その8
藍はなにもいわずに、しばらく抱きつかれるがままにしていました。たまった恐怖のダムは、すべて流れ出るまでずいぶん時間がかかりましたが、それでも最後は落ち着きました。しゃくりあげ、すすり泣きになる朱音を、今度は藍が抱きしめました。
「怖かったんだね、大丈夫、大丈夫だから。心配しないで、わたしたちがついてるよ」
背中をさすりながら、藍がささやくようにいい聞かせます。信作はなにかいいたげな様子で、藍の横顔を見ました。藍も信作に視線を移します。藍の細い目を見ると、信作は言葉につまってしまいました。だまっている信作を、藍はしばらく見ていましたが、やがて朱音の顔をのぞきこみました。
「だいぶ、落ち着いた?」
「……うん」
藍がほっとしたようにうなずきました。朱音からからだを離して、わざと明るい声でいいます。
「それじゃ、いったんすわりましょ。わたしたちも、朱音にいろいろ聞きたいし」
朱音の顔が、苦しそうにゆがみました。藍がまた背中をさすります。ひたいをこすりあわせて、さとすようにささやきました。
「大丈夫よ、いやだったらすぐにやめていいから、ね。心配しないでいいからね。わたしたちだってちゃんとついてるから、泣かないで」
朱音はなにもこたえませんでしたが、ふるえが少しおさまったようです。ホッと表情をゆるめると、藍は朱音をベッドにすわらせました。
「朱音、いったいなにがあったの? それにこれ、いったいどうしたのよ?」
藍はまくらもとに置いてあった、大量の塩に目をやりました。毛布からは、ゴルフクラブの頭が見えています。信作も緊張したおももちで、朱音を見下ろしています。
「もしかして、朱音、なにか悪いモノにとりつかれているとか、そんなことじゃないよね?」
「なっ、おい、藍、変なこというなよ」
信作が目をむきました。急いで朱音を見ると、表情がみるみるうちにくずれていきます。
「ほら、おどかすようなこというから、また和歌月が」
「どうして、わかったの?」
ベッドから立ち上がり、朱音は藍にすがるように近づきました。信作は目を丸くしています。
「ごめん、驚かすつもりはなかったの。でもほら、塩がいっぱい置いてあったから、もしかしたらって思って」
「塩で? いったい、どういうことなんだ」
よくわからないといった顔で、信作が藍に向き直りました。藍は首をすくめて信作に聞きます。
「あれ、信作、テレビ見てないの? 『お姉ちゃんはユーレイ』ってアニメに出てたんだけど。ゆうれいとか、そういう悪いモノって、塩をきらうらしいの。部屋に塩を置いておくと悪霊よけになるんだって」
「なんだよ、アニメの話かよ。そんなのまゆつば」
信作は急いで口をふさぎました。朱音の顔が真っ青になっていたからです。あわててとりつくろうように続けます。
「ああ、まあでも、そういうアニメって、けっこうちゃんと調べてたりするもんな。だからきっと当たってるさ」
「そうそう、その証拠にさ、朱音を守ってくれたじゃん。別に変なのがおそってきたりしなかったでしょ」
藍のほわんとした声に、朱音は小さくうなずきました。細い目をさらに細めて、藍は笑いました。
「でしょ。だから大丈夫よ。あ、そうそう、そういえば『お姉ちゃんはユーレイ』の、エンディングが変わってたのよ。マギエラの新曲になってたわ」
元気づけようとしてでしょうか、藍が唐突に話題を変えます。朱音が少しだけ顔をあげました。
「マギエラの歌になってたの?」
「うん。『ノワール』って曲よ。黒って意味だって」
「黒、かあ」
朱音の表情がやわらぎました。マギエラは女子に大人気の女性ユニットです。自分たちの歌に色の名前をつけるのが特徴で、朱音も藍も大ファンだったのです。さっきまでの負のオーラに満ちた部屋が、なんだか明るくなった気がします。ここぞとばかりに、藍がおしゃべりを続けます。
「そうなのよ、あっ、そうだ。今度またCD買いにいこうよ。朱音も一緒に聴こう」
「うん、ありがとう、楽しみにしてるよ」
まだぎこちない顔でしたが、朱音がほほえみました。藍も調子に乗ってへへっと笑います。
「ホントよね。でもなつかしいなあ、よく三人で聴いてたもんね、わたしと朱音と、あおいとで」
「あっ!」
朱音があわてて急いで話題を変えようとしましたが、遅かったようです。信作が藍をにらみつけましたが、藍はもう止まりません。
「特にあおいは好きだったもんね、マギエラの歌。歌詞がきれいで切なくって、心が洗われるってよくいってたな。みんなで一緒に聴いていると、幸せな気持ちになるんだって」
「藍、お前ってやつは!」
信作が藍に殴りかかろうとしますが、朱音があわてて止めます。
「えっ、どうしたの信作? なにそんな怖い顔してるのよ?」
「なに怖い顔してるのよだと? お前、ぼくがなんで怒ってるのか、ホントにわからないのか? あおいが死んだっていうのに、お前たちのせいで死んだっていうのに、なんでそんなに他人事みたいに!」
「待って、信作君!」
朱音が必死に信作の腕を押さえます。藍は細い目を大きく見開きました。
「死んだ? あおいが? なにいってるの? だってあおい、風邪をこじらせて寝こんでるって、昨日先生がいってたじゃん」
「風邪だと? お前こそなにいってるんだ? そりゃあ、死んだ理由は先生ぼかしてたけど、ちゃんと話してただろ。あおいが死んだって!」
藍はまっすぐに信作をにらみつけたまま、思いっきり信作のほおを引っぱたいたのです。朱音が悲鳴を上げます。
「……ってぇ! お前、なにを!」
「なにをはこっちのセリフよ! 信作はあおいのお兄ちゃんでしょ、大事な妹でしょ! その妹が、死んだだなんて、そんなの冗談でも絶対いっちゃダメなことでしょ! 信作のこと見損なったわ!」
信作は目をぱちくりさせています。ほおを引っぱたかれたよりも、もっとショックを受けたようで、口をぽかんと開けたまま固まってしまいました。