トーマス長老が近づいてきた。
「公爵令嬢様、おかげさまで町は元の活気を取り戻しつつあります」長老は小声で言った。
「エレノアでいいのよ、トーマスさん」彼女は微笑んだ。「私は単なる一市民として、この町を歩きたいの」
「その謙虚さこそ、真の貴族の証ですね」老人は感動した様子で言った。「民は皆、あなたのことを『影の公爵令嬢』と呼び始めています。闇を裁く貴族の娘、と」
エレノアは少し恥ずかしそうに笑った。「大げさね」
「お嬢様、本当に正体を隠し続けてよろしいのですか?」セバスチャンが尋ねた。「民は救世主を求めています。公に姿を現せば、皆さらに喜ぶでしょう」
エレノアは微笑んだ。「私は救世主ではないわ、セバスチャン。ただの公爵の娘よ。それに……」彼女は遠くの丘を見つめた。「まだ終わっていないの」
「お嬢様?」セバスチャンが首を傾げた。
「伯爵の裏には、もっと大きな存在がいるわ」エレノアは声を潜めた。「王都での父上の敵対者たち。彼らは全国各地でこのような操り人形を使って、領主たちの力を削ごうとしている」
セバスチャンは深刻な表情になった。「それは……公爵様へのクーデターの前兆かもしれません」
「そう思うわ」エレノアは頷いた。「伯爵の書斎から見つかった書簡の中に、ペインズビル子爵の名前があった。東の領地の管理者よ」
「あの子爵も共謀者だというのですか?」セバスチャンの顔に緊張が走った。
「確証はないけれど、調査が必要ね」エレノアは決意を込めて言った。「先週、東の村々で不当な徴税が始まったという噂を聞いたの。そこでも同じような悪事が行われているかもしれない」
彼女は腰の剣に手を添えた。明日からの旅支度は既に終わっていた。
「カイルに連絡を。暗部の精鋭を五人、選出するように」彼女は命じた。「レイフにも声をかけて。彼の斥候としての腕は貴重よ」
「かしこまりました」セバスチャンは頭を下げた。「しかし、お嬢様。公爵様が戻られる前に旅立つのは……」
「父上には手紙を残すわ」エレノアは微笑んだ。「私の行動を理解してくれるはず。アルディア家の使命を果たすため、私は動かなければならない」
エレノアは空を見上げた。雲一つない青空が広がっていた。明日は良い旅日和になりそうだった。
「行きましょう、セバスチャン。闇を裁く旅はまだ始まったばかり」彼女は決意を込めて言った。「アルディアの民のため、そしてこの王国のために」
茶色の外套をはためかせ、エレノアは再び人混みの中に消えていった。彼女の背後には、影のように忠実な暗部の戦士たちが続いていた。
広場の人々は気づかないが、彼らの間を歩く一人の少女が、実は彼らの命を守る「影の公爵令嬢」であることを。そして彼女の戦いは、まだ始まったばかりだということを。
アルディアの影の公爵令嬢の伝説は、こうして各地に広がっていくのだった。闇を照らす光として、民の希望として。