王妹の教育係 2
「どうしたお前。ぐったりしてないか?」
「いえ……何でもありません」
リニは、何とかリシャナをヘルブラントの執務室に連れていくことに成功していた。すでにヘルブラントもリシャナの脱走を聞いていたのだろう。リシャナを連れて現れたリニに、「お前が連れ出したのか?」などと尋ねた。
「違います。庭でお会いしました」
と、うそではないが、まるっきり本当ではないことを答える。ヘルブラントは怪しんだが、リシャナの前で問うべきではないと思ったのか、「そうか」とだけ答えた。
「リシェ、まず着替えてこい。それから、少し話をしないか」
「……はい」
さすがに慎重派のリシャナも、兄で王であるヘルブラントの言葉にはすんなりうなずいた。やってきた女官を見て少し警戒しているので、ヘルブラントが言い添えた。
「俺の部下の一人だ。そいつはお前に何もしない。ただ着替えを手伝うだけだ」
「……わかりました」
少しかわいそうな気もしたが、リシャナを見送る。それから、冒頭のセリフになる。
「ええ……噴水の仕組みを聞かれましたので、説明したのですが……かみ砕いて説明するのが難しくて」
逆サイフォンの原理をあんなに説明することになるとは思わなかった。しかも、リシャナの問いはそこで止まらず、リニがリシャナと会ってからここに連れてくるまでに二時間近くかかっている。
「また面白いことを聞かれたなぁ。あれは納得したのか?」
「しっくり来ていないご様子でしたね。今度、一緒に実験してみようと申し上げたのですが」
「いいんじゃないか。リュークも喜びそうだ。……というか、あいつならわかってたんじゃないか?」
「ああ、実際に聞いたことはあるそうですが、難しくてわからなかったそうです」
「なるほど……」
リュークは天才だ。主に、自然科学な方向で。きっと、逆サイフォンの原理を知っていただろうが、二つ年下の妹に説明することはできなかったのだろう。
「で、話してみてどうだった?」
苦笑していたヘルブラントが、まじめな王の表情になって尋ねた。
「かなり、理解力はあると思います。ご自分の立場も理解されているかと」
「そうか……警戒されているな」
「すぐに心を開くタイプではありませんね」
もっとも、そんなタイプなら、彼女は「城門を閉じよう」などと言わなかっただろう。この時の情報は、アルデルトやリュークたちから、かなり正確な情報がもたらされている。
「ああ、それと……お気づきかもしれませんが、腕にみみずばれのようなものが」
「気づいた。母上は娘に厳しい人だが、度が越えているな」
「そうですね……」
リニの母は、口うるさいがどの子にも平等に愛情を注ぐ人だった。王太后の行動は理解に苦しむ。
そこに、リシャナが戻ってきた。一緒に送り出した女官は、リシャナを送り込んで退出する。後から聞いたことによると、リシャナを着替えさせるのにもひと悶着あったそうだが、ヘルブラントとリニの二人はまず、菫色のワンピースに着替えたリシャナの腕を見てしまった。今度は袖口までぴったりとしたものだったので、その下がどうなっているのかうかがい知れない。
「リシェ、そこに座ってくれ。好き嫌いはあるか?」
顔には出なかったが、リシャナは兄の言葉に戸惑ったように見えた。ソファに腰掛けつつ、口を開く。
「考えたことがないので、わかりません」
「……そうか。リニ、ドアを開いてやれ」
ちょうどノックがあったので、ヘルブラントがそう言った。リニがドアを開くと、先ほどの女官がワゴンでお茶を運んできたところだった。女官は淡々とヘルブラントとリシャナの前にお茶を出し、さらにリニが座る場所にもお茶を置いていった。さらに菓子類が出されるが、リシャナがそれを物珍し気に眺めているのが印象に残った。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
リシャナがカップに口をつけるのを待ってから、ヘルブラントは口を開いた。
「勝手に抜け出したそうだな。今度からは言付けをしてくれ。心配する」
「なぜですか?」
おそらく、本当にわからなかったのだろう。物憂げに半分閉じられた瞼が、ゆっくりと開閉した。ヘルブラントの笑顔がこわばる。
「なぜって、兄が妹を心配しないわけがないだろう」
「今まで、勝手に出歩いたくらいで、心配されたことなどありません」
きっぱりと言われて、ヘルブラントもリニも言葉に詰まる。たぶん、それは事実なのだろう。いや、きっと誰も心配しなかったわけではないと思うが、彼女に面と向かって言わなければ、彼女には伝わらない。そういう意味では、リシャナの言葉は事実なのだ。
わかっていたが、手ごわい。手厳しい。こちらはまだ、彼女の信頼を勝ち取っていないのだ、と思い知らされる。
「……そうだな。ロドルフとの戦にかまけて、お前を放置していた。すまない」
「……別に、気にしていません」
取り付く島もない、とはこういうことを言うのだろうか、とリニは現実逃避的に考えた。ヘルブラントは粘る。
「いや、王としても兄としても、放置してはいけないことだった」
「……そうですか」
反応が、薄い。鋼の心臓を持っているのでは、と思えるヘルブラントも、末の妹のこの反応にめげかけている。会話が続かない。リニとは結構続いたのだが、と思ったが、よく考えればあれは、リシャナがしてくる質問攻めにリニが答えていただけだったな、と思い出した。会話したわけではない。
「あー……リシェ。俺を許してくれとは言わないが、力を貸してくれないか?」
そのまま本題に突っ込んでいくことにしたようだ。リシャナの澄んだアイスグリーンの目がまっすぐに兄を見つめた。
「許すも何も、なにを謝られているのかわかりません」
確かに、ヘルブラントの謝罪には何に対する、という言葉がなかった。リシャナの首がゆっくりと傾く。
「そんなことを言うのは、私がロドルフと戦ったからですか」
「……そう、だな」
基礎教育はまともになされていないのかもしれないが、やはりリシャナは頭がいいと思う。因果関係を理解している……と言うのは少し意味合いが違うだろうか。物事の関連がちゃんとわかっている気がする。
ヘルブラントは息を吐きだすと、一息に言った。
「そうだ。先の戦で、お前は俺を助けてくれただろう。同じように、これからも力を貸してほしい。お前の力必要なんだ、リシェ」
普通、王にここまで言われれば悪い気はしないだろう。だが、リシャナは前評判通り慎重な娘だった。
「私が、兄上のお役に立てるとは思えません。城壁での戦いだって、運がよかっただけです」
まあ、参謀としてのリニの立場から言わせてもらえば、それは大いにある。だが、それは正しい判断に基づいた結果としての『運』だったはずではないのか。言いたいが、口は挟まない。
「その運に俺もあやからせてくれないか」
「……そんなことしなくても、兄上は十分運に恵まれていると思いますが……」
「捕まったのにか?」
「そこで終わるのなら、兄上のえっと……命運? もそこまでだったということです」
大丈夫だ、使い方はあっている、と思わず心の中で肯定してしまう。話題は全然そんな感じではないが。
「リシェ。もちろん、ただ行ってこい、とお前を放り出したりしない。俺の幕僚から数人をお前につける。このリニもその一人にするつもりだ。今までお前を放っておいたのに、こうなってから興味を示すのは都合がよすぎることもわかっている。だが、俺は一人でも多く味方が欲しい」
「……」
胡乱気なリシャナの視線。あと二・三年もたてば怜悧な美女になるだろうことを約束されたそのまなざしに見つめられ、ヘルブラントは少しひるんだようにも見えた。
「取引、といかないか、リシェ。お前は俺に力を貸す。俺はお前に教育を与える。ついでに、母上と引き離す」
「……あ」
気鬱げに半分ほど閉じられていたリシャナの瞼が開き、見開かれた。今その可能性に気が付いた、と言わんばかりだ。ヘルブラントもここは押せる、と思ったらしい。
「ああ。俺の側にいる限り、お前を母上から引き離す。お前はもう母上に煩わされなくていい。どうだ?」
よくよく考えれば、リシャナに対して提示されているメリットは、彼女が手にしてしかるべきものだ。しかし、それすら与えられてこなかった少女は、どういう判断を下すのだろうか。少なくとも、ここでうなずかなければ、母親との生活が続くのは確実だ。
慎重派のリシャナはたっぷりと考えてからヘルブラントに向かってうなずいた。
「わかりました。兄上のお力になれるのなら」
ヘルブラントは心底ほっとしたように、「ありがとう」と妹に向かって微笑んだ。
「……あまり、お役には立てないと思いますが」
「それはやってみなければわからないだろ」
「……そうですね」
多分、リシャナは王太后から役立たず、などと言われていたのではないだろうか。この聡明だが無垢な少女に戦場を選ばせることに、リニはためらいがある。だが、この才能を持った少女が学び、経験し、その先にどうなるのか、見てみたい気持ちもあった。
「もういいですか?」
「せっかくだから少し世間話に付き合え。ほら、菓子も好きなものを食べていいぞ」
手を付けられていない菓子の皿をヘルブラントがリシャナの前に押しやる。好きなものを、と言われたリシャナは何度か瞬きを繰り返して困ったように言った。
「どれも、見たことがありません」
「……」
思わず、リニとヘルブラントは顔を見合わせた。今、皿に乗っている菓子は、それほど高価なものではない。急にリニがリシャナを連れてきたので、ヘルブラントが急いで用意させたものだからだ。だから、乾燥させて砂糖をまぶした果物とか、甘く煮つけたナッツだとか、そういうものばかりだ。平民出身のリニですら、家で見たことのあるものばかりだ。
「……姉上と一緒の時に、食べなかったか?」
「アルベルティナお姉様?」
ああ、姉については『お姉様』なのだな、と現実逃避的に思った。
「小さかったので、あまり覚えていません」
ヘルブラントの姉でもある王女アルベルティナが国外に嫁いだのは、今から五年ほど前。リシャナは十歳にもなっていなかっただろうし、覚えていない、と言うのも道理である。
「そうか……それについてはまた今度だな。お前、昼を食べずに抜け出しただろう。おなかすいてないか」
「……たぶん?」
首を傾げられた。そのしぐさが子供っぽくてかわいらしいが、状況が全然微笑ましくなれない。ヘルブラントは開き直ったようにナッツを甘く煮詰めたものを手に取り、差し出した。
「ほら、手を出せ。気に入るものがあるといいな」
しばらく、ヘルブラントがリシャナに食べ物を貢ぎそうだな、と思った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ここから、リシャナの覇道が始まる…(違う)




