〔1〕
何もない真っ白な空間。あたりには眩しいくらいに光が溢れている。そんな空間に亜紀はボンヤリと立ち尽くしていた。
いや、このままでいいと彼女は思っていない。だが、まるで足がその場に縫い付けられたかのように動くことができない。
周囲は眩しく、白い色しか目に入ってこない。ここはどこなのだろう。どうして、ここにいるのだろう。そんな思いが亜紀の中には膨らんでくるのだが、答えをくれる相手がその場にはいない。
そのことに不安を覚えるのだが、動くことができない。そんな時、彼女の耳に微かな声が聞こえてくる。
「あーちゃん、こっちだよ。早く、こっちにおいで。あーちゃんのこと、ちゃんと待ってるからね。だから、何も心配しないでいいんだよ」
扉も窓もない空間から声が聞こえてくるはずがない。それでも、間違いなく亜紀の耳には声が届いている。今にも消え入りそうな小さな声だが、彼女がその声を聞き逃すはずがない。
だが、それが素直には信じられないのだろう。感極まったように手を口元にやり、しゃがみ込んでしまう亜紀。その口からは微かにその相手を呼ぶ声が紡がれる。
「…………」
次の瞬間、彼女は同じ白い空間でも別の場所にいる自分に気がついていた。先ほどまでの場所は真っ白な四角い空間。だが、今の場所は違う。
微かに風が入ってくるのか白いカーテンの裾が揺れている。チクリと痛みを感じる腕には細い管が繋がれ、無機質な機械音がきこえてくる。消毒薬の臭いとパタパタという乾いた足音。
あ、ここは病院なんだ。でも、どうしてこんなところにいるんだろう。
そんなことを思う亜紀の頭の中にはハテナマークしか浮かんでこない。そんな彼女の耳に聞きなれた声が飛び込んできていた。
「亜紀ちゃん、気がついたんだ。よかった。心配したよ」
「お、お兄ちゃん……」
ギュッと手を握られる感覚に思わず顔をしかめる。そんな亜紀の頭をポンと叩きながら優しい笑顔を向けてくる相手。
この声が兄である拓実であるのは間違いない。だが、いつもニコニコと笑っている彼の声は不安に溢れている。そして、それを振り払うようにしっかりと彼女の手を握ってくる。
そのことが日常とは違うのだ、ということをはっきりと物語る。いや、こうやって病院のベッドに寝かされているあたりからして日常であるはずがない。
だが、そうなると亜紀の頭の中ではますます大きなハテナマークだけが生まれてくる。なにしろ、病院にいる理由というものに心当たりがないからだ。
怪我をした記憶はない。いや、制服のスカートが血で汚れたのは覚えている。だが、それは自分の血ではなかったはず。だとしたら、ここにいる理由などあるはずがない。
だというのに、自分はここで横になっている。そして、極度のシスコンでもある拓実が心配しきった表情でそばについている。これらの示すことは一つしかないだろう。
だが、体の隅々に意識を集中してみても怪我をしたという感覚はない。この場合、訊ねるべき相手は医師か看護師だろう。しかし、彼らがすぐにやってくる気配はない。
となると拓実に訊ねるしかない。もっとも、彼がちゃんと教えてくれるのだろうか。そんな一抹の不安を感じながらも、亜紀は問いかけの言葉を口にすることしかできなかった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん、亜紀ちゃん、どうかした?」
「ここって、病院よね? 私、どうしてここにいるの? 別に怪我とかしてないと思うんだけど」
不安な調子で問いかけられる声。それにフッと微笑を浮かべた拓実は彼女の頭を軽くポンポンと叩いている。その仕草に子供扱いをされたと感じたのだろう。思わず頬を膨らませる亜紀に対して、拓実は心配した色を隠すことなく話しかけていた。
「うん。たしかに亜紀ちゃんは怪我をしてないよ。でも、体は大丈夫でも心がそうじゃなかったから」
「訳が分からない」
「そう? でも、雅弥から亜紀ちゃんが倒れたって聞いた時は、心臓が止まったかと思ったよ。おまけになかなか目を覚まさないんだよ。だから、亜紀ちゃんが気がついて本当によかった」
そう言いながら拓実は亜紀の髪の気をグシャリとかき乱す。そのことに抗議の言葉を発したい亜紀だが、心配をかけたという思いもあるのだろう。しょぼんと下を向いてしまっている。そんな彼女の様子に、拓実はすっかり慌てたようになってしまっていた。
「あ、亜紀ちゃん。だからって、君のこと責めてるわけじゃないからね。だから、そんな顔しないでよ。僕は亜紀ちゃんが笑ってる顔が一番好きなんだから」
「お兄ちゃん……」
「そ、そうだ。何か食べる? 別に怪我したりしたわけじゃないから、何を食べても大丈夫だろうし。あ、リンゴがあるね。剥いてあげるから」
「い、今はいい……それより、お兄ちゃんお仕事中だったんじゃないの?」
「大丈夫だよ。こういう時くらいそばにいさせて。それより、もうちょっと眠った方がいいみたいだね。まだ、顔色がよくない」
そう言いながら拓実は亜紀に布団をかけてくる。そんな彼の様子を見ながら、亜紀は自由に動かせる方の手をそっと彼の方に伸ばしていた。
「ねえ、お兄ちゃん。手を握っていてくれる?」
「どうして?」
「うん……なんだか、怖い夢みちゃったの。でも、お兄ちゃんが手を握ってくれてたら大丈夫かなって」
亜紀のその声に拓実はニッコリと笑顔を向けてくる。そのまま、ギュッと彼女の手を握った彼は、また頭をポンポンと叩いていた。
「亜紀ちゃんは甘えん坊なんだね。でも、それだけ僕のこと信用してくれてるんだ」
「当り前じゃない。お兄ちゃんだもの」
「そうだね。じゃあ、お兄ちゃんは妹が眠るまでそばにいてあげよう。怖いことなんてないから、安心して眠ってね」
拓実のその言葉に、亜紀は安心したように目を閉じる。そのまま深い眠りについた彼女を優しく見守る拓実。その時、遠慮がちに病室の扉を叩く音が聞こえてきていた。
その音に、拓実は不思議そうな表情を浮かべている。なにしろ、今は午後の面会時間が始まってすぐなのだ。
こんな時間に医師が来るはずがない。看護師ならば遠慮せずに開けるだろう。そして、亜紀がこうやって病院にいるということは完全に隠し通せているはず。ならば、見舞客が来るということも考えられない。
病室を間違ったのではないだろうか。そんな思いを抱く拓実を笑うかのように、また扉を叩く音が響く。それも今度の音は先ほどよりもしっかりしている。そのとこに気がついた拓実はゆっくりと扉に近付いていった。
「一体、誰なんだろう。亜紀ちゃんがここにいるのを知ってるのは学校のメンバーだけだと思うのに……彼らが見舞いに来る可能性はあるけど、この時間だとまだ授業中のはずだし……」
そう呟きながら、拓実は病室の扉を開けている。そこに立っていた相手のハニーブロンドの髪を認めた瞬間、彼の表情は一気に険しいものになっていた。そのまま、彼の心情を暴露するような冷たい声が相手にぶつけられる。
「病室、間違ってるんじゃないの? 君がここに来る理由ってないよね。隣ならわかるんだけど」
そう告げながら、拓実は相手を威嚇するように睨みつけるのも忘れてはいない。その視線にやってきた相手が息をのむ気配がする。しかし、拓実が手を緩めるつもりは毛頭ない。彼はますます厳しい口調で言葉を続けていく。
「グラントさん、だったっけ? 僕にすれば、君の顔って見たくないんだよ。そうでしょう? あんなことしでかしてくれた人、そちらの関係者だっていうじゃない。よく、ここに来れたよね」
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