〔5〕
だからこそ、彼女はこの場を離れたくない。そう思い、惟の言葉を頑強に拒んでいる。そんな二人の押し問答を見ていた千影の様子が変わっていく。
彼女が持っていたバッグの中から何かを取りだす。それが光を浴びて銀色に輝いている。そのことに気がついた亜紀は、本能的に身の危険を感じていた。
この場は逃げないといけない。頭ではそう思うのだが、足が地面に縫い付けられたように動かない。そんな彼女に向かって、千影は真っ直ぐに突っ込んできていた。
「あなたがいけないの! あなたみたいな子供が邪魔するなんて許せないの! どうして、私の邪魔をするのよ! あなたなんて、いなければいいのよ!」
バサリとバッグが落ちる。その場を通りかかった生徒の悲鳴が聞こえる。そして、亜紀の目には千影の姿がスローモーションのようにゆっくりと入ってくる。
彼女の手にあるものが何なのか、今でははっきりと分かる。だというのに、体は麻痺したように動かない。刺されるんだ。そう思い、諦めたように目を閉じた彼女は痛みが襲う瞬間をただ待つことしかできなかった。
だが、いつまでたっても恐れている痛みはやってこない。ただ、誰かにしっかりと抱きしめられているという感覚。それと同時に「亜紀、大丈夫?」という惟の掠れた声が飛び込んでくる。
そのまま、体重がかけられていると思った亜紀は、堪え切れずに地面に座り込む。その時、あたりには女子生徒の金切り声で埋め尽くされる。
何があったのかと恐る恐る目を開ける亜紀の前には顔をゆがめた惟がいる。まるで訳の分からない彼女の手に生温かいものが流れてきていた。
「ど、どうしたの? 何があったの?」
「亜紀、怪我していないよね?」
「う、うん……私、刺されたんじゃないの?」
「そんなこと、させるはずないでしょう。亜紀が無事でよかった……」
そう告げる惟の声がだんだんと小さくなっていく。そのことに驚いた亜紀は、彼の体に手を伸ばす。その時、指先に触れるぬめっとした感覚。思わずそこに目をやった彼女は思わず悲鳴を上げることしかできなかった。
「惟! 惟! どうしての? 怪我してるんじゃないの?」
今の彼女は地面にペタリと座り込み、惟にのしかかられた状態になっている。この状況の訳が分からない彼女は手探りであたりの状況を知ろうとする。その時、手に冷たいものが当たる感じがする。それを確かめようとグッと力を入れた瞬間、彼女を止める声が響いていた。
「お嬢様、それに触ってはいけません! 今は何もせずにこのままでいてください!」
「竹原……どうして? どうしてなの?」
どうして、ここに雅弥がいるのだろう。この頃、放課後は彼の迎えが当然になっていたにも関わらず、そんなことを亜紀は思っている。それだけ、今の状況に頭がついていっていないのだろう。
そんな中、彼女はもたれてくる惟の息がだんだんと荒くなってきていることに気がついている。そして、彼女の着ている制服の白いスカートが真っ赤になっている。
これの意味することが分かった時、今度は彼女が周囲の誰よりも大きな悲鳴を上げていた。
「惟! しっかりして! しっかりしてよ! 誰がこんなことしたのよ!」
誰がと亜紀は口にするが、これをしでかしたのが誰なのかは分かっている。先ほど、自分に刃物を向けてきた相手。その相手がやったことに間違いないのだ。
そう思う亜紀は、周囲にその人物がいるのではないかと視線を巡らす。すると、彼女が座り込んでいるちょっと先に真っ青になってガタガタと震えている女性がいる。
あれが間違いなく先ほどの相手だ。そう思い、相手を睨みつける亜紀。そんな彼女に毒を含んだ声が投げつけられる。
「どうしてよ! どうして、あなたなんかをかばうのよ。私、惟様を傷つけるつもりなんてなかったのに! あなたみたいな子供がそばにいる方がおかしいのよ。私に返してよ! あなたよりも私の方が惟様には相応しいの。あなたなんて守られてるだけの子供じゃない。今だって、そうじゃない。私に彼を返してよ!」
亜紀を刺そうと思っていたのに、彼女をかばった惟を刺してしまった。そのことで千影の精神状態はおかしくなっているのだろう。錯乱状態で亜紀に飛びかかってこようとする。そんな彼女を情け容赦なく取り押さえる雅弥。そのまま、彼は千影に対して怒鳴り声を上げている。
「何を馬鹿なことを言っている! 山県様がお嬢様のことをどれくらい長く思っていたのか知らないのか? 10年だぞ。10年以上、お嬢様のことだけを思ってこられた方が、他の女に目をくれるとでも思っていたのか」
「そんなこと信じられない! だって、だって……」
「好きなように思っていればいいだろう。とにかく、詳しい話は警察でするんだな。間違いなく傷害罪は適応されるだろう。それ以上の罪にならないことを祈っておくんだな」
そう言い切った雅弥は慌ててやってきた学園の警備員に千影を突き出している。そのまま彼はゆっくりと亜紀のそばへと近寄っていく。
だが、今の彼女は惟の様子を心配する気持ちの方が強いのだろう。雅弥の姿も目に入っていない。なにしろ、だんだんと惟の体から力が抜けていくのが分かるからだ。
このままだと彼を失ってしまうのではないか。そんな恐怖から亜紀は必死になって彼のことを呼び続けるだけ。
「惟、惟。しっかりして。返事をして。ねえ、私のこと一人にしないんでしょう? 約束したじゃない。二度と私のこと一人にしないって。ねえ、約束、守ってよ。惟、約束したわよ!」
懸命に惟を呼ぶ亜紀の声に、彼が応える気配はない。ただ、彼女にもたれる体がぐったりとなっているだけ。そのことが亜紀には恐怖でしかない。だからこそ、彼女は悲鳴のような声を上げるだけ。
その声は下校途中の生徒たちの足を止めさせるには十分なもの。だが、彼女がそのことに気がついているはずもない。これが現実だと思いたくない亜紀は涙をポロポロ流しながら叫ぶだけ。
「惟! 惟! 返事してよ! お願いだから、返事してよ!」
半狂乱になりながら叫ぶことしか亜紀はできない。そんな彼女を後ろからそっと抱きしめてくる雅弥。そのまま彼は彼女を安心させるようにゆっくりと言葉を紡いでいく。
「お嬢様、山県様は大丈夫です。傷は深いようにお見受けしますが、急所は外れています。ですから、そんなに悲しまれないで。すぐに救急車が到着します。それまでの間、辛抱してください」
しかし、そんな雅弥の声が亜紀の耳に入っている気配はない。今の彼女はなんとかして惟の声を聞きたいというように必死になって叫ぶことしかできない。
「嘘よ。そんなの気休めよ。こんなに血が出てるのに。どうして、そんなこと言えるのよ。ねえ、惟、返事してよ。もう一度、私の名前、呼んでちょうだい!」
惟の体を揺さぶるようにして亜紀は叫び続ける。その時、けたたましい音を立てて救急車が到着する。彼らはテキパキと動くと惟に刺さっていた刃物を抜くと止血作業に入っている。
だが、その作業中に痙攣したように惟の体が跳ね上がる。それを目にした瞬間、亜紀が狂ったように叫ぶのを止めることができない。
「惟! 惟! おいていかないでよ。私を一人にしないでよ!」
「お嬢様! 落ちついてください。山県様は大丈夫です。今からきちんと手当をするんです。ですから、落ちついてください!」
そんな雅弥の言葉も耳に入っていないのだろう。亜紀はここが学校の敷地内だということも忘れたように泣き叫ぶだけ。そんな中、惟が救急車の中に運ばれていく。それに同乗しようと動き始めた亜紀。だが、次の瞬間、彼女自身も完全に意識を手放してしまっているのだった。
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