〔5〕
そう言うと、アンジーは亜紀の髪に手を伸ばしている。そこに浮かんでいる表情がどことなく寂しげだ。その顔を目にした亜紀は、胸が締め付けられる思いに駆られていた。
「アンジー、ごめんなさい」
思わず口から出たその言葉は、今の彼女の本心なのだろう。もっとも、それを耳にしたアンジーはすっかり驚いた顔になっている。
「亜紀ちゃん、ここでそれって反則だよ。でも、そんな君だから好きになったんだよね。ね、約束してくれない? 恋人にはしてくれないだろうけど、友だち以上にはしてくれる?」
彼のその問いかけに亜紀はコクリと頷くことしかできない。そんな亜紀の答えを目にしたアンジーはゆっくりと立ち上がると、彼女の耳元でそっと囁きかけていた。
「惟は隣の病室にいるよ。僕よりも亜紀ちゃんの方が、惟には効き目があるだろうね」
そう言うとアンジーは病室から出て行こうとする。その彼の背中に「アンジー、ごめんなさい」という亜紀の声が投げられる。だが、彼はそれに応えることなく、その場から立ち去っていく。
そんなアンジーの前に現れる影。それが誰なのか分かったアンジーはあえて何も言おうとはしない。だが、相手はそんな彼をそのままにしていない。静かな穏やかな調子で声がかけられていた。
「グラント様、お嬢様とのお話はお済みになられたようですね。今から山県様のところでしょうか? もし、そうではないとおっしゃられるのでしたら、出口までお見送りさせていただきます」
その声にアンジーが返事をすることはない。だが、そのことも承知の上、というような調子で相手は言葉をかけ続ける。
「何かお気を悪くされるようなことを申し上げましたでしょうか? お嬢様のお見舞いにおいでになられた方をそのままお返しするというのは、礼儀に反することだと思っておりますので」
ここまで言われて返事をしないのは、逆に自分の常識を疑われる。そう思ったアンジーは思わずため息をつくと相手の声に応えていた。
「竹原さんでしたっけ? 亜紀ちゃんとの話は終わりましたよ。それから今日は惟に会うつもりはないので帰ります。でも、わざわざ見送ってもらう必要ないと思いますけど? そうじゃありませんか? ここは病院なんだ。君がいる一條家のお屋敷じゃないんだし」
「そうかもしれません。しかし、確認したいことがございまして」
雅弥の言葉にアンジーは嫌な顔を見せている。もっとも、そのことを雅弥が気にする気配もない。彼は淡々とした調子で言葉を続けていく。
「僭越ではありますが、お嬢様に好意をお持ちなのですよね。違っておりますでしょうか?」
「どうして、そんなことを訊くの? それに、僕がその質問に応える義務があると思ってるの?」
「たしかにそうかもしれません。しかし、これはお答えいただきたいことだと思っております。先日、お嬢様に印をつけられたのはグラント様ではございませんでしたか?」
口調は問いかけだが、間違いなく雅弥は確信を持って言葉を口にしている。そんなことを感じさせる口調。その言葉にアンジーはため息をつくと、正面から雅弥の顔をみつめていた。
「本当は応えたくないんだよ。だって、これって個人のプライバシーの問題でしょう?」
「そうでしょうか? たしかに恋愛は個人の自由だといってしまえばそれまでだということは分かっております。グラント様のお国のフランスでは自由恋愛が叫ばれていることも存じております。しかし、ここは日本ですから。郷に入っては郷に従え。このような言葉があることをご存知ですか?」
「知ってるよ。惟からも教えてもらったから」
「でしたら、お答えいただけますか? 私にとってはこのことは何よりも重要なことだと思っておりますので」
顔は笑っているが目元がそうではない。雅弥のそんな様子に、逃げることはできないのだということを感じたのだろう。また、ため息を一つついたアンジーはゆっくりと口を開いている。
「君の質問の答えはoui。でも、これだけは言っておくけどね。さっき、はっきりと亜紀ちゃんに振られたの。それでも、君は気にする?」
「そうですね。十分に気にいたします。もっとも、私自身にも腹を立てておりますが」
「そうなの?」
雅弥の言葉はアンジーには信じられないものだったのだろう。驚いた表情でじっと彼の顔を見つめている。それに対して雅弥は自嘲気味な表情を浮かべるだけ。そのまま軽く息を吐いた彼は言葉を続けていた。
「あの時、お嬢様にきちんと聞いておくべきだったのです。そうすれば、私が誤解することもありませんでしたし、お嬢様を苦しめることもなかったはずだと」
「そうなんだ。でも、あの時のことって亜紀ちゃんは言えなかったと思うよ。その原因になった僕がこんなこと言うのっておかしいかもしれないけどね」
「その通りですね。しかし、先ほどお嬢様に振られたとおっしゃっておられましたよね? それで諦めることができるのですか?」
雅弥のその問いかけは当然ともいうものだろう。そのことが分かっているアンジーはフッと視線を下げると唇を噛んでいる。それでも、返事をしないわけにはいかない。そのことも彼にはわかっているのだろう。だからこそ、彼はゆっくりと視線を上げ、雅弥の顔を見つめている。
「君の言いたいことって分かってる。普通なら簡単に諦められるはずないって思うよね。僕もそうだったし」
「だったら、どうして?」
「どうしてって、一言では無理かな? でも、亜紀ちゃんの気持ちを知ったら、僕じゃダメなんだって思い知らされたっていうのが本音」
そう呟くアンジーの脳裏には、先ほどの亜紀の姿が浮かんでいる。彼の言葉が不十分だったせいで、勘違いした亜紀が暴走した。そのことは、彼女が思う相手をアンジーに思い知らせている。
あの状態の彼女を目にして平静でいられるはずがない。あの時の亜紀は本気で自分を傷つけようとしていた。いや、それだけではなく死ぬことだけを考えていた。
そんな彼女を前にして、彼が取れる道は一つだけ。だからこそ、彼は彼女のことを諦めるという結論にいたったのだ。だが、そのことを口にするつもりはないのだろう。アンジーはどこか寂しい笑顔を浮かべながら雅弥に応えている。
「僕が亜紀ちゃんに対してもっている思いは間違いなく恋だよ」
「グラント様……」
アンジーの言葉から、彼の思いの強さと深さを感じたのだろう。雅弥が息を飲んだような調子で呼びかけている。それに対してアンジーは彼の顔を見ようとはせずに話し続けている。
「でもね。たとえ、これが恋だとしても僕は二度と亜紀ちゃんに思いはぶつけない。だって、そんなことをすれば彼女が不幸になる。僕は彼女に幸せになってほしい。それだけが望みなんだ。だとしたら、その役目は僕じゃなくて惟になるよね。竹原さんもそう思ってるんじゃないの?」
そう言ったアンジーはやっと雅弥の顔に視線を戻している。そこに浮かんでいる表情からは、清々しさも感じられる。そのことから彼の思いが本心からだということを悟ったのだろう。雅弥は深々と腰を折ると「承知いたしました」と口にする。その彼に、アンジーは先ほどまでとは変わった調子で声をかけていた。
「でも、これは僕と君の間の秘密だよ。分かってくれるよね」
その声に雅弥はますます深く腰を折ることしかできない。その姿を見るアンジーの瞳に光るものがあるのを雅弥は見ないようにしようとしているかのようだった。
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