〔5〕
そう言いながら惟はグイッと亜紀の方へ身を乗り出してくる。何かがあるのかと体を固くした彼女の頬にスッと触れる指先。それにクリームがついているのを見た亜紀は羞恥心からか顔を真っ赤にしてしまっていた。
「す、すみません……」
「いいよ。可愛らしいんだし。それより、食事は堪能してくれた?」
「はい。ありがとうございます。でも、そろそろ帰らないと……」
ふと、今の時間を気にした亜紀が時計に目を落としている。そんな彼女に、惟は笑いながら声をかけていた。
「まだ、気にすることはないよ。ちゃんと送ってあげるんだし」
「それはそうなんですけど……あんまり遅くなるとお兄ちゃんが心配するし……」
「拓実君ってほんとに亜紀ちゃんに甘いよね。っていうより、過保護? 僕が一緒にいるから、心配することなんてないのにね」
その言葉に亜紀は思わず笑い出してしまう。なんといっても、彼女自身が拓実は過保護だと思っているからである。そんな中、一條家に来てからのことを思い出すと、笑いがこみあげてくることを止めることができない。
「惟さん。まるで見てきたようにいうんですね。ほんとにそうなんですよ。お兄ちゃんったら、過保護としか言いようがないことしてくれるんですから」
「やっぱりね。うん。それだけ、亜紀ちゃんが可愛らしいってこと。だから、あまり拓実君をいじめたりしちゃダメだよ」
その言葉に、ますます亜紀は笑い転げている。そんな彼女に惟は真剣な表情を向けてきていた。
「亜紀ちゃん、訊きたいことがあるんだけどいいかな?」
彼の態度が先ほどまでとは違う。そのことにちょっと怯えたような表情を浮かべた亜紀だが、「何でしょう?」と応えることしかできない。そんな彼女に惟はゆっくりと問いかけの言葉を投げかける。
「昨日、アンジーが『あーちゃん』って呼んだのを嫌がったでしょう? どうしてなのかな?」
「どうして、そんなことを……」
「うん、僕も亜紀ちゃんのこと、そう呼びたいなって思ったから。ダメかな?」
そう言いながら首を傾げてくる惟の表情からは色気しか感じられない。このままでは彼の雰囲気に飲まれてしまう。そんなことを思う亜紀だが、目をそらすことがどうしてもできない。思わずゴクリと息をのみ込んだ彼女は、ゆっくりと思っていることを口にしていた。
「多分……惟さんでもダメだと思います」
「どうして?」
そう問いかける瞳に浮かぶ色がどこか切ない。そう思った亜紀は胸がしめつけられるような思いを感じている。どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。ただ、思ったことを口にしただけなのに。そんな混乱する思いを抱く彼女に、惟がまた問いかけてくる。
「どうして、ダメなの? 理由を教えて」
「昨日、グラントさんにも言いました。私のことを『あーちゃん』って呼んでいい人は、一人しかいないんです。そして、それはグラントさんじゃないし惟さんでもないような気がするんです」
亜紀がそう言い切った時、惟は『僕じゃないの?』とどこか寂しそうな表情で呟く。その彼の顔を見た時、亜紀はどうすればいいのかわからない感情があふれてくる。それでも、これは譲れないことだ、というように彼女は思っていることをゆっくりと口にしていた。
「初めて会った日のこと覚えてますか? あの時、私が惟さん以外の人のこと考えてるって言われた時のこと」
「うん、覚えてるよ。だって、亜紀ちゃんは僕の腕の中にいるのに、他の人のこと考えてたんだから。あの時も言ったけど、あんな君をみたら間違いなく嫉妬するよ」
「結婚は契約の一つだっていう人に言われたくないです。私のことそんなに好きじゃないんでしょう? お父さんから言われて仕方なくなんじゃないですか?」
この場でこんなことを言うのは失礼になる。そのことを亜紀自身も分からないではない。だが、これは彼女の中で気になっている部分。そう思う亜紀はハッキリとした口調で惟に問いかけている。そんな彼女に、惟は真剣な表情で応えていた。
「たしかに、僕はそう言ったよ。そのことは否定しない。でも、それは亜紀ちゃんにも原因があるよ」
「どうしてですか?」
「僕は君とのことをちゃんと真剣に考えていた。それなのに、君ときたら頭っから拒否してくれただろう? だったら、恋愛感情抜きでなら考えてくれないかって思ったわけ。でも、僕は君のことが本当に好きだから。そのことは分かってほしい」
惟の声に亜紀は何も言うことができなくなっている。このことは、前に由紀子からも指摘されていたこと。だが、その時は『違う』と一蹴することができた。
だが、改めて惟本人の口から同じことを耳にすると、由紀子に対したように拒絶するということはできない。それでも、亜紀にも譲れないことがある。
もっとも、昨夜の夢まで忘れていた事実だが、これは絶対に忘れてはいけないことだったのだ。そんな思いがある彼女は、惟の目をしっかりと見ながら言葉を口にする。
「惟さんのその気持ち、私には勿体ないくらいだと思います。でも、私にも約束した人がいるんです。いろいろあって忘れてたけど、そのことを思い出したんです。私のことをあーちゃんって呼んでくれた人とじゃないと、私、嫌です。そのこと、お父さんにもちゃんと話します」
キッパリと言い切ったその姿は、彼女の思いの強さを表しているのだろう。そんな亜紀の姿を惟はどこか眩しそうな目でみつめている。そして、彼もゆっくりと口を開いていた。
「亜紀ちゃん、それって小さい頃に誰かと約束したの? その人の顔、覚えてるの?」
「覚えてないんです。でも、約束した言葉はハッキリ思い出しました。だから……」
「うん。その時が来たら飛んでいく。そして、二度とあーちゃんを一人にしない。そうだよね?」
惟のその言葉は亜紀には思いもかけないものだったのだろう。信じられないというような表情を浮かべ、彼女は「どうして……それ……」と呟くことしかできない。そんな彼女に、惟は極上の笑顔を浮かべて語りかける。
「あの時、僕は亜紀ちゃんのことを一目で好きになった。泣くのを我慢して壊れそうになった君を守りたいって思った。でも、あの時の僕はまだ高校生。いくら、君のことを好きになったって言っても誰も信用してくれないし、本気だと思ってくれない。だから、時間が欲しかった」
「惟さん……」
彼の言葉は簡単に信用することができない。それでも、その声に宿る響きは信頼に値する。そんなことを思う彼女の頬をそっと挟んだ惟は、彼女に語りかけるのを止めようとはしない。
「僕は君が16歳になる日を待っていた。その日がくれば、君と結婚することもできる。僕がファエロアを立ち上げたのも君のため。なにしろ、君はいずれ一條本家の養女になることが決まっていたんだから。その君を手に入れようと思ったら、並大抵のことじゃ敵わない。だから、僕は時間が欲しかった。そして、それだけのものを手に入れたよ。だから、あーちゃんを迎えに来た」
真剣な声で語られる言葉。それは、最初に会った時の『パートナーとしての契約』と言った彼と同じだとは思えない。だが、これは信じてもいい。そう思う彼女の耳に、甘い言葉が囁かれる。
「あーちゃん。ううん、亜紀。僕と結婚を前提としたお付き合いをしてください」
その声に亜紀が首を横に振るはずがない。思いが溢れて言葉にならない彼女は、ただ頷くことで気持ちを表すことしかできないようだった。
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