第6話「旅立ち」
その日の深夜、私は再び昨日と同じ屋根の上でパートンと話していた。ただ今日は、一緒に星空を見ているわけではなかった。
パートンは昨日とほんの僅かしか変わらない星空を見上げながら、一方で私は学校から拝借した本を読みながら。しかし、互いに違うことをしながらも談笑していた。
「アリス、初日から子ども達からの人気すごいらしいねー。教えるのも上手いって、母さんから聞いたよー」
「ありがと。でも、理想を言えば、やっぱり自分で魔法学を教えられたらよかったんだけどね」
「やっぱり、魔法は使えないの?」
「そうなの。どうにかしようと思って、他の先生に子ども向けの魔法学の教科書を借りたの。でも、頭で魔法の使い方はなんとなく解ったんだけど、どうしてもダメ。魔力が全くないのだから、仕方ないよね」
「残念だねー。アリスなら、魔法が使えれば無敵そうなのにー」
「うん。本当に」
パートンは、私と話しながらじっと星空を見ている。
本人曰く、普段は星図を描いているらしいのだが、今日は本当に見つめているだけだった。
私は、普段目をあまり見開かないパートンが血眼になって……とは言い過ぎだが、瞼を大きく開いて一生懸命なのが不思議で尋ねた。
「何をそんなに必死になっているの?」
「今日はねー、南の空でミノタウロス座流星群がよく見られる筈なんだー。大量といってもーそんな頻繁に見られるものではないからー、こうやって必死になって探しているんだよー」
「なるほどね。そっか、流星群か……」
昨日パートンが話していたが、この世界には宇宙に飛び立つ手段がない。
魔法で自分の周りを魔力の球で囲って宇宙に飛び立った男がいたらしいが、ついぞ帰ってこなかったらしい。
おそらく、球の中の酸素濃度が下がり、苦しくなって堪らず魔法を解除してしまったのだろう。
男だったものは、今どこかの惑星の重力に引かれてその星の一部になっているに違いない。
話は逸れたが、宇宙に飛び立つ手段がないということは、宇宙船は存在しないし、観測器すらも宇宙に飛ばしたことがないに違いない。
ということは、宇宙ゴミがないということで、つまりこの世界で見られる流星は、全て真の流星群であるということだ。
文明が発展して一般人宇宙に行くなど造作もない世界に生きていた私ですら貴重だと思うようなものなら、パートンが必死になって見ようとするのも頷ける。
「見られるといいね」
「うん。まぁ、僕の計算が間違っていたらーどんなに必死になっても見つからないけどねー」
「……どういうこと?」
「これまでの文献の記録から規則性を見つけてー僕が今日見られるって推測しただけだからだよー。今まで規則性があったのが偶々ならー、僕の推測は間違っていたことになるからねー」
「そうなのね。……自分の推測が間違っていたら流星は見られないのに、どうしてそこまで必死になれるの?」
私だったら、少しでも不可能性があれば、必死さを欠いてしまう。不可能だったときの落胆を必要以上に味わいたくないからだ。
私が本気を出すのは、絶対に可能だと確証があるときと、それを失うことで可能が不可能に変わってしまうようなものを危険から守るときである。
そんな私の問いに、パートンは間髪入れず答えた。
「僕の推測が真か偽か。それを確かめるのが、魔法以外の才能と悠長に構えられる辛抱強さに恵まれた僕の仕事だからだよ」
「そっか。パートンはすごいね」
「これでもー、魔法学校を出てこの職に就くまではーただの引きこもりだったんだけどねー」
「今頑張れてるなら、それでいいんだよ。過去なんてただの過程。そこを重視する人もいるけど、結局大切なのは良くも悪くも結果でしかない。だから、今に自分が満足しているなら、楽しめているなら、それがいちばんだよ。……まぁ、私に言わせれば、過程も結果も良ければ最高だけどね。ソースは私」
私が長々と語ると、パートンが驚いた顔でこちらを見ていた。
こっちじゃなくて星空を見なよ、と言おうとしたが、その前にパートンが口を開いた。
「本当に、アリスはすごいねー。社会の構造がよく見えてる。僕、アリスと出会えて良かった」
「そんな……照れるなぁ。私なんて大したことないよ」
「いやいやー、アリスは本当にいい人だよ。なんでこの人にあんな能力が与えられてしまったんだろうねー。趣味が悪いよー」
「いや、それは私も本当に思う。意味がわからないわ」
私は腕を組み、目を閉じて唇を尖らせた、不満を表した。
チラッと片目を開くとパートンと目が合って、お互いにふふっと笑った。
その瞬間、私の方を向いていたパートンには見えなかったが、私の視線の先には一筋の光が見えた。
「あっ、流れ星」
「ほんとにっ? どこどこ?」
「後ろ…………って、もう見えないよね」
「そんなぁ」
パートンが振り返る頃には、もうその片鱗すら見えなかった。
だが、私は確かに流星を見た。重要なのは、その事実だ。きっと、このまま観察を続ければパートンも流星を見ることができる。
それをパートンも理解したのか、残念そうに俯いた顔は上げるともう自信ありげなものに変わっていた。
自分の推測は間違っていなかった。あとは自分の目で確かめるだけだ。
そんな覚悟をその奥に灯しながら空を見上げる瞳は、昨日の星空のようにキラキラ輝いていた。
パートンのそんな目を見ていると、私もなんだか嬉しくなった。そしてふと、人が好きなことに傾倒している瞬間は、見ている側も元気をもらえることを思い出した。
あの目を私は、元の世界では半ば無意識のうちに避けるようになっていた。
生徒会長である私を見つめる生徒たちの目がーー私への尊敬が行き過ぎた結果、私に陶酔しているように見えるあの目がーー私は恐ろしかった。
生徒会長になる前、そして生徒会長になりたての頃は、学校のスター的存在になれたことが実感できて、嬉しかった。積極的に人前には出たし、朝の挨拶運動を始めたのもその嬉しさが暴走した結果だった。一度始めた以上、後には引けないことを一切考慮しない、実に愚かな行動だったと、今では思う。それでも当初は、毎朝凛とした振る舞いをしながらも内心ではルンルンだった。しかし、それが毎日続くと、段々と気持ち悪くなってきた。
皆が皆、私のことしか見ていないように感じられて、実に窮屈で過ごしにくい日々だった。元々、生徒会長になるために多くの人に本性を隠しながら接してきたが、いよいよ化けの皮を剥がされるわけにはいかないという緊張感が、私の思考の半分を占めるようになった。
もう半分はBLで補って正気を保っていたが、どうにかしなければいつか頭がおかしくなりそうだと自覚していた。だから。ある時から、少しでもあの視線から逃れられるように工夫して過ごすようになった。
生徒会長の仕事が忙しいという口実のもと、一年次から所属していたバドミントン部を泣く泣く退部し、そのくせして生徒会の仕事は可能な限り昼に生徒会室に篭って終わらせるようにした。朝の挨拶運動にわざと遅刻していくようにしたのもその一環だ。
でも、いかにしてもすべての場面では、視線を避けようにも避けられなかった。登下校時や授業中がその例であった。
私は生徒会長だったから、その憧れに麗しい所作と爽やかな笑顔で応えるのも義務だったからだ。
仕事意識がつくと余計にあの目が嫌になって、その不満が積もりに積もって、私は人の目を見なくなった。生徒会長になって一ヶ月と少し経った頃からだろうか……朝の挨拶を寝坊を装って休むようになったのは。
だから、私にとって、この目の素晴らしさは私のそれに対する畏怖で霞んでいた。
思えば、この世界に来てからは、無意識に人の目を見るようになっていた。きっと、私のことを普通の女の子として見てくれるからだ。
そう考えると、やはりこの世界に来たのも強ち悪いことではなかったのかもしれない。
多くのBLを失い、唯一の親友とも離れ離れになってしまった。
その代わりに、私は人間として大切なものを取り戻した。きっと、私が気づいていないだけで元の世界で失ったものは、他にも沢山あるはずだ。それを、この世界で拾い集めていこう。
魔王を倒すなんて殺伐とした目的だけじゃ、気分が乗らないこともあるかもしれない。この目標が、そんな時の心の原動力になれば良いのではないだろうか。
「ありがとう、パートン」
私はなんとなくお礼がしたくなった。私が無意識に拾い上げていた欠片に気づかせてくれたことに。
「どうしたの急にー。……なんか、ほんの数秒の間に目が変わったね。すごく、生きてるって感じがするよ」
「そう? 私って、そんな目ができたのね」
「僕からすれば、アリスの目はいつでも活き活きとしてるけどねー」
「あはは。でも私、結構腐ってるから」
「……腐ってる?」
パートンは私の言葉に首を傾げているが、私は口の端を引き攣らせて笑った。それは、パートンの様子が面白かったからだけではなかったりする。
「ところで、アリスはさっきから何の本を読んでいるのー?」
「ああ、これね。旧都市コロフォンについての古文書よ。そこに、一体の魔王がいるらしいの」
「あー、あの東の街だね。確かにー、数十年前から魔物が住み着いてるってー聞いたことがあったけどー、まさか魔王の居城になってたとはねー」
私が旧都市コロフォンに魔王がいるという話をしても、パートンは顔色ひとつ変えなかった。
リアさんの話では、コロフォンはここから歩いて一日というかなり近場にあるらしい。そんな場所に魔王がいるなんて聞いたら、少しは驚いてもいいものだと思うのだが。
「どうしてそんなに冷静なの? 魔王よ。怖くないの?」
「いやー、だってコロフォンってー結構遠くだからねー。大きな被害がこの町にまで及ぶとはー到底考えられないよー」
ーー待って、話が違うんだけど。
「あの、リアさんからコロフォンはここから歩いて一日程度だと聞いたのだけれど」
「母さんの歩いて一日は、普通の人が馬車を使って数日はかかる距離だから、あんまり当てにしちゃだめだよー」
ーーマジか。
そういえば、リアさんは底知れぬ強さを秘めていることが昨日発覚した。リアさんとは敵対しているわけじゃないから、リアさんがただ強いだけなら私には一切の不都合はなかった。
だが、思いもよらぬところで感覚の圧倒的なズレが生じてしまった。
ここで問題となるのは、私が《陰鬱の魔王》の討伐を、コロフォンで魔王を倒して、あれば途中の町で宿に泊まるなり、なければ野宿をするなりしてから、翌日ここに帰ってくるという簡単な討伐だと思っていたことだ。故に私は、臨時教師の期間が終わったら休日にデートする感覚でハルを連れて行ってこようと計画していた。
リアさんが最初から普通は数日かかることを教えてくれていれば、初めは驚いたとしてもすんなり受け入れていただろう。
しかし、一度簡単なことだと思わせておいてから面倒なことだと知らされると、軽い気持ちで計画していた魔王討伐へのモチベーションは雪崩を起こし、なにより重くなった腰を上げるのに気苦労をする。
そうは言っても、乗りかかった船からは途中で降りられないし、魔王を全て討伐した後の穏やかな異世界ライフも楽しみだ。
ーー文句言ったって仕方ない。いっちょ、頑張りますか。
「ねぇ、パートンは何かコロフォンについて知ってることはない?」
「そうだねー。…………あそこは確か……蜘蛛の巣だらけ、だったかなー。しかもかなーりタチの悪い」
「……タチの悪い?」
私が訊くとパートンが、カラスに袋が食い破られて中から飛び出した生ゴミを見た時のような表情で言った。
そんなに不快なものだったのかと気になった私に、パートンはその嫌悪の原因を答えた。
「何というかねー、近づいてくるんだよ」
「近づいてくるって……蜘蛛の巣が?」
「そうそう。まるで巣自体にー意思が宿っているみたいにねー。それだけならまだ、しつこいなーって思うだけなんだけどー、その巣には酸が付いていてねー、触れた瞬間に溶けちゃうんだ。しかもね、壊しても壊してもー限りなくどこかから湧いてねー、迫ってくるんだよー」
「うわぁ、それは最悪ね」
パートンの語った情景を想像すると、近しいものとしてゾンビ映画のワンシーンが脳内に浮かび上がった。
決して迫るスピードは速くない。しかし、倒しても倒しても数が減った感じはしないし、寧ろ増えているように錯覚してしまう。そうしてゾンビが際限なく四方八方から迫ってくるーーそんな絶体絶命のシーンだ。
異なる点としては、巣には酸が付与されているということだ。ゾンビに同族になるまで噛まれ続けるというのも絶対に嫌だが、死ぬまで肌から内臓まで溶かされるというのも御免被りたい。
しかも、蜘蛛の巣ということは傷口から纏わりついてくるということだ。一度触れられたら、巣の貼りついた部分を切り落とすか命を失うことを覚悟しなければならないだろう。
…………想像するだけで、背筋に悪寒が走った。
「まぁ、そんな反応になるよねー。僕もそれでー右腕を失った人を一人、間近で見てたからわかるよー」
「思い出して、怖くないの?」
「怖いけどー、血はそこまで怖くないからねー。僕が怖いのは母さんだけ」
パートンがリアさんのことを怖いと言った一瞬ーーほんの一瞬だったが、パートンは心の底から怯えていた。
私が、何か昔リアさんに何か恐ろしいことをされたのだろうかと心配になった。だが、パートンが畏怖していたのはそんなちっぽけなことではなかった。
「あの人、強さが底知れないにも程があるんだよ。言い方悪いけど、もしあんなのが魔王だったら、この世界は終わってたよ」
そう言ったパートンにいつものふわふわした感じはなかった。いつも通りの半開きの目はただ薄く開いているだけに見えたし、普段可愛いなと思う横顔が凛として見えた。さながら、太古の魔王が転生の秘術を使って長い時を経て子供の体に転生する系の物語の主人公だ。
だが、今驚くべきはそこではない。パートンをここまで言わしめるリアさんの強さだ。
「そ、そこまでなの?」
「僕の推測通りなら、母さんに勝てる魔王がいない可能性もあるね」
「それならなんで、この世界にはまだ魔王が蔓延っているの?」
「そう、それがわからないんだよね。本人に訊いても答えてくれないし」
「ふーん。じゃあ、謎のままってことなのね。…………って、訊いたの⁈」
「訊いたよー。結構勇気は必要だったけどね。でも、凄く圧を感じる笑顔で遇らわれちゃったよ」
「あー、あの笑顔ね」
パートンのいう笑顔とは、私が初めてリアさんに校長室に呼ばれた時のものと同じだ。
確かに、あの笑顔を前にすれば、反駁する意志は抱くまでもなく打ち砕かれてしまう。
「母さんにはこんなこと直接言えないけど、僕はあの人を人間とは思えないね」
「それは、リアさんの強さを揶揄して言ってる?」
「いや、そのままの意味でだよ。僕は、あの人を人間よりもっと上位な存在だと推測してる。そして、その血は僕たち兄妹にも流れているんじゃないかってね」
「そんなことってあり得るの?」
「否定はできない。でも、可能性は限りなく低いね。だって、僕はこの世界の生物についてもかなり勉強したけど、人間と見た目に寸分の差異もない種なんて聞いたことがないからね」
「へぇ。とにかく、リアさんは強いってことなのね」
私は、パートンにここまで言わしめるリアさんの実力に恐怖するどころか、益々興味が湧いてきた。
もしかすると、魔王討伐を続けている中で、その力の片鱗を見る機会が訪れるかもしれない。
「まぁ、リアさんのことは今はいいの。それよりさっきから気になってたことがあるんだけど、訊いてもいい?」
「いいよー」
「やけにコロフォンのことに詳しいけれど、行ったことがあるの?」
「うん、あるよー。魔法学校に通っていた時のことだよー。ちょっと担任がね、ぶっ飛んでる人だったからー、戦闘の実践演習でコロフォンにー行こうって言ったんだよ。授業だからーこれで単位落としたら面倒だしー、仕方なく行ったんだけどねー、怪我人まで出て大変なことになったなー。もちろん、後日その担任はー解雇されちゃった」
「そりゃそうよ」
私は、その担任に呆れてしまった。
授業の一環で魔王の支配地域に乗り込むなんて、危険以外のなにものでもないし、命を失う可能性もある。
実際、コロフォンには命を失いかねない罠があった。
生徒の安全を保障することを大前提として生徒を育成しなければならない教師としては、及第点には程遠い。高校生でもわかることだ。
憐情すらも抱けない、実に阿呆な教師の話だった。
「その教師は、まさかそこが魔王の支配下だって知らなかったなんてことはないわよね?」
「そのことなんだけどねー、なんかその教師はコロフォンがー魔王の支配下にあるっていうのをねー、迷信としか思ってなかったらしいよー」
「そんなことってあるの?」
「それがあるんだよー。その教師は、お祖父さんからー魔王なんてものは逸話に過ぎないーって伝えられてーそれを未だに信じていたらしいよー」
「ただの馬鹿じゃない。そのお祖父さんもなんてことを言ってるのよ」
「教師に関しては僕も馬鹿だったなーって思うけど、お祖父さんはー、強ち間違ったこと言ってないんだよねー」
「え? そうなの?」
この世界に魔王がいるのは紛れもない事実であり、そのどこに間違っていないところがあるのか、私にはわからなかった。
「実はねー、この世界に実際に魔王が生まれたのは、たった三十年前の話なんだよー」
「そうだったの?」
「らしいよー。僕が実習でコロフォンに行くときにー母さんが教えてくれたんだー」
「ふーん」
神さえも教えてくれなかった情報を思わぬ形で得られた。逸話として語り継がれてきた魔王という概念は、ほんの少し前に実際に顕現したらしい。
つまり、この世界はたった三十年で崩壊の危機に陥れられたということだ。そう考えると、魔王討伐は予想より一筋縄ではいかないことなのかもしれない。
一方で、パートンがコロフォンに行ったことがあるという話は、非常に私にとって有益だった。
「コロフォンに行った時の話、もっと聞かせてくれる?」
「もちろん! 無言で流星を探し続けるのもーなんだかんだ退屈だしー、アリスが満足するまで付き合うよー」
「ありがとう」
その後、私は明日も教師としての仕事があるのを忘れて、パートンにコロフォンのことを訊いた。
パートンと話すのが楽しくて、コロフォンのことを一通り聞き終えても、また別のことを話してしまった。
そして今日も仕事があるのを思い出した頃には、もう東の空が明るくなり始めていた。
私は寝るのを諦めて、そのまま今日を過ごすことに決めた。幸い、昨日は五時間も寝ることができた。
ちなみに、私と話している間にパートンは数十個の流星を見ることができ、自分の推測が当たっていたことに歓喜し、嬉しそうに家の中に戻って寝床に入っていった。
○◉○◉○
翌日、授業が終わった後、私はたまたま学校に手伝いに来ていたハルを、児童たちがいなくなって空になった教室に呼び出した。
「どうしたんですか? 急に私を呼び出して。しかも学校でって、家じゃダメ何ですか?」
「いや、家でも良かったんだけどね。ハル、いつも家では忙しそうだからなかなか話しかけるタイミングがなかったのよ」
「そういうことでしたか。別に気にしなくてもいいんですよ。忙しそうに見えるかもしれませんが、実際のところそんなことは全くないので」
「そうなの? じゃあこれからは遠慮なく家でも話しかけていいのね?」
「はい、勿論です。でも、多すぎたら家事に支障が出るのでほどほどにしてくださいね」
「わかったわ」
そう本人は言っているものの、いつもハルは忙しそうだった。
学校では校長として頑張っている代わりに家では休みっぱなしのリアさんと、家でも研究に没頭しているパートンの代わりに、家事を全て行なっている。
寝る前以外はずっと働いているハルに、私は話したくても話しかけられずにいた。
でも、ハル本人が遠慮しないでいいと言ってくれた。これからは沢山話して仲良くなりたいなと思った。まずは、敬語ではなくてタメ口をきいてもらえるようになろう。
「そういえば、話って何なんですか?」
「そうだった。ちゃんとした話があってハルを呼んだんだった」
普段は私に若干冷たい感じのハルだが、話があると言えば真摯に聞いてくれるところに、私の中でのハルの好感度は爆上がりだ。
「私ね、ここでのあと二日の臨時教師が終わったら旅に出るの」
「へぇ、急ですね。いったい、どんな理由でですか?」
「この町からかなり離れた西の地にコロフォンという廃れた都市があるの。そこに、この近辺に魔物の蜘蛛を送り飛ばしてきた魔王がいるらしくて、その魔王を私は討伐しに行くわ」
「いいですね、それ。以前から私たちは蜘蛛の被害に悩まされていたので、かなり助かります。……それをなぜ私に?」
「そのー、あのね。……私一人じゃ力がないから、一緒に付いて来て欲しくて」
「…………」
理解はしていた。今まで過ごした、たった二日間の中でも、ハルはこういう面倒なことを好まないということは。
きっとこれを相談した瞬間に、嫌な顔はされると思った。覚悟はしていた。
ただーー
「そんなにいや?」
「はっきり言って、今まで生きてきてこれ以上嫌な頼み事はありませんでした」
「やっぱそうよね。魔王退治なんて、普通の女の子なら手伝いだとしても嫌がるよね。しかも、蜘蛛なんて」
「あ、いや。嫌なのはそれ自体じゃないんです」
ハルは、手と一緒に首を横にブンブンと振った。てっきり、魔王討伐の旅自体が嫌なのだと思ったが、どうやらそうではないらしい。
それはつまり、私の魔王討伐に協力してくれるということを意味していて、私は少し嬉しくなった。それと同時に、では一体何が嫌なのか不思議に思った。
「魔王をやっつけるのに付き添うことは全く嫌に思ってないです、本当に。母からお金が貰えることになっているので」
「……あ、そうなの」
さっきちょっと喜んだのが馬鹿みたいじゃないか。少しは私のことを気に入ってくれたのかと思ったら、ただの金目当てだった。結局、人間はカネなのよね。
歳下に私の情緒が弄ばれている。あれ、もしかして私って歳上の威厳がない?
…………ぐすん。
「その、コロフォンまで行くということは、往復で最短でも一週間はかかりますよね」
「そうね。私が魔法で速く走ったり飛べたりしたら良かったんだけど、残念ながら私に魔法は使えないからね」
「問題は、そのかかる時間なんですよ」
「あー、確かに長い間家を出るっていうことは家事をほったらかしにするっていうことだもんね。そりゃ、帰ってきた時の惨状を想像すると旅には出辛いよね」
私がハルが遠出を躊躇う理由を勝手に想像して納得し、うんうんと深く頷くも、ハルはまたも首を横に振った。
「いや、そうじゃないんです。母にも一人暮らしの時代はあったでしょうし、何も心配はしてません」
「それもそうね。想像力が足らなくてすみません」
「その……私が問題にしてるのは……ですね……」
「ん?」
ハルは俯いて手をモジモジさせ体を左右に小さく揺らしながら、答えるのを躊躇っている。
私が「ん?」とその顔を覗き込むと、髪に隠れている耳まで赤くなっているのがちらっと見えた。ハルは、見ているこちらが何とも言えない背徳感を覚えてしまうほど恥じらっていた。
「そ、そんなに恥ずかしいなら言わなくていいけど」
「いえ、言います。こういうことはしっかり共有しておくべきだと思うので」
ハルはそう言うと、一度深呼吸してからその事実を独り言のようなか細い声で、私に告げた。
「その……私最後に来たのが四週間前なんですよ。だから、多分今から長旅に出たらその途中で来ちゃうんですよ」
「………………あー(察し)」
恥ずかしさ故に直接的には言えなかったようだが、伝えたい内容は十二分にわかった。
私たち女子が一ヶ月に一度、対峙しなければならないアレが、もうすぐ来るということだ。そういえば、ハルは十四歳だった。年齢的には、十分初めてが来ていてもおかしくない。
ちなみに、人によって苦痛の種類や度合いが異なるため、同性同士でも配慮が必要となる。
私は軽い方で、ちょっとお腹が痛いかなと思うくらいだから、決して他の女の子に「その辛さわかるよー」とは言わないようにしている。
旅をここまで躊躇するほどということは、ハルはかなり酷いのだろう。その時の調子次第だが、多分毎月頭痛や吐き気に苦しめられるレベルだ。
(これは、困ったなぁ)
ここまで理解しておいて、「それでも行こう」なんて言うほどのスパルタには私だってなりたくない。
だが、私は速いところ《陰鬱の魔王》を倒しておきたいのだ。もちろん、未来で待つ異世界ライフを急くなどという私的な理由ではない。
リアさん曰く、今まで《陰鬱の魔王》が町の中に魔物を送り込んだことはなかったし、夜襲を仕掛けてきたこともなかったそうだ。
おそらく、私が一昨日の昼、丘の上で蜘蛛型を消しとばしたことが原因だ。
今までこの町にいなかった強者が現れたと、《陰鬱の魔王》に悟らせてしまった。それ故に、今までより強い魔物が送られてくるようなことになってしまった。
これから魔物の襲撃は頻度を増すと予測される。魔物への対処自体は、リアさんでも可能らしい。ただ、町への被害を防ぎきることができるとは保証できないようだ。
それ故に、町の安全を守るためにも、私は可能な限り早く《陰鬱の魔王》を討伐する必要がある。
(どうしようか)
どう考えても、ハルに旅路の途中で苦痛が降りかかることは避けられない。
思春期にアレが来る周期は不安定だ。ハルが予期している通り一週間後ーー私の予定通りに出発した場合にあちらに着く頃に来るかもしれない。
予想より早く、出発する頃に来るかもしれない。
逆に予想より遅く、旅が終わってこちらに帰ってくる頃に来るかもしれない。
あらゆる可能性を予測したところで、旅の途中でアレが来ることを避ける確かな方法は、私には思いつかない。
それならいっそーー
「もう、先生の仕事すっぽかして明日出発しよっか」
「…………え?」
「いつ来るかわからないけど、もしハルが予想通りに来る気がしているのなら、早めに魔王倒して休みながらゆっくり帰って来ればいい。もし早めに来たら、そのときはそのときよ」
「………………」
私の非常識なことを言っている割に堂々とした物言いに、ハルは唖然としていた。
ハルは、社会人として最低のことを発言した私を決して馬鹿にしているのではなく、純粋に驚いていた。
或いは、あれだけ恥ずかしそうに言い出しただけに、私が深く考えると思っていた自分が馬鹿らしくなったのかもしれない。
ハルは苦笑した。その後の顔には、一切恥ずかしさも重苦しいものも見られなかった。ハルは腹を括って、私の提案を飲んだ。
「では、明日出発しましょう。私はこれから買い出しと旅の準備をしてきますので、これで失礼しますね」
「わかった。先生に関しては、リアさんに代理を頼んでみるね。リアさんなら分身とかできそうだし」
「ふふ、母ならやりかねませんね。了解です」
そう言って、笑顔のままハルは教室後方の扉から出て行った。
そして私はーー
「全部聞いてましたよね? 以上の通りなので、明日からお願いします」
「あら、気づいていたのね」
そう溢しながらリアさんが、教卓の中から姿を現した。
「何やってるんですか、そんなところで。私がいい感じに座る位置を調整して教卓の下の隙間が見えないようにしなかったら、リアさんバレてましたよ」
「いやー、出るに出られなくてね」
「まぁ、私にとってはその方が都合が良かったですけど。わざわざ説明する手間が省けるので」
椅子から立ち上がって教室から去ろうとする私の背中に、リアさんが投げかけた。
「ユリネ、折角児童たちの人気者になるチャンスなのに、棒に振るってしまってもいいの?」
その質問に対して、私は答えを迷わなかった。友人として、家族として、でもなによりパートナーとして、私が持っているのは当たり前の答えだった。
「私に本当に必要なのは、十人余りからの人気ではなく、ハル一人からの信頼と好意です。それだけあれば、私はこの世界で生きていけます」
「……………………」
「私のクラスのことも、よろしくお願いします」
そう言い残して、私は教室を出た。
扉を閉める際に一瞬だけ見えたリアさんは、寂しそうな目をしていた。
○◉○◉○
私もかつて、ユリネと同じようなことを思っていたことがあった。
私の味方だった一人の女だ。
その女から見捨てられなければ、私は上手くやれる。その女に、私は絶大な信頼を抱いている。自分ではそう思っていた。
でもその実、私は彼女を自分の願いを叶えるための手段だと思っていた。
彼女の力を利用して、私が彼女以上の立場に上り詰めようとしていた。
彼女の協力を善意と勘違いし、それを甘受していた。
その結果、私は一時的にかなりの人気者にになった。
その直後、私は彼女にどん底へと突き落とされた。
私と同様に、彼女も私を利用していたのだ。いや、同様ではない。他人を利用することに関して、彼女は私より遥かに上手だった。
彼女は、自分の目的を叶えるために、その途中で私欲を抑え、理性的に振る舞うことができていた。私には、それができていなかった。
間違いなく、それが私の敗因だった。
その頃の私の姿が、先ほど教室を出て行ったユリネの背中に重なって見えた。
このまま進んでしまえば、いつか良くないことが起こる。その前に、ユリネが気付けるだろうか。
「ユリネ、このままだとあなた、大変なことになるわよ。それに、ハルと本当の意味で友達以上の関係にはなれないかもしれない。それでもいいの?」
これが杞憂に過ぎないことを、ユリネが何かある前に自分で気づいてくれることを、私は願い続けることしかできない。
今の私は、この町の外では何もできないから。
○◉○◉○
翌朝の午前五時、私とハルは家の前でパートンとリアさんと対面していた。
ハルの足元には、沢山の着替えや歯ブラシ、その他生理用品といった日用品を詰め込んでパンパンに膨れ上がったリュックサックがある。
私は「本当に持てるの?」と心配になったが、ハルは「これくらいなら余裕です」とはっきり言ったので、最初のうちは任せることにした。一応、適度に休憩は挟んであげよう。
一方、私の足元には、野宿のためのテントや寝具、食料品が詰められた、ハルのより膨らみが少ない見た目だが容積と重量は二倍以上あるリュックサックが置かれている。
昨日のうちに最低限のものがちゃんと入っていることは厳重に確認しておいたので、旅の途中であれがないこれがないと焦ったり困ったりすることはない。
朝早いということもあり、ハルとリアさんはかなり眠そうだった。
ハルは目をゴシゴシと擦っているし、リアさんは大口を開けて欠伸をしている。
一方の私とパートンは、相変わらず意識がはっきりとしている。だが昨日は快晴だったから、多分パートンは星空観察で徹夜している。私は流石に旅の直前なので三時間ほど寝ておいた。
「じゃあ、リアさん。学校のことはよろしくお願いします」
「あー、おぁあい」
私は結構大事なことを頼んだはずなのに、リアさんは欠伸をしながら応えた。
「そうだ。アリスさん、これを持っていきなさい」
「これは……」
リアさんから手渡されたのは、一冊の本だった。表紙を見れば、すぐにその正体がわかった。
「あ、ありがとうございます!」
「もうこの世界の字が読めるあなたになら、きっと役に立つはずよ」
「はい!」
テンションが急上昇した私は、ウッキウキで口笛を吹きながらその本をリュックサックのポケットに入れた。
「兄さん、家事は任せたよ。お母さん、アリスさんが先生を放り出したせいで忙しいんだから」
「任せなー」
「……なんか、すみません」
しれっと罵られたような気がしたが、その原因は私にあること間違いなしだったので謝った。さっきまでのハイテンションが嘘のように、青菜に塩となった。
そんな私と正反対に、パートンは自信ありげに胸を叩いている。私はパートンに対して家事ができる印象をあまり抱いていないのだが、ハルが任せるというのなら大丈夫だろう。
もしかしたら、意外とスピーディーに家事をこなすのかもしれない。
私がリュックサックをよいしょと持ち上げて背負うと、ハルもそれに倣って背骨が折れそうになって呻き声を上げながらもなんとかリュックサックを背負った。
やはり、適度に休憩を取った方がいいかもしれない。いや、休憩を取る度にまたリュックサックを背負い直さなければならないから、再び呻き声を上げるほどの苦しみを与えることになる。…………うーん、私どうすればいいんだろう?
「アリスさん、ハルをよろしくね。絶対に守って二人で帰ってくるのよ」
「勿論です。魔王の一体くらい、ちゃちゃっと片付けて帰ってきますよ」
私が自信満々に宣言すると、リアさんは微笑んだ。
「行こうか、ハル」
「はい、行きましょう」
私とハルは、リュックサックのあまりの重さに手を振ることも振り返ることもできなかったが、背中でパートンとリアさんが手を振ってくれているのを感じた。
朝早いということもあり、行く先はまだ暗い。しかし私たちの帰るべき場所は、昇り始めたばかりの朝日が照らしてくれている。
町を吹き抜け田畑の緑を揺らす風が、まだこの世界に来て日の浅い私の背中を押してくれている。
田の中から響く蛙たちの合唱が、旅立ちを祝い私たちを鼓舞するファンファーレのようだ。
こうして、自然の寵愛を受けた私たちが、この世界に跋扈する魔王たちからこの世界の平穏を取り戻すーーそんな長い長い闘いの日々が幕を開けた。
ツイッターで本作品のタグを作りました。
#ふじょゆり です!
ぜひ、感想など呟いてみてください。
あと、気に入っていただけたら、ポイントをつけていただけると執筆の励みになります。
最近、読者数が増えてきてブックマーク登録も数名の方々にしていただいています。
本当に、ありがとうございます。
これからも、まだまだ続けていきますのでよろしくお願いします!
《追記》
ブラッシュアップ完了しました!
これで心置きなく前期試験受けに行けます。
受かってきます