王妹の教育係 3
リニがリシャナを保護し、ヘルブラントと話している間に、リシャナを母親、つまり王太后カタリーナから引き離す作業が行われていた。と言ってもまあ、居室を引き離すだけだ。ひとまず、物理的に引き離してしまうのが先だった。
その際にリシャナの使っていた部屋を調べたのだが、生活必需品もろくにそろっていなかったそうだ。むしろ、どうやって生活していたのか気になる。
当の本人であるリシャナは、この扱いの変化についていけないようで、「母上は?」と気がかりそうに尋ねているらしい。ひどい仕打ちを受けていたとはいえ、親のことは気になるのだろうか。虐待を受けていた子供が、虐待者を気にすることはままあることらしい。
兄たちに比べておとなしいリシャナだが、御しやすいかと言うとそうでもない。ヘルブラントの部下の女官たちはよく教育されているが、それでも戸惑うことが多いようだ。とにかく、慎重派なのだそうだ。
「姫様、今から噴水の実験、してみませんか」
「……する」
リニはリシャナに、彼女に足りない基礎教育を施し、戦術をたたきこむ役割を与えられている。だが、まずは勉強ではなくリシャナが興味を持っていたことから解決することにした。つまり、噴水だ。どこで聞きつけたのかわからないが、リュークも「見たい!」と参加してきた。好奇心の強い兄妹である。
このウィリディス・シルワ宮殿の裏庭の噴水は古いものだ。逆サイフォンの定理、と言うものを元に作られている。もっと詳しく言えばどれだけでも細かく説明できるのだろうが、専門家ではないリニはさすがにそこまでの知識はない。
水桶と簡易ホースで作った実験道具で噴水と同じ現象を起こす。わあ、と二人の口から感嘆の声が漏れた。
「すごい。これが噴水と同じ仕組み」
「そうですよ。水が高いところから低いところへ流れる原理を利用したものです」
「原理って、何?」
「また難しいことを……ええっと、物事を成り立たせる法則……と言ったらわかりますか?」
「規則みたいなもの?」
「そうですね。その認識でおおむね間違っていません」
無事にリシャナは理解できたようでほっとする。時々、こうしたリニたちが普通に使っている言葉を尋ねてくるので説明に困ってしまう。普通に使っているので、うまく説明できないのだ。
「リニ、すごいね。僕も説明したんだけど、わかってもらえなかったの……」
しょんぼりしてリュークが言った。このリュークが、リシャナと最も長い時間を共に過ごしている。姉たちが嫁いでからは、彼がリシャナを気にかけていたようだし。
ただ、幼いころからちゃんとした教育を受け、かつ天才であるリュークと、特に教育を受けていないリシャナでは知識に雲泥の差があったわけだ。基礎知識のないものに説明するのは難しいものだ。理解できないのである。
「まあ、人にわかるように説明するのは、難しいものですから」
「大丈夫ですよ、リューク兄上。私が馬鹿なだけです」
「いえ、姫様はどちらかと言うと頭の良い方ですよ。頭の回転の速い方ですね」
平然と自分を馬鹿だと言い切るので、思わずリニは口をはさんだ。リシャナがきょとんとリニを見上げる。リュークも「それ、わかる気がする」とうなずくので、リシャナはやっぱり困った顔になった。
「この前の戦いのときのリシェ、かっこよかったもん。本当は僕とリッキー兄上がしなきゃいけないんだけど……それに、リシェが母上と離れられてよかったと思ってる。ついでに僕も離れられたし」
王太后は娘を厭うが息子のことは猫可愛がりしている。なのでこれまで、リシャナが暴力を受けると自分に気を引いて、妹が傷つけられるのをできるだけ避けようとしていたようだ。しかし、そうなると自分が王太后のかわいがる対象になってしまう。少し変人の入っているリュークは、あまり王太后の好みではなかったようだが、ある程度成功しているところを見ると、娘をいじめるよりはリュークにも興味があったようだ。
そして、リュークはそんな母親からの絡みを面倒くさく思っていたと見える。一度捕まえたら、なかなか離してくれないのだそうだ。それでも、リシャナが理不尽に傷つけられるよりはまし、と思ったらしく、兄の鑑である。
「それくらいしかできなくてごめんね……」
「いえ、リューク兄上はたくさん助けてくれました」
感謝しています、とリシャナは表情を変えずに言ったが、たぶん本心だろう。リュークが泣きそうな顔をしている。実験道具を撤去していたリニは、微笑まし気にその様子を眺めていた。いや、リシャナは結構残酷なことを言っているような気もするが。
リシャナとリュークを部屋に送り届け、実験道具を片付けたリニは、報告のためヘルブラントの元へ向かった。顛末を説明すると、ヘルブラントは興味深そうな顔をした。
「もうなつかれているな」
ヘルブラントに苦笑され、リニは疲れたように笑った。
「というより、聞いたらわかりやすく答えてくれる人、と思われている気がします」
「教育係だから、あながち間違いではないのではないか」
「まあ、そうなんですけれど」
だが、リシャナなどの質問は、単純ゆえに説明しにくい。ただ、彼女の理解力があれば、ある程度の用語を覚えれば教育に移れるので、リニも頑張って説明するのである。
「リッキーにつくはずが、リシェに仕えることになって不満か?」
「いえ。多分私は、ヘンドリック殿下と合わなかったと思います」
これは本当の話だ。性格が合わないと思うのだ。一本気なヘンドリックを、リニはうまく扱えるとは思えない。リシャナは確かにアクが強いが、基本的にはおとなしく素直な少女だ。
「それに、姫様の方が可愛いですから」
可愛いので、守らなければ、と思える。正直、申し訳ないが、ヘンドリックはそう思えない。ヘルブラントほどの器や、リュークのような貧弱さがあればまた違ったかもしれないが。
「まあ、確かにリッキーよりは可愛げがある。まだ小さいしな」
ヘルブラントが少し顔をしかめて言った。リシャナは十三歳だ。年にしては小柄で、顔色もよくない。栄養状態がよくなかったのだと一目でわかる。
リュークとのやり取りを見る限り、リシャナは王太后からの冷遇についてあきらめているように見えた。何を言っても響かないのだから、当然ともいえるが。
そんなリシャナを哀れに思うと同時に、庇護欲と言うか、可愛がりたい欲の生まれたリニである。だが、可愛がるのではなく、彼女を王の妹、指揮官として教育しなければならない。
「ロドルフが北方で兵力を整えているそうだ」
「素人の十三歳の姫君にあれだけたたかれて、よく再起する気になりましたね」
感心して言ったのだが、ヘルブラントは「お前も口が悪いな」と苦笑した。きついかもしれないが、事実である。
「むしろ、怒り心頭のようだぞ。リシェを見たらなりふり構わず殺しに行くかもしれん」
「それもどうなのでしょうね……中身はともかく、外見は十三歳の美少女ですが」
「あれに直接攻撃するのはためらうよな」
おそらく、リシャナは自分に直接武力を向けられても動じない。城壁が砲撃されたとき、リュークは取り乱したが、リシャナは動揺もせずにすぐに指示を飛ばしたという話だ。
「まあ、本人は肝が据わっているから、剣を向けたところで動揺一つしないだろうが」
となると、余計に攻撃する側が動揺して斬りにくい。
だが、リニはあれが肝が据わっている、とはちょっと違うように思う。なんというか、無関心なのだ。自分がどうなろうと、どうも思っていない。それが肝が据わっているように見えているように思う。
「不服そうだな?」
「いえ……もう少し様子を見たら、言うかもしれませんが」
確信が持てたら、話す必要性が出てくるかもしれない。そう思って、リニはあいまいに答えた。ヘルブラントは顔をしかめたが、気分を害したわけではないらしく、「任せる」と言った。
「俺はどうも、あれに警戒されているからな」
苦笑気味にヘルブラントは言うが、リシャナは兄に対して一定の信頼はおいていると思う。だが、信用はしていない、と言ったところか。彼女は正しく理解している。ヘルブラントが自分に親切にするのは、自分の能力を期待されているからだ、とわかっているから、距離を置いてしまうのだろう。
「……交流が深まれば大丈夫なのではないですか。私も受け入れられていますし」
リニもヘルブラントから派遣されてきたもの、として警戒されていたようだが、質問に答えてくれる人、と認識したようなので何とかなるだろう。最初の感触として悪くない。
「教育期間に制限はありますか」
「そうだな……ひとまず半年。それまでの間に、一通りの軍事知識をたたきこんでくれ」
「かしこまりました」
リシャナは理解力の高い少女だが、これは難しい仕事になりそうだ。だが、その前に。
「ひとまず、数日中に姫様を連れて街に降りる許可をいただけますか」
「は?」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
逆サイフォンの原理…実は私もそんなに詳しくないのですが、石川県の兼六園の噴水がこれらしいですね。




