第8話「侵入、コロフォン」
旧都コロフォンの中は、魔王の居城らしい不気味さに加えて、元々は繁栄していた都であるが故の優美さの名残も持ち合わせているという、少し不思議で矛盾していた。
家の多くが黄色や橙色、赤色といった多色の煉瓦で作られていて、華やか…………とは言いがたいが、少なくとも地味ではなかった。それに、建築家が文明の発達していないこの世界で、種類の少ない建材から如何にして意匠を凝らしてこの都を作り上げたのかがわかった。
どの家にも屋根に風見鶏が設置されていて、風が吹く度に都一帯が動きを見せる光景を想像すると、一度は旧都となってしまう前に訪れたかったなと切に思う。
尤も、今となってはその殆どに蜘蛛の巣が張っており、風見鶏はただのお飾りとなっている訳だが。
私は、そんな決して動かない廃れた街道を、臆することなく奥へ奥へと進んでいく。私があまり恐怖を感じていない一方、私の左手が握っているハルの右手は僅かに震えていた。
「大丈夫?」
「…………」
私が問いかけるも、ハルから返答はない。
ハルは私が手を引くのを頼りにして、目をギュッと瞑ったまま私についてきている。恐怖で逃げ出したいのを堪えるのに必死なようだ。左肩からずり落ちているリュックサックの紐も直していない。ただ、恐竜の巣から卵を盗んで詰め込んだのかってくらい大きなあのリュックサックではない。必要最低限の飲料と食料を詰め込んだコンパクトなもので、ちょっと飲料が重いくらいだが戦闘に差し支えるのは間違いないので、ハルに持ってもらっている。
他の荷物はコロフォンに入る時に外に置いてきた。危険な場所だと名高いこの地に近づく盗賊はいるわけがないから、盗まれる心配はない。もし魔物に持って行かれるようなことがあれば、それはもうドンマイとしか言えない。戦闘の邪魔になるよりはマシだ。
私は、ハルにもう一度声をかけてみる。今度は、手を繋いでいない方の手でずれたリュックサックの紐を掛け直してやりながら。
「ハル、大丈夫?」
「ひゃっ!」
「…………大丈夫じゃないわね」
「す、すみません。こんなことじゃダメですよね。気を引き締めます」
「いや、ハルはこれ以上ないくらい引き締めてると思うわよ。これ以上締めたら美しいくびれが砂時計みたいになっちゃうわよ」
「何言ってるんですか?」
「なんでもなーい」
本気でわからないという顔をしているあたり、ハルにこの手のジョークはまだ通じないということだ。残念だが、これからどのように理解させていくのか楽しみでもある。
因みに、ハルのくびれについては、あちらの世界では人気モデルにも劣らないスタイルを持つ私のお墨付きだ。まだ十四歳で発展途上なだけに胸も尻もまだまだだが、くびれだけは一級品だった。特に意識して絞っているわけではない筈だが、二つの等脚台形を上辺同士で合わせたようにくっきりとくびれが出来ていた。
本当に、肌のきめ細やかさといいくびれといい、羨ましいばかりだ。
しかし、私だけがハルを堪能して充足感に浸っているわけにはいかない。どうにかハルの気を紛らわせなければ。
「ハル、魔王に勝ったらお小遣いが貰えるわよね?」
「はい。二千ユルです」
「そのお金で、帰ったら下着買いに行かない?」
「……下着ですか?」
「ええ。昨日見た限りでは、かなり使い古していたようだったから」
「いやいや、使えるんだからまだ買わなくてもいいじゃないですか」
「だめよ! デリケートなところを守るためのものなんだから、常に清潔な状態のものを使わなくちゃ」
「…………そんなに言うのなら……買います」
「よかった。じゃあ、私の分もよろしくね」
「は? 何を言っているんですか? 私のお金なんですけど」
「いいじゃない、沢山あるんだし。それに、その大金も私がいなければ手に入らなかったものなのよ」
「…………わかりました」
「ありがとう。じゃあ……」
私は、ハルに私の分の下着も奢ってもらえることに歓喜しながら、右の拳を振り上げた。
すると、ちょうどその場所に何かが激突してきて私の拳が炸裂し、それは粘着質のある体液を撒き散らしながら爆散した。
「ーーえっ?」
「早くこいつらをやっつけないとね」
私が後方を振り返ると、日当たりが悪い建物の間の暗がりに赤い光点が星空のように無数に輝いている。だが、その光はそんなにいいものじゃない。今しがた進んで来た筈の道を、数えるのが億劫になるほど大量の蜘蛛型が埋め尽くしているのだ。
つまるところ、退路が絶たれた。一方で、前方は忽然としている。早くたどり着いてこいと魔王に催促されているのか、それとも待ち伏せされているのか。
どちらにしても、今前方に進んだとしてもこの蜘蛛型の群れは私を狩る気満々なので、いつまでも追ってくるのがオチだ。魔王のもとに辿り着けたとして、そこにこいつらが同席していると、私とて勝算はない。
「ここで相手するしかないか」
私はハルの手を離して、両手をフリーにした。怖がりっぱなしのハルの手を離すのは申し訳ないが、この蜘蛛型の群れを殲滅することが最優先事項だ。
「ハル、そこでジッとしててね」
「わ、わかりました」
ハルの声は震えている。無理もない。私がハルと初めて会ったあの時、一体だけでもあれだけ怯えていたのに、今は数千体かそれ以上いる。
でも、何があってもハルには脚一本触れさせない。
「絶対に、一歩も動かないでね」
「は、はい」
珍しく真剣な私に気圧されて、ハルが背筋をピンと伸ばす。表情には、緊張が走った。普通に怖がってる顔も可愛かったんだけどな。
「さぁ、この数日間で貯めた力のその片鱗、貴様らに見せつけてやろうじゃないか。覚悟しなさいよこの蜘蛛畜生共が」
私は、《百合昇華》を解放していく。魔王戦のために取っておかないといけないので、最大パワーはかなり控えめにしなければいけない。戦い以上にその少なさを維持することの方が難しいが、集中力を切らさなければ大丈夫。
下手に自分から動くことは得策ではないので、そのままハルの側で警戒を続ける姿勢でいた。しかし、待っても待っても蜘蛛型は一体も飛びかかってこない。
どうやら、私から仕掛けにいく気がないことも、蜘蛛型から仕掛けることにあまりメリットがないことにも気がついているようだ。しかし、以前遭遇した時、このモブの蜘蛛型はこんなに知能があっただろうか。いや、なかった。もっと本能のままに私たちを殺そうとした。
おそらく、この蜘蛛型の大群を統率している特殊な個体がいる。そいつを倒せば、モブの統率がなくなって動きが単純になり、この包囲網の突破は容易になる。
それが分かっていても、この薄暗くあまりにも敵が多すぎるこの状況では、その統率者を探すこともできない。こうしている間にも、私の体からエネルギーが少しずつ無駄に流れ出している。
「仕方ないか」
私はパワーをさらに強めに解放した。元々軽かった体が羽が生えたように軽くなった。家の近くに落ちてきた蜘蛛型と戦った時よりもさらに軽い。視覚が移動スピードに喰らいつけるか不安だが、これならハルを守りながら戦える。
「何があっても、絶対に動かないでよ」
「はい」
ハルのはっきりした返事を聞いた私は、両膝を軽く曲げて溜めを作り、そして前方へミサイルの如く思いっきり突撃した。
左脚は曲げて右脚はピンと伸ばして一直線に蜘蛛型の群れに飛び膝蹴りを炸裂させる。その勢いは数体の腹に風穴を開ける程度ではおさまらず、発泡スチロールの壁を破っていくようにパンッパンッと快音を立てながら蜘蛛型の群れに朱雀大路を伸ばしていく。
百数メートル進んだところで、漸く勢いがなくなり、ちょうど停止地点にいた蜘蛛型の腹にポスッと優しくタッチした。
震えながら弱々しく威嚇をする蜘蛛型に満面の笑みを向けると、回し蹴りを繰り出して周囲の蜘蛛型の頭部を吹っ飛ばした。
そこでハルに一体の蜘蛛型が襲い掛かろうとしているのに気がついた。
「ハルッ!」
私は思いっきり地を蹴った。私が切り開いた道の横にずらっと並ぶ蜘蛛型の目の光がそれぞれ一本の光の線になって、大量のレーザー光線が私の横を過っていくように見える。
行きより速く閃光の如くハルの方に跳び、手を伸ばした。
そして蜘蛛型の脚先がハルに届きそうになった寸前、私の手がハルに届き、ハルを抱き締めて、自分の体を下になるように体を回した。そして、跳躍の勢いのまま地面に滑り込んだ。
先程までハルがいた位置では、一体の蜘蛛型が鋭い脚で横に凪いだ後の姿勢のまま空中で硬直していた。……間一髪だった。
私は、私に抱かれたまま縮こまっているハルに訊いた。
「大丈夫?」
「…………こ、怖かった。でも大丈夫です。アリスさんが守ってくれたので」
「そうーー」
私は、ハルを抱く手を片方強く振り払った。すると、ちょうど飛びかかってきた蜘蛛型の胴体に鈍い音を立てながらヒットして、それは吹っ飛ばされていった。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
私はハルをそっと床に横たえて、立ち上がった。見上げた先には、さらに大きく脚を広げながら飛びかかってくる数体の蜘蛛型がいた。
同時に何体も来たので焦ったが、横の方で動かなくなっている一体目の惨状を見たからか、直接私のところには降りてこず正面の少し離れたところに降りた。
まとめてかかれば多少なりダメージを与えられるという集団戦の知恵がないから、本能的に私を避けたのだ。四方八方に広がらず、真正面に全員降りたことにも、知恵のなさが窺える。
しかし、この蜘蛛型たちを統率しているものはそれほど知恵がないのだろうか? いや、待ち伏せをする知恵があるならそこまで馬鹿ではない筈だ。だとすると、蜘蛛型の数が増えすぎると単純な命令しか出せなくなるという感じだろうか? もし本当にそうだとしたら、かなり討伐の難易度が下がる。このモブたち全員に統率者の知恵を反映した動きをされたら、流石の私も捌き切れない。
「さぁ、来なさいよ。一体ずつでも、まとめてでも、私が一網打尽にしてあげる」
私が言うと、蜘蛛型たちは同時に飛びかかってきた。狙いは私だ。それなら、ハルを守ることを考えずに戦える。これだけの蜘蛛型を揃えたのだから、後方に私の認識していない他の蜘蛛型はいないだろう。だが、万が一にもいたとすれば大変だ。
「ハル、後ろから何か来たら教えてね」
「はい」
ハルに見張りを頼んでから、私は蜘蛛型への対処を開始した。
まず一体、真正面から飛び込んでくる阿呆の顔面にストレートを打ち込み、その真後ろにいたもう一体ごと貫き通す。
その少し横から左右一体ずつ飛び込んで来た二体は、脚をそれぞれ一本ずつ掴んで、ぶつけ合わせた。二体はそれぞれぶつかった方の半身を潰し合い、私が手を離すとグシャッと地面に落ちた。その屍に駆け寄るようこちらに向かってくる一体は、その屍にねじ込むように上から拳で潰した。
その瞬間に晒した背中に飛びかかってきた一体は、体を起こす勢いでバク宙の要領で蹴り落とし、私はスタッと腕を横に広げて優雅に着地した。
これで同時に飛びかかってきたのは全部だったが、第二波がやってきた。今度は左右にも展開しながら多方向から突撃してきた。
しかし、近づいてくるやつから順番に一体ずつ殺していく。近づいてくるまでの時間の差は僅かだが、私のスピードなら一体ずつ漏れなく掃討できる。
パンチしたりキックしたり、投げたり、ぶつけ合わせたり、多種多様な技を駆使して踊りを舞うように優雅に蜘蛛型を逝かせていく。蜘蛛型から吹き出す青い血が、凄惨な光景を花の如く美しく彩っている。
第十波まで退けると、一旦攻撃が止んだ。どれほど敵戦力を削ったか確かめるために蜘蛛型の群れを見たのだがーー
「あれ? あんま変わってない?」
少しは減ったのかもしれないが、目に見えてわかるほどの変化はない。しかしその一方、私の周囲にはすでに蜘蛛型の屍がちょっとした丘を築いている。
私は、立って後ろを見張っているハルの手を取った。
「どうしました?」
「…………逃げるよ」
私はハルの返事を待たず、ハルの手を引き寄せて持ち上げて横抱きにした。
「……え? ん、あれ、なんで?」
急な出来事に、ハルは混乱して目を泳がせながら私に訊いてきた。
私は、蜘蛛型に追い付かれないように、高速道路を走る自動車くらいの速度で走りながら答えた。
「思ってたよりかなり数が多い。あんなの相手してたら魔王を相手にするまで力が保たない」
「なるほど。……って、そんなに多いんですか?」
「多い。全部相手してたら明日までかかるかも」
「それは、まずいですね」
「ええ。ひとまず、振り切るわよ。速度上げるから、吹き飛ばされないようにしっかり掴まってて」
「これ以上上げるんですかああぁぁぁぁっ」
腕の中のハルが悲鳴を上げているが、私は構わずさらに加速する。みるみる蜘蛛型の群れは小さくなっていく。これなら、あっという間に逃げ切れそうだ。
しかし、このまま追ってこられたら面倒だ。魔王と戦っている最中に突入してこられたら勝ち目がなくなってしまう。
私がそう懸念していると、腕の中のハルが掴まっている手を片方離した。
「ちょっと、危ないじゃない。ちゃんと掴んでて」
「あっちに、大量の魔石が……」
「魔石?」
ハルが少し先の一点を指差しながら教えてくれた方を見るが、私にはちっとも分からない。
「…………どこ?」
「あーもうっ、忘れてた。アリスさんには魔力がないから、魔石から発される微弱な反応は感知できないんでしたね」
「ごめんって。というか、本当に魔力がないって不便ね。魔石がどこにあるかすらもわからないなんて」
「本当ですよ。山ほどあるのに」
ハルは私の腕の中で大きく溜め息を吐いた。
それにしても、随分と引き離したとはいえ、後方から大量の蜘蛛型が迫っているとは思えない、なんとも間の抜けた会話である。
「もう少しでその魔石の場所に辿り着くので、たくさん石が積んである場所が見えたらそこに向かってください」
「でも、逃げた方がいいんじゃないの?」
「いいですから。あれだけの魔石があれば、蜘蛛型を全滅させることができるかもしれません」
「本当に?」
「……多分」
「少しでも可能性があるなら、やるしかないわね」
私は前方を注視する。現在私は、超高速で走り続けている。おそらくその魔石の場所に辿り着くまでは、それが目視できてから一瞬だ。
強風が顔に打ちつけるが、瞬きをするのすら惜しい。勝負は一瞬、しかも私にはその一瞬が予期できない。
脚は走ることに集中しながら、思考は前方を見ることに集中させる。
代わり映えのない、規則的な朽ちた建造物の群れの景色が流れていく。ひび割れた街路、枯れた水路、蜘蛛の巣が蔓延る家屋、錆びた鉄塔、朽ちた木々ーー無機質な街並みが延々と続いていく。
しかしある一瞬、寒色だらけの街路の左脇の遠い一点に、仄かに赤色が見えた。その直後、私は迷いなく減速を開始し弧を描くように左に曲がった。
段々と目の前にその色が近づいてきた。よく見ると、それは手のひらに収まるほどの小さな塊の山だった。おそらく、これら全てが魔石だ。
それが見えたのはよいものの、明らかに減速が間に合わない。もう数メートル手前まで魔石の山に接近しているというのに、風が強く顔面に吹きつけている。
(これ、突っ込むなぁ)
悟った私は背中を丸めて腕の中のハルを抱え込むようにして守り、そして思いっきり壁に激突した。ドゴッと鈍い音が頭に響き、どうにか停止した私は床に倒れ伏した。
「いったぁ……」
倒れた私の懐からハルがのっそりと抜け出した。そして立ち上がると私を不機嫌な顔で見下ろした。
「何やってるんですか? 魔石にぶつかっていたらどうするつもりだったんですか? ここら一帯の魔石は全部爆発物ですよ? あの蜘蛛の群れどころか私たちまで木っ端微塵ですよ?」
「す、すみません」
私は頭を摩りながら謝った。普通の人間なら頭蓋骨が割れて中身にまで損傷を被った可能性もあるが、身体強化されている私は頭の外側が痛む程度で済んだみたいだ。
回復能力もそれなりにあるようで、あっという間に痛みの引いてきた私は、周囲を見回した。一面に、鮮やかな赤色の魔石が入れられた箱が積み重ねられている。
おそらく、ここはコロフォンがまだ退廃していなかった頃に武器屋として使われていた建物だ。暗がりのなかで壁をよく見ると、錆びて光沢を失った剣や盾が掛けてある。それ以外の場所にはほとんど魔石が置いてあったが、私が激突したところだけ、たまたま魔石が置かれていなかった。それよりもーー
「これ、爆発物なの?」
「そうです。この赤色の魔石は爆発魔法が込められています」
「赤色の魔石は爆発魔法か。他の種類の魔石もあるの?」
「はい。相手を氷漬けにしたり、眠らせたり、視界を奪ったり、感電させたりと、色々な魔石があります。魔力のない人でも魔法を体験できるので、万人から人気なんです」
「へぇ、つまり私でも使えるってこと?」
「はい」
「そうなのね。…………ふふふ。いいこと思いついちゃった」
私が不敵な笑みを浮かべながら魔石の山に手を伸ばすと、ハルが叫んだ。
「危ないですよ! 下手に刺激を加えたら数秒後に爆発するんですから。こんなに魔石が集まってるところで一つでも爆発させたら、まとめてドンですよ!」
「へぇ、刺激した瞬間即爆発ではないのね」
「まぁ、はい。強く振ったり握ったり叩いたりしたら数秒で爆発します」
つまり、手榴弾のようなものということか。
「それはますます、都合がいいわ」
私は、魔石の山を見て口角が吊り上げた。今から行うことによって、私は、元の世界では映像越しでしかお目にかかれないような、気分爽快な光景を目にすることになるのだから。
「ハル、ここにある魔石の山を全部外に出すわよ」
「ぜ、全部ですか?」
「私は箱に入っているのを出すから、ハルはそこら辺に散らばっているものを拾って私が外に運んだ箱に入れて頂戴」
「わ、わかりました」
私とハルは、すぐに作業に取り掛かった。私は、箱を持ち上げる時も運ぶ時も置く時も、細心の注意を払った。一粒でも落としたら全てがお終いになる可能性がある。運ぶ最中に落ちることが予想される粒は、予め別の積載量に余裕のある箱に移し替えておいた。
ハルも一粒ずつではあるが、慎重に安全に、そして何よりも確実に運んでくれていた。そのハルの額には汗が滲んでいた。この世界に来てまだ日が浅い私は釈然としないが、この世界に慣れ親しんでいるハルにとっては、それほどにこの魔石は危険物なのだ。まあ、それがわかったところで魔石の扱いを改めようなんて気にはさらさらならないけれど。
ものの数分で箱を全て移し終え、建物の外に出て、元来た道を仁王立ちで見ている私の周りには、沢山の魔石入りの箱が並んでいる。
そして、私が見つめる遥か先からは、僅かに音が聞こえる。ほんの少しだが、地面から揺れも感じる。間違いなく、蜘蛛型の群れが追いついてきている。
だが、私は一切危機感を感じていなかった。寧ろ、期待に胸を弾ませていた。もうじき、あの群れがこの廃れた都に多くの人間を魅了しうる大輪を咲かせるのだから。
私は、ハルに魔石を一つだけ手渡した。
「これを、できる限り遠くに置いてきて」
「できる限りって、どこまで行けば?」
「私が後から追いかけるから、私が追いつくまで可能な限りここから離れて。ただ、近かったら命に危険が及ぶから、丁寧に運ぶのはいいけどその後のことも考えてね」
「何を、する気なんですか?」
「この魔石の山を見てわからないのなら、ハルには少し戦闘の教育が必要かもね」
もちろん、○教育も並行して。……というか、そろそろハルにそういうことを教えないといけないなぁ。帰ってからが楽しみだ。
「わ、わかりました。あまり早く追いついて来ないでくださいね」
ハルはそう言って、小走りで私の後方に去って行った。私は振り返ることなく、すぐ隣の箱から一粒魔石を掴み取った。
「大丈夫。可能な限り時間は稼ぐから」
私は大きく左足を上げて、投球フォームをつくった。左足を地面に踏み込み、組んだ両手を解いて、右腕を大きく後ろに下げ、力強く素早く右腕を前に振り切り、そしてリリースした。リリースの直前に魔石を握る手にグッと力を込めて魔石を作動させた。
投じられた魔石は、プロ野球選手なんか目じゃないほどの豪速で、重力に逆らっているように一直線に蜘蛛型の群れに突っ込んでいった。
先頭集団に届く瞬間に着弾、一瞬の発光の後にドンッと爆発した。爆発の規模は概ね予想通りで、あちらの世界での手榴弾ほどの小規模なものだ。作動させてから爆発までは大体三秒だった。
私的には目の前で爆発が起こっているという初体験に少し興奮したが、この小さな一粒では威力が小さく、先頭の数体しか屠れなかった。
その程度の被害で蜘蛛型の猛進が止められる筈がなく、奴らは仲間の死など意に介していない。
しかし、無意味な攻撃ではない。少なくとも統率者に魔石の存在を意識させることは出来た筈だ。寧ろ、時間稼ぎというよりこちらが本命だ。
私はまた一粒魔石を取り出して、今度は手に力を入れず高く放物線を描くように投げた。鮮やかな赤が見えなくなるほど高く上がり、頂点に達すると、重力によって等加速度運動しながら蜘蛛型の群れの真ん中あたりに落ちた。
落下の衝撃で作動した魔石は、一度地面で跳ねた後再び落下して、その瞬間に炸裂した。これで群れのド真ん中に死体ができて行進が滞ることを期待したが、蜘蛛型は仲間の屍体を踏み越えて私の元に向かってきている。
私は、今度は魔石を五つ取り出して、宙に軽く放った。空中で散らばった魔石を蹴り、群れに向かって飛ばした。数カ所で爆発が起きたが、疎ら過ぎて群れを止めるには至らない。
それほど時間稼ぎが出来ていないのに、もう蜘蛛型の軍勢は視認できた時からもう半分ほど距離を詰めてきている。後方をチラッと見ると、ハルはまだ安全圏まで離れられていない。あと二分は保たせなければいけない。
こうなっては仕方ない。お楽しみの質は落ちてしまうが、ここで勿体ぶっていてはこの魔王討伐自体も難しくなってくる。
何もしていなくても空気中に放出されている私の中のエネルギーも、一連の戦闘が始まってから一割ほど削れている。こんなところで手こずっていては、魔王に無力な状態で対面することになる。
「それは、御免被りたい、なっ」
私は、両手に可能な限り多くの魔石を掬い取り、天高く投げ上げた。続けて同じように両手一杯に魔石を掬って一度目より低空に放った。
それが落ちてくると、地面にぶつかる前に一粒ずつ蜘蛛型の群れに向かって蹴り飛ばした。
魔石の粒は両手両足の指では数えられないほどある。しかし、身体強化による素早い動きで一粒一粒を正確にまっすぐ飛ばした。
そのほとんどを蹴り飛ばした時に、最初に飛ばした魔石から爆発し始めた。ドドドドドドドと連続して爆発音が耳に届いた。その間も私は魔石を蹴り続けていた。
最後の一粒まで蹴り終わると、私は大きく息を吐きながら前方を見た。一つ一つは小規模な爆発だが、やはり幾度も重なると爆煙がかなり広がっている。今も、爆煙の中から発光と爆音が起こり、爆煙もかさを増している。
やがて最後の一粒が爆発した。これで沈黙が訪れてくれたのならどれほど良かっただろうか。だが、爆煙の中からは五月蝿い足音が鳴り続けている。すぐに先頭集団が爆煙を抜けてきた。全く軍勢が減っている気がしない。
「これは、埒があかないなぁ」
私は再び後方を確認した。ハルは安全圏に少し近づいていた。これ以上の時間稼ぎは無理だ。多少ハルに負担をかけるけど、私が足を速くしてハルと共に可能な限り遠ざかるしかない。
決断した私はすぐに、ハルのもとへ走った。魔石の山は置き去りにしたまま。
「ごめん。危ない役目を任せてしまって」
「うぎゃぁっ!」
ハルはすっと唐突に横に現れた私に話しかけられて、ビクッと肩を跳ね上げた。その拍子にハルは左手に乗せた魔石を宙に舞わせそうになったが、右手で上から優しく押さえて事なきを得た。「ふぅ」と安堵の息を吐いて私に向いたハルは、私をキッと睨んだ。
「驚かさないでくれませんか本当に危ないですよこんなとこで私死にたくないんですよしかもよりによってこんなしょうもない理由で」
「あー、すみません」
「本当に、やめてください」
「ごめんごめん。じゃ、それ貸して」
「本当に、反省してるんですか? はいどうぞ」
ハルは不服を訴えながらも、大事に両手で覆っていた一粒の魔石を手渡してくれた。
私はそれを受け取って、遠く百数メートル先の魔石の山を見た。蜘蛛型の群れは魔石の山を避けるようにしてこちらに接近している。
やはり統率者はそれなりに賢いようで、あの大量の魔石の危険性に気づいている。最初の攻撃で魔石を意識させた甲斐があったというものだ。
だが、残念ながら私の狙いに気づくには一歩及ばなかったようだ。むしろ、先頭集団に魔石の山を踏ませた方が被害が小さかったかもしれないことには気づけなかった。危険な要素だからこそ、それが小さな粒の集まりだとしても、単に無視するだけではいけないのだ。
私がここでこのモブたちを相手しているように。
私はじっくりと機会を待つ。どんどん蜘蛛型の群れが魔石の山を避けて、こちらに近づいてくる。私は早く手中の一石を投じたいのを堪え続ける。隣では、危機が迫っているのに私が何もしないので、ハルが慌てふためいている。
「ちょっと、何突っ立ってるんですか? 早く逃げましょうよ」
「待って。あと少し」
私は前方の蜘蛛型の大行進から一切視線を外さず、タイミングを推し量る。狙うのは、群れの中間辺りが魔石の山を通過する瞬間だ。具体的な総数はわからないから、何となくここら辺だろうという勘で当てるしかないけれど。でも、多少真ん中から後ろであっても構わない。
最低限、群れの最後方に構えている統率者を消し飛ばせればいいからだ。モブたちは、花をより美しく映えさせるために巻き込まれるただのオマケである。
ただし、それゆえに、真ん中より前であってはならない。統率者が残ってしまったら、その後の展開がわからなくなる。
群れはどんどん近づいてくる。足音と地面の揺れが徐々に大きくなっていく。ハルは、逃げ出そうと私の袖を引いてくる。だが、もう少し。
蜘蛛型が魔石の山を数百体、また数百体と通過していく。そしてついに、その瞬間は訪れた。
「今ッ!」
私は全く根拠のないただの勘を信じて、魔石を投じた。魔石は真正面ではなく大きく逸れて右に飛ばされている。
ハルが横から「何やってるんですか!」と涙目で体を揺らしてきたが、私はそれを無視してハルを横抱きにして、全速力で駆け出した。安全圏までは余裕があるが、ハルに怪我を負わせるわけにはいかない。
今頃、後方では魔石が、私が投じる際にかけた回転によって大きく迂回しながら、魔石の山に向かっていることだろう。その証拠に、私の腕の上でハルが驚いて目を丸くし開いた口が塞がらなくなっている。
空中で軌道を曲げ弧線の軌道を描いた魔石は、途中で蜘蛛型に当たって爆発することなく、魔石の山の少し手前に落下した。落下の衝撃で作動した魔石は一度大きく跳ね、数ある魔石の山の一つに接近した。
そして、爆発。蜘蛛型は一体たりともダメージを全く負っていないが、その山のような魔石は一斉に作動した。そして、カッと光ったあと中規模の爆発を起こした。魔石の山の周囲の蜘蛛型が吹っ飛び、多くの死骸の破片が舞い上がった。しかし、これで終わりではない。
今の爆発により、残り全ての魔石が作動した。その総量は、これまでの比ではない。
後方でチカチカチカチカッと無数の光が発せられた。背を向けていても、あまりの眩さに頭がクラクラするほどの光量だ。
ハルはキャッと短く声を発して両目を手で覆い、顔を前に向けた。私はさらに走る速度を上げた。
当初の予想より爆発が大きいかもしれない。
そう思った直後、後方で内臓までも揺らす空気の震えと共に重低音が届いた。それだけで後方を振り返らずとも爆発の規模はわかる。これはかなりヤバい。
私の腕の中のハルは、今度は耳を塞いでいる。大きく口を開けているから、おそらく悲鳴を上げているのだ。しかしその悲鳴すらも爆音に殆ど打ち消されている。
そして爆発から数秒の後、私の背中を暴風が強く押し上げた。そのまま走り続けようと私は足に力を込めた。しかしその抵抗は虚しく、私の体は瞬く間に空へ飛び上がった。あっという間に、周辺の建物より遥かに高くまで飛び上がった。
空中から爆発の様子を見ようとしたが、爆風が熱を孕んでいるせいで、とても目を開けられない。開けた瞬間網膜が溶かされてしまいそうだ。
私は、そのまま凄まじい速度で爆心地から遠ざかっていった。いつの間にか横抱きではなく普通に抱いていたハルを抱くこの腕に、私は力を込めた。ハルも飛ばされてしまわないように、がしっと私に必死にしがみついていた。
私たちは爆風に飛ばされながら少しずつ高度を下げていった。かなり爆心地から遠ざかって風が弱くなると、落下の速度が急激に速くなった。
熱量も減少したのでゆっくりと瞼を上げると、急速に地面が近づいてきていた。体がゆっくりと回転しているが、このままだと私が背中から落下してしまう。
この屈強な体なら落下の衝撃にも耐えられるかもしれない。……いや、流石にリスキー過ぎるし、そんな乱暴な不時着をしたら、仮に私が助かってもハルがどうなるかは想像がつかない。
私は迫る地面を冷静に見つめながら、回転の速度を調整する。浅過ぎず、かといって深過ぎない。そんな緻密な調整を正確に行うために、今日でいちばん集中した。
ハルを横抱きにし直し、脚を前にピンと伸ばし、落下の空気抵抗に抗って、踵から両足同時に着地した。
ガガガガガガガガと音を立てて踵で堅い枯れた地面を抉りながら減速していく。顔面から地面に突っ込まないように、重心を調整する。
靴の踵が摩擦で擦り減っていき、完全に擦り切れると踵そのものに熱さを感じた。
能力の発動で体が頑丈になっているため、肉が抉れることはない。しかし、痛覚はあるため熱を伴う痛みに足が悲鳴を上げている。私は歯を食いしばって痛みに耐え続けた。
十数秒経って、ようやく私は停止することができた。
足の痛みを堪えながらハルを地面に下ろした。
「ハル、怪我はない?」
「はい。アリスさんが守ってくれましたから」
「それはよかった」
ハルは私の質問に答えると、背負っていたリュックを体の前に持ってきてその口を開け、軽く中を漁ってから口を閉じて再び背中に回した。
「リュックの中身も無事です」
「よかった。閉じたところ悪いけど、水を貰える? ずっと熱風を浴びていたから喉が渇いてしまったわ」
「はい、ちょっと待ってくださいね」
ハルはそう言いながら若干焦った様子を見せながら、リュックから水の入った容器を取り出して私に手渡した。
「ありがとう」
私なんかのために急いで水を用意してくれるとか、本当にいい子すぎる。きっと将来は素晴らしいお嫁さんになるのだろうなぁ。結婚をするには、まだ男という生き物や性というものについて知らなすぎるけれども。
私はハルに手渡された水を飲みながら、後ろを振り返った。
その私の目に映ったのは、黒っぽい灰色の濃密な花粉を振り撒いている、赤や橙の織り交ぜられた鮮やかな大輪の花が現れた様だった。
大きく開いた花弁は、その開く際に起こした風の凄まじさを物語っている。柱頭をぐるっと囲むようになっている一枚の花弁は、端から端まででゆうに四百メートルはあると思われる。
流石にこの規模の爆発になるとは想定外だった。魔石の力を見誤ったかもしれない。
爆音はまだ鳴り止まないし、先程よりは熱くないが弱い熱風が肌をちりちりと焼き、髪を揺らめかせている。
「ちょっと、やり過ぎたかも」
「ちょっとどころじゃないですよ。町ごと消し炭になるかと思いましたよ」
「それはそれで魔王も倒せるからアリなんじゃない?」
「馬鹿ですか?」
「いや、流石に馬鹿だったなと思ってます」
「…………ふふ」
「ふふふふ」
珍しく真面目な顔で反省する私を見て、ハルが小さく笑った。大きな難題を乗り越えて気が緩んだ私も、それに釣られて笑った。
現在地は未だに敵の本拠地。それ故に緊張の糸は解けずぎこちない笑いだったが、実際よりも遥かに長く感じた戦闘の後で、とても久しぶりに笑ったような気がした。
「あははははははは」
「ふふっ、ふふふふふ」
ここで笑っておかないと気が保たないと思った私は、笑いが尽きるまで無理矢理にでも笑い続けた。ハルもずっと恐怖に怯えていたからか、私が落ち着くまで笑いを絶やさなかった。
落ち着いた私は、ちょっとだけ吹っ切れた顔でハルに向き直った。
「よし、こっからが本番よ。頑張りましょう」
ハルも恐怖が少し薄れたらしく、私の言葉に応じて普段に近いジト目で返した。
「今度は無茶苦茶しないでくださいよ」
「善処するわ。多分無理だけど」
「ちょっと? 本当に頼みますよ。怖いんですから」
「はいはい」
私は熱風によって温められたハルの手を取って、コロフォンのさらに奥へと進もうとした。
その瞬間だった。
「わざわざそちらから来る必要はないわよ」
「ーーえ?」
前方から艶めいた女の声が聞こえた。
その声の方を向くと、そこには異形の存在が立っていた。
上半身は人間の女、下半身は蜘蛛の姿をしている。腰上まで伸びた小豆色の髪がおろされ、前髪は切長の目に少しかかっていて、長い横髪で乳房を隠している。腰の辺りで人間の肌の色と蜘蛛の体表の黒色がグラデーションになっている。後ろに一メートルほど伸びた蜘蛛の体の横には在りし日の隕石の如き蜘蛛型のように禍々しい紫のラインが入っている。ただ、六本ある足は尖っていなかった。
この姿を見ただけで、こいつの正体は断定できる。彼女は、あちらの世界では神話の中に登場するアラクネで間違いない。
そしてその発言から察するに、彼女こそが、私たちの遠いこの地に来た目的であるようだ。
それすなわち、彼女が《陰鬱の魔王》シュピネーだ。
○◉○◉○
「そんなに堅くならないで。別にいきなり襲い掛かろうなんてことは思ってないわ。ただ、少しお話がしたくてね」
「そんなことーー」
誰が信じるかーーそう続けようとしたが、一度その言葉を呑み込んでおく。絶好の機会があったにもかかわらず、奇襲を仕掛けてこない時点で、彼女が私たちと対話をしたいというのが本当である可能性は、十分にある。
完全に信じ切れば、それは単なる油断に他ならない。しかし、相手を吟味せず、お構いなしに攻撃を仕掛けるというのもまた、阿呆の所業だ。
彼女は、貴重な情報源だ。上手くいけば他の魔王について色々聞くことができるかもしれない。その機会を自ら積極的に無駄にしようものなら、私はしばらく自身を馬鹿と罵ることとなるだろう。
「残念だけど、私に他の魔王の情報を聞いても無駄よ。多分、あなたは私にそれを期待しているのよね?」
シュピネーは、私の心中を見透かして先にそう釘を刺してきた。
私は内心ドキドキしてしまったが、それを悟らせないように平静を装った。それも悟られてしまうかもしれないが、間抜けな姿を晒すよりはマシである。
「それは、何故?」
「私たちは魔王なんて一括りにして呼ばれているけれど、互いに繋がりなんてほとんどないからよ。私は、会ったことのない魔王の方が多いわ」
「あっそ」
私が折角会話に応じようと思った要因をいきなり亡き者にされた私は、装うまでもなくあっさりと冷めた。
いまここで一発かましてやろうかと思ったほどだ。
「ちょっとちょっと、そんなあからさまに興味を失わないでよ。情報資産としてでしか見られていないなんて、魔王である私でも流石に傷つくわよ」
「うだうだ言ってないで、とっとと死んでくれませんかねぇ。そうしてくれたら私は楽なんですけど」
私が辛辣に言うと、彼女はがっくりと肩を落とした。私はそれを鼻で笑った。
すると彼女はハルの方を見てーー
「あなた、名前は?」
「……ハルです」
「そう。ハル、この女について行くのはやめた方がいいわよ。性格がかなり曲がってる。あなたみたいなまっすぐな子が一緒にいるべきじゃないわ」
「……この人の性格のおかしさは織り込み済みです。でも、私にもこの人について行く理由があります」
「それは何かしら?」
「この人について行って魔王を倒せば、凄い額のお小遣いが貰えるんです。だから、私はこの人について行くんです」
「……んっ?」
ハルの答えに、シュピネーは一瞬硬直した後、短く疑問の声を漏らした。
私はそれを嘲りながら、腕を組み胸を張ってシュピネーに告げた。
「まぁ、そういうわけで彼女は私について来てるの。お互いに利益があって大きな不満のない関係なのだから、あなたの心配は杞憂に過ぎないということよ。はい、お疲れ様。さっさと死んでください」
「……純粋無垢な子供だと思ってたのに、ちゃんと捻くれてたのね」
「純粋無垢なのは間違いないわよ。この子、性の知識は皆無なの」
「まあ、それは見ればわかるわ」
「本当に、困ったものだわ。この歳でなんにも知らないんだもの。扱いが難しくて」
「そうよねぇ。どこまで言っていいのかわからないものね。いちいち説明するのも大変だし」
「そうなの。いやぁ、まさか魔王にもこんな庶民的な悩みが理解できるとは」
「私だって、最初から魔王だったわけじゃないのだから。私的には、魔王の中でもかなり人間に近い感性を保っていると思うわ」
「間違いない。あんたとは、気が合うかもしれないわ」
「あの…………」
私がシュピネーと盛り上がっていると、隣のハルが低い声を発した。その眉間には、むむっと皺が寄っている。
「…………二人で勝手に話進めないでもらえないですか? よくわからないけど馬鹿にされてる気がして、あまりいい気分ではないんですけど」
私はそう言って頬を膨らませているハルの頭に手をポンと置き、瞳を覗き込んで語りかけた。
「ごめんね。でももう仲良しタイムは終わったから。ここからは…………」
「そうね。お互い、少し踏み込んだ話をしましょうか」
私はシュピネーに向き直った。お互いに目を鋭くして、警戒モードに入る。ここからは、今までの穏やかさは棄て去り、お互いの望みをかけた戦いの前戯となる。
「まず、こちらから訊いてもいいかしら?」
「どうぞ」
先に口を開いたのはシュピネーだ。
「あなたは、どうして魔王を倒そうとするの? 確かに、町の人々を守りたいというのもあるかもしれない。でも、欲深く歪んだあなたが、そんな善人擬きの理由だけでこんな面倒で危険なこと、しないと思うのだけれど」
「そうね。私が魔王を倒す理由は二つ。一つは、町の人々を守るため」
「あら、意外ね」
「数日間だけあの町で過ごしたけど、本当にいい人ばかりだわ。私を普通の人と同視してくれる。もともといた街は、かなり生き辛かったから」
「町の人々を守りたい理由は、それだけ?」
「いいえ。本当は、私が町の人々を蔑ろにしてハルに見限られたくないだけ。ハルがいないと、私はこの世界で何もできないから。ハルがいないと……生きている意味がないの」
私がハルの方を見ながら言うと、ハルは少し頬を紅潮させてそっぽを向いた。あれ、もしかして照れてる? そこはジト目で「気持ち悪いです」って罵るところじゃないの? なんか可愛い。
「ハル、信頼されてるのね」
「私はまだ、微塵も信用してないんですけどね」
「わっ、嘘ついた。あれだけ私に『守ってくださいね』とか言ってたのに」
「そ、そんなこと……言った覚えありません」
最初は虚勢を張っていたハルだが、最後にかけて声が小さくなっていった。それを見て、私は思わず吹き出してしまった。
「何笑ってるんですか?」
「あはははっ、はは…………ふぅ。ごめんごめん。ちょっと面白かっただけ」
「そんなに笑わないでください」
「何であなたたちと話してると、自然に和やかになるのよ」
私たちのふわふわした会話に不服そうに口を尖らせたのは、シュピネーだ。
「失礼したわね。気がついたらこうなってしまうので……悪しからず」
「はぁ…………まぁいいわ。それで、二つ目の理由は?」
「もう一つは、魔王が滅ぼされて平和になった世界でのんびりと生活すること」
「…………は?」
私の答えを聞いたシュピネーは、たった一文字の疑問を口にした。そんなに意味がわからないようなことだっただろうか。
「そんなことのために?」
「そんなことって言われてもなぁ、私にとっては一番大事なことなのよ」
隣のハルも拍子抜けして目をパチクリさせている。確かに普通に考えてみれば、スローライフのために魔王討伐なんてぶっ飛んでいるかもしれない。
「私だってね、平凡な日常を送っていたらこんなところにいないわよ。でも、ちょっとしたきっかけで魔王と戦う羽目になって、それ以外の選択肢なんて用意されてなくて、仕方なくここに立っているの。最初は悲しかったわ。もう元の場所に戻ることが出来ない可能性の方が高いんだから。でも、それなら精一杯、現在いるこの場所での生活を満喫してやろうって決めたの。そのために、魔王は本当に邪魔なの」
私が長々と語り終えると、ハルはやっぱりあまり理解していなさそうだった。異世界から来たことを隠しながら話すために多少曖昧にしたところがあるから、それは仕方あるまい。
ハルに話すのは、もう少し信頼されてからの方がいいかもしれないと思っているのも理由のひとつだ。
だが何より、シュピネーに私の素性を明かすわけにはいかない。
私はまだ彼女の魔王間に繋がりはないという発言に確証を抱いていない。或いは、彼女自身が気付かぬうちに繋がりが出来ている可能性を疑っている。
彼女から他の魔王への繋がりはない可能性が高い。だが、他の魔王から彼女へはどうだろうか。この周辺に他の魔王の伏兵が潜んでいるかもしれない。そんな不明瞭な状況下で、私の詳細な情報を晒すわけにはいかない。
さて、私が疑いを抱いている彼女だが、私の発言を聞いてから俯いたまま両方の拳を握りしめて肩を震わせている。
「そんな理由で……」
「…………なに?」
「そんな、あなたひとりが幸せになりたいなんて理由で、あなたは私の子供たちを屠り、その上私をも殺そうというのかあぁぁぁぁぁッ!」
叫びながらシュピネーが飛びかかってきた。顔にはこの上ない憤怒の表情を映している。
「…………はぁ。ちょっと出力あげようか」
私は、《百合昇華》の出力を大きく上げて、何もしなくても漏れ出て行くエネルギー程度から、最大放出力の三割に引き上げた。この火力を出し始めると、自然状態なら一日半保つ程度のエネルギーが一時間も保たなくなる。そのため、ここだというタイミングで使うつもりだった。そのタイミングは今だ。
今から、シュピネーを殺す。
まずは飛びかかってきたシュピネーが、私の顔面に向かって放ったパンチを、鼻頭スレスレのところで手で包み込んで受け止める。怒りに任せた渾身のストレートをビタ留めされてシュピネーは一瞬驚いたが、すぐに怒りを取り戻した。
「殺してやる」
「それはこっちのセリフよ。あんたは私が何を背負っているのか気になったかもしれないけど、私はあんたの背景に微塵も興味はないの。だから、あんたが私を殺してでも守りたいものがあるなら、私を殺して守ってみせてよ。でもそれが出来ないなら……死んで。私のために」
「クソがぁぁァァ!」
吠えながら、シュピネーはもう片方の拳を私の腹めがけて放った。私は、それも手で受け止めた。
「ハル、そこの岩の影に隠れてて」
「は、はい」
私が後方十数メートルのところにある大きな岩を指差しながら指示すると、ハルは返事してすぐに動いてくれた。
「いいサポーターでしょ? 状況判断に優れているの。あんたんとこのチビ蜘蛛と違ってね」
「黙れ!」
私が煽るとシュピネーは拳に力を込め、力で押し込もうとしてきた。
本当に、何でこんな直情的な奴が《陰鬱》なんて称されているのだろう。いや、直情的だからなのだろう。
元いた世界で中学生の時によくいた半端に陰気なタイプだ。
完全に陰気な人は、何があってもクラスの中心には干渉しようとしない。自分の感情を抑えられるし、人並み以上に空気を読める。
でも、シュピネーみたいなタイプは面倒だ。仲間以外の他人と親交がないことに対して、自分に原因があるにも関わらず勝手に不満を感じ、普段は黙っているくせに、自分の気に入らないことがあれば出しゃばってくる。発言の矛盾を一切顧みない、謎理論で不平をぶつけてくる。クラスの流れを悪い方に変える、或いは滞らせてしまう厄介な奴だ。
それにしても、何故そのような短絡思考な者が魔王を名乗れているのか。それはおそらく、考えなしで戦っても負けることのない圧倒的パワーを持っているからだろう。
先程のパンチは受け止められたが、次はわからない。怒りに支配されつつも、心の中では自分の実力に自信があり、冷静に私を侮っている。次からは手加減抜きの攻撃が飛んでくるに違いない。
私はどんどん押し込まれていく。シュピネーがエンジンをかけてきた。予想通り、中々のパワーだ。
だが、私も負けていない。最初は予想だにしなかったが、《百合昇華》はかなり当たりの能力なのかもしれない。正直、かなり強い。
ハルが岩に隠れたのを後ろ目で確認すると、私はシュピネーの拳を離して、腹を思いっきり膝で蹴り飛ばした。
「がはっ」
シュピネーは空気を吐きながら吹っ飛ばされた。何回かバウンドした後に六本ある足で上手に着地した。追撃も考えたが、あまりにも綺麗な着地に少し見惚れてしまった。あと、単純に隙が少ない。バウンドしている時も、大きな蜘蛛の胴体が邪魔で攻撃できない。
仮にも彼女は、ここら一帯の蜘蛛を統べるアラクネだ。毒を持っている可能性もあるので、迂闊に蜘蛛の部分は攻撃できない。
シュピネーは着地後すぐに再び飛びかかってきた。私はもう一度拳を受け止めようと手を構えたが、彼女は空中で回転して蜘蛛の胴体をこちらに向けた。
(何をする気だ?)
シュピネーが何をしてくるのか、警戒を解かず構えたまま様子を窺っていると、シュピネーは尻から糸を放った。
「くっ」
顔面目掛けて一直線に向かってきたそれを、私は首を傾けてどうにか躱した。
私の横を通り抜けて行った糸はハルが隠れている岩に直撃した。そして岩で跳ね返って上に飛び上がった糸を目で追うと、三十メートルくらい飛び上がると、そこを中心にして放射状に分裂した。ものの数秒でその分裂したものが地面についた。直径およそ九十メートルのドーム型の蜘蛛の巣の骨組みの完成だ。
初めは一本一本の間隔が広く、出ようと思えば出られた。しかし、あっという間にその骨組みから小さな糸がそれを埋め尽くすように伸びて骨組みの糸同士を繋いだ。
私が呆気に取られているうちに完成した蜘蛛の巣のドームは、不気味を通り越して美しかった。重力に逆らって美しい曲線を描いている骨組みもさることながら、その間を埋め尽くした糸の、ドーム内の者を逃さないために計算され尽くした配置も素晴らしい。
ただパワーだけの魔王だと思っていたが、意外と賢いところもあるようだ。
「あの曲線はどうやって描いているのかしら?」
「あら、興味がお有りで?」
「ええ、とても美しいわ。ぜひ、お聞かせ願いたいのだけれど」
「断る。あんたは私に殺されるのだから、教えるだけ時間の無駄よ」
「ああ、そう。じゃあ、残念だけど…………」
私は、溜め息を大きく吐いて落胆を表しながら、足を深く踏み込んだ。そして、足のバネを最大限活かして、ダッシュ。
「なにッ? どこ、どこなの?」
一瞬で目の前から消えた私を見失ったシュピネーは驚いて、見開いた目で周囲をキョロキョロしている。
私はその背後にスッと現れて、耳元で呟いた。
「死ぬのはあんたなのよ、蜘蛛擬き」
「五月蝿い、この人でなしッ!」
シュピネーはこちらにノールックで肘打ちを繰り出してきた。私は体の前で腕を交差させてそれを受け止めた。
当たった瞬間、強い衝撃が全身を揺らした。危うく倒れそうになるも、どうにか踏みとどまる。それから、腕にシュピネーの肘がめり込みミシッと嫌な音を立てた後、私は後ろに押し飛ばされた。私は車輪の跡を作りながら下げられた。
「いったぁ。……流石のパワーね」
しばらく交差させた腕を解けなかった。間違いなく今の一発で骨にヒビが入った。自慢の再生力ですぐに治ったが、体は頑丈になっている筈なのにこの威力。やはり、まともに打ち合いたくない。
目線を上げると、シュピネーが距離を詰めてきていた。跳び上がってそれを躱すも、シュピネーもそれを追って跳び上がった。何故ここまで執拗に追ってくるのかと思ったが、上を見ればすぐにわかった。
私を蜘蛛の巣にくっつけて嬲り殺すつもりのようだ。だが、そうはいかない。
私は空中で縦回転を開始し、一瞬で空気を切る音がするまで加速すると、シュピネーがパンチを打ち込んでくるのに合わせて脚を伸ばし、踵落としを繰り出した。
拳と踵の衝突の瞬間、その音を掻き消すほどの豪風が起こり、ドームの骨組みの間を埋める糸を台風の時の電線のように激しく揺らした。一方、骨組みの糸は全く揺れていない。やはり、あれだけ頑丈さが違う。……ということは、あれだけは耐久力に振ってる分粘着力が弱いのではないだろうか。
ものは試しだ。いかにしても、魔法の使えない私は空中で移動方向を変えることはできないので、蜘蛛の巣に突っ込むことは確定している。
シュピネーの拳と鬩ぎ合っている踵に力を込めて、若干斜め方向に押し出した。力の均衡が崩れ、シュピネーは地面に、私は巣のドームに向かって飛んだ。私は目論見通り、他の糸より少し太い足の横幅ほどの幅の糸に片足で着いた。しかし、すぐに足が糸から離れ始めた。やはり、というか予想以上にこの糸の粘着力がない。
私は辛うじて糸に着いている爪先で、糸をぐっと押した。先程よりは劣るがそれなりの速度で、シュピネーに向かって突撃した。重力のおかげで、どんどん加速していく。
シュピネーはそんな私に向かって、掌を突き出した。私の重い一撃を受け止める気なら力尽くで押し込んでやろうと思ったが、シュピネーの蜘蛛の胴体に走るラインが妖しく光り始めた。そして、掌に紫の液体が生成され不定形の塊を作り始めた。
「まずいっ、魔法か」
完全に自分が魔法を使えないから盲点だった。私が魔法を使えないのは私の特異性ゆえだ。この世界の他の人は殆ど魔法を使えるのだった。もちろん、亜人も例外ではない。ましてや魔王なら、強力な魔法を使える筈だ。使えなかったら、それはただ魔王を僭称しているだけの強者だ。だが、この魔法ある世界で魔法なしに魔王ほどの強者になれる筈がないのだ。私のように、何か特別なスキルを持っていない限りは。
私が己の思考の浅薄さを呪っている間にも、液体の塊は大きくなっていく。そして、私が何の対抗策も思い浮かばないまま、それは放たれた。
何の魔法かもわからない。毒か? 或いは酸か? 何かはわからないが、もう私には腕を交差させて顔を覆い、液体のかかる面積を最小限にするしかなかった。
みるみる迫ってくる液体に私が目を瞑ろうとした瞬間だった。
「させないっ」
私の眼前で槍状の風がその液体を撃ち抜いた。それによって液体の大部分が消滅し、貫通されずに残った外縁部の一部だけが私の頬を掠った。
初めに感じたのは、皮膚が溶ける感覚。一瞬の熱さの後に、体が壊されていく不快感。
私はそれを気にせず、直下のシュピネーにドロップキックを繰り出した。シュピネーがそれを避け、私は軽やかに着地した。
その直後、液体の掠った場所から体に何かが入ってくる感じ。その違和感が全身に広がっていった。
「何これ?」
傷口に触れると、頬で液体の掠った部分が窪んで肉が露わになっていた。その周りもガサガサになっていた。やはり、酸で溶かされたのだ。
しかし、あの体内に侵入してきた違和感の正体は何だろう。酸とは別の物質が含まれていたとして、それがどう私に影響を及ぼすのか。体を内側から壊されるのか、或いは神経を破壊するのか、それとも血流をおかしくするのか。予想に予想を重ねていたその時だった。
「…………あ?」
私は突然強い重力を感じて、倒れこみそうになった。膝を内に曲げているなんとも情けない格好だが、どうにか座り込まずに堪えた。
初めは重力をかける魔法を受けたのかと思った。だが違う。そういう外的要因による重さではない。もっと、病的な倦怠感に近い重さだ。
「なにを…………したの…………」
シュピネーは私が呻くように問うたのに対して、不敵な笑みで答えた。
「それはね、私の《陰鬱の魔王》と呼ばれる所以よ。百年以上前に私が再現してしまった古代の秘術。危険なものとして存在が長い間秘匿とされてきたその存在を、私は何者かに教えられ、いくつもの難題を乗り越えて再現したの。名は『隠誘憂鬱』ーー精神を限りなく鬱状態に近づけ相手を戦闘続行不可にする魔法なの」
「なるほど……ね」
聞く限りで……というか実際に食らってみてその魔法の厄介さは十二分に理解できた。
食らっただけで致命傷になる魔法ではない。だが、これは精神に響く魔法だった。私のように倦怠感を与えたり、気分を暗くしたりして、戦闘不能にするのは戦いにおいて極めて有効と言える。相手に戦う、或いは抵抗する気力がなくなれば、強い魔法を使わなくても、首を絞めたり燃やしたりして無駄な労力を使わずに殺すことができる。
特にこの魔法で厄介なのは、見た目が他の攻撃魔法と遜色ないところだ。普通の魔法と同様に攻撃を当てて打ち消そうとすれば、外縁部が掠っただけでこの有様だ。
そもそも武器も魔法もない私には、ハルがいなければそのまま直撃を食らうしかなかったというのが恐ろしい。もし直撃していれば、一瞬で私は戦闘不能になっていた。
「高頻度で使えないから、最初横槍が入った時は焦ったけれど、ちゃんと当たってよかったわ」
「くっ……」
獲物を見つけたプレデターのような笑みとともに、シュピネーがじりじりと近づいてくる。私は、体に思いっきり力を込めてどうにか直立する。
(《百合昇華》出力五割解放)
パワーを上げたことで、少しは戦えそうなコンディションになった。だが、倦怠感は徐々に強くなっている。長くは戦えない。
「さぁ、形勢逆転よ。私の前に平伏しなさい」
「いいや、額を地につけるのは…………お前だ」
「威勢のいいこと。……でも、どこまで保つかしらね」
「勝負ッ!」
私が地を蹴ると同時に、シュピネーも六本の足を使って走り始めた。シュピネーの胴体ひとつ分まで接近すると、お互いにパンチを繰り出した。
第一撃、私の右拳とシュピネーの左拳がぶつかり、衝撃波で地面がミシッと音を立てた。シュピネーが本気を出し始めたのか、私の力が明らかに落ちているのか、或いはその両方かーー私の拳は後ろに弾かれた。私は右足を引いて体勢を崩すのを防ぐと、左拳を突き出した。
第二撃、私の左拳とシュピネーの右拳が激突。地面がひび割れると同時に私の拳もギギギッと嫌な音を立てたが、気にしない。再び押し戻されるも、今度はその勢いに任せて後ろに回転しながら右足を素早く蹴り上げた。しかし、倦怠感のせいで、攻撃に速さは出せても重さを出すことができず、容易く受け止められ、勢いを失った足が掴まれてしまった。
「や、やばっ」
私は足を引っ張られ宙に浮き、そして思いっきり叩きつけられた。
「かはっ」
地面に背中からめり込み、背中に痺れるような衝撃が走り、肺から空気が押し出された。視界が明滅し、激しい吐き気が襲った。
「う、ゲホッ、ゴホッ、オェ」
耐えきれず、込み上げてきたものを顔を横に向けて全てぶちまけた。立ち上がることができず、抉れた地面を伝って自分の口から溢れたものが私の顔に返ってくる。
あまりの衝撃に意識はしばらく不快な浮遊感を感じていたが、すぐに元の重りを付けられているような倦怠感に襲われた。
もう、五割でも動けない。
「やっと効いてきたわね。……ったく、面倒かけさせないでよ」
シュピネーは気怠げに言いながら私を見下ろしている。
「……あ、ゔぁ」
何か言い返してやりたかったが、あまりの苦しさと胃液に喉が焼かれているせいで、上手く言葉を発せなかった。
「まぁ、よくやったわよ。ぽっとでの魔法も使えない人間風情が」
シュピネーが私を嘲りながら手を私の首元に伸ばしてくる。私はもう抵抗する気力が起きなかった。無防備なシュピネーの懐にパンチをするどころか、全身から力を抜いていく。
(生きることなんてどうでもよくなってきた。あぁ、なんで私ここでこんなことしてるんだろう。ここには私の欲しいものなんて何もないのに。ああ、死にたいなぁ。早く殺してくれないかなぁ。力があったら、今すぐにでもこの首をあの手に近づけていけるのになぁ)
「早く死にたいって顔をしてるわね。いいわよ、あなたのその顔。嫌いじゃない。でも…………」
シュピネーは、私に近づけていた手を徐々に離していく。そして、私に背を向けて歩き始めた。
(どこに行くの? 私を殺すより大事なことがあるっていうの? 何で早く殺してくれないの?)
「先に殺すべきはあなたよねぇ」
「ーーひっ」
シュピネーは岩の後ろから顔を出していたハルにそう言い放った。こちらを向いていないからわからないが、あの艶やかな声音から、恍惚とした笑みを浮かべているのがわかる。
(私以外を殺すのに、そんな顔しないでよ。ハルなんかより私を早く殺してよ)
「やだ、こっち来ないで」
「いいえ、あなたはさっき私の邪魔をした。あなたには魔王を前にして魔法を使える行動力がある。厄介だわ。まずあなたから消させてもらうわよ」
「いやだ。……アリスさん? なんで、なんでそんなところで倒れてるんですか?」
(ハルが私を呼んでいる。煩いなぁ。私は早く殺されたいんだから、いっそハルも早く死んでよ)
シュピネーがさらにハルに近づいていく。ハルは恐怖心で震えてうまく足が動かせず、逃げようとして足をもつれさせその場に倒れてしまった。
すぐに立ち上がろうとしたが、力が入らない。ハルが前を見上げると、もう目と鼻の先までシュピネーは迫っている。
目を見開き、へたり込んでいるハルを前にシュピネーが手を掲げ手刀を打ち下ろさんと構えた。
(さぁ、早くその手を下ろして、そして私も殺して。早く、私をこの全身に纏わりつくような重さから解放して、楽にしてよ)
「アリスさん……約束したじゃないですか」
(……何を?)
最後の一言を言い終えるのを待たずして、シュピネーが手刀を振り下ろす。その風が、私の前髪をふわっと浮かばせる。あと少しで、私はーー
「私のこと、守ってくれるって!」
「ーーッ!」
ハルの悲痛な叫びが、私の心を揺らした。私の心に熱を宿した。私の心に、翼を授けた。
気づけば私は、地面を手で押していた。私が自分の体を押し出すと同時に、地面が割れいくつもの破片が飛び上がった。
もうシュピネーの手は半分以上振り下ろされている。ハルの首に届くまでは時間の問題だ。
(間に合えッ)
音も感じない速度で廃れた大地を駆けながら、私は切に願う。その意思の力が、少しでも心の熱を冷まさぬように、翼を朽ちさせないように。
そして、シュピネーの手がハルの首に食い込む寸前でーー
「よいしょお!」
「わっ」
私はハルの体を横から攫い、すぐにハルの下に潜り込んで地面を滑った。摩擦と尖った岩が擦れるのが痛いが、それでもハルを必死に抱きしめた。
徐々に減速していき、停止した時にハルを抱く私の手の甲の僅か上をシュピネーの手刀で起こった空気の刃が通過していった。
「チッ、なんてしぶといの」
私はハルを離して、丁寧に地面に下ろし、立ち上がった。虹彩に光を取り戻し、自分の情けなさとシュピネーへの怒りを宿した瞳で、手を振り下ろした姿勢のシュピネーを睨んだ。
「ごめんなさい。ちょっと陰気になってた。でももう大丈夫よ」
拳を強く握りしめ、ファイティングポーズをシュピネーに向けながら、私は宣言する。ハルに……何より自分に。
「ハルは絶対に私が守るから」
最終回にする予定でした。
終わりませんでした。
申し訳ありません。もう暫し、お待ちください。
今回もスピード重視で書いております。いつかブラッシュアップするのでご容赦を。
次回、本当に最終回です。
来週中には出せると思います。
それでは!
〈追記〉
ブラッシュアップ版更新しました!
毎度遅くなってすみません。