〔1〕
時間は少々、遡る。そう、惟とアンジーが別行動をとることになった原因。亜紀を迎えに行こうと動き始めた惟を千影が引きとめた。ちょうど、その時点。
いつものように恋しい相手に会いに行ける。そう思っていた惟にかけられた千影の声。普段ならそのようなことをする彼女ではない。だというのに、どうして今日に限って、この時間に声をかけてくるのか。
今の惟の思いは間違いなくそれだろう。そして、いつにもまして彼女がしつこく声をかけてくる。このままでは亜紀を迎えに行く時間に遅れてしまう。そう思った惟は、アンジーが『迎えに行こうか』と言ってくれたことに安心したように頷いていた。
もっとも、この行動を後から彼は思いっきり悔やむことになるのだが、今はそう思ってはいない。これで大丈夫だと安心した惟は、どこか渋い表情を浮かべて、千影に向き直っていた。
「南原、君だけで処理できないような案件があった?」
「は、はい……ご予定がおありだったのに引き留めて、申し訳ありません」
「そう思っているのなら、簡潔にして。僕も用事があるんだよ?」
このところの千影の態度が腑に落ちない。そう思っている惟の声はどこか厳しい。そんな彼の声に体を小さくしながら、千影は言い訳の言葉を口にしていた。
「お手数をおかけして申し訳ありません。でも、やはり惟様の判断を仰いだ方がよろしいかと思いまして」
「そう? 一応、僕としては君のことを信頼しているんだよ。君の裁量に任せて失敗したことはなかったと思ってるし」
惟のその声に、千影の頬が微かに赤く染まっていく。その彼女が差し出してくる書類。それに目を通した惟は、どこか不機嫌そうな表情になっていた。
「ねえ、南原。これくらいのこと、君の裁量でやってもらっても問題ないんだよ。そうじゃない? たしか、今まではこのクラスのことは全部、君がやってくれていたはずだよ」
「た、たしかにそうですが……」
惟の指摘に千影はうろたえたような様子になっていく。そんな彼女を置いて、彼はサッサと歩き始めている。
「たしかに、僕がタッチしないといけない部分もある。それは認めるよ。でも、何から何まで僕の意見を求めるのは筋違いだろう。君たちに任せる部分は任せている。だったら、どうしても無理な時だけ、声をかけてくれればいいんじゃないのかな? 僕の言っていること、間違ってる?」
いつもの彼であれば、ここまでのことは言わないだろう。だが、今日は違う。なにしろ、いつものように亜紀を迎えに行こうとしていたのを邪魔されたのだ。
放課後に彼女を迎えに行き、そのまま一緒に時間を過ごす。あまり長い時間を割くことはできないが、それでも惟にとっては亜紀と一緒に過ごす大切な時間。
それを十分に部下でも処理できるような案件で潰された。そんな思いを消すことのできない惟は、千影に対して冷たい声をかけることしかできない。
「南原。僕は君のことを見損なっていたのかな? 君はある程度以上に能力もあるし、きちんと仕事ができると思っていたんだけどね」
「惟様……」
惟の言葉に、千影はどう返事をすればいいのか分からない。そんな彼女に冷ややかな視線を向けた惟は、その場から離れようとしている。そんな彼の腕をグッと掴んだ千影は、必死になって言葉を紡いでいた。
「惟様、待ってください。私、あなたのことが好きなんです!」
その言葉に、惟の表情が一気に険しくなる。腕を掴まえている千影の手を無理に離した彼は、返事もせずにその場を立ち去る。そんな彼の後を千影は必死になって追いかける。
「惟様、分かってください。私、前からずっとあなたのこと……」
「それが何?」
二人はいつの間にか駐車場にまで来ていたのだろう。これ以上、彼女に付き合うつもりのない惟は、車の扉に手をかけると、冷たく言い放っている。そんな彼に、すがりつくような千影の声がぶつけられる。
「惟様! 私、初めて会った時からあなたのことが好きでした。あなたも同じ気持ちだと思っていました。それなのに、どうしてあんな子供と婚約なさったんです? 断れなかったんですか?」
千影の言葉は、惟の感情を逆なでするのに十分なもの。それまで彼女にみせたことのないような冷ややかな視線が浴びせられる。
そのことから、彼女は自分が地雷を踏んだのだということに気がつくが、もう遅い。口から発せられた言葉はなかったことにすることはできない。
なにしろ、これは千影の本心。そうである以上、彼女が撤回するはずがない。このことは、彼女の顔を見れば簡単に分かる。だからだろう。惟はどこか冷酷ともいえそうな表情を彼女にみせる。
「南原。僕がいつ、君のことを好きだと言った? 信頼しているという言葉は何度も言ったと思うよ。でも、君に恋愛感情を持っているということを言ったつもり、ないんだけどね」
「嘘です! だって、惟様はいつだって、私のこと優しく見てくださったじゃないですか!」
「それがどうしたの。別にだからといって、好きだというわけじゃないでしょう。君の言い方だと、ペットを優しく見ても恋愛感情を持っているという風に思われちゃうのかな?」
これは、惟なりの最終通告。これ以上の話は無駄、というように彼は車に乗り込んでいる。その後を無理矢理に追い、同じように座る千影。
「南原、勝手なことするんじゃない!」
「いいえ。惟様のお気持ち、ちゃんと聞かせてもらえるまで、私は降りません」
キッと惟を睨み、千影はそう叫んでいる。この状態の彼女を車から引きずり降ろしても、結局は後をついてくるだろう。そう思った惟は、忌々しげに舌打ちをすると車を動かしている。
彼にすれば、少しでも早く亜紀に会いたいという気持ちの方が強いのだ。だからこそ、彼は彼女を乗せたまま、約束の場所に行こうとする。そのことがどのような結果を招くのかということも知らずに……
「南原、このまま座っているのかい? ま、別に僕は構わないけどね。もっとも、すぐに降りてもらわないと困るのも事実だけどね」
「……わかりました。先ほどは申し訳ありませんでした」
車に乗る前のやり取りが嘘のように、千影は落ちついた声で応えている。その視線が店の中のある一点で止り、ほくそ笑んでいることに惟は気がついていない。
今の彼は、ただ、亜紀に早く会いたいという思いだけで店内に飛び込んでいく。しかし、そこに求める相手の姿がない。それだけではない。彼女を迎えに行ったはずのアンジーの姿も見えない。
どうしたのだろうと首を傾げる彼の横に、千影が当然のように近寄ってくる。そんな彼女を振り払いたいと思う惟だが、今までの生活で叩きこまれたレディーファーストが邪魔をするのだろう。なかなか振りほどくことができない。
それは、先ほど千影に対して吐いた辛辣な言葉が関係しているのだろう。そのことに自嘲の笑みを浮かべている惟。そんな彼に助け船を出そうとしているのだろう。ラ・メールのマスターが声をかけてくる。
「山県様。一條様でしたら、少し興奮されているようでしたので、お連れの方と別の場所に移動なさいました」
「本当? でも、どうして亜紀が? 彼女が興奮するような理由ってあったの?」
今の惟は、亜紀がどのような光景をみていたのか知らない。だからこそ、首を傾げることしかできない。そんな彼に、マスターは静かに語り続けている。
「一條様は、山県様がそちらの方とご一緒のところをご覧になっておられます。どのように思われたのか、わたしが推察するのは失礼ですが、ひょっとするとご自分よりも相応しい方がいると思ってしまわれたのではないでしょうか」
惟が入ってくる前の亜紀の状態をマスターは知っている。だからこそ、推察と言いながらも確信をもった声で紡がれる言葉。それを耳にした惟は眉をひそめることしかできない。そんな彼の腕に絡みついてくる千影。その彼女を見たマスターの顔色が一気に変わっていく。
「また、あなたですか? 一條様に恨みでもあるのですか? たしか、あの方に品位がないというようなことをおっしゃっておられましたが、あなたの方こそではないですか? そのようにあからさまに男性の腕に絡みつくなど、夜の商売をなさっているんでしょうね」
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