後編
彼女の姿に僕の心は揺れ動いていた。
僕はこの日、彼女に会う前に決めたことがあった。それは僕にとってはとても辛いことだけれども、決断しなきゃいけないと思ったからだった。
彼女は普段着に着替えていて、車椅子に座っていた。
「やあ、迎えにきたよ。」
彼女には僕との関係は告げていない。でも、彼女から聞くことはなかったし、おそらく僕が話すのを待っているのだと思う。
「それじゃ、行こっか。」
彼女はそう言った。僕は車椅子を押して病院をでた。
「ねえ、公園に寄ろっか。」
僕は彼女に聞いてみる。
「いいよ。」
彼女は普通に答えた。
公園、そこは僕らにとって大切な場所だった。この公園で出会い、この公園で僕は彼女にプロポーズした。その公園で、あの大きな桜の木の下で。今はその桜の木に花はなく、青々とした葉が辺りに木陰を作っていた。
僕らは公園に着いた。この公園で、あの桜の木の下で、彼女がなにも思い出すことがなかったら、僕は彼女の前から去ろう、それが僕の中での約束だった。
そして、
ついに、
桜の木の下に着いた。
「おっきな木だね。」
彼女はそうつぶやいた。僕は願った。彼女が思い出すようにと。
どれだけの時間が過ぎただろうか。彼女はずっと桜の木を見ていた。そして、
「行こっか。」
僕の望みは消え去った。目頭が熱くなる。でも、彼女の前で泣くなんて出来ない。
もう直ぐ会えなくなるのだ、だから最後は笑っていたかった。
「うん」
だけど僕のその言葉は少し涙でくぐもっていた。
僕らの家に着く。あとすこしで、彼女の存在が消えることになる。僕はまだ彼女にどうしてもらうかは話していない。いや、話せずにいた。話さなきゃいけない。そう思っても、なかなか切り出せなかった。でも、今話しておかないと僕はずっと後悔をしそうだった。一度決めたことを覆すつもりは、
ない。
「あのさ、実はさ、き、聞いて欲しいことがあるんだけど…。」
僕は一度息を吐く。
「実は、僕は、僕は、きみに…」
ゴトッ
えっ。
彼女はいつもみたいに笑って、
「まあまあ、それ飲んで、落ち着いて話しましょ。」
そこに置かれていたのは
マグカップに入ったコーヒーだった。
僕は彼女のいった通り、コーヒーにゆっくり口を付けた。
そのコーヒーは、
苦くて、
そしていつも彼女が入れてくれる、あの味だった。
前と変わらず、あの苦いコーヒーだった。
「えっと…ごめん、泣くほど苦かった?」
気付くと泣いていた。
「いや、苦かったからじゃなくて、あ、でも苦かったけどそうじゃなくて…」
彼女は変わってなんかいなかった。
「そう、良かった…。え、でも苦かったの?ごめん、次は気を付けるから。」
彼女はなんだか一人で慌てていた。
「いや、このままでいい。この苦さでね。」
「そうそう、話っていうのは何?」
何だかムリヤリだ。それでも僕は彼女に答える。
「なんでもない」
「なんでもないって何よ。あんなに真剣そうな顔をしてたのに。」
「いいんだよ。いつか分かると思うから。」
僕はそう答えた。
いつか、彼女に言おうと思う。
彼女の記憶はいつ戻るか分からない。
でも、かまわない。
彼女の記憶が戻ろうと戻ろらまいと僕の心は変わらない。
彼女が変わっていなかったように。
今はまだ、言えないけれど、もう少ししたら…その時は言うんだ。
あの公園の桜の木の下で…。
“僕と、結婚してください”
ここまで読んでいただきありがとうございます。あまり長くはなかったですが、感想をもらえると嬉しいです。




