〔1〕
伯父であり養父でもある慎一から惟を『婚約者』だと紹介されたのは5月の中頃。さすがにそれを聞かされたときには反発しか感じなかった亜紀だが、今は違っている。
彼女の初恋ともいえる思いの相手が惟だったという事実。そのことを知った時、彼女は彼の囁く甘い言葉に頷くことしかできなかった。もっとも、そのことを後悔しているはずがない。なにしろ、彼女にすれば今の状況は夢のようなものでもあるといえるのだ。
そして、その翌日から当然のように彼女が帰る時間を見計らって、学校まで彼が迎えに来る。最初のうちこそ周囲の目を気にしていた亜紀だが、惚れた弱みとでもいうのだろうか。いくら抗議しても聞き入れてもらえないことに、今では半ば諦めの境地にいたっている。
とはいえ、この状況はある意味で『放課後デート』とでもいえるもの。そのことに気がついた亜紀は、顔が赤くなるのを隠すことができないようだった。
「亜紀、どうかしたの?」
耳に飛び込んでくるのは甘いテノールの声。それと同時に漂ってくるシトラスの香りが、声の主を如実に物語る。それらは、亜紀の気持ちを高揚させ、ますます顔を赤くさせる。
こんなにこの人のことを好きになるなんて思ってもいなかった。
それが今の亜紀の本音だろう。でも、気がついた思いを隠したくはない。そんなことも考えている彼女は、最高の笑顔で声をかけてきた相手に近付いていた。
「惟さん、いつもありがとう。でも、本当に無理してないの?」
「亜紀は心配しなくていいの。僕がやりたくてしているんだから。それに、少しでも亜紀に会っていたい。ひょっとして、そう思っているのは僕だけなの?」
甘い囁きが亜紀の耳をくすぐっていく。そこに含まれる響きに色気を感じたのだろう。亜紀の表情がどこか蕩けたようなものになっていく。
「惟さんの意地悪。そんなこと思ってないわ。私だって、会えるの嬉しいんだもの。でも、やっぱり気になるのよね」
同じ学生ならば学校で会うこともできるだろう。だが、惟と彼女の年の差は半端ではない。ましてや、惟はファエロアというブランドの代表という顔もある。そんな彼にこうやって迎えに来てもらう。そのことが贅沢なのではないかという思いをこの頃の亜紀は抱いているのだった。
そんな彼女の気持ちを察したのだろう。惟は柔らかな笑みを浮かべながら囁きかける。
「いつも言ってるよ。亜紀は気にしなくていいの。それに、約束したでしょう? あーちゃんを二度と一人にしないって」
「惟さん、それって反則。それ言われたら、私が我がまま言ってるみたいじゃない」
そう言うと、亜紀は拗ねたようにプイっと横を向いた。その姿に、彼女のご機嫌が斜めになったと思ったのだろう。少し不安気な表情を見せながら、惟はいつものように助手席の扉を開ける。だが、その日の彼女がそこに座る気配をみせることはないようだった。
「亜紀、どうかしたの? さっきのことで怒っているの?」
「そんなことない。あのね……今日は由紀子と会う約束しちゃったの。だから、今日の迎えはいらなかったの。でも、やっぱり、会えないの寂しいし……」
惟が忙しい時間を工面して、自分に付き合ってくれている。そのことを知っている亜紀の声はだんだんと小さくなっていく。そんな彼女の額に惟がそっとキスを落としていた。
「そんなに可愛いこと言わないの。そんなこと言ったら、離れられなくなっちゃう。それはそうと、由紀子ちゃんとはどこで会う約束してるの? ひょっとして、またファミレスとか言うんじゃないんだろうね」
「それはないわ。約束してるのは、前に連れて行ってもらったラ・メール。竹原さんに相談したら、私が一緒なら由紀子も大丈夫だからって。だから、迎えに行ってもらってるの」
「そうなんだ。じゃあ、話が終わったら連絡して。家まで送ってあげるから。さ、ラ・メールまでは近いし、久しぶりに歩こうか」
そう言うと、惟は亜紀の持っていたカバンをさっさと取り上げた。そして、彼女の腰を抱き寄せて歩きはじめていた。しかし、今の時間は下校時間。ましてや、惟という相手が周囲の視線を一身に集めるようなイケメン。
そんな相手に抱き寄せられている。このことで向けられる周囲の視線が痛い。そう思う亜紀が抵抗したところで解放されるはずがない。結局、彼女はこれ以上はないというほど顔を赤くしながら歩くことしかできなかった。
「惟さん、やっぱり恥ずかしいです……」
それでも、これだけは言っておかなければいけない。そう思う亜紀は必死になって言葉を口にしている。しかし、言われた本人がそのことを気にしていないのは明白。それどころか、ますます彼女を近くに引き寄せてくる。
「どこが恥ずかしいの? 僕たちは、恋人同士でしょう? だったら、そのことを周りに教えておかないと。なんていっても亜紀は可愛らしいんだよ。君を狙っている相手は多いからね」
「そ、そんなこと……」
惟の口から出てくる言葉に、亜紀は羞恥心しか刺激されない。こうなったら、少しでも早くラ・メールに逃げ込もう。そう決意した彼女の足取りは段々と早くなっていく。
そのためだろう。目的の店に着いた時には、彼女はゼーハーと息を切らした状態になっていた。そんな彼女に携帯が差し出される。
「惟さん? カバンは? 携帯だけじゃ困ります」
「だって、カバンを渡したら亜紀は絶対に連絡してこないでしょう? だから、これは人質。由紀子ちゃんと話が終わったら、ちゃんと連絡してきてよ。ほら、もう待ってくれてるみたいだよ」
惟の声に亜紀は慌てて店内に視線をやっている。そこのボックス席の一つで手をヒラヒラと振りながら待っている由紀子。それを目にした亜紀は仕方なく「わかりました」と告げることしかできない。そんな彼女の姿を惟は満足そうな表情でみつめていた。
「そうやって拗ねてる亜紀も可愛らしいよね。じゃあ、由紀子ちゃんとゆっくり話をしておいで。遅くなってもいいように、拓実君には僕が一緒だって連絡しておくから」
彼のその言葉に思わず亜紀は反論しようとする。そんな彼女の額にまたキスを落とした彼は、亜紀の体を反転させると背中を押している。そんな二人の様子を店内から由紀子はハッキリと見ていたのだろう。亜紀が近寄ったと思うと、目をキラキラさせて彼女に詰め寄ってくる。
「ねえ、亜紀。ずいぶんといい雰囲気じゃない。私が知らない間に何があったの? さっきの様子だと、間違いなくくっついたんだとは思うけどね。でも、昨日の電話じゃそんなこと言わなかったじゃない!」
友人の遠慮のない言葉に、亜紀は『恥ずかしいじゃない!』と叫ぶことしかできない。そんな彼女の顔が真っ赤になってしまっている。この分だと、お湯が沸かせるんじゃないだろうか。そんなことを思った由紀子はニンマリと笑うと、亜紀に『座れば?』というように席を示す。
ここで逆らったらどんなことが起こるか。そのことをよく知っている亜紀が素直に座ったのを見た由紀子はグイッと彼女の方に体を近づけていた。
「さ、いろいろと訊きたいことがあるのよね」
「な、なにかしら?」
「そうね〜 。まずは、いつから付き合ってるのよ。この前、会った時は絶対に嫌だって言ってたじゃない。それなのに、一緒にいるんだもん。でも、前も思ったけど、惟さんってホントに大人よね。マジでいい男だと思うわ。私、あんたがエスコートされてるの見て、思わず悶えたわよ」
由紀子の声に、亜紀は思わずテーブルに突っ伏してしまっている。彼女の言葉の端々からは、さっきの様子を楽しんでいるのだということがありありと分かる。だからこそ、彼女は顔から火を吹くような思いを感じてしまっている。
この状況はハッキリ言ってマズイ。このままでは、事細かいことまで尋問される。そう思う彼女がだんまりを決め込もうとしても、相手の方が上手。由紀子は亜紀の顔をガシッと挟むと、有無を言わせぬ口調で問いかけていた。
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