〔1〕
その日の夜、千影は行きつけのレストラン・バーであるリヴィードに足を運んでいた。
昼間、電話をした相手が来てくれているだろうか。これは、彼女にとっては一つの賭けであるともいえる。
相手が来てくれていれば問題ない。なんとかして、その相手を味方につけ、自分の想いを叶えるのだ。今の千影にはそんな思いしかない。
もっとも、『来る』という約束はもらっているが、それがキャンセルされたらどうしよう。そんな不安が微かにではあるが生まれている。
しかし、今さら引き返すことはできない。来ていなければ、どうして約束を破ったのだと相手に文句を言うことができる。その流れで協力させるというのも選択肢の一つだろう。そんなことを考えながら、千影はゆっくりとリヴィードの中へ入っていった。
レストランとバーを兼ねているせいか、店内の照明はどこか薄暗い。そのため、なかなか見渡すことができないが、少し経てば目も慣れてくる。そんな彼女の視界に映る人影。ということは、約束を守ってくれたんだ。そのことに安心した千影は、相手のそばに近寄っていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「本当だよね。よっぽど帰ろうと思ったんだよ。でも、千影さんのあの声を聞いたらほっておけないって思ったんだよね」
「ありがとうございます、アンジー様。そして、昼間は見苦しいところをお見せいたしました」
そう。千影が呼びだした相手は、ファエロアのメイン・デザイナーでもあるアンジー。彼の前の椅子に腰かけながら、千影はゆっくりと口を開いていた。
「突然で申し訳ありません。実は……私、アンジー様に助けていただきたいと思いまして」
「僕にできること? だったら、いくらでも力になるよ。なにしろ、君は惟が信用している部下だし、僕も君のことは信頼している」
「ありがとうございます。でも、その惟様に嫌われたみたいで……私、どうしていいのか分からなくなってしまって……」
口ではそう言っていても、彼女は惟が不機嫌になった理由を分かっている。もっとも、それを彼女は認めたくない。なにしろ、その理由は彼女が彼の婚約者とトラブルになった、ということだからだ。
いや、たしかに亜紀には千影が一方的に喧嘩を売った。しかし、それは彼女にすれば当然のこと。これをトラブルと思われては困る。そんな思いが彼女の中には間違いなくある。
しかし、惟はそう思っていないのだろう。それは、突然やってきた竹原という相手が口にした『お嬢様とトラブルになった』という言葉を惟が信じたことからも簡単に分かる。
もっとも、それを千影が認めるはずもない。なにしろ、彼女は惟に婚約者がいるという事実さえ認めたくないのだ。だが、表面上はそのようなことを思っているとはおくびにも出そうとはしない。それどころか、彼女は上司の機嫌を損ねたことだけを不安がる様子を見せている。
その彼女の言葉の半分が真実だったせいだろう。アンジーはすっかり心配した様子で千影の顔を覗き込んでいる。その彼に、彼女は頼みこむような色を向けていた。
「このようなこと、アンジー様にお願いするのはいけないと分かっているんです。でも、お願いです。私と惟様を二人で会わせていただけませんか?」
千影のその言葉に、アンジーは思わず嫌そうな顔をしている。まさか彼女がこのようなことを言いだすとは思ってもいなかったのだ。
それでも、心のどこかにはそんな予感もあったのだろうか。嫌そうに見える表情に別の物も混じっているようにみえる。
そして、それを見逃す千影ではない。彼女はグイッと身を乗り出してアンジーに囁きかけている。
「アンジー様。私だって、このようなことをお願いするのが非常識だということはよく分かっていますわ」
「それなら、どうして……」
「どうしてもです。私、このまま惟様に嫌われてしまうのは嫌なんです。だから、ちゃんとお目にかかってお話したい」
「だったら、それは仕事中でもできるんじゃないの? わざわざ惟と二人っきりで会う必要はないでしょう。そんなことが知れたら、惟や千影さんの評判が悪くなるんじゃない?」
惟に亜紀という婚約者がいる。このことは知らぬ者の方が少ないだろう。なにしろ、週刊誌にデカデカと書きたてられたのだ。
そして、それだけではない。亜紀は一條という家の名を背負っている。この名前の力は半端なものではない。間違いなく、世界各国の社交界でも知られている名前。そして、山県という名前もそれなりに上流社会では通っている。そんな二人が婚約したのだ。
噂好きの上流階級の面々にすれば、これは格好の話題のタネ。そして、その相手が婚約者以外の女性と二人っきりで会う。そのことを彼らがどのように思うのかなど考えるまでもない。
上流階級の人々が向ける、悪意の混じった好奇心丸出しの声。それに晒されるのは間違いない。
だが、どうしてそのことを気に病むのだろう。ふとそんなことをアンジーは思った。
この場合、一番の非難を浴びるのは間違いなく惟だろう。亜紀というある意味で完璧ともいえる配偶者を手に入れられるにも関わらず、別の女性と会った。このことを彼らが面白おかしく話さないはずがない。
もっとも、そんなことを惟が気にするはずがないということをアンジーはよく知っている。彼を動揺させることができる相手など、亜紀一人だけだろう。そのことも彼はよく知っている。
それならば、何も気にすることはない。それなのに、どうして千影の言葉に不快感を覚えるのだろう。そんな思いだけがアンジーの中では大きくなっていく。
そして、その揺らぎは表情に出ているのだろう。千影が彼の耳元に口を寄せ、囁きかけてくる。
「アンジー様、何か悩んでいらっしゃいますの? 私と惟様が会えるようにしてはくださいませんか? その方が、アンジー様にも都合がよろしいのではございませんか?」
「ど、どうして?」
千影の言葉に動揺してしまった彼の声が震えている。その声を耳にした千影は口角を上げ、確信を持った声で囁き続けている。
「アンジー様はあの女の子のことを気になさっているのでしょう? 私は誰にも気がつかれないようにしますわ。ですから、アンジー様があの子を引きとめてくだされば、何の問題もないと思いますけれども?」
「それって、僕に亜紀ちゃんを何とかしろって言っているわけ?」
いつものアンジーからは考えられない低い声がその場に響く。しかし、その声を千影はあっさりと無視するように言葉を紡ぐ。
「どうなんでしょう? 私にはアンジー様がどのように思っていらっしゃるか分かりませんもの。ただ、私はお願いしているだけです。それより、お食事にしましょう。ここのお料理って美味しいんですよ」
千影のその声にアンジーはどう対応していいのか分からなくなっている。
先ほどまでは間違いなく彼に『惟との仲を取り持ってくれ』というような雰囲気だった。だというのに、今はまるで違う。今日は食事に誘ったのだから、一緒に楽しもう。そんな雰囲気が全身から感じられる。
しかし、その直前に彼女が放った言葉。それはゆっくりと効果のある毒のように、アンジーの中を巡っていく。その言葉の甘い響きに耳を傾けてはいけない。そのことをよく知っているはずの彼だが、どうにもそれができそうにない。
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