王妹の教育係 1
リニはヘルブラントの幕僚の中で最年少だ。もともと、ヘンドリックについて主君としての心構えや勉学などを教えるように、ヘルブラントに言われていた。王が言うことは絶対だ。対象が、ヘンドリックから妹姫のリシャナに代わったに過ぎない。リシャナがまだ十三歳であることを考え、年の近いリニを配置するのもわかる。
だが、なにも知らない姫君だ。何より、姫君だ。いいのか? というのがリニの心情だが、ユスティネを付ける、と言われて一応納得することにした。彼女がいれば滅多なことはない。たぶん。
だが、あの小柄な美少女を軍隊に放り込むのか、と思うと気が重い。いや、リニは遠巻きにしか見たことがないが。
ともあれ、リシャナは今、発熱して養生している。熱は下がったようなので、王都を守ってくれた礼を言ってくる、と言ってヘルブラントは見舞いに行った。リニは資料をまとめながら、主が戻ってくるのを待っている。
資料をまとめ終えるころに、ヘルブラントは戻ってきた。随分と話し込んでいたものだ。まあ、多少、この政庁から王族のプライベート空間まで距離があるせいもあるだろうが。
「おかえりなさいませ。姫君はどうでしたか」
「ああ、熱は下がったようで、けろっとフルーツを食べてたな」
「それはようございました」
なれない戦争をして、熱まで出て苦しかっただろうに。意外と心臓が強い。
「話をしてきたんだが……あれはあまり教養がないな」
仕方がない話だが、とヘルブラントは肩をすくめる。この場合の『教養がない』と『知識がない』とほぼ同意義だろう。遠目であるがリシャナの振る舞いを見ている限り、基本的なマナーや物事は知っているように思える。深い知識はないのかもしれないが、表面上は問題なく見えるというか。
「当然だが、軍事知識もほとんどない。戦術と戦略の違いも知らなかった」
「戦術と戦略の違いは、説明すること自体が難しいと思うのですが」
一応突っ込みを入れてみる。十三の女の子に何を求めているのだ。軍事に興味がない限り知らないのは当然では。リシャナにそんな覇気があるようには思えない。
「だが、なんというんだろうな。頭はいいと思うんだよな、うん」
さっきと言っていることが矛盾しているが、言いたいことはなんとなくわかる。知識はなくとも、リシャナは賢いのではないのだろうか。己が知っていることから、必要なことを考えることができる、という思考力がある。いや、リニは本人に会っていないので正確にはわからないが、たぶん、ヘルブラントはそういうことを言いたいのだろうと思った。
「……そうだとして、そもそも、姫君は了承しますか? いえ、陛下の命令だと承諾はするかもしれませんが」
王の命令だと、戦わせることはできる。多分だが、リシャナは道理の分かった娘だ。ヘルブラントが命じれば、戦いに身を投じるだろう。だが、ヘルブラント自身がそれを望んでいないように思われた。
「そうだな……今まで気にかけていなかったのに、才能があるとわかったとたん、これだもんな……」
王太后が自分の末の娘を虐待しているのは、公然の事実だった。少なくとも、王のそばに侍るものにとっては事実だった。
命にかかわるようなことではない。だが、たたかれたような痕を見たことがある、という同僚もいるし、心無い言葉をまだ子供のリシャナにたたきつけるのは日常的なことのようだ。
それに、ヘルブラントは介入していない。
もちろん、ヘルブラントは母が末の妹にことさらつらく当たっているのを知っていただろう。だが、何もしなかった。助け出そうと思えば、できただろうに、何もしなかった。なのに、彼女に戦の才があるとわかったとたんに興味を示し、引き抜こうとする。まっとうな精神の持ち主なら、怒る。リニならキレる。
ただ、ヘルブラントにとっても悩ましいが、リシャナにとっても悩ましいところだろう。確かにこの長兄は、自分の現状を見て見ぬふりをしたが、彼の提案に乗れば、虐待する母親のもとから離れ、それなりの教養を得ることができる。ヘルブラントに価値を認められている間は、彼が保護してくれる。
怒るだろうが、うなずくかもしれない。親に虐げられた子は、親元を離れたがらない、と言うが、リシャナはそれに該当しない気がした。そうであるならば、彼女は王都防衛戦を戦ったりしなかっただろう。つまり、ヘルブラントの勝算はあるということだ。
やはり、ともにいたリュークがそれとなくかばっていたのだろうか。いや、あの王子にそんなことができるとは思えないが。それとも、すでに嫁いだ姉姫の影響だろうか。
とはいえ、リシャナが回復するまで待つ必要がある。熱は下がっても、まだ養生中なのだ。そして、その間に王都内で『兄王を助けた妹姫』の話が広まっていた。ヘンドリックのせいである。ヘルブラントが煽ったのもあるが、彼は本当に行く先々でリシャナのことを話しまくったらしい。ものすごい広まり具合だった。普通、これだけほめたたえれば、身内びいきだし嫌味だと思われるだろうが、彼の性格のおかげかそういう話はあまり聞かない。単純に、実際に王都を守り切ったのが大きいのだろうか。
この馬鹿ではないが一直線な王子に教えるのは、ちょっと大変だな、と思ったので、もしかしたら教える対象がリシャナになってよかったのかもしれない。まあ、リシャナが了承すれば、だけど。
数日経ったころ、リニは宮殿の庭園を歩いていた。戦争中であるので丹念に、とはいかないが、庭師を入れて適度に整えてはいる。ヘルブラントの方針だろう。宮殿内では姫君がいなくなったとかで、みんな大慌てだが。最近、王が末の姫君にご執心なので、使用人たちもピリピリしているのだ。
世間知らずな姫君だ。遠くには行かないだろう、とみんな宮殿の中を探しているが、庭を歩いていたリニは普通にリシャナを発見してしまった。確かに、遠くへは行っていなかった。
「姫様」
如雨露で花壇に水やりをしていた。清潔だがくたびれたズボンにシャツ。つばの広い帽子をかぶって、遠目なら庭師見習の少年に見えるかもしれない。だが、こんなに見目麗しい庭師見習がいてたまるか。
「リシャナ殿下」
名前を呼んでやっと顔を上げた。リニはあまりまじまじと彼女の顔を見たことがないが、間違いなくリシャナだった。印象的な半分閉ざされたアイスグリーンの瞳がリニを見つめ返す。如雨露が同じところにずっと水を与えているが、大丈夫だろうか。
「……兄上の、えっと、部下の」
幕僚、という言葉が出てこなかったのだろうか。少し困ったようにリシャナが口にした。リニは微笑む。
「リニ・カウエルです。姫様、みんな心配していますよ。戻りましょう」
できるだけ柔らかくリニが言うと、リシャナは目をしばたたかせて「大丈夫」と言った。
「誰も心配しないから」
「……どの辺が大丈夫なんでしょうか」
二重の意味で。ここにいる時点で大丈夫ではないし、まだ子供と言っていい年齢の彼女にこんなことを言わせてしまう王太后に怒りを覚えた。
「カウエルさんは何しに来たの?」
「リニでいいですよ。そうですね。歩いていました」
「どうして?」
「気分転換でしょうか」
ついでにリシャナを探していたのだが、言わないでおく。リシャナは「へえ」と言うと如雨露を覗いた。空になっている。水を追加しようというのか、リシャナが歩き出すのでついていく。
「どうしてついてくるの? 気分転換してたんでしょ」
「まあ、見つけてしまった以上、放ってはおけませんし」
「見張り? 気に入らないことをしないように?」
「そういうわけではないですが、一応主君の妹姫様ですし。と言うか、経験がおありで?」
思ったよりしゃべってくれるので、あわよくば王太后との関係についての情報収集をと思ったが、リシャナはそう簡単に口を滑らせなかった。そういえば、アルデルトも『慎重な人だ』と言っていたか。結構手ごわい。だが、ヘルブラントが気に入りそうだな、と思った。
「姫様……に、リニ殿」
顔見知りの庭師が、驚いたようにリシャナと並ぶリニを見ていた。剪定鋏と花を一輪持っている。リニも目を見開いたが、そんな空気などお構いなしにリシャナが口を開いた。
「水やり、終わったよ」
「あ、はい、お疲れさまでした。少し休憩にしませんか。粗茶ですが、用意しましたので」
庭師がひきつった笑みでリシャナに話しかける。彼女は庭師の顔が引きつっていることについては気にしなかったが、首を傾げた。
「そちゃって何?」
「粗末な茶のことですが、この場合は、相手に進める茶をへりくだっていうもの、でしょうか」
「へりくだる?」
「ええっと、よいものではないので、と謙遜……相手に遠慮することでしょうか」
「ふうん……なるほど」
リシャナがうなずいたので、一応理解したらしい。リニはほっとする。かみ砕いて説明するのは難しい。
リシャナが着ていた少年めいた服はここで借りたものらしい。どおりで寸法があっていないと思った。リシャナが着替えている間に、リニは庭師に話を聞いていた。ちなみに、庭師はロヴィーと言うらしい。
「泣くでもなく、ポツンと庭で膝を抱えている女の子を見つけまして……まあ、姫様だったわけですが、放っておけなくて」
それで、たまに話し相手になったり、一緒にお茶を飲んだりしていたらしい。満足に食事を与えられていないのか随分小柄に見えて、どこかの下女の少女かと思ったそうだ。一応、仮にも、お姫様なのだが……。
次第になついてくれて、水やりなどを手伝ってもらうようになったころに、末の姫君だと気づいたらしい。これは庭師がかわいそう。リシャナも名乗らなかったのだろう。名乗れば、強制送還待ったなしだ。
「それで、その、姫様なのですが」
ちらっとリシャナが着替えている部屋に目をやり、まだ出てこないことを確認してから、それでも言いにくそうに彼は口を開いた。
「……陛下が、姫様を気にかけているという話は本当でしょうか」
「ええ、そうですね」
大きく外れてはいない。正確に言えばヘルブラントが用があるのは、リシャナの軍人としての才覚の方だが。
「実は……今いらっしゃればわかると思いますが、腕に、みみずばれのようなものがありまして」
「姫様の?」
さっきからこの庭師が姫様、と呼ぶので、リニにも移ってしまった。ではなく。
「はい……その、鞭か何かでたたいたような」
「……」
「実は、これは初めてではなくてですね……頬を腫らしていたり、足から血を流していたり……」
気の毒で、と面倒を見ていたらしかった。この小屋には庭師の妻も出入りしているが、彼女もすっかり同情しているらしい。
噂には聞いていたが、リニが王太后の虐待の実態を聞くのは初めてだった。使用人どころか、貴族の間でも噂はあるようだが、誰も実際の証言を聞いたことがなかった。訴えるべきヘルブラントは戦で不在。たまに宮殿に滞在していても、小さな末の妹を顧みることはしない。使用人たちには、常に宮殿に存在している王太后の存在の方が恐ろしかったのだろう。彼女の悋気に触れれば、使用人たちはすぐに解雇されてしまう。働き口を失ってしまう。
誰にも訴えなかったことについて、使用人たちを責めることはできない。これは明らかにヘルブラントの過失だ。ヘンドリックやリュークにうまく立ち回れ、と言うのも難しいだろう。ヘンドリックは単純に、そうした細やかな気遣いができないだろうし、リュークはいつもいるわけではないヘルブラントに頼るのは難しいと思ったことだろう。まともな教育を受けられていないと思われるリシャナを責めるのも筋違いだ。難しい問題である。
「……ロジャー、証言してくれてありがとうございます。姫様は大丈夫です。これからはヘルブラント陛下が確実に保護してくださるでしょう」
「……そうですか」
ほっとしたように庭師が微笑むので、人が好いな、と思う。リシャナをかくまっていたことが王太后にばれれば、職を失うどころではすまなかったと、わかっているだろうに。それでも彼は、傷ついた姫君を捨て置けなかった。
「……何の話?」
少女にしては落ち着いた声が聞こえ、リニは内心ドキリとしながら奥の部屋から出てきたリシャナに目を向けた。何とか微笑む。
「姫様がどのように過ごされていたのか、聞いていたのですよ」
「ふうん」
リシャナが用心深そうにリニを見やりながら相槌を打つ。アルデルトが言っていた通り、慎重だ。リニが信用されたわけではなさそう。
ちらりと、少し寸足らずに思えるリシャナのワンピースの袖を見やる。広めにとられた袖口からちらりと見える細い腕には、なるほど。庭師が言うように赤いみみずばれのようなものが見えた。何も知らなければ見過ごすだろうが、庭師もリニも虐待があることを知っているので、打ち付けられた痕だと判断した。
「そ、そういえば、リニ殿。この庭の噴水の仕組みをご存じですか」
「は? ああ、ええ。理屈は知っていますけど」
緊張状態を和ませようとしたのか、庭師がそんな問いかけをするのでリニはうなずいた。
「良ければ、姫様に教えて差し上げてくれませんか。聞かれたのですが、私では説明できず……」
「……かまいませんが」
噴水の仕組みを知っている人間なんて、そんなにいないだろう。庭師が答えられなくても無理はない。
「姫様、実際に噴水のところまで行きますか?」
「……行く」
では行きましょう、とリニは席を立った。小屋を出る直前に「姫様をお願いします」と耳打ちされた。よほど心配していたらしい。そして、お茶は飲みそびれた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、逆サイフォンの原理(違う)。