第5話「《陰鬱の魔王》」
私が町外れの丘の上で出会い、半日前からお世話になっている純粋無垢な少女ーーハルの家の屋根の上で深夜、私は、突如として天から隕石の如く落下してきた蜘蛛型の魔物を目の当たりにしていた。
「……ったく、どこから降ってきてんの?」
私は、バランスを崩して屋根から滑り落ちないように慎重に立ち上がり、こちらに尻を向けている蜘蛛型の様子をじっくり観察した。
あちらの世界で山林の中にいるような脚の長い大型の蜘蛛を、そのまま百倍スケールにしたような姿をしている。
数本の禍々しい紫色のラインが頭部から腹部にかけて走り、先端が尖り地面に減り込んでいる脚には、体との接合部にかけて毛が揺らめいている。その毛は、風とはまったく無関係に揺らめいているので、私には微塵も見えないが体表から微弱に魔力が出ているのだろう。
「こんな夜遅くに、何の騒ぎですか?」
私が蜘蛛型を観察していると、その少し手前、私の部屋の向かいの二階の窓から、目を擦りながら顔を出したのはハルだった。
蜘蛛型の落下時の轟音で叩き起こされたのか、眠そうな様子は一切なかった。しかし、起きている間は綺麗に整えられていたショートヘアーは数カ所が無作為に飛び跳ねていた。
不機嫌そうに細めた目を擦っているのと髪が爆発しているのが少し面白くて笑いそうになったが、現在の危険な状況を思い出して冷静さを取り戻した。
「ハル、そこから出てきちゃダメ! 昼のと同じ蜘蛛の魔物が空から降ってきたの」
「は、どういうことですか? 降ってきたって、訳がわからないんですけど」
「私だってわからない。とりあえず、反対側に逃げて」
「反対側って…………うわ、あれですね。わ、わかりました」
ハルは初め状況を把握できず困惑していたが、目の前で蠢く蜘蛛型の存在に気づいて、その動きのキモさに引き攣らせた顔を引っ込めた。
そのキモい動きをしている蜘蛛型だが、何をしているのかというと、落下の勢いで地面に突き刺さった鋭い脚を抜こうと孤軍奮闘しているのだ。しかし、一向に抜けられる様子はない。
「もしかして、今なら殺れる?」
今のところ、攻撃を仕掛けたところで蜘蛛型に反撃の手段があるようとは思われない。つまり、ノーリスクで好きなように攻撃を仕掛けられるということだ。これ以上の好機はないだろう。
(よし、殺ろう)
決心して、こちらに警戒を向ける余裕がなく無防備な蜘蛛型の広い胴に、渾身の一発を叩き込むために飛びかかろうと、足をグッと踏み込んだ瞬間だった。何だか体が重いことに気づいた。
いや、普段と比べて急に体重が増えたわけではない。寧ろ、普段と変わらない。ただ、昼間の戦闘の時に感じた、少し跳ねただけで遠くに飛んでいってしまいそうな体の軽さがなかった。
原因は、考えるまでもなかった。
(あちゃー。完全に自分の能力の性質を忘れてた)
私の能力は《百合開花》ーー端的に言えば、女の子同士の戯れで戦闘力が強化されるというものだ。
それ故に、私は戦いの直前に百合しなければ、ただのカリスマ性の高い美少女だ。
「どうしよう」
「アリス、どうしたのー? 戦うんじゃーないの?」
「ごめんなさい、今の状態じゃ戦えない。ハルがいないと」
「んー? ハルがいないとー戦えないってどういう……」
ーーシャァァァァァアアアアア!
私とパートンが各々違う理由で困惑している間に蜘蛛型はとうとう地面から抜け出してしまい、パートンの言葉はその咆哮に掻き消された。
蜘蛛型はゆっくりとこちらを振り返って、悍ましい口を開いた。その口内が一瞬光ったのが見えた。
「危ないっ!」
危険を察知した私は、パートンを抱いて屋根から飛び降りた。その直後、パートンのいた位置を紫色のオーラを纏った槍の如き高速の糸が貫いた。
どうにか致命的な一撃をもらうことは避けられた。しかし、咄嗟のことでその後の危険を予測していなかった私は、下を見て迫る地面に絶叫した。
「ぎゃー!」
「エアフォース!」
パートンが手を下に翳し何か叫ぶと、パートンの掌から落下地点に細い竜巻状の強風が放たれ、落下速度が徐々に遅くなった。
おかげで冷静さを取り戻した私は、パートンに風を止めるように頼み、空中で体を上下反転させてスタッと軽やかに着地した。
「ありがとう、助かったわ。パートンって魔法が使えたのね」
「一応高等魔法学校に行ってたからね。中級魔法までなら使えるよ」
「いいなぁ」
私は魔法を体質的に使えないから、羨ましい。そして、パートンが魔法を使えるということなら、蜘蛛型が私ではなくパートンを狙った理由が解った。
現状、私は魔物に通用する戦闘力を一切有していないし、魔力は一ピコもない。
一方で、パートンには中級魔法を使えるほどの魔力がある。中級魔法が全ての魔法の中でどのくらいの位置付けなのかはわからないが、異世界召喚モノでは大体五段階前後の魔法があるから、この世界もそうだとすればそのうちの二段階目という感じだろう。
少なくとも、パートンは今の私よりも強い。だから蜘蛛型に狙われた。
「パートンの魔法で、あの蜘蛛は倒せそう?」
「うーん、ちょっと難しいかも。学校ではー後衛の立ち回りしか実習してないからー、攻撃を避けながら戦う感覚がーわからないんだよねー。だからー、戦うにしても防戦一方になっちゃうねー」
「そっか……」
つまるところ、やはり私が戦う必要がある。そしてそのためには、ハルと私の時間が少し必要だ。
丁度、ハルが家からリアさんを連れて出てきた。
「ハルー! ちょっと来てくれるー?」
「え? は、はーい。今行きます」
私が呼びかけると、ハルはすぐにこちら向かって駆けてきた。私はパートンにも指示を出した。
「パートン、一分くらい時間稼いで」
「任せてー。でも、三十秒の方が嬉しいなー」
「善処する」
そう言い残して私は向かってくるハルの方へ走り、それと同時にパートンは蜘蛛型への牽制を開始した。
パートンは火炎を蜘蛛型に連続して放っている。当たれば多少のダメージを与えられるし、当たらなくても凄まじく距離を詰められることはない。その上、蜘蛛型が糸を発射してくれば炎で燃やし尽くせるという、防御面から見ても合理的な攻撃手段だ。
私の目の前まで来たハルは、どうして呼ばれたのか不思議そうにしていた。私はそれに答えるよりも、どのような百合展開に持っていくかを考えた。パートンが頑張ってくれているから、出来るだけ早く。
私が全然答えない間も背後で奮闘しているパートンを見て、ハルが不安そうに瞳を揺らしていた。兄を心配する妹の姿を見て、脳内に稲妻が走った。妙案が思い付いた私は、一応リアさんに再度確認をした。
「本当に、やっちゃって構わないんですよね?」
「問題ないわ」
保護者の許可を改めて取ったので、もう何も躊躇することはない。……残念ながら本人に選択権はない。
今のリアさんとのやりとりの意味を理解できず、そんなことよりパートンが心配だという視線を私の後方に向け続けているハルに、私は優しく抱きついた。
「……え? ちょ、ちょっと。アリスさん?」
「ごめんね」
「な、何ですか?」
私に抱かれ頭を撫でられながら、ハルは視線を右往左往させている。しかしながら、突然のことで頭が回らないのか、無理やり引き剥がそうとはしなかった。
「お姉ちゃんが素じゃ何もできないから、ハルをこんなに不安にさせちゃったね。本当にごめん」
「お姉ちゃんって、急に何で? というか、別にアリスさんがそんなに自分を悪く言わなくても……じゃなくて、あの、兄さんが」
「あはは、パートンには敵わないなぁ」
ハルは、自分の疑問を解決するより先に、私を慰めようとしてくれている。……と思ったのも束の間、ハルはパートンの心配を口にした。私に抱かれていることなんてどうでもいいかのように、ハルの心は兄への心配へ最終的に落ち着いた。
それが、私は悔しくも尊くもあって、でも何だか力が湧いてきた。
「うん。でももう大丈夫。あの蜘蛛相手ならこれで充分ね」
「……ん?」
私の発言の意図が分からず、ハルは首を傾げている。
私はそれを他所に、パートンの方をチラッと半目で見た。
蜘蛛型はパートンと日本刀の間合いほどまで距離を詰めていて、これ以上持ち堪えるのは厳しそうだった。
蜘蛛型は標的を目前にして、火炎を喰らうことも厭わず、その鋭利な足でパートンを貫き通そうとしている。相手からの攻撃を避けながら攻撃する訓練はしたことがないと言いつつも、稀に不意打ちに繰り出される脚を汗を滲ませ息を切らしながらも器用に避けているのは、なんだかんだでパートンに戦闘センスがあることを示している。
しかし、これ以上は本当に厳しい。間もなくパートンはスタミナ切れでその腑を一突きされて、ハルの絶叫が夜闇に木霊することになるだろう。
本当はハルを痛い目に合わせたくはないが、加減をしているとパートンがやられてしまう。
私はハルを抱いていた腕を解いて、背中を向けたまま後方に跳んだ。私が地面を蹴った衝撃で後方に飛ばされたハルは、三回後転した後にリアさんに受け止められた。
「パートン、伏せてっ!」
「わ、わかったー」
私が叫ぶと、パートンは蜘蛛型の接近を妨げるのに必死でほんの一瞬判断が遅れたが、すぐに指示通りに伏せてくれた。
流石学校に通って訓練を受けていただけあって、戦闘中の的確な判断もそれなりに出来るようだ。
高速で跳んだ私は、空中で横回転を開始。回転はみるみる加速していき、空気抵抗によって内臓が攪拌されるような感覚を味わいながらも、私からはゆっくりと視点が右に向かっているように見えるまで加速した。
キュイーンと音を立てながらパートンの頭上もとい蜘蛛型の眼前に達すると、左足を大きく後ろに下げ、蹴りの姿勢に入った。
そして、ようやく私に気づいた蜘蛛型が防御の姿勢に入る前に私の高速蹴りが炸裂。全ての回転エネルギーで以って、蜘蛛型は一瞬凹んだ後に破裂した頭部を失ったまま、銃弾の如き速度で遠く右方の森の奥に飛んでいった。
数回バウンドして木を倒し砂煙を上げて、蜘蛛型の屍体は一キロメートルほど飛んで停止した。
その場に残ったのは蹴った後の姿勢のまま空中に留まっている私と、その直下でしゃがんだパートンだった。
「ごめんなさい。落ちるわ」
「え、ちょっとまーー」
「わっ!」
「ぐへっ」
魔法が使えない私に重力に抗う術はなく、なるがままにパートンの細い背に垂直落下し、パートンは呻き声を上げて昏倒してしまった。
白目を剥いて全身が脱力しているパートンに呼びかけながら体を揺らしてみるも、反応はない。意識がどこか彼方に逝ってしまった。
もう私は、蜘蛛型を倒したことや自分の体重の心配も忘れるほど焦っていた。
「ねぇ、私どうしたらいいの? ちょっと、そこの二人突っ立ってないで手伝ってよ!」
気絶しているパートンの心配など他所に、焦る私を傍観しているハルとリアさんに向かって私は叫んだ。
しかし二人は私に応答することはなく、何やら話していた。私にまではその声は届かず、何を話しているのかは分からなかった。
しかし、パートンへと心配が先行して、二人の会話の内容を気にしてはいられなかった。
どうにかパートンを復活させようと肩を揺すったりビンタしたりとあれこれ試行錯誤するのだった。
「お母さん、あの力は本当になんなの?」
「女の子で強くなる力ね」
「いや、そんなことは私もなんとなくわかってる。……そうじゃなくて、何であんな強い人の存在が今まで風の噂にすらならなかったの?」
(その答えは知ってるけど、私が言うのは…………ねぇ)
ーーなぜ今まで噂にすらならなかったのか。
その問いに対する答えは、彼女が昨日この世界に来たからという他ない。私はそれを昨日ユリネ本人から聞いたから知っている。でも、それを私の口から言うのはよくないと、私自身がよく理解している。
「さぁ、何でかしらね?」
私はこうやって、その事実を知らない人ーーユリネ本人が自分の境遇を明かしていない人ーーに対しては、曖昧なままにしておくしかない。ユリネがハルを心の底から信頼できるようになったときに、自分から正体を明かすのが、二人のためには最適だ。ユリネは、面倒だから伝えてくれていたら良かったのに、なんて文句を漏らすかもしれないけれど。
ハルは、知りたかった答えが得られず顔を顰めている。私はその不満を紛らわすために、ある提案をした。
「ハル、アリスさんの魔王退治について行くのはどう?」
「……なんで急にそうなるの?」
「アリスさんは能力の性質上、女の子が近くにいないと、おそらく冒険者でもない普通の人間の男に勝つのすら難しいわ」
「そうだとしても、何で私が?」
「あなたの知りたい答えは、アリスさんが持っているかもしれないからよ。きっと、一緒に旅をしているうちに本人から教えてもらえるわよ」
「…………うーん」
どうやら、これは決断する理由としては弱いようだ。それなら、あまり子どもに使うような手段ではないため気は進まないが、この手を使うしかない。
「じゃあ、ハルの協力でアリスさんが魔王を退治できたら、その度にお小遣いあげる。一回二千ユルでどう?」
二千ユルというと、国の中枢機能を担うほどの大都市で一ヶ月三食付きで宿泊できる程度の金額だ。
それだけあれば、子どもが魔王討伐について行く報酬としては十分過ぎる。報酬付きで娘を危険な目に遭わせるのは親としてどうかとも思うが、世界のためには仕方ない。それに、ユリネが守ってくれるから大丈夫だと、私は信じている。
ハルは金額を聞くと、それまで渋っていたのが嘘のようにあっさりとーー
「わかった、頑張る」
快諾した。やはりハルにとってももうお金が全てなのだなと、娘の成長を嘆いてしまう。
「でも本当に、アリスさんに魔王が倒せるのかなぁ」
ハルはまだユリネの力を信頼できていないようだ。でもその力の真価が発揮されるのは、もっと二人の間の愛が深まってからだ。
ユリネは能力発動のための相棒というだけではなくて、もっと特別な女の子としてハルに信頼を置かなければいけない。
一方でハルは、百合というものの美しさ、尊さをもっと理解し、ユリネに対する認識を明確に変えなければならない。
前者に関しては、完全にユリネ次第。後者に関しては、ユリネの手伝いもいるだろうけどーー
「ハルの気持ち次第だと思うよ」
「……ふーん?」
「まぁ、頑張ってね」
「うん」
ハルはよくわかっていない様子だった。でも、私がハルを鼓舞する言葉には首を縦に振ってくれたので、今更「やっぱりやめとく」なんてことにするつもりはないようだ。私は、それにひとまず安心した。
前の方から足音が聞こえたので見ると、ユリネと、足元のフラついているパートンが歩いてきた。
「まだ夜明けまで時間がありますし、一度寝ませんか?」
「僕はあんまり眠くないんだけどねー」
「でも休んだ方がいいわ。さっきまで気絶していたせいでまだフラフラしてるじゃない。…………私、まだ絞り足りなかったかなぁ?」
戦いの直後に寝ようとしたり体重の心配をしたりする人なんて、この世界にユリネしかいないだろう。私はその呑気さに少し笑ってしまった。
ユリネが首を傾げているが、「なんでもないわ」と言って、ハルと手を繋ぎ家へと歩いた。
天には未だ、星々が煌々と輝いている。私の隣の可愛い娘と、その後ろに息子、さらにその隣を歩いている異世界の少女が織りなす魔王討伐の栄光に私も少しでも助力したいと、切に願う。
さて、ここ最近のこの村への蜘蛛型の魔物の襲撃の首謀者は、配下の亡骸を見て何を思うかーー
昨日の昼間に、村に偵察に向かわせた私の可愛い子の反応が、その近辺で村に辿り着く前に突然消失した。
今まで、村の外で子が死ぬことはなかった。村の者たちは無理に外に出て村の中の護衛を疎かにすることがなかったからだ。
故に、その原因が気がかりだった私は、夜が更けたタイミングで別の子をひとつ、村の何処かに放り込んだ。その様子を遠くから観察していたのだが、随分と面白いものが見られた。
私の目の前にあるのは、間違いなくその子だ。ただ、その頭部は失われ、その傷口から覗く心臓ももうピクリとも動かない。
偵察のためにしては贅沢に、殺傷能力の比較的高い個体の子を差し向けたのだが、魔法使いの少年を追い詰めたと思ったら終わりは一瞬だった。
何の魔力も持たない人間の女が、突然これを魔砲にも劣らぬ速度で蹴り飛ばしてきたのだ。蹴り飛ばした方向がこちらなのは偶々だろうが、初めは気づかれたのではないかと肝を冷やした。
魔力を微塵も持たない少女が、私の子を圧倒した。どんな手品を使ったのかは分からないが、あの少女は相当な準備をしてから相手をする必要がありそうだ。
私が歩いて巣に帰ろうとした時ーー
「あら? 誰かが私の存在に勘づいたわね」
陰魔法で気配を本来の一厘ほどに薄めていたのだが、それでも気づかれることがあるとは、さしもの私でも予測できなかった。
「相当な魔法の使い手のようね。もうバレているのなら、帰りは歩かない方がいいわね」
気配を手掛かりに尾行されて居城の位置が割れるリスクを避けるために、私は転移魔法を使った。
転移先は、私ーー《陰鬱の魔王》アラクネのシュピネーの居城だ。
○◉○◉○
翌朝、私は若干の眠気を引きずりながらリビングに降りた。その時には既に、ハルもリアさんもパートンも身支度を済ませてご飯を食べ始めていた。
しかも、リアさんとハルは私には目もくれず、黙々とご飯を食べている。話しかけてくれたのは、パートンだけだった。
「おはよーアリス。よく寝てたねー」
「おはようパートン。私に優しいのはパートンだけね」
「二人ともー深夜に起きることなんてないからーちょっと寝不足なんだよー。僕は慣れっこだけどねー」
いつものように目が半分しか開いていないパートンだが、今日は珍しくハルやリアさんよりも目が開いていたから、本当に二人が眠いのがわかる。
それにしても、私に対してここまで反応を示さないのは、少し悲しくなる。
「寝不足程度でこんな、酷い……」
「いや、これが普通だと思うよー。それに、深夜まで起きててー僕と同じぐらい元気な人なんてー、見たことないよ。さてはアリス、かなり徹夜に慣れてるねー」
「まあね。三日連続が最長かしら」
「本当に? そんなに起きてて何をやるのー?」
「んー、秘密」
「そっかー。でもー、そんなことより、急いだ方がいいよー」
「ん? ……あ、やっば」
パートンに促されて時計を見ると、もう八時だった。学校の始業時間まではあと三十分しかない。
私はご飯を破竹の勢いで他の三人より早く食べ終え、歯を磨き、顔を洗い、身支度も着替えと髪を整える程度で簡単に済ませた。その結果、何とか八時二十分に準備が終わった。
平日にこんなに寝坊して焦って支度をしたのは、かなり久々だった。私の記憶が正しければ中学生以来だ。
この世界で私は生徒会長ではないし、私の手元にBL本がないためこなす日課もなく、早く起きる必要がないから、気が緩んでいるのだ。
だが、忘れてはいけない。今日から数日間、私は、リアさんの運営する学校で臨時の先生として働くのだから。
私は、未だに眠そうに欠伸をしているリアさんと並んで、家から少し歩いたところにある校舎に向かっていた。
ちなみに、ハルが通っている学校は別にあるため、家を出たところですぐに分かれた。たまにハルがリアさんを手伝っているのは、ハルの通う学校が全日制ではないからだ。
家と校舎は隣接しているようなものでかなり近いのだが、幸運にも先の戦いでの建物の被害は皆無だった。被害は、蜘蛛型の落下地点に浅めのクレーターができただけだった。修復は容易で今日の学校が終わったら開始するそうだ。
「臨時教師の話を引き受けてくれてありがとう。本当に助かるわ」
「いえいえ、こちらこそ無償で住まわせていただいている身なので、少しでも助けになれるのが嬉しいです。それに、働き場所も欲しかったですし」
「そう? なら元の先生が戻ってきた後も、ここで働き続けてもいいのよ」
「いいえ、それは遠慮しておきます。この世界に来た意味がなくなってしまうので」
「ふふふ、確かにそうね」
子どもに勉強を教えたことは今までになかったので実は少し緊張していたのだが、リアさんが話しかけてくれたおかげで少し和らいだ。
「緊張は解れたかしら?」
「あはは、お見通しでしたか」
「当然よ。たった一日の付き合いとはいえ、少し堅くなっているのくらいわかるわ。だってアリスさん、私と昨日初めて会った時みたいになってるんですもの」
「そ、そんなにでしたか?」
「随分と大人びている子だとは思ってたけど、案外緊張しいで、何だか安心したわ」
「そんなことで安心しないでくださいよ、もう」
そんな会話をしていれば、あっという間に校舎に到着した。本当に家と学校近いなぁ。
校舎に入るとまずは職員室に向かい、リアさんから私の机が割り当てられた。机の上には山のように書類が置いてあって、緊張が解れて頭角を現し始めていた私のやる気は、再び心の奥底へと撤退していった。生徒会長でなくなっても、書類の山は私を熱心に追いかけ続けるようだ。
まったく、そんなに情熱的に私に求愛しても、何も出てこないぞ! なんせ、今の私は一文なしだから! ……泣けるー。
その空しさを抱えたまま、朝の職員会議でリアさんによって私が他の先生方に簡単に紹介された。その後私自身からも少し挨拶するようにリアさんから促された。
「初めまして。今日から数日間、体調不良でお休みしているオルタ先生の代わりに、クラスリリィの担任をすることになりました。アリスです。教壇に立った経験のない未熟者なので信頼しきれないところはあると思いますが、足は引っ張らないようにします。よろしくお願いします」
言い終えると、自分の長所を具体的に述べておらず、私的にはかなりネガティブな自己紹介となった気がしたが、職員室中から拍手が鳴った。あちらの世界では高校生の年齢でありまだ子どもである私が教師をやるということに、強い風当たりがあることを覚悟をしていたのだが、周りの温かな反応に安堵した。
職員会議が終わると、教師陣は各々のクラスに向かった。無論、私もだ。
私が数日間担任を持つリリィクラスは、あちらの世界でいう小学校高学年の子どもたちが十二人集められている少人数クラスだ。
中高生の扱いには慣れているが、ここ数年は現実の小学生と関わる機会はあまりなかったので、まずは手懐け方から探らなければいけない。
あと、普段通りの話し方でいいのか、或いは少し明るめのテンションで話した方がいいのか。
しかしそれも、実際に児童たちを前にしてみないとわからない。
ああだこうだと考えていると、不安を抱いたまま教室の前に到着してしまった。私は気持ちを少しでも落ち着かせるために扉の前で一度立ち止まった。
「…………ふぅ」
深呼吸をして、口角を指で押し上げて、覚悟を決めた私は震える右手で扉をゆっくり開いた。
目の前には、床より少し高めくなっている教壇とそこに教卓があり、その奥を見れば広々とした校庭が見える窓がある。
教壇の左の壁を見ると黒板があった。右を向くと、児童たちが私のことを不思議そうに見ている。いきなり初対面の人間が教室に入ってきたのだから、当然の反応だろう。中には、ちっともこちらに興味を示さない児童もいるけれど。
私はゆっくりと教壇へと歩き出し、教卓のところに着くと児童たちの方向を向いた。
一人が隣の人に、「あの人誰?」とボソッと話しかけた。それは、その隣、さらにその隣と伝播していきあっという間に教室中が騒がしくなった。十二人の少人数クラスといえども、その騒がしさは、ザ・小学生という感じだ。
しかし、この程度は想定内。何も困惑することはない。私は、児童たちの注目を集めるために大きい声で呼びかけた。
「ちょっといいかなー?」
ーーしんっ。
「え、すご」
私が声を掛けると、児童たちは一瞬にして表情までも静かになった。まるで機械が、持ち主の「黙れ」という命令に従ったように。
私のいた小学校では考えられないような光景に、思わず声を漏らしてしまった。オルタ先生とやらが、かなり厳格な指導を施していることが窺えた。
「実はオルタ先生は、今日から数日間、体調不良で休むことになりました」
私が言うと、クラス中から残念そうな声が上がった。こういうちゃんとした小学生的反応も出来るのだなと、少しホッとした。
ただ、一人だけ拳を握りしめている女の子がいた。オルタ先生のことが嫌いなのだろうか。
まぁ、今は気にしなくてもいいや。
「なので、私がその代わりとして今日から数日間、みんなに授業をします。名前はアリスといいます。よろしくお願いします」
言い終えると、児童たちが拍手をしてくれた。こういう時は拍手をするんだ、という定型に基づいてしたのかもしれない。お世辞なのかもしれない。
そうだとしても、大勢から拍手をもらうのは、心が満たされるような感じがして、直前まで不安で一杯だったことなんてすっかり忘れていた。
「慣れないことなので少しミスをするかもしれませんが、数日間なので我慢してもらえると嬉しいです」
『はーい!』
「それでは出席をとります」
○◉○◉○
昼休み、私は教卓でご飯を食べていた。目の前では、児童たちが班ごとに机を引っ付けて、談笑しながら食事を楽しんでいる。
改めて、このクラスには十二人の児童がいる。その内、七人が男子だ。比較的、男女のバランスはいいと思われる。ずっと女子校にいた私にとって、教室に男女が共にいるのは久しぶりの光景だった。
ここまで、休憩時間や授業中、そして今の昼食時間での児童たちの行動を見たところ、男女を問わず仲が良さそうだ。いじめも孤立も見られない。
昼食を食べ終わった児童は続々と校庭に出ていき、鬼ごっこをし始めた。運動能力が平均的に高く、あちらの世界だったら全員が高校生の陸上の全国大会で表彰台レベルの足の速さをしている。あちらの世界で五十メートル走六秒台の私ですら、素の状態ではあの鬼たちから逃げる事は難しそうだ。
午前中の授業をしていて、苦労することは特になかった。
魔法学の授業をするのは、魔法を使えないしそもそもよく理解していない私には、根本的に不可能なので、そこだけは他の先生に代理を頼んでいる。でも、他の授業は全て私が行なっている。
初めてのことだらけだったが、結局は私が小学校の時に見ていた先生の真似をすればいいので、やり方が分からないことはなかった。
この世界の字を読むことができるようになっても書く練習はしていないので板書が少し遅いが、一生懸命写している児童たちを見ると、小学生にとってはちょうど良い速さのようだった。
算学は、小学生が方程式を使っていることには驚いたが、仮にも現役女子高生だったので教えるのに分からないことはなかった。
語学は、昨日全力で覚えた甲斐あって、何の問題もなかった。寧ろ、児童たちは、私の語学の授業がわかりやすいと言ってくれた。
この世界の言語は文字は見たこともない異国の文字だったが、発音や単語自体は日本語と相違なかったので、文章中の文字の羅列を構造的に覚えた。その結果、この世界の子どもにもわかりやすい説明が出来たのだと思われる。
午前の授業はそんな感じだった。午前を脳内で振り返っていた私が昼食を食べ終わる頃には、もう児童はみんな外に出ていて、沢山の鬼が三人ほどの児童を追いかけている。
先程、児童の一人が「伝染おにごっこ」と言っていた。ということは、これは俗に言う「ふえおに」だろう。このクラスだけでその名前なのか、この世界ではこの名前が標準なのかは分からない。しかし、どちらにせよ恐ろしいネーミングだなと、若干引いた。
昼休みが終わると掃除が始まった。校庭から各クラスの児童達がわらわらと校舎内に入ってきて、教室で掃除道具を取って、担当の掃除場所に向かった。
みんな、魔法を使って器用に雑巾や箒を動かし、教室を綺麗にしていく。この学校では、掃除の時間も魔法の訓練とするのだそうだ。
残念ながら魔法の使えない私は、それを内心で指を咥えて見ていることしかできなかった。
その午後の授業も問題なくこなせた私は、暮会後に校長もといリアさんに呼び出されて、校長室に向かった。
「初日が終わって、どうだったかしら?」
最初に訊かれた質問は、それだった。昨日まで現役女子高生だった性か、呼び出されたというだけで少しビビっていた。悪いことはなにもしていなかったから、お叱りを受けるわけではないと分かっていたけど。…………わかっていたけどね。やっぱり、校長室に呼び出されたら驚いちゃうじゃない。
「まったく問題ありませんでした。児童たちはとてもいい子たちだったし、昨日文字を教えていただいたおかげで色々円滑に進められました」
「それなら良かったわ。昨日初めて来たこの世界に、もうここまで馴染んでいる。その適応力、羨ましいわ。私にもそんな力があればよかったのに」
「そんな、恐縮です。私は別に、特別なことは何もしていないですから。ただただ、この世界を知り、馴染み、与えられた役目を遂行しようとしているだけです」
「それが、実に素晴らしいことなのですよ。普通の人だったら、知らない世界に連れて来られた時点で心が折れてしまうでしょうから」
「まぁ、私の場合は一種の妥協ですけどね。もう戻れないとは女神に言われているので、それならもういっそこの世界を満喫してやろうってことです。それに、この世界にもBLがあるってわかったから、SAN値も正常なままでいられますし」
「……さんち? よくわからないけど、与えられた環境で精一杯幸せを追求する心構えは、本当に素晴らしいわ」
「いやいや、そんなことないですって」
自分の中では別に大したことはしていないし、寧ろ元の世界への理想を捨てるというネガティブな価値観から生まれた考えだ。それでも、褒められるとやはり嬉しい。
そこで、リアさんは表情を穏やかなものから一変、真剣なものにした。
「さて。今日アリスさんを呼んだのは、別に今日一日先生をやってみての感想を聞きたかったからではないの」
「まぁ、そうですよね。それで、一体どう言った理由で?」
「昨日の昼にあなたたちを襲い、そして今日未明に飛来した蜘蛛型の魔物の差出人が判明したの」
まったく予想の明後日の方面についての発言に、理解が置いていかれそうになったが、何とか食らいついて私は問うた。
「……そ、それで、その差出人とは?」
「この町の西に一日歩くぐらいの距離にある旧都市コロフォンに巣食っている《陰鬱の魔王》アラクネのシュピネーよ」
「アラクネ…………。なるほどね」
アラクネは人間の上半身と蜘蛛の下半身を持つ伝説の生物だ。ゲームでは登場することがあるが、まさかこの世界にもいるとは。しかも、魔王か。
しかし、一連の蜘蛛型襲撃が魔王によるものという事実は、ある意味都合が良かった。
この事件を解決することが、私たちがこの世界に来た目標を達成することに直結するからだ。
私たちの目標は、この世界に蔓延る十の魔王を討伐すること。その目標を達成した先に何が待っているのかはわからない。
しかし、ひとまずはその目標に向けて頑張らなければ、多くのものを失ってこの世界に来た意味がない。半ば無理矢理とはいえ、せっかく異世界に来たのだから、さっさとやることはやっておいて、後から精一杯異世界ライフを満喫したい。いつか合流できたら美樹とも遊びたいし、つい他人の前では出てしまうこんなお姉さんみたいな口調とか捨てて、はっちゃけたいし。
そのため、必要以上に遠回りをしたくはなかったから、この蜘蛛型討伐が目標達成に直結するのは、ありがたいし解決のための意欲も湧いてきた。
私が改めて決心したのが顔に出ていたのか、リアさんが私の顔を見て微笑んでいた。
その顔を見て、私の頭にふと疑問が生じた。
「そういえばリアさん、どうして敵の正体が分かったんですか?」
「ヒミツよ」
「そんなはっきり言いますかね、それ?」
何の迷いもなく笑顔で即刻秘密と言い放つあたり、最初から隠す気がないのが見え見えだ。
その不変の余裕さは、強者そのものだ。
「さてはリアさん、相当な手練れですね?」
「さあね。でも、間違いなくユリネの方が戦えるわよ」
「ふぅん、そうですか。ま、今はいいです」
否定はしないということは、リアさんは自分に自信がある程度には強いと言うことだ。「戦える」という言葉の意味するところは気になるが、今私が集中すべきは臨時の教師だ。魔王討伐のことを考えるのは、三日後ーー臨時教師としての務めが終わってからでいい。
「あと三日間は、責任を持ってあの子たちを教えます。今のところはそのつもりです。今日で大体の感覚は掴めたので」
「本当に? やっぱり、優秀ね」
「いえいえ。リアさんが文字を教えてくれなければ何も出来ませんでした。本当にありがとうございます」
「いいのよ、それくらい。それに、遅かれ早かれこの世界に馴染むには文字を教えなければいけなかったから。寧ろ、あなたが文字が読めないことが早めにわかって良かったわ」
「そうですね。どこかに行くたびにハルに文字を読んでもらわないといけないのは、申し訳ないですからね」
その後は、仕事の話は抜きにして雑談をした。無論、BLについて。早く、あちらとこちらの世界の差を照らし合わせておかないと、リアさんの知らない言葉が出るたびにいちいち教えるのは大変だ。
BLの話をしている間だけは、リアさんと友達のように話した。お互いに普段は見せないようなキモさが出ていて、それも込みでとても楽しかった。それでも、美樹と話す時のような砕けた口調にはならなかったけれど。
だがその間も、私の頭の隅には別のことがあった。西方に巣を張った、かの魔王のことが、脳内に水垢のように粘着していた。
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それでは!
《追記》
ブラッシュアップしました!