〔1〕
アンジーから惟が隣の病室にいるときかされた。だというのに、亜紀はなかなかそこへと行く決心がついていないようだった。
だが、これは惟のことを拒絶しているからではない。むしろ、その逆。彼のことを心配しすぎるあまり、そばに行くことを躊躇ってしまっているのだった。
もっとも、そのことを彼女自身が認識しているのかというと疑問しか残らない。それでも、アンジーと話しているうちに自分の気持ちというものにもハッキリと気がついたのは間違いない。
そうなれば、亜紀ができることは一つだけ。先ほど、彼女が眠るまで一緒にいた拓実は病院長のもとに行ったきり帰ってこない。だが、これがある意味での好機であることに違いはない。
なにしろ、拓実が亜紀のことを異様なまでに心配するのはいつものこと。となれば、こうやって入院するような事態になった以上、彼がどのような反応をみせるのか。
そのことを教えられずとも分かっている亜紀は、苦笑を浮かべるだけ。とはいえ、惟に会うとすれば、拓実がここに戻ってくるまでしかチャンスはない。そう思った亜紀は看護師がやってこないことを祈りつつ、コッソリと病室から抜け出していた。
「えっと……アンジーは惟の病室は隣だって言ってたけど本当かしら?」
そんなことを呟きながら、亜紀はキョロキョロとあたりを見渡している。今、彼女がいた病室は間違いなく特別室だろう。なぜなら、彼女のような病気ともいえない症状の患者を収容するのは本来ならば大部屋のはず。だというのに、彼女がいた部屋は個室。
間違いなく、拓実が無駄に一條という家の力を使ったのだ。そう思った亜紀は、ため息をつくことしかできない。そんな時、ガチャリという音とともに、隣の扉が開いていた。
誰かが出てくる。そう思った瞬間、亜紀は思わず隠れようとした。なにしろ、看護師に隠れて部屋を抜け出したという自覚があるからだ。だが、その相手の顔を見たとたん、彼女は安心したような声を上げることしかできなかった。
「山県のおばさま……」
そう。出てきた相手は惟の母親である山県玲子。彼女が出てきたということは、間違いなく惟は隣の病室にいる。そう思った亜紀は、その場から動くことができなくなっていた。そんな彼女の気配を感じたのだろう。玲子が満面の笑顔で亜紀に声をかけてきていた。
「亜紀ちゃん、そんなところにいる必要はないでしょう? 惟もあなたに会いたいって思っているんだし。遠慮しないで入っていらっしゃい」
「で、でも……おばさま……」
玲子の誘いの言葉に、亜紀は素直に頷くことができない。その最大の理由は、彼女の今の格好にもあるのだろう。なにしろ、今の彼女は俗に言われる病棟服を着ている。
学校の校庭で意識を失い病院に運ばれた以上、これに文句をつけるつもりはない。だが、今の彼女は惟に対する思いをよりはっきりと自覚したばかり。恋に恋する女子高生としては、そんな恰好で好きな人に会いたくない。そんな思いから、彼女の足はその場から動こうとはしない。
もっとも、玲子にはそのようなことを気にする様子が微塵もない。彼女は亜紀の手をガッチリと握ると、ニッコリ笑いかけてくる。
「亜紀ちゃん、遠慮しなくてもいいの。それより、おばさまはないでしょう? お義母さんって呼んでほしい部分もあるけど、それが無理なら名前で呼んでほしいわ」
玲子の発言に亜紀は目を白黒させることしかできない。いくらなんでも父親と同じくらいの相手を名前で気軽に呼ぶことなどできない。そう言いたげな色が彼女の顔には浮かんでいる。そんな亜紀の様子に、玲子は残念そうな声で応えている。
「亜紀ちゃん、遠慮しなくてもいいのよ。だって、もうすぐ惟のお嫁さんになってくれるんでしょう? だったら、話は早いじゃない。こういうのって、ちょっとでも慣れておいた方がいいの」
「そ、そうでしょうか……」
「そうよ。だから、お義母さんって呼んで? それとも、亜紀ちゃんは惟のこと嫌いなの?」
玲子の問いかけに亜紀は慌てて頭を振っている。ここで否定しないとどのように話が転んでいくのかわかったものではない。そう思う彼女の体を玲子は思いっきり抱きしめていた。
「よかった。亜紀ちゃんが惟のこと嫌いじゃないって分かって、ほんとに安心したわ」
「あ、あの……おばさま……苦しいです……」
ここで玲子に抱きしめられるとは思っていなかった亜紀の微かな悲鳴が上がっている。遠慮なく抱きしめてくる力は半端ないものとしかいいようがない。
見た目は華奢としかいいようのない玲子の腕に、これほどの力があったのだろうか。そんなことを思う亜紀は、なんとかして自由になろうとジタバタする。しかし、相手の力が緩む気配はない。
どうして、こんなにスキンシップの激しい相手ばかりが身近にいるのだろう。そんな思いも亜紀の中には間違いなく浮かんでいる。
「おばさま、お願いです。離してください」
「イ・ヤ。離して欲しければお義母さんって呼ぶか名前で呼んで」
玲子の要求は実にシンプル。しかし、亜紀にとってそれに頷くことができるはずもない。なんとかしてそれ以外の条件で離してもらうことはできないのだろうか。そう思いながらペチペチと玲子の腕を叩く亜紀。だが、相手はまるで堪えていないのか、抱きしめる力は強くなるだけ。
これ以上は耐えられない。半ば顔面蒼白になった亜紀がそう思う中、呆れたような声が玲子の背後からかけられていた。
「玲子。あんまり我がまま言うんじゃないよ。亜紀ちゃんも困っているだろう?」
「たっちゃん、そんなことないわよ。亜紀ちゃん、困ってないわよね?」
ニッコリと笑いながら玲子はそう告げる。だが、それに亜紀が頷こうと思っているはずもない。それどころか、ようやく離してもらえる可能性ができた。そう思っている彼女は必死になって玲子に訴えかけている。
「おばさま、苦しいんで離してください!」
「ほら、玲子。君は困ってないって思ってるだろうけど、亜紀ちゃん本人はそうじゃないみたいだよ。だったら、この場は君が折れるしかないんじゃないの?」
「たっちゃんの意地悪。私、娘が欲しかったのよ。だから、惟が選んだ相手ならどんな子でも認めるつもりだったけど、こんなに可愛くなってるだなんて。もう、今すぐにお嫁に来て」
そう言うなり、玲子は今までよりも強い力で亜紀を抱きしめてくる。その力があまりにも強いせいだろう。亜紀は思わずカエルが潰れたような声を出すことしかできない。そのまま、彼女は玲子を諭す相手に必死になって助けを求めていた。
「山県のおじさま……お願いだから、なんとかしてください……私、このままじゃ、死んじゃう」
声の主が惟の父であり、玲子の夫でもある達也だということに気がついた亜紀はすがりつくような声を出している。そんな彼女の様子に、達也は同情するようなまなざししか向けてこない。
「おじさま! 助けてくれないんですか?」
「助けてあげたいよ。でもね。玲子の性格だし、諦めて彼女の言うこときいてくれない?」
「無理です! っていうより、さっきまで助けてくれそうな口ぶりだったのに!」
思ってもいなかった達也の言葉に、亜紀は涙目になることしかできない。そんな彼女に達也は淡々と言葉をかけ続ける。
「うん。最初は亜紀ちゃんを助けてあげようって思ったけどね。でも、玲子の気持ちも分かっちゃったから」
「たっちゃん、分かってくれた? やっぱり、たっちゃんだわ」
達也の言葉に完全に気をよくしたのだろう。玲子の声はウキウキしたものになっている。そんな彼女に近寄った達也は「でもね」と言いながら、彼女を亜紀から引き剥がしていた。
「たっちゃん、どうしてよ! 気持ち、分かるって言ってくれたじゃない」
「たしかにそうだよ。でもね。亜紀ちゃんは玲子の相手をするために病室から出てきたんじゃないだろう? 違うかな?」
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