その37
みかんがやっと落ち着いたのは、信作の家であたたかいホットココアを飲んでからでした。信作は気づかうように、みかんの様子を見ています。テーブルをはさんで向かい側に、朱音がぽつんとすわっています。自分のカップに視線を落とし、ときおり盗むように二人を見るのでした。
「どうだ、伊集院、だいぶ落ち着いたか?」
みかんは信作を見あげました。信作の家に来る前に、家に帰って着替えを持ってきていたので、今はオレンジ色のパジャマすがたです。そでからは朱音が巻いた包帯が、痛々しげに見えています。
「……伊集院?」
なにもいわないみかんに、信作は不思議そうに首をかしげました。真っ黒なひとみが、じっと信作の目を見つめています。
「下の名前で呼んで。さっきみたいに。お願い」
「えっ? ああ、みかん」
みかんはにこやかにほほえみました。いつもの気取った、アイドルのような笑みではありませんでした。
「でも、これからどうするの? 緑川君は、あのまま帰っちゃったし」
かぼそい声で、朱音がたずねます。朱音もピンク色のパジャマに着替えていました。シャワーを借りたので、赤茶色の髪はしっとりとわずかにぬれていました。さりげなく、みかんは信作の腕をつかみます。
「いま話しても、きっとけんかになるだけだ。幸い、龍次はまだうろこが出てなかった。だからまだ襲われることはないよ。少し距離を置いて、落ち着いてからもう一度話をしよう。和歌月も、また龍次にいけにえとかいわれたくないだろう?」
「わたしは、苗字なんだ」
「えっ?」
「なんでもない」
朱音がそっぽをむきました。信作は首をかしげます。
「とにかく、当分の間は一緒に行動するようにしよう。それに、もう仲間割れするのはやめようぜ。みかんも、和歌月も、二人とも仲良く」
みかんが朱音を、するどい目つきでにらみつけました。
「仲良くじゃなくてもいいから、少なくともいけにえとかはダメだからな」
信作はため息をつきながらいいました。朱音はあいかわらずおびえていましたが、信作と目があうと、すねたように顔をそむけました。部屋の空気が、少し重くなったように感じて、信作は肩をすくめました。
「それじゃ、もう今日は眠ろう。二人とも疲れただろう、しっかり休んでおかないとな」
あくびをかみ殺しながら、信作が立ち上がりました。みかんはまだ腕を組んだままです。
「ほら、二人とも二段ベッド使えよ。大丈夫、ぼくは床で寝とくから。かけ布団だけあればいいからさ」
みかんが涙目になって信作を見あげました。
「そんな顔しなくても、なにかあればちゃんと助けるよ」
信作にうなずかれて、みかんはやっとほおをゆるめました。信作の顔を見つめたまま、みかんは二段ベッドの下にこしかけました。朱音が不安げな様子で、みかんの顔をうかがっています。
「あの、わたしは……」
みかんは無言で上の段を見ました。おどおどしながらも、朱音は上の段へのぼりました。
「それじゃ、電気消すけど、なにかあったらすぐに呼んでくれよ」
「うん」
上のほうから、朱音の泣きそうな声が聞こえました。みかんはなにもいいませんでしたが、信作と視線があうと、静かにうなずきました。
いくらかけ布団があるといっても、フローリングの床なので、信作はなかなか寝つけずにいました。時計の針の音が、やけに大きく聞こえます。何度か寝返りをうっては、眠ろうと羊の数を数え始めました。そして、その数が五百を超えたときでした。
「ねえ、信作君、寝たままでいいから、少しお話していい?」
「ん、みかんも起きてたのか? ああ、いいよ」
信作はこっくりうなずきました。しかし、自分から話しかけてきたのに、みかんはなにもいいませんでした。再び時計の針の音が、部屋に静かに響きます。心配になった信作が、みかんに声をかけようとしたときでした。
「今日は、ありがと」
「えっ?」
「助けてくれたでしょ。ありがとう」
「ああ、でもごめんな。もっと早く助けられていたら、みかんにけがさせずにすんだのに」
信作の言葉は、暗闇の中にとけていきました。みかんはなにもいいませんでした。カッチ、コッチと、時計の針の音がやけにゆっくりと聞こえます。
「わたしはいいの。でも」
「えっ?」
「でも、ネコちゃんが」
くぐもった声が聞こえて、信作は少しからだを起こしました。ベッドをのぞきこむと、みかんはまくらに顔をうずめていました。背中が少しふるえています。
「みかん、泣いてるのか?」
みかんは答えませんでした。カッチ、コッチと、時計の音に耳をすませたまま、信作はじっと待ちました。
「……神社でね、わたし、子ネコを見つけたの。足を、けがしてた。歩けなくされて、箱に捨てられてて。わたし、守ってあげたかったのに、なのに」
「ごめんな、みかん」
信作の言葉に、みかんはゆっくりと顔を上げました。
「ううん、信作君のせいじゃないよ。きっと、わたしがいけなかったんだ。子ネコちゃん、わたしのことを怖がっていたわ。きっとうろこがあって、呪われているから」
「そんなこと」
しかし信作は、それ以上なにもいえませんでした。みかんはあきらめたようなさびしい口調で続けました。
「ううん、いいの。やっぱりわたし、誰からも好きになってもらえないのね。パパや、ママからも」
鼻をすする音が聞こえてきました。泣いているのでしょうか、みかんはしばらく口を閉ざしましたが、長い沈黙のあとに、再び話を始めました。
「パパもママも、海外に行っているけど、それは仕事だからじゃないの」
「えっ?」
意外な言葉に、信作は思わず聞き返してしまいました。みかんは自虐的に笑って、それから言葉を続けました。
「パパもママも、それぞれ恋人がいるの。不倫ってやつよ。海外でそれぞれ仕事しているふりをして、外国で恋人と会っているの。二人とも頭がいいから、そんなそぶりは見せないけど、わたしにはわかる。だから二人とも、わたしを厄介払いしたいって思っているのよ。でも、世間体を気にする人たちだから、なかなか実行できないだけ。お手伝いさんなんかをやとっているのも、わたしに対する罪滅ぼしのつもりなんだろうけど、そんなのバレバレだわ」
罪滅ぼしという言葉に、信作は胸が痛みました。だからこそ、みかんはあれほど信作を責めることができたのでしょう。罪滅ぼしで優しくされることのつらさを、いやというほど感じているから。信作は思わず首を横にふりました。
「みかんは、誰からも好きになってもらえないなんてことないよ。だって、みかんにはたくさん友達がいるじゃないか。女の子たちからも好かれているし、龍次もお前のこと大切に思っているよ。だからそんなこというなよ」
信作は、みかんがさびしげに笑ったように思いました。暗闇が二人の間を大きくへだてています。
「お友達なんていないよ。みんなきっと、うわべだけでしかつながっていない。わたしはずっと、一人ぼっちだったの」
「でも、みかんはクラスで人気者だって聞いていたよ。あおいがいつもそういっていたから」
妹のあおいのことを思い出し、信作は胸が痛くなるのを感じました。暗闇のなかに見えるみかんのシルエットが、あおいに重なるように思えて、信作はぎゅっと目をつぶりました。
――そんな悩みをかかえていたなんて――
みかんは再び、まくらに顔をうずめました。時計の音とともに、かすかに朱音の寝息が聞こえてきます。
「みかん、寝ちゃったのか?」
闇に溶かすように、信作がそっとつぶやきました。みかんはなにも答えません。信作は音を立てないように、ゆっくりと横になりました。
「あおいちゃんだけは違ったの」
ゆったりした沈黙を、今度はみかんがやぶりました。信作はそっと顔を上げました。
「いじめっ子で、弱くて悪いわたしのことを、友達だっていってくれた。大事な友達だって、一緒に遊んでくれた。でも、わたしはあおいちゃんを……」
「みんなあいつに、虹蛇に操られていたんだ。ぼくも、あおいのことは助けられなかった。みかんが悪いんじゃないよ。悪いのは虹蛇なんだ。だから、ぼくたちはみんな協力しないといけないんだ。これ以上犠牲を出さないためにも」
最後は自分にいい聞かせるように、信作はぽつりとつぶやきました。
「わたしも、連れていかれるのかな?」
「バカなこというなよ。もう誰も、虹蛇の犠牲になんてしない。ぼくが、必ず守る!」
「バカネのことも?」
信作は口をつぐみました。闇に慣れてきた目には、みかんがこちらを見ているのがわかります。次の言葉を待っているのでしょう。けれども信作はなにもいいませんでした。
「信作君、怒ってるの?」
みかんが不安そうにたずねました。少し間が空いて、信作の声が聞こえました。
「みかんは、悪い子じゃないんだろ? それなら、和歌月のことをそんなふうにいったらだめだろ。さっきいったじゃないか。ぼくたちはみんなで協力しないと、虹蛇にやられちゃうよ」
だんだんと、闇が重くなっていきました。信作は言葉を待ちましたが、みかんはなにもいいませんでした。信作はあきらめずに、じっと耳をすませていましたが、なにも聞こえてきませんでした。そのうちに信作は、ゆっくりと夢の中に落ちていったのです。




