〔3〕
慎一のそんな声に、惟は返事をしようとはしない。ただ、紅茶のカップに口をつけているだけ。そこからは、先ほどまでの不機嫌な様子はうかがうことができない。それを見た慎一は安心したように声をかける。
「その顔なら大丈夫だね。あ、帰ってきたみたいだ。ここにすぐ来るように言っているから制服のままだけど、気にしないよね?」
「慎一さん、制服って学生の正装ですよ。気にするはずがないでしょう。それに、僕としてはちょっとでも早く会いたいですし」
「ずいぶんと乗り気になっていてくれているようだね。そういう点では本当に感謝するよ」
先ほどまでのどこか居心地の悪い空気はあとかたもなくなっている。そうやって穏やかに二人が話している時、邸内にざわついた空気が流れ始めていた。
玄関の扉が開く音と「お帰りなさいませ」というメイドたちの声。それに軽く応える気配と一緒に聞こえるのは廊下を急いで走っている足音。それが慎一たちのいる部屋の前で消えるとノックの音が響き、扉が大きく開かれていた。
「お父さん、ただいま」
「お帰り、亜紀。今日は無理を言ったね」
「ううん、いいの。特に約束もしていなかったし。それより、何か用があるの?」
そう言いながら、亜紀はコクリと首を傾げている。その彼女に慎一は穏やかな表情で話しかけていた。
「ああ、今日は亜紀に紹介したい人がいてね。ちょっと、後ろを向いてごらん」
そう言いながら、慎一は亜紀の体をぐるりと回している。その先にいたのは柔らかい笑みを浮かべて座っている惟。
その場に慎一以外の相手がいることもだが、バタバタと慌ただしく入ったことに羞恥心も感じたのだろう。亜紀は顔を真っ赤にすると、惟の顔を見ることもできず、俯いてしまっている。そんな彼女の頭を軽くポンと叩いた慎一は、改めて惟に向かっていた。
「惟君、この子が亜紀だよ。今は白綾学園高等部の1年生だ。そして、亜紀が16歳になった時に、正式に一條家の養子として迎えることが決まっている」
そう告げた慎一は、今度は亜紀と視線を合わせて、話を続けている。
「亜紀、彼は山県惟。今までヨーロッパにいたんだが、最近、帰って来たんだよ。彼の母親がわたしの従妹になるから、親戚だと思ってくれれば間違いないね」
慎一のそんな声に、亜紀はゆっくりと頭を上げている。そんな彼女に惟は「亜紀ちゃんでいい?」とニッコリと笑いながら問いかける。その笑顔に亜紀はドギマギしたように「は、はい……」と応えることしかできない。そんな彼女に、慎一はとんでもないことを口にする。
「亜紀。惟君はお前の婚約者だ。そのつもりでいてくれるね」
「お、お父さん! 今、なんて言ったの!?」
慎一の言葉が理解できた瞬間、亜紀はそう叫ぶことしかできない。まさか、そのような話をされるとは思ってもいなかったのだ。
何が起こっているのか分からない彼女ができることは、叫び声を上げることだけ。だが、そんな彼女を慎一は平然とした顔で宥めている。
「驚くことはないだろう。お前も一條家の人間だ。こういう相手がいるということは分かっていると思っていたが?」
「お父さん、それって私の今までの常識からは考えられないの。どうして、急にそんな話になるのよ。それに、どう考えたって惟さんに失礼じゃない」
「そうかい?」
「そうよ。だって、私、まだ高校生よ。で、惟さんはどうみたって、お兄ちゃんと同じか年上でしょう? それなのに、私みたいな子供が婚約者だなんて、迷惑に決まってる!」
婚約者だと言われた瞬間はたしかに驚いた。だが、一気に冷静さを取り戻した亜紀はそう食ってかかっている。たしかに、惟はイケメンに分類されるほどの容姿の持ち主。恋に恋する女子高生の亜紀が憧れないはずがない。だが、と彼女は現実を見ている。
惟は亜紀にすればこの場で初めて紹介された相手。それなのに、婚約者だという。こんなことが受け入れられるはずがない。
そう思う亜紀は、なんとかしてこの事態から逃げようと頭をフルに回転させている。だが、事情も何も分からない今の彼女が逃げ道をみつけられるはずもない。結局、彼女は思いっきり不満です、という表情を浮かべて、慎一を睨むことしかできない。
「亜紀、そんな顔をして、何か不満でもあるのかい?」
「不満っていうより、訳が分からない。どうして、初めて会った人なのに婚約者だって紹介されるわけ?」
今の亜紀は完全に腹を立ててしまっている。そのせいだろう。一條家にきてから叩きこまれたはずの礼儀作法など、完全にどこかへすっ飛んでしまっている。もっとも、そのことを慎一が気にする様子も見せないため、亜紀は安心したように思ったことを口に出していた。
「お父さん、前も思ったけど、なんでも勝手に決めちゃうのは止めて。私にだって感情があるんだもの。こんな大事なこと、勝手に決められて『はい、そうですか』って言えるほど、私は人間ができてないの」
「亜紀のその気持ちは分からないでもない。でも、これは決まったことだしね」
「だから、それが嫌だって言ってるの。どうして、なんでもかんでも勝手に決めてしまうのよ。高校入試の時だってそうだったわ。勝手に願書を送ってきて、受験しないといけないようにしてきたのよね。挙句の果てには、手続きまで勝手にしちゃったんじゃない。私、本当は友だちと同じ上洛に行きたかったのに!」
今の亜紀は完全に感情的になっているのだろう。普段であれば口にしないような言葉がポンポンと飛び出してくる。そんな彼女の姿に、驚いたような顔をする慎一。
もっとも、今の彼女に何か言っても、まともな返事があるとも思っていない。こうなったら、好きなだけ言わせておいた方がスッキリする。そう判断した彼は、亜紀の興奮がおさまるのを待つことにしたようだった。
そして、その場にいる惟もどこか複雑な表情になっている。なにしろ、彼は亜紀から婚約を拒否されたも同然だからだ。もっとも、そんな状態になってはいても彼が声を荒げる様子はない。彼もまた、亜紀の感情が落ちつくのを待っているようにみえる。
男二人のそんな気配を察したのだろう。そして、子供のように感情的になって叫んだことに対する恥ずかしさも感じ始めたのは間違いない。だからだろう。亜紀はそれまで以上に顔を赤くすると、体を丸めるように小さくなっている。そんな彼女に惟が柔らかい声をかけていた。
「亜紀ちゃんにすれば、この婚約って不本意なのかな?」
「不本意っていうより、驚いてます。それと、惟さんに迷惑だなって」
「どうして? 僕はそんなこと思ってないよ」
惟の言葉に、亜紀はキョトンとした顔をすることしかできない。そんな彼女に、彼は極上としかいいようのない笑顔で応えている。
「亜紀ちゃんにすれば、『婚約』っていう言葉で拒否感が出ているのは分かるよ。だから、そういう恋愛感情が絡むことではなく、お互いをパートナーとする契約だと思ったら?」
「それでも……無理です……」
「そんなことはないよ。そういう風に考えれば、お互いに間違いなくメリットはあるんだから」
惟の言葉の意味が亜紀にはどうしても分からない。今の彼女は不思議そうな表情で「どうしてですか?」と問いかけるだけ。そんな彼女に、惟はニッコリと笑いながら話しかける。
「亜紀ちゃんが一緒にいてくれれば、僕としては本当に助かるから。そして、君もパートナーが決まっている方が変に騒がれなくてすむはずだよ」
「その意味が分からないんですけど」
「慎一さん、亜紀ちゃんに何も教えてなかったんですか? 一條っていう家の名前は半端ないんですし、その名前に群がる連中が山ほどいるってこと、知ってるんでしょう?」
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