〔1〕
ジリジリジリジリ――
爽やかな朝の空気を破るように、無機質な目覚ましの音が響く。それにゆっくりと手を伸ばした亜紀は、どこかスッキリしない頭をゆっくりと動かしていた。
「……あ、夢だったんだ……」
思わずそんな声が口から漏れる。そのことに自嘲気味な表情を浮かべた彼女は、ふっと部屋の鏡に目をやっていた。
そこに映っているのは、ちょっと目を腫らした姿。どうしてだろうと不思議に思う彼女の頬が濡れている。これはまたいつもの夢をみたな。そう思った彼女は大きくため息をつくことしかできなかった。
「どうして、あんな夢をみるんだろうな……」
そう呟いてみても、返事をしてくれる相手がこの場にいるわけではない。だが、彼女自身がどうしてこのような夢をみるのかが分からない。だからこそ、口をついて出る疑問。とはいえ、何度も繰り返し見ている夢だけに、内容ははっきりと覚えている。
泣きじゃくる彼女を慰めてくれているお兄さん。印象的ともいえるバラのアーチがそこにはある。彼女がそういう状況になった経緯はいまだに不明。しかし、ようやく場所がどこなのかということの疑問は解決した。しかし、いまだに相手が誰なのかが分からない。
このことをゆっくりと考えたいと思っているのは当然なのだが、今はそのようなことができない。なにしろ、もう少しすれば彼女の部屋の扉を叩く相手がいるからだ。そのことを知っている彼女は、なんとかして泣いたことを誤魔化そうと頭をひねっている。
しかし、これが無駄な努力だというのもいつものこと。その証拠に、今回も方策が見つかる前に、部屋の扉を叩く音が響いていた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか?」
穏やかな男性の声が聞こえたかと思うと、部屋の扉がガチャリと開く。そのことに慌てたような表情を浮かべた亜紀は、思わずベッドから飛び出そうとしていた。
「お嬢様、まだお時間はあります。朝のお茶をどうぞ」
そう言いながら差し出される紅茶は香りが高く、眠気を飛ばしてくれそうな気がする。とはいえ、今の自分の姿がどんなものか分かっている亜紀は顔を赤くすることしかできない。そんな彼女の反応が不思議なのか、入ってきた相手は軽く首を傾げていた。
「いつも言っておりますが、私のことはお気になさらないように。お嬢様がどのようなお姿でいらっしゃろうとも、取り乱したりなどいたしませんから」
「そ、そんなこと言われても、私は気になるの。お願いだから、着替えるまで入ってこないでよ」
亜紀の言葉に、部屋に入ってきた相手は困惑の色しか浮かべようとはしない。たしかに、一般常識で考えれば寝起きの女性の部屋、それもまだパジャマのままでいるところに入るのは不躾でしかない。だが、この相手―竹原雅弥―が着ているのは執事服と呼ばれる物。
つまり、彼にとっては仕えるべき相手の世話をするために入っている。そのことを咎められるはずがないではないか、と言いたげな表情。しかし、亜紀にとってこれは常識とはかけ離れた非常識でしかない。
「私の言うことをきいてくれるんでしょう? だったら、これはちゃんと守ってちょうだい」
そう言いながら、亜紀は差し出された紅茶を口にする。たしかに『着替えるまでは入ってくるな』と言っている。しかし、こうやって用意される紅茶を飲むのが楽しみになりつつある。
そのことに、どこか矛盾した思いを抱いている亜紀。とはいえ、これが美味なことは間違いない。先ほどまで怒っていたことも忘れたように、彼女は「美味しい」と呟いていた。それを耳にした雅弥の顔がほころんでいる。
「お嬢様のお気に召されたようでよかったです。それでは、そろそろご準備をなさいませんと」
「もう、そんな時間? ありがとう。じゃあ、部屋から出て行ってちょうだい。遅れないようにちゃんと着替えるから」
「いつも申しておりますが、私の仕事はお嬢様のお世話です。それなのに、そうやって拒否されると困ってしまうのですが」
「竹原さん、このことは私も譲れないの。いくらなんでも男の人の前で着替えるなんてこと、できないじゃない。わかったら、早く出て行って。時間がなくなっちゃう」
何があってもこれだけは拒絶しないといけない。そんな思いのある亜紀の言葉はどこかキツイものになっている。そんな彼女の姿に、雅弥はため息を一つつくと「かしこまりました」と応えることしかできない。そのまま、彼女の飲んだカップを片付けながら、彼は思い出したように口を開いている。
「それはそうと、お嬢様。本日の放課後はお約束をなさいませんように」
普段ならそのようなことを雅弥が口にすることはない。それなのに言われた言葉に、亜紀は「どうして?」と首を傾げるだけ。そんな彼女に穏やかな声が返ってくる。
「旦那様がお嬢様にお話があるとのことです。いつものお時間にお迎えにあがりますので、帰る準備をしてお待ちいただければと思います」
「わかったわ。そういうことなら約束はしないようにする。でも、話って何だろう。竹原さんは聞いてるの?」
ここで雅弥が旦那様といっているのは、この屋敷の主人である一條慎一のこと。彼は亜紀の伯父にあたる人物であり、近日中に養子縁組をすることも決まっている。
このあたりの事情をまだ納得していない亜紀だが、抵抗しても無駄だということも悟っている。そのせいもあるのだろう。彼女は慎一とその息子であり、従兄にあたる拓実のことを『お父さん』『お兄ちゃん』と呼んでいる。
この部分も慣れることのできないところなのだが、少しずつでも馴染んでいかなければならない。そう思っている亜紀は、クローゼットにかけている白綾学園の制服に手を伸ばしながら、ため息をついていた。
俗にセレブ校と呼ばれるそこに行くことになるとは、思ってもいなかった。しかし、今の彼女が生活している一條家というところが半端ない。そのことを少しずつであるが理解し始めている亜紀は、無理矢理でも納得するしかない。
そして、有名デザイナーが手掛けたという、膝を隠す白いVネックのジャンパースカート。襟元とカフスに細くて綺麗な濃いブルーのラインがあしらわれたブラウス。どこか憧れの目で見ていた制服をまとった彼女も、傍目からみればお嬢様なのだろう。そのことがまだ信じられない彼女は、鏡を見ながら大きく息を吐くことしかできない。
「本当に、これって似合ってるのかな?」
「はい。とてもよく似合っておられますよ。お嬢様は可愛らしいという部分もありますが、お美しいと申し上げた方がよろしいですからね。白綾の制服が本当にお似合いになっておられます」
独り言に返事をされるのは恥ずかしい。そう思った亜紀が振り返った先には雅弥がいる。そのことに気がついた彼女は、どこか咎めるような視線を彼に向けていた。
「竹原さん。勝手に入ってこないでって言わなかった?」
「扉はきちんとノックさせていただきました。たしかにお返事がないままに入りましたのは失礼でしたが、あまりゆっくりなさいますと朝食の時間がなくなってしまいますので」
落ちついた調子でそう告げる雅弥の姿に、亜紀はまたため息をつくことしかできない。だが、彼が言っていることが間違っているわけではない。そのことを知っている亜紀は、ゆっくりと部屋から出ようとしている。その時、「お嬢様、お手をどうぞ」という柔らかな声と差し出される手。
これは、雅弥にしてみれば仕事の一つ。そのことが分かっている亜紀であっても、長身で整った容姿の男性に手を取られることは、どこか気恥かしい。もっとも、最初の頃のように真っ赤になってしまうことがなくなったあたり、慣れてきたんだろうか。そんなことも亜紀は思っている。
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