〔5〕
「亜紀ちゃん……」
それは違う。惟が見ているのは亜紀だけだ。
そうハッキリと彼女に教えればいい。そうすれば、亜紀が先ほどの光景を不安に思うことはない。
簡単なことではないか。たった一言、『そうじゃない』と告げればいい。それなのに、この5文字がどうしてもアンジーの口からは出てこない。
これは、彼自身の心が揺れているからなのは間違いない。
このまま、亜紀が惟に対して不安を抱き続ける。そうすれば、彼女は自分を見てくれるのではないだろうか。いや、それどころか惟ではなく自分を選んでくれるのではないだろうか。そんな思いがアンジーの中で生まれ始めている。
今の彼女の精神状態は間違いなく不安定になっている。この状態の彼女を支えるのが惟の役目であるのは間違いない。だが、今のアンジーはその役目を奪いたいという思いに駆られている。
もし、自分が彼女のことを支えられたら。惟の行動を不安に思う彼女を安心させられることができれば。彼の中で少しずつ大きくなっていくそんな思い。だからなのだろうか。彼の口からは、それまで考えもしなかった言葉が飛び出してくる。
「亜紀ちゃん、そう思うなら惟のこと諦める?」
「グラントさん?」
「うん、きっと、その方がいいと思うよ。だって、今の亜紀ちゃんの顔、いつもとまるで違う。不安そうで泣きだしそうな顔。亜紀ちゃんにはそんな顔、似合わない。いつだって、亜紀ちゃんは笑っていた方がいい」
アンジーのその声に亜紀は思わず下を向いてしまっている。そんな彼女の顎をグイッと持ち上げたアンジーは彼女の目をじっとみつめている。
「亜紀ちゃん、真剣に考えてみて。本当に今のままでいいの? 今のままで惟と幸せになれると思ってるの?」
アンジーの問いかけの声は鋭く、亜紀の心を確実にえぐっていく。今の彼女の脳裏に浮かんでいるのが、先ほどの惟の姿であることは間違いない。
どうして、彼が他の女性といたのを見て胸が痛くなったのか。
あの時、あの場から逃げ出したくなったのはどうしてなのか。
亜紀はこの感情が嫉妬だということに気がついていない。彼女は、彼が自分以外の女性に手を伸ばし、一緒にいたことにモヤモヤしたものを感じているだけ。
もっとも、あのまま彼と顔を合わせれば間違いなくそのことを非難しただろう。そして、それを告げた時の彼の反応が怖い。だからこそ、その場から逃げ出した。
そのことに軽い罪悪感も覚えているのだろう。今の彼女の心は千路に乱れているといってもいい。
そんな時、アンジーから囁かれた言葉。それは間違いなく彼女の心の中に広がっていく。
「グラントさん……」
それでも、彼の言葉に頷くことはできない。そう思う彼女は力のない声で彼の名前を呼ぶだけ。そんな彼女の口に温かいものが触れてくる。その意味するものは一つしかないだろう。
今、アンジーにキスされた。
そのことを悟った亜紀は目を見開くことしかできない。そんな彼女をギュッと抱きしめたアンジーはどこか切なげな声で彼女に訴えかける。
「亜紀、愛している。だから、僕を見て。惟じゃなくて、僕を見て」
囁きかけられる声は熱っぽくどこか掠れたような感じ。こんな感じの声は前にも聞いたことがある。そう思った亜紀は、絶対にこの声に耳を傾けてはいけないのだと思っている。
このままでは飲まれる。アンジーの感情に間違いなく飲み込まれる。
そう思う彼女はギュッと目をつぶり、彼の感情を受け入れないように身を固くする。そんな亜紀の体をますます強く抱きしめるアンジー。そして、囁かれる声はますます熱を帯びてくる。
「亜紀、愛している。君のこと、愛している。だから、僕を見て。僕なら、絶対に君を泣かせたりしないから。君にそんな顔させないから。だから……」
「グラントさん……私……」
今の亜紀はどう応えていいのか分からなくなっている。持っていたカップが床に落ち、ガシャンという音を立てるがそれすらも耳に入っていない。思ってもいなかった相手からの告白に、亜紀は頭が真っ白になってしまっている。
「グラントさん……私、私……」
今の亜紀はそう言うことしかできないのだろう。アンジーがぶつけてくる思いは予想外。それが正直な気持ちなのだろう。彼の顔を見て、口をパクパクさせることしかできない。そんな彼女に囁き続けられる声は情熱的で、今にも流されてしまいそうになる。
「アンジーって呼んで。亜紀にはそう呼んでほしい。お願いだから、そう呼んで」
囁きかけられる声には含まれているのは熱情だけではない。どこか苦しげな色も微かに含まれている。そのことに気がついた亜紀は、思わず「アンジー」と呼びかけることしかできない。その声と同時に、体が沈み込む。
何があったのかと思う彼女の唇に重ねられる熱いアンジーのそれ。まさかと思う事態に逃げようともがく彼女だが、おさえこまれた状態で逃げることができるはずもない。
何度も繰り返される口づけはだんだんと激しくなり、息継ぎすら許さないほどのものになっていく。そのことに生理的な苦しさからか涙を浮かべ、拒絶の色をみせる亜紀だがアンジーがやめる気配はない。それでも、自由になろうと必死になって彼の腕を叩く亜紀。だが、それが通じることもないのだろう。
ようやく、彼が離れた時には亜紀の息はすっかり上がり、顔は真っ赤になってしまっていた。そんな彼女の耳元で囁き続けられる声。
「愛しているよ。誰よりも愛している。だから、僕を選んで。絶対に泣かせない。惟よりも誰よりも、君のことを幸せにするから」
「アンジー、そんなこと言われても……だって、私、惟のこと……」
「その名前は言わないで。今は僕だけを見て」
亜紀が惟の名前を口にしたとたん、先ほどよりも激しい勢いで唇がふさがれる。そのまま、首筋から鎖骨へと口づけの雨は移動していく。そんな中、首筋に感じるチリっとした痛み。この痛みが何を意味するのか。それが分かった亜紀は思わず悲鳴のような声を上げている。
「嫌ぁッ! 離して、離してよ!」
「ダメ。離さない。愛しているって言ってるでしょう? 僕のこと、受け入れて」
「嫌ぁッ! 惟、助けて!」
何とか自由になりたい亜紀は身をよじりながらそう叫ぶだけ。いつの間にか涙がポロポロこぼれてくるのにも気がついていないのだろう。今の彼女は必死になって惟に助けを呼ぶことしかできない。そんな彼女を逃がすまいというように、アンジーはのしかかる力をさらに強くする。
「惟を呼んでも来ないよ。それに、ここは僕の絶対領域だから。僕が許可しない限り、たとえ惟でも入ってくることはできない。だから、諦めて。無理矢理はしたくないんだよ。でも、気が変わった。亜紀を抱かせて」
熱っぽいその声に、どこか狂おしいものも混じってきている。そのことに気がついた亜紀が今まで以上に暴れ、自由になろうともがく。
だが、男女の力の差は否めない。彼女は逃げることもできず、アンジーが何箇所も痕をつけることをやめさせることもできない。そんな時、室内の空気を破るように響く電話の音。
その音に彼の力がフッと抜けていく。なんとかして自由になろうとしていた亜紀がその瞬間を見逃すはずがない。これを逃したらいけない。そう思っている彼女は必死になってアンジーの腕から逃れると、そのまま一気に部屋の外に飛び出すことしかできなかった。
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