第7話「始まりの道」
パートンとリアさんに暫しの別れを告げ、家を出てからおよそ十分が経過した。
小さくなっていく家を振り返ることは、背中に負ったリュックサックの重さ故にできなかったが、出口に近づくほど町から人の気配が薄れていくのは肌で感じることができた。
初めは、道の左右に数軒の茅葺き屋根の家が横一列に並び、それを途切れさせる細い路地を挟んでまた数軒並ぶ、といったちょっとした通りのような構造が百メートル近く続いていた。
猫やうさぎなどの動物がたくさんいたり、早起きの子どもたちが元気に走り回っていたり、老人が家の外に出てお隣さん同士や夫婦でお茶を飲んでいたりした。路地や家と家の合間から覗く田の水面に朝日が反射して、キラキラ輝いている。
しかし、町の出口に近づけば近づくほど徐々に人が少なくなっていき、動物も減り、田畑も見られなくなった。代わりに出会う割合が増えたのは、軽く武装をした成人しているように見える男だ。おそらく、町の出口付近で警備をしているのだろう。
出口である砦の如き荘厳な門に到着すると、予想通りに軽く武装を施した男が数名いた。頭に甲冑を被るーーとまではいかないが、上半身を守るための鉄の鎧を纏い、手には石槍を持っている。
「今日も警備、頑張ってください」
私がいちばん近くにいた、全身がガッチリとしていて、特に上半身は胸を張ると服のボタンが飛んでいきそうなほど筋骨隆々で、ラグビーをしていそうな体型である一方、顔は爽やかイケメンの男に言うと、男は太陽のような笑顔を浮かべた。
「はい、ありがとうございます」
うわぁ、この人凄くいい。胸で反響した重みのある声が、私の想像力を鼓膜から刺激してくる。
ついこの前見た夢のように、こういうマッチョが初心なショタを襲っているシチュが悪くない。しかし、こういうマッチョが二人いて行為を致している方が、結構唆る。体格ゆえに画面の大部分を占める美しい肉体、体を激しく動かす度に動止のメリハリを持ってぷるんぷるんと揺れる大胸筋、筋肉の凹凸を緩急をつけてつーっと滑り落ちていく汗の滴、そしてこういうイケメンに限って漏れる息や声が甘いというギャップ。想像するだけで…………ふへへ。
「なに気持ち悪い顔をしてるんですか?」
私がハルのことなど忘れて妄想に耽っていると、隣にいたハルから罵倒が投げ込まれた。
私の気持ち悪さに少し慣れてきたのか、身を引くことはなくなったが、相変わらず酷いドン引きの顔だ。なんか、こんな顔で罵倒されても、ちっともご褒美には思えないし、寧ろ自分が惨めになる。この惨めさを快楽に思わないという点で、私はMではないと言えよう。そこには少し安堵する。
私が見るからにしょんぼりとしているのを見て、警備の男が苦笑していた。
「随分と大荷物ですが、旅ですか?」
「はい。少々長旅になるので、これでも足りないかもしれませんけど」
私の答えを聞いて、男は「長旅ですか……」と呟いた。その顔には、感心と羨望とほんの少しの憂いが見えた。
「まだ若いのに、ご立派ですね。私どもには纏まった休みがないので、長旅ができることは羨ましいです。楽しんできてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「ただ最近、この近辺で魔物の動きが活発化しているので、お気を付けください」
「それは大丈夫です。こう見えて、私結構強いので」
私が右腕を上げて曲げて、上腕二頭筋を見せつけるようなポーズを取ると、男はふっと笑いを溢した。
「そうですか。そこまで自信ありげに言われるのなら、大丈夫なのでしょう」
「はい。それに、私一人ではないので」
私がハルを見下ろしながら言うと、ハルが「何ですか?」と辛辣な視線を返してきた。
まだまだ私は、ハルの信頼に足る人物ではないのかと、少し悲しくなる。
「ところで、少々不躾なことを伺いますが、お二人はどちらへ?」
「西方の旧都コロフォンです」
「………………は?」
私が答えた瞬間、男の顔が強張り動きも硬直した。数秒経って漸く時の流れが戻った男は、間抜けな声を出した。
「……え? こ、コロフォンってあのコロフォンですよね?」
「はい、そうですけど」
「正気ですか?」
「はい。でも、大丈夫ですよ。私強いので」
私がさっきと同じように筋肉アピールのポーズを取るも、今度は男は納得してくれなかった。
「いやいやいや、あそこって他の魔物とは比にならない強さの魔物がいるって話ですけど。絶対止めておいた方がいいですって」
「大丈夫ですって。私たちはその強い奴を倒しに行くので」
「あ、そういうことですかじゃあどうぞ気をつけて行ってきてくださいねー」
私が旅の目的を話すと、男はあっさりと私たちを通してくれた。
ファストフード店員のゼロ円のスマイルの如き顔面の筋力パワー全開にした作り物の笑顔で、最高時速三百キロで本州を駆ける新幹線の如き高速度で、解き放たれた言葉は決して理解を表しているわけではないことぐらいこと、私には容易に理解できた。
「よかったですね。理解してもらえたようで」
違うよハル。あの反応は間違いなく私たちイタイ二人組認定されたってことだよ。わかるもん。中学生の時に数え切れないほどあの視線は飛ばされたことがあるから。
中学時代の私は、自分がイタイ奴で男子からも女子からも若干引かれていたことを理解しながらも、自分の中の解き放ちたい厨二が抑えられなかった。
学園祭や合唱祭などの行事がある度にイキってしゃしゃり出て指揮って、常人が容易には着いて来られないようなノリで皆を導いて呆れられていた。
そのくせして、天賦のカリスマ性を持つ私が失敗することはなく、私がイキった行事全てにおいて上級生にも劣らぬ最高の結果を作り上げていた。一方でクラスで目立ちたいグループが私を抑え込んだ中二の体育祭では大敗を喫し、私の能力の高さが結果的に、背反的に実証されてしまったため、誰も文句が言えなくなってしまった。
そんな能力の高さがあっても結局のところイタイ奴というのが私と同じクラスになったことのある人間からの揺るぎない最終評価であった。素直に私のことを認めているのは、私と同じクラスになったことがなく、私の本性を知らない人間だけだった。
ただ、所詮は中学時代のちょっとした恥ずかしい武勇伝に過ぎず、高校に進めば厨二は表に出せなくなった。しかし、いくつもの行事を通じて育んだ学生という生命共同体への理解やリーダーシップ、コミュニケーション力のおかげで生徒会長になれたのだから、私はそれらを忘れるつもりはない。
と、私が中学時代に想いを馳せているとーー
「あの、アリスさん。早く行きましょう。あの人の顔が強張ってきました」
「ん? ああ、そうね。行きましょうか」
いけないいけない。ずっとあの笑顔をキープさせてしまっていた。きっとそろそろ表情筋の限界が近い筈だ。
私たちをイタイ奴認定したとはいえ、仮にもこの町を守っている存在なので、これ以上苦しめるのは私の良心が痛む。
「それでは、失礼しますね」
「はいおきをつけてー」
私の別れの挨拶に棒読みで返してきた男の横を、ハルの手を引いて小走りで立ち去った。
通り過ぎた後にチラッと後方を振り返ると、男は大きく溜め息を吐いていた。
なんか、本当にすみません。ちゃんと魔王倒して帰ってくるんで、その時は仲良くしましょうね。
○◉○◉○
男との会話から数分、私はハルの手を引いて西へと延びる道にしたがって歩いていた。
私がぼーっと特になにも考えずに歩いていると、ハルが繋いでいた手を離した。
「どうしたの?」
見ると、ハルは膝に手をついて肩で呼吸をしている。まだ町を出て数分だというのに、この調子ではコロフォンまで保たない。
「なんか、いつもより歩くの速くないですか?」
「そう? 私はそんなつもりないのだけれど」
「絶対に速いです! 私、途中から引っ張られてるみたいになってたんですよ。どれだけ必死で付いて行っていたことか」
ハルのことを全く見ていなかったので、本当にそんなことになっていたかは不明だが、ハルの様子を見る限り私が歩くのが速かったのは確かなようだ。
それに加えて、ハルはおそらく、かつて経験したことのないほどの重荷を背負っている。不思議と私は先程から重いと感じていないのだが、間違いなく普通に歩いていてもこの重さを長時間背負ったままなのは厳しいものがある。
寧ろ、よく今まで背負えていたなと感心するほどだ。
先を見ると、ここから先は少し上り坂になっている。ハルが重い荷物を背負ったままこの坂を登ることが出来るとは、とても思えない。
だったら、私はーー
「ハル、荷物を下ろして」
「は、はい。…………いてて。こんなの何日経ったらコロフォンに辿り着けるんですかね? …………って、何やってるんですか?」
「何って、私がこっちの荷物も持つのよ」
「いやいやいや、そんなことしたら魔王と戦う前に肩が壊れちゃいますよ」
「そうね。私も普通の状態だったらこんなことできないわ。だからーー」
私はハルが背負っていたリュックサックを体の前側にかけながら言った。
「ハルは私の手を繋いでいて。そして、私のちょっと速い足に付いてきて。それだけでいいの」
おそらく、私がこの荷物にさほどの重さを感じず、かつ歩行速度が普段より速くなっている理由は、私の能力だ。
私の能力《百合昇華》は、百合的状況によって身体能力が向上するというものだ。
百合というもの自体が概念であるので、そもそもどういうことをすれば百合認定されて能力が発動されるのかは未だ未知数だ。しかし、どうやら手を繋ぐだけでも多少能力の恩恵を受けるらしい。
とはいえ、この程度の強化では戦闘はできないし、この能力の本来の力とはかけ離れているに違いない。
私が伸ばした手を取ってくれるのを待っていると、ハルが訝しげに私を見てきた。
「またなにか、私に痴漢しようとしていませんか?」
「まさか。私は大真面目に言っているのよ」
「……そうですか。…………わかりました」
ハルは、渋々ではあるが私の手を取ってくれた。それだけで、ほんの少し体が軽くなるのを感じた。
私が「わ、すごい」と改めて自分の能力に心中で感心していると、ハルがくっと私の腕を引いた。
「早く行きましょう」
「そうだね。行こう」
こうして、私たちは改めて遠く西の地ーー魔王とその配下蔓延る旧都コロフォンを目指して旅を開始した。
その後、適度に小休憩を挟みはしたものの、ほぼノンストップで日が落ちるまで歩き続けた。
私は、歩行速度がリュックサックを前にも後ろにも負う前より上がっている気がしてハルがついてこられるか不安だったが、ハルはかなり頑張ってくれた。
曰く、「背中が軽くなっただけで全然違う」とのことだ。しかし、途中でかなり息切れをしていたのを私は知っているので、気を遣われているなぁと感じてしまう。私に迷惑をかけまいと思ってくれるのは嬉しいけれど、私的には正直に言って欲しい。
ハルにとってどのくらい速いかを指摘してくれれば、ハルが楽でかつ目標の日数以内でコロフォンに到着という、理想的な道程を思索することができる筈だ。
さて、ここまではハルの話だったが、私の話もしておこう。
ハルが律儀に約束を守ってずっと私の手を握ってくれていたので、前後に負ったリュックサックの重量に苦しめられることはなく、一日中歩いていた脚にも、疲労はない。
ただ、胸が痛い。
歩いている間、ずっと前に負ったリュックサックで胸が潰れていたのだ。しかもめっちゃ擦れる。ひとたび激しい動きをすれば、乳首に摩擦で熱を伴う若干の痛みを感じる。
私の胸は、一般的な女子高生のサイズなのだが、魔王を倒して帰ってくる頃にはハルと同じぐらい平坦になっているのではないかと不安になる。しかも、これほど擦れていれば、旅が終わる頃には◯首が視認できなくなり、モザイクまたは謎の光不要で全年齢対象のまっさらツルツルな胸に変わってしまう可能性もある。
想像するだけで、肝が冷えた。
明日からは上の下着も着けようと、固く心に誓った。
そして今、私はちょうど本日の野営のための火を焚いたところだ。
……といっても、ハルが魔法で出してくれた小さな火に木の枝と空気を加えていっただけなのだが。
いやー、魔法って便利だな。私も使いたいなぁ。
…………あれ? なんか涙が。
「なんて顔をしているんですか。魔法が使えなくたって、アリスさんには他の人に劣らない戦闘力があるじゃないですか」
「でも、これだって私一人じゃ使えないのよ。一人の時の私なんて、ただの虫けらも同然よ」
「む、虫けらって、……そこまで言わなくても」
「だって、こっちに来るまで戦闘どころか喧嘩だってしたことないんだから」
「えっ? そうなんですか?」
本当だ。私は、揉め事はあっても喧嘩をしたことはなかった。
高校では教師陣に対しても、先輩に対しても、同級生や下級生に対してもご機嫌取りみたいなことをしていた。本当に、駆け引きなしで関わっていたのは、美樹だけだった。
中学の例の体育祭の時だって、対立をふっかけられた時は私は文句を言う周りを鎮静してから身を退き、大敗で終わった後に己の私との能力の差を理解した彼女らは、私と積極的に関わらないようになった。おかげで特別に後始末をする必要もなかった。
「それで、どうやって生きてきたんですか? それに、戦闘をしないで別の町から私たちの町に来るのなんて不可能だと思うんですけど」
「あー、それはね……」
ついうっかり、こっちに来るまでと言ってしまったが、そういえばハルは私が異世界から来たことを知らなかった。
異世界から来たと知らない人にこの言い回しをしたら、別の町から来たと勘違いされるに決まっているじゃない。
一日歩き続けてまだ近隣の町に行き着いていないほど辺境の町に、戦闘経験なしと発言した私が、どうやって辿り着いたのか。当然の疑問だ。
さて、ここをどう切り抜けるか。
焦りつつも頭をフル回転させて、不自然に思われないくらいの間で導き出した回答はーー
「えっと、転移の魔道具を使ったのよ」
そんな苦しい言い訳だった。この世界にそんなひみつ道具みたいなものがあるのかすら、私は知らない。
転移の魔道具なんて存在は聞いたことがない、と言われればそれまで。そんな賭けだったのだがーー
「なるほど、そう言うことでしたか。ということは、やはりアリスさんはかなり裕福な家庭で育っているようですね。転移の魔道具なんて超高級品といい、その王国魔導師が着ていそうな素材からデザインまで一級品の装備といい」
「え、ええ。……まあね」
なんとか乗り切ることができた。そしてその切り札の一つとなったこの服だが、初めてこの世界に来た時と同じ物だ。
自分で選んで着ておいてこんなことを言うのもなんだが、かなり動き辛い。明らかに私の近接戦闘専門の戦闘スタイルと合っていない。
ローブはしっかり膝下まで伸びているし、袖も手首まで覆っている。唯一の救いといえば、前が開いているところだ。
胸元から鎖骨のあたりにかけてシューズの紐のように結ばれているが、そこから下は分かれているので、前方向に動かす分には足の自由が保障されている。
ローブの開いたところから覗くのは、ちょっと外に出る時に着るようなポケットもフリルもないシンプルなレモン色の半袖シャツとベージュのショートパンツだ。
少し旅に出るにはラフすぎるのではと思われるかもしれない。しかし、ローブのせいでただでさえ動き辛いのにこれ以上動きを制限されてはかなわないので、このくらいが丁度いいと私は思う。
それに、実はあちらの世界ではこういう格好に憧れていた。生徒会長としての私は高貴で美麗な存在であったため、外で下手に肌を出すことができなかった。ショートパンツなんて、もってのほかだった。同じ学校の生徒がどこで見ているかもわからないという条件の下でこういう格好をするなんて、夢物語だった。
私は一生、雑誌に載る若いモデルの娘のような服装は出来ないのだろうな、と悲観的になることもあった。
故に、私は今日、朝から若干テンションが高い。もちろん、かつてない程の長時間、ハルと二人きりになれるというのも理由ではあるのだが。
「それにしても、転移の魔道具ってそんなに高級品なの?」
私が質問すると、ハルが目を丸くして訊き返してきた。
「そんなことも知らずに、転移の魔道具を使ったんですか……?」
「え、ええ。まぁ、そうね」
「………………はぁ」
いや、そんなに溜め息吐くことなのだろうか。
ハルの顔には驚きが半分、もう半分は呆れが表れている。
「あのですね、転移の魔道具というのは、龍鱗から作られています。その龍鱗というのが市場では一枚約三千ユルで取引されます」
「さ、三千ユル⁈」
旅に出る際にリアさんからこの世界の通貨についても教えてもらったため、その価格の高さはよく理解していた。
まず、この世界で使われる通貨の単位は基本イルだ。一イルがあちらの世界での三円くらいに当たる。そして、一万イルで一ユルとなるらしい。
つまり、龍鱗は一枚で九千万円するということだ。あちらの世界だったら良いマンションが買えるほどの金額だ。
因みに、一万ユルで一オルとなる。まあ、こんな大層な金額なんてそうそう聞くもんじゃないらしいけど。
「そんな龍鱗を三枚、職人が細かく砕いて少し高級な水晶の玉に混ぜ込んだものが転移の魔道具となります」
「つまり、その水晶の価格と職人の利益の分も加算すると、約一オルになるってこと?」
「そうです。しかも、現在の技術で作られた転移の魔道具は、一度使うと砕け散って修復不可能になってしまいます」
「…………マジ?」
予想外の高級さに、私は、嘘の出汁にするには随分と不適切なものを選んでしまったなと後悔した。
そんな常識とはかけ離れている嘘でも本当だと思い込んでいるハルは、やはり純粋だ。ああ、可愛いなぁ。
「それにしても、少し腑に落ちないことがあるんです」
「……へっ? な、何かしら」
ボロが出たか、と冷や汗がブワッと出るほど焦る。一体、どこで違和感を生じさせてしまったか自分の言葉を振り返る。
転移の魔道具の価値を知らなかったこと? そんな人間が、ローブの内側はこんなラフな格好をしていること? そもそも私がどこから来たのかということ?
様々な可能性を考えてそれぞれに対しての言い訳を考えていく。何を訊かれても、すぐに答えられるように。
しかしハルが発した問いは、私が微塵も想定していなかった、私にはない観点からのものだった。
「なぜ、転移の魔道具を使ってまでこんな辺鄙な町に来たのですか?」
「……へ? あー、それはね……」
ハルの純粋さは、薄汚れた私の思考とは相容れないものであった。
確かに……確かによく考えれば私でもその質問は思い浮かんだかもしれない。しかし、これほどすぐに出るものでもない。
人間の行為の裏にある策略や思惑を疑う私ではなく、自分の感じた違和感に純粋に疑問を抱くハルだからこそ、出せた問いだった。
さて、感心している場合ではない。
私は考えなければならない。ハルに怪しまれないように、可能な限り早く。自分の置かれている状況とこれまでの言動、それらを客観的に分析して、矛盾のないかつ納得のいく答えを。
…………ダメだ。そんなことしてたらかなり時間がかかってしまう。でも、答えを躊躇っているわけにもいかない。とにかく、何か言わなければ。
そう考えた私はーー
「取り敢えず、ご飯の準備しない?」
「あ、いいですね。そうしましょう! たくさん歩いたから、お腹が空きました」
「……ふぅ」
こうして、思考時間を稼ぐことしか出来なかった。
といっても、非常食みたいな保存の効く調理要らずの食べ物しか持ってきていないので、準備にはそうかからなかった。
それでいっそう私は焦ることになるのだが、食事中は静かにすることを徹底するハルは、ご飯を食べながら続きを訊いてくることはなかった。
その後も私は身構えていたのだが、ずいぶん疲れていたようで、ご飯を片付けるとハルはすぐに寝袋に入って眠りに落ちてしまっていた。
明日になったらまた訊かれるのかなと一抹の不安を抱きながらも、寝息をすぅすぅ立てているハルと背中合わせに私も寝袋に入って眠りについた。
だが、それは結局、杞憂に終わった。
昨日私に何かを訊いたことすらも忘れていたハルは、いつも通り感情の込められていない社交儀礼としてのおはようから一日を始めた。
朝ご飯の時は勿論、その後も何か訊く素振りを見せず、コロフォンに向けて私の隣を歩み始めた。
せっかく言い訳を必死で考えておいたのに、徒労に終わってしまった。安心すべきことのはずなのになぁ。何でだろう。寂しいなぁ。
○◉○◉○
「一度実行に移して仕舞えば、二回目からは歯止めが効かなくなるとは、こういうことね」
アリスとハルが《陰鬱の魔王》を討伐するために旅立ってから二日が経った。明後日にはコロフォンに到着しているだろう。
パートンは家で星空を観察させている。最愛の息子だ。必要以上に危険に晒すことはできない。
では、私は何をしているか。
単純明快、町に侵入した蜘蛛型の魔物の大群を前にしている。
町の門に設置された砦から外の様子を観察していた警護の者が私の家にやってきたのは、夜が深まって私が眠ろうとしていた時だった。
家に響くけたたましいノック音に並々ならぬ事態を察した私は、すぐに起きて急いで動きやすい服に着替え、家の入り口のドアを開いた。
そこにいたのは手を膝につき肩で息をしている軽く武装をした男だった。
「何があったの?」
「魔物の大群が……西の方から」
「総数は?」
「暗闇で、はっきりとは、わかりませんでしたが……おそらく、最低でも一万は、いるかと」
「何ですって?」
それを聞いた私は、全速力で町の門に向かった。
辿り着いた先で私が見たのは、町を囲む塀が蜘蛛型の魔物の大群に突破されている様子だった。
すでに相当の数が侵入しているようで、何体がどこに行ったのかは、確かめようがなかった。
蜘蛛型の体躯が大きいあまり、塀の鼠返しも意味を成していない。
砦の中から数名の警護が蜘蛛型に弓矢や魔法で攻撃し足止めを図っているが、蜘蛛型は気にも留めていない。
私がどうにかするしかない。
覚悟を決めた私が先ずすべきは、更なる蜘蛛型の侵入を防ぐことだ。
私は両腕をバッと左右に広げて、防御魔法を展開した。
「ラージャゾーヌ・ミョードゥディアブル」
私の詠唱に続いて、直方体の魔法の壁が町全体を囲うように広がっていった。
これで、糸を使って壁を登っていき上空から侵入することも、穴を掘って地中から侵入吸うこともできない。しかも、この壁に足先が掠めただけでも、もれなく全身が壊死してしまうという致死性のある壁だ。
今まさに、この町の中に侵入しようとしているまともな思考能力を持たない幾千の蜘蛛型が、その死骸を防御壁の周りに積み上げている。
高度な魔力抵抗があれば触れた箇所のみの壊死で済むが、この壁に耐えられるほどの魔力抵抗は、魔王の中でも少数しか持ち合わせていない。
私は続けて、町の中に侵入した蜘蛛型を一挙に排除した。
「ドラへジオン・ディスクリミナトア・イカゾン」
私が詠唱した直後、町内の各所から一斉にパンッという破裂音が発せられた。
これは、町の中に侵入した蜘蛛型が余すことなく潰されたことを意味する。
私が今しがた使った魔法は、領域を指定してその領域内に存在する特定した種の生命を圧縮して死に至らしめる天使級の重力魔法だ。
範囲を指定できるのなら外の奴もこれで倒せばいいではないか、と思うだろう? だが、今の私は一身上の都合でこの町内でしか魔法が使えないどころか、この町の外で私の魔法の効果は失われてしまう。
則ち、私は魔法使いとしてこの町の外では一切の力を持たないのだ。……まったく、私ともあろう者がこのザマとは。
しかも、その制限は使用可能領域に限らず、魔法の強さにも課せられる。私が現在使える最高級の魔法は、先ほど使った天使級魔法だ。その上にある、地動級魔法、高天級魔法、全能級魔法、そしてこの世界の理を超えた三元魔法は使うことができない。
とはいえ、今持つ力で蜘蛛型の対処は果たすことができた。魔力は腐るほどあるのだし、どうせ自然回復で実質減る魔力は微々たるものなのだから、この壁は放置したままでいいだろう。この状況で人々をこの町から出させるわけにはいかない。
後で、各門の警護にこの門のことと、暫くの町の出入り禁止を通達しなければ。
町の人々に不便をかけることが申し訳ない。故に、早くこの状況を脱したいところだが、そのためには……
「頼んだわよ、ユリネ」
○◉○◉○
その日も、私たちは予定以上に進むことができた。私の《百合昇華》を活用するという作戦が功を奏し、ハルの疲労は予想より遥かに少なかった。無論、私も疲れていない。
コロフォンまであと半分というところで日が落ち始め、一旦、その日は野営することにした。
人っ子一人いない草原で見上げた星空は、町で見るものよりもさらに鮮明で神秘的だった。私は、この景色をパートンに見せてあげたいなと、そう夢想するのだった。
さらに翌日、私たちは冒険者の休憩地点となっている町ーースミルナーーに辿り着いた。
多くの冒険者で賑わうスミルナは、敷地面積こそ私たちの町よりは小さいが、商業規模はその比ではなかった。
見たことのない肉やこの世界では初めて見た海の魚、貴重な山菜が多く売られていた。時間に余裕があればゆっくり見て回りたいところだが、生憎あちらがどうなっているかわからないので早々に魔王を討伐する必要がある。
スミルナ観光は帰路の途中で楽しむとして、今回は再び戻ってくるまでに足りる分の食料と水を手に入れるだけにした。目的を達すると、すぐに町を出発した。
その日のうちに、コロフォンまではあと十数キロメートルというところまで来た。
目立った障害もなく、ここまで旅は順風満帆そのものだった。
翌日、私たちは殆ど進むことができなかった。その原因は、出発してすぐに降り始めた豪雨だった。
その日は起きた時から曇天だった。分厚いグレーの雲の群れに太陽の光がほとんど食われて、地上は朝になっても薄暗かった。ハルですら起床時間を二時間間違えるほどだ。
さらに風も強かったので、私たちは多少天気が荒れて道中で苦労することを覚悟していた。
朝食や野営の片付けを急いで済ませて、可能な限り早く出発することができた。出発直後、雨はそんな私たちを嘲笑うかのように降り始めた。
私たち二人ともレインコートのようなものは持ってきていたし、早いところコロフォンに近づきたかったので、初めはそのまま進もうとしていた。
しかし、雨が予想以上に強くなり、雨粒に痛みを感じ始めたところで私たちは洞穴探しに専念し始めた。方角なんてどちらでも構わないから、とにかく雨宿りできる場所を探さなくては。
さらに雨に打たれる痛みが増していき、風も怒り狂い始めて、コートの隙間から水が侵入してくる中で、必死な私たちが見つけたのは朝までいた野営地の近くにある洞窟だった。
高さ十数メートルある崖の壁面には、縦横に散らばって何箇所か入り口があり、私はハルを抱えて跳んで、地上三メートルほどの高さの入り口から入った。
奥行きが十メートル近くあり、中が下りになっていないので奥まで進めば風が吹いても雨が入って来ず、雨宿りをするにはかなり都合のいい穴だった。
「ここで雨が止むまで待つわよ」
「はい。ちょうどいい穴があって助かりましたね」
「今日はこれ以上進めそうにないけどね」
私が外を覗きながら言うと、ハルも私に倣って外を覗いて嫌そうな顔をした。
「こ、これは……」
雨の勢いがどんどん強くなっていて、ついさっきまで歩いていた草原一面に水が張っていた。
ここからさらに水位が上昇することが予想できるし、仮に今日中に雨が止んだとしてもこの水浸しの中歩いていくのは、体力を取られるし何よりも不快だ。
今日のところはここで休んで、明日にコロフォン到着を果たすというのが賢明な判断だろう。
それにしても、レインコートの隙間から侵入した水量がかなり多くて、全身がびしょ濡れだ。
このままだと、風邪をひいて明日出発するどころではなくなってしまう。幸い、リュックサックの中身は無事なので、昨日のうちに採集しておいた木の枝を広げた。
「ハル、これに火をつけて」
「はい」
私はその中でも一際小さな枝を指差して、ハルに魔法で火をつけさせた。無事着火すると少しずつ木の枝を加えていき、ある程度燃え上がるとその作業を停止した。
そして、服を脱ぎ始めた。こんな湿った服は、早々に脱いでしまいたかった。火が燃え移らない程度の場所にかけて乾かしておこう。下着までは脱げない。まともな衛生環境である可能性が薄いこの場所で下着まで脱ぐのは、感染症の可能性もあり危険だ。
「ちょっとアリスさん、何こんなところで脱いでいるんですか?」
「いや、むしろ何で脱がないの? 風邪引いちゃうじゃない」
「それはそうですけど……」
ハルが顔を赤らめながらモジモジしているので、私は口元に手を当ててにやけながら言い放った。
「もしかしてハル、恥ずかしいの?」
「べっ、別にそんなわけないじゃないですかっ。おっ、女同士ですよ?」
「そうでしょう? 何を遠慮する必要があるの? 他に見てる人なんて誰もいないわよ」
「でも……」
「恥ずかしいことなんて何もないじゃない。女同士、別に見られて減るもんじゃないんだから」
「減るものがないっていっても、アリスさんはどうせ私にまた変なことするじゃないですか!」
「ないない。そんなことするわけないじゃない。ほら、私だって下着までは脱いでないし、それ以上はハルも脱ぐ必要はないから」
「ふ、ふーん。……いいですね、他人に見せるのに自信を持てる体っていうのは」
「それはイヤミかしら?」
ハルが私の胸を見ながら随分と失礼な言い方をしてきたので、私の額がピキッと音を立てた。
私は無言で逃げ場を無くすように腕を広げて、くすぐる様に指を滑らかに動かしながらハルに迫った。
「……な、何ですか?」
ハルは怯えているが私は構わず迫り、互いの鼻頭が触れそうになるまで近づいた。そして、怯えて目を見開き、口をふにゃふにゃにして震えているハルに向かって…………飛びかかった。そして、水分で体に張り付いた服を脱がしていく。
「ちょ、ちょっと何するんですか⁈」
「黙ってされるがままにされてなさい! このまま放っておいて風邪ひかれると、私と町の人たちが迷惑すんの!」
「本当っ、私がいないと何もできないんですね!」
口では文句を言いながら、私が正論を言っていることはわかっているのか、ハルは脱がされることに抵抗はしなかった。
「そうよ! 私はハルがいないと何もできないの! 自分でも情けないと思ってるんだから、言わないでよ」
「あ、私が思った以上に気にしてる。なんか……すみません」
「い、いいのよ。全部あのクソ女神が悪いんだから」
「め、女神?」
「気にしないで。こっちの話」
「はぁ」
下着を除く服を脱がされ尽くしたハルの肌を、私はまじまじと観察した。胸は見ない。脱がせてみたら、意外とハルには胸があったのだ。いつも私が姿見で見るサイズと、何ら変わらなかった。異世界の少女の発育度合いに、私は涙を浮かべざるを得なかった。……まじかなしぃ。
大衆の前でこのことを話せば、その多くが同情の視線を送ってくるであろう。そんな私の空しい事情は置いておいて、そんなことがどうでもよくなるほどハルの肌は美しかった。
ここからは、ハルの濡れた体をタオルで拭きながらの私の感想をお届けしよう。
絹のようにツヤツヤの肌に、程よく背骨が出ていてなぞると指から幸せになれる背筋がある。
これに名を冠するなら、絹の如き栄光の道筋ーーシルク・ロードとしよう。いや、それユーラシア大陸を横に走る貿易路やんけー。
……………………は?
「ちょっと、アリスさん。もうっ、大丈夫ですから」
さて、ちなみにその背筋、曲線が美しく柔らかいお尻のおまけまで付いている。これ以上はないほど丁度いい丸さだ。私の手では少し溢れてしまう程度の大きさで、手を重ねると片手で大きめのスマホを持った時くらい指が曲がる。しかも、高反発だ。指を押し当てた時の跳ね返りが半端じゃない。
これくらいで後ろ半身は満足しておこう。
あ、太ももも最高でした。…………ふぅ。
さぁ、私の中のおじさんが頭角を表したところで、前半身もーー
「自分でやりますからっ!」
「ぐふっ」
前を拭こうと密着した私の腹に、ハルが肘を打ち込み、私は空気を吐き出しながら後方に弾き飛ばされた。
ハルは、倒れた私に背中を向けてタオルで前を隠し、顔を赤らめながら見下していた。目の光が失われていらっしゃる。
しかし、隠せていない後半身は相変わらず女すらも魅了する美しい肌が露わになっている。私は雨にも風にも雪にも夏の暑さにも負けぬ不屈の精神でそれを拝み続けていたがーー
「本当にやめてもらえませんか?」
「あ、ごめん」
顔がガチなのに視姦し続けていたら、とうとう声にまで出されて拒絶されてしまったので、流石にここら辺で終わりにしておこう。
そう思って視線を外そうとした瞬間ーーハルがこちらを向く際にタオルとの隙間に見えたおへその辺りに黒いシミが見えて、私は視線を外すのをやめた。
「だから、やめてと……」
「それ、何?」
私がそのシミを指差しながら言うと、ハルが眉尻を下げた。
「私にもよくわかりません。ただ……」
「ただ……?」
「母が、『私のせいで』って言ってました。『私が親じゃなかったら、ハルにこれを背負わせることはなかった』って。その時ばかりは、あの母が本気で悲しそうにしていたので、私はとても心配になりましたよ」
「へぇ、リアさんがねぇ」
「ちなみに、兄さんにもありますよ」
「そうなの?」
「はい。兄さんは、母にこれのことを“四元印”と教えられたそうです」
「ふーん」
確かに、印と言われればそう見えなくもない。だが、その意味するところは一切わからない。理解しようとは思わなかった。どれだけ考えても、推測に過ぎないからだ。それに、町に戻ればリアさんが教えてくれるかもしれない。
「無害、なんだよね?」
私が真顔で詰め寄ると、ハルは少し気圧されながらも「はい」と答えてくれたので、私は安心した。
それ以来、会話はなかった。ずっと考え事をしていた。推測に過ぎないといっても、気になるものはやっぱり気になる。どうせ、日が明けるまで暇だし、そうやって時間を潰すことにした。
ご飯の時も、黙々と食べた。旅に出て以来いつものことなので、その沈黙はあまり気にならなかった。
用を足しに行くのも、何も告げずにだった。今の状態で外に出る目的なんてそれしかないから、報告の必要がない。
結局寝るまで、沈黙は続いた。薪が燃え尽き暗くなった穴に差し込む月明かりも微弱で、はっきりとは何も見えなかった。
隣ではハルが先にすぅすぅと寝息を立て始めている。薄れゆく意識の中、私は独り言のように呟いた。
「ありがとう。明日からも、よろしくね」
そして、私の意識は常闇へと落ちていく。
ただ、あの沈黙が始まってからずっとハルが握ってくれいたこの手の力だけは、緩めなかった。
目が覚めると、太陽の光が穴に差し込んでいた。
冷たい床から体を起こすと、手は握られたままだった。「ふふっ」と笑みを溢すと、その手の少し横から掠れた声が聞こえた。
「気持ち悪いです」
「あはは、ごめんね」
その声の主ーーハルは私から手を離すと体をゆっくりと起こした。私より顔一つ分くらい低い位置のハルの顔を見つめて、私はハルとの新しい今日をスタートさせた。
「おはよう、ハル」
「おはようございます、アリスさん」
○◉○◉○
すっかり乾いた服を着て、朝食をさっと済ませて、私たちはコロフォンに向けて出発した。
昨日は予想外の足止めを食らったが、今日こそは辿り着く。
まだ地面は濡れているが、水位はすっかり下がっているし、豪雨が嘘のような快晴だから、歩き心地はそこまで悪くない。
コロフォンまではおそらく歩いてあと四時間ほど。到着する頃には地面乾き切っているだろう。
道中で昨日消費した分の枝を拾い集めながら、きちんと休憩も取って進んでいく。コロフォンに着けば、決着までノンストップの勝負となることが予想される。
緊張の時間が近づいているわけだが、私たちの足取りは軽く、魔王との戦い以上にその後に期待を抱いていた。ハルは報酬に、私はかなり先の平穏な異世界ライフに。
そして何という難所もなく、コロフォンまでの一本道はあっという間に終点に辿り着いてしまった。
私たちは、かつて都として栄えていた魔王の巣窟一帯を眼前にしている。
「来たわね」
「はい」
ハルが握る手を強める。
「ちゃんと、守ってくださいね」
ハルが強い思いが込められた瞳をこちらに向けている。強大な魔王の本拠地で怖気付かないハルの勇敢さに応えて、私も力強く見つめ返した。
「任せなさい! 絶対勝って、二人で戻るよ!」
そして、私たちは旧都コロフォンに足を踏み入れた。
今月、頑張っております。ただ、訳あってスピード重視で書いてるので文の乱れがあります。そのうち修正するから許して!
今月は月末までにもう1話書きます。そこで、本章は完結とします(かも?)
あと、もう一作品の方も見ている方がいましたらお詫びです。
諸事情につき今月は1話も出せません。御免!
それでは、また!
〈追記〉
ブラッシュアップしました!
それと、大学合格しましたことをここに発表いたします。