その33
カラスのぞっとするような鳴き声が、暗闇の中にひびきました。いつもは気づかないような、風が木の葉をゆらす、がさがさという音も聞こえてきます。闇の中でなにかがうごめいているような、いやな想像が頭の中にうかんでは消えます。それに、さびれた神社独特の、悲しみに満ちたにおいさえもしてきます。
くもの巣がはったお賽銭箱のとなりで、みかんはひざをだきしめるようにすわっていました。近くに常夜灯があるので、完全な闇というわけではありませんでしたが、そんなことはなぐさめにもなりません。右の足首にできたうろこが、オレンジ色に光り始めています。
――大丈夫、大丈夫。わたしは強い子、わたしは強い子――
呪文のように心の中でつぶやいていると、うしろのほうで、にゃあと小さな鳴き声が聞こえてきました。
「なに? ネコ、かしら」
おそるおそる立ち上がり、みかんは鳴き声のするほうへと歩いていきました。
「なにこれ、ひどい」
神社の横手に、ダンボール箱がかくされるように置かれていました。中には、うしろ足をけがした小さな子ネコがいました。首輪をしているところをみると、どうやら捨てネコのようです。おびえきった赤い目で見あげ、いかくするように弱々しい声を出します。その目を見て、みかんは一瞬ヒッと息を飲みました。口をおおって、みかんは首をふりました。
――だめ、この子は今怖がってるから――
みかんはゆっくりとダンボールに近づきました。音を立てないようにそっとそばにすわって、子ネコに手を伸ばします。毛を逆立てて、子ネコはシャーッといかくします。みかんの指がわずかに子ネコの背中にふれました。
「心配しないで。あなたをいじめたりしないから。だから」
みかんから距離をとろうと、子ネコは身をよじります。みかんはおびえさせないようにゆっくりと、子ネコの背中をなでました。
「ほら、怖くない、怖くない。大丈夫、大丈夫よ」
最初は毛を逆立てていた子ネコでしたが、だんだんと落ち着いていきました。みかんはゆったりとした声でささやきました。
「大丈夫よ、わたしが一緒にいてあげるからね」
みかんに敵意がないことをさとったのでしょうか。ようやく子ネコは、にゃあと、甘えるようにみかんに顔をすりつけました。指であやすように触るみかんからは、さっきまでのアイドルのような雰囲気は消えていました。むしろそのすがたは、小さな子供のようでした。
「お前は、捨てられたの? 飼い主はいないの?」
子ネコはにゃあと鳴くだけでした。小さな命のぬくもりが、胸の中に広がっていきます。
「わたしとおなじね、一人ぼっち。でも大丈夫よ、わたしはそばにいてあげるからね」
びゅうっと風の音がして、みかんはハッと顔を上げました。
「なに、今の音? 風だよね?」
子ネコがみかんを見あげました。みかんはあわてて子ネコの頭をなでました。
「大丈夫、大丈夫だから。心配しないでね、ほら」
白い指で、みかんは子ネコをそっと抱き上げました。子ネコはまた、みかんに顔をすりつけます。
「風の音、だったのよね?」
あたりを見わたしながら、みかんはぽつりとつぶやきました。
「ひどい飼い主ね、きっと逃げられないように足をけがさせたんだわ。早く手当てしてあげないと」
子ネコの毛が、チクチクと逆立ちました。みかんは安心させるように子ネコをなで、そして目を見開きました。
「えっ、なにかしら? かげが、動いてる?」
ぼんやりとした常夜灯の光が、うねうねと動く影を地面に映していたのです。みかんは恐怖で息を飲みました。
「なんなの、なんなのよ、これ。いや……いやっ!」
子ネコをかかえたまま、みかんはその場から逃げ出しました。子ネコがいかくするように、シャーッと鳴きます。
「きゃっ、痛い!」
子ネコがガジガジと、みかんの腕を引っかいたのです。それでもみかんは、離さないように子ネコを強く抱きしめ、ダンボール箱のとなりに身をかくすようにうずくまりました。
「大丈夫だから、わたしが守ってあげるから。だから、おとなしくして。大丈夫だから」
身をちぢめ、恐ろしいモノに見つからないように、みかんは息をひそめました。子ネコはその間も、必死に泣き声を上げ、みかんの腕をかきむしっています。真っ白だったふわふわのニットは、ぼろぼろになって赤く染まっています。血がにじんでも、みかんはうめき声すら上げずに、子ネコを抱きしめて必死に祈りました。
「ミ……」
「えっ? なに、今の?」
子ネコの鳴き声ではありませんでした。なにかうめくような、おぞましい声が聞こえてきたのです。音を立てないように、静かにあたりを見わたしますが、暗くてなにも見えません。
「ミ……ミ……」
「なんなの? 誰かいるの?」
「ミ、ヅ、ゲ、ダァ」
「いっ、いやぁっ!」
はじかれたように、みかんはその場から飛び離れました。すみっこの草やぶから、毒々しいエメラルドグリーンの、羽が生えた蛇が現れたのです。死んだようににごった目で、じろりとみかんを見すえます。
「なに、なんなのよ、この化け物! 来ないで、こっちに来ないでよ!」
しりもちをつきながらも、みかんはすぐに前を向きました。子ネコを隠すように抱きしめたまま、みかんは蛇をにらみつけます。左手でそばに落ちていた小枝を拾い、蛇に向けて振りまわします。子ネコが狂ったように、みかんの腕を引っかきました。
「ミヅゲダァ、ミ、ヅ、ゲ、ダァ」
ごぼごぼとあわを吹きながら、蛇が不気味に鳴き続けます。さびれた神社に、不吉な鳴き声がひびきわたりました。
「いやっ、そんな!」
バサバサバサと、翼を打つ音が聞こえました。一匹、また一匹と、羽の生えた蛇が寄ってきます。どの蛇も色は違いましたが、けばけばしくて下品な色合いのものたちばかりでした。
「来ないでよ、来ないでっていってるでしょ!」
小枝を蛇たちに振りまわしますが、蛇たちはじりじりと近づいてきます。腰がぬけてしまったのか、みかんはうまく立てません。子ネコをかかえて、ずりずりとあとずさりします。血の色をした舌をチロチロと出しながら、蛇の化け物たちが取り囲んできます。
「お願い、来ないで。助けて、助けてよ、信作君!」
あまりの恐ろしさに、歯の根が合わず、みかんは小枝をぶんぶん振りまわします。一匹がガジッと小枝をかみくだきました。
「ジャアッ! ミヅゲダァ、ミヅゲダァ!」
黄ばんだ牙を、蛇たちがいっせいに見せました。にごった目が、みかんをねっとりととらえます。
――もうだめ、かみつかれる――
みかんはまるで、自分のからだを映画のスクリーンで見ているかのような、不思議な感覚におちいりました。子ネコのぬくもりだけが、胸の中に残っています。
――せめて、この子だけは――
みかんは子ネコを力強く抱きしめました。しかし――
「ああっ、だめよ、待って!」
子ネコとは思えないほどの力で、みかんの腕は振りほどかれたのです。みかんの腕から逃げ出し、子ネコは化け物たちに飛びかかりました。
「ジャァッ!」
一匹の蛇が、毛が逆立つような断末魔を上げました。緑色の血が、ビュッと夜の闇に飛び散ります。子ネコが蛇のしっぽをかみちぎったのです。
「ミヅゲダァ! ミ、ヅ、ゲ、ダァ!」
他の蛇たちが、いっせいに子ネコに飛びかかりました。けばけばしい七色のうろこに、血よりも赤い口が子ネコを襲います。みかんは思わず顔をおおいました。蛇の口の中、不吉な濃い赤は、いくら目をつぶっても、まぶたに焼きついて離れませんでした。
「ネコちゃん、ああ、お願い、神様……」
みかんは涙でぐしょぐしょになった目を、そろそろと開きました。
「そん、な」
そこには子ネコの姿はありませんでした。口元に赤い血をしたたらせた蛇たちが、にたりと笑っているだけでした。
「いや、いやっ! いやぁぁぁっ!」
みかんは狂ったようにさけびました。夜のカーテンは、汚らわしい虹色でぬりたくられています。
「やだぁ、もうやだ、死にたくない! 助けて、誰か助けてよぉ!」
「ミヅゲダァ! ミ、ミ、ミ、ミヅゲダァ!」
蛇たちがいっせいに飛びかかってきました。みかんはぎゅうっと目をつぶりました。




