中篇
最終作戦まで、あと23時間24分―――。
ブリーフィングの内容は、概ね予想通りだった。
明日に控える作戦の最終確認と、ガンズが見せてくれた正体不明の敵機について。
「…………」
どの言葉も耳を通り抜けてしまっていた。
原因は分かっている。昨夜の出来事をまだ引きずっているのだ。
――いいや、これで良かったのだ。間違ってなんていない。
イリスだけは生きていてほしい。
だから行動した。絶対に断るだろう彼女を、無理矢理軍隊から離れさせるために、いろんな所へ走り回り、ツテというツテ、コネというコネを使って、ようやく昨日の夜へと漕ぎ付けたのだから。
――後悔しているのか?
馬鹿な。ならどうして昨日あんなことを言った? 彼女を逃がすためだろう。
後のシミュレーター訓練も酷い有様だった。
言わずもがな、敗北の現況は全て自分。
真っ先に撃墜されてしまう。しかも背後から撃たれて。
もう誰も俺の背中を守ってくれる人がいないのだ。自ら断ったのだ。
これでは駄目だ。この調子では明日皆を殺してしまう。犬死させてしまう。
――それじゃあ駄目なのに。
部隊全体の雰囲気もおかしくなっている。
イリスがいない事と、自分の晒している醜態のせいだ。
「……くそっ」
他の隊員たちにはイリスが退役したことを伝えている。経緯までは教えていない。だが誰もそのことに触れようとはしなかった。
皆察しているのだろう―――きっとそうだ。何だかんだで、こいつらとの付き合いは長いのだから。
結局調子を取り戻すことのないまま、日が暮れつつあった。
シミュレーター訓練が終わり、食堂へと赴いた。
――これが最後の晩餐になるかもしれないな。
周囲にいる者、誰もが同じことを思っているかもしれない。しん、と静まり返り暗く感じるのは決して気のせいなどではない。
――俺は死なない。
例えどんな敵が攻めてこようとも、必ずイリスが乗っているシャトルを守り通してみせる。
例えどんな敵が攻めてこようとも、必ず仲間を守り通してみせる。絶対に。
だというのにこんな体たらく。
果たして出来るのか?
部下たちと、イリスを守ることが。
仮想の敵すら満足に撃破出来ないというのに。
不可能だ。
今の俺はふ抜けている。
これでは守るどころか、確実に足を引っ張ってしまう。
全部裏目じゃないか。
一体俺は何をしている。
いい加減、思考を切り替えろ。
「おい、ケルト」
「……」
「ケルト!」
「……あ? 何だ、曹長か」
そこにいたのは、整備班長のガンズ・ザンバルドである。ここまで顔だけドアップに接近されていれば普通は驚くだろうが、今の俺にとってはそれどころではなかった。
「曹長か、じゃねぇだろ。いつまで経っても来ないから、オレがわざわざ呼びに来たんだぞ」
「俺を? 最終調整はまだあとだろ?」
「……お前、もしかして憶えてないのか?」
「?」
ガンズは嘆息。
「……呆れたな。オマエ、姫さんを追い出しておいてその腑抜けっぷりは何だ? 情けないにも程があるぞ」
「別に俺は追い出してなんか――」
「もしかして、054隊の連中が気付いてないとでも思ってるのか? 馬鹿にしてんのか。みんなとっくに気付いてるぞ。あの姫さんが自分から軍を去るわけないからな。どうせお前が根回しでもしたんだろ。一体、何年の付き合いだと思ってんだ?」
「………」
まったくもって、ガンズの言う通りだった。全部。何もかも。
「フン。ともかく今は、この書類にサインしろ。そんでもって、今夜中にその情けないツラをどうにかしろ。それは明日、確実に味方を殺す」
言って、ガンズは一枚の紙をテーブルに叩きつけた。
今更何の書類であろう? どうせ大したことではないだろうが。
文面には目もくれず、書類にサインした。
「これで良いんだろ?」
「ああ。じゃあ、後で。格納庫でな」
サインを確認すると、彼は俺を一瞥することなく食堂を去っていった。
――何だよ。あの態度は。
理由なんて考える必要はなかった。
自ら招いた種だ。
別段彼はイリスを追い出したことを叱責しているのではない。俺のみっともない姿を責めているのだ。こんなにも未練たらたらで、無様な姿を。
隊長たる俺がこんな状態で、真っ先に皺寄せを受けるのは隊員たちだ。
ガンズにはそれが許せないのだ。
――そうだよな。もっとしっかりしないと…。
でなければ誰も護ることなど出来はしない。誰も護れないということは、イリスを護れないということに繋がるのだから。
――しっかりしろ、ケルト!
ようやく自分の中にあるスイッチが切り替わった。――ような気がする。
残った夕餉を一気にかっ込む。
死ぬ気なんてない。
だから必要以上に味わって食べることはない。
なぜなら明日も、俺はここで皆と一緒にメシを喰うのだから。
現在、格納庫にいる。
無論、機体の最終・調整をするためである。
しかし格納庫内の様子は、昨日とは明らかに様変わりしていた。
所狭しと『戦闘機』らが押し込められていた。
今日到着した、第二、三、四、五、七地区の残存部隊である。明日の作戦は、今までのどんな作戦よりも重要だ。
他の民間人たちを逃がし、完全なる防衛線を張るため、このような流れと相成ったという訳だ。
そんな中を、整備班員たちが忙しなく動き回っていた。その中には、見慣れない顔らが多い。
しかしその中で彼を見つけるのはあまりにも容易であった。ひと際大柄で一等目立つ男に話しかけた。
「おう、来たか」
「なあ、これは少し詰め込みすぎやしないか?」
「他の格納庫も似たようなもんだ。それに人手不足もな」
ガンズは皮肉そうに嗤う。
「さっきは悪かった。忙しいのに、いらない手間をかけさせたな」
「――さっきよりは良い面をしていやがるな」
俺の顔を少しだけ覗きこみ、フン、と鼻で飛ばした。
「オレたちは目が回るほど忙しいんだ。今は自分の機体だけに意識を集中しろ」
「ああ」
「ならとっとと行け。もう少ししたらそっち行くからよ」
「分かってるさ」
これ以上、彼の邪魔をするのも良くない。そう思って踵を返したとき、
「あ、そうそう」
そんなガンズの一言が俺の足を止めた。
「調整が終わったら、あとで俺の部屋に来な。渡すもんがある」
「隊長」
〈オアンネス・ブラックナイト〉の駆動系を調整していると、一人の青年が話しかけた。
「おう、アハトか。どうした?」
アハトと呼ばれた青年。彼の本名は、『アーノルディ・ハトレルカ』。『アハト』は愛称で、我が054隊の最年少パイロットであり、054隊の〈ペリシテ〉・ナンバリングコード『05』の操縦者であり、広範囲射撃戦のスペシャリスト。054隊の中で後方支援の要である。
「大問題ですよ。これからの『02』についてです」
彼は大局を見ることに長けていた。元々はオペレーター志望だったらしいが、高い戦闘機乗りの資質があることが判明し、054隊へと無理矢理編入された。
そのせいか、隊に来たばかりのアハトはかなり荒れていた。現在の彼とは、180度違うと言ってもいい。
当時、まったくもって手が付けられなかった彼だが、今となっては054隊に欠かせないバックガンナーの一人だ。
そんな彼が言っているのは、俺の愛機〈オアンネス・ブラックナイト〉の隣に聳え立つ、この格納庫内で唯一、四つを持つ異色の機体。左肩に02とナンバリングされている戦闘機。
イアリス・ディ・ハイネスの愛機、〈ハイドラ・ホワイトローズ〉。
「あの〈ハイドラ〉はどうするんです? まさか、あのまま格納庫に飾ったままにしておくつもりじゃないですよね?」
彼女の機体は、ルルイエ軍きっての特機だ。
本来、人間とは二つの腕だけで生活しているため、どれほど訓練したとしても、あの四本腕を自在に活用することは非常に困難であると言われる。
しかしイリスは、難なくこなすことが出来る。
あの四本腕を誰よりも確実に、効率的に、そして繊細に操作する技術があったのだ。
故に、あの四本腕戦闘機は彼女ためだけのモノだ。彼女以外の乗り手などそうそういないのである。
「02は使わない。明日は、02抜きの五機で出撃する」
端からそのつもりである。どうせこの戦闘機を乗りこなせるものなどいないのだから。
「そんな訳にはいかなでしょう。いくら各地区の戦力が集結したからと言っても、これから起こることは全て未知数です。戦力は一機でも多いに越したことはありません」
アハトの言うことは確かに筋が通っている。正論だ。
「だからと言って、ろくに動きやしない戦闘機を出すのは、戦場では邪魔以外の何者でもない」
異質である分、姿勢制御や、他種機能全てが一般機と異なる。スタンダードな戦闘機乗りが、この白色機に乗るためには相応の訓練が必要だ。
「ならば腕を二本外してみては? それならば普通の機体として運用出来るはずです」
「俺もそれは考えた。だが簡単なことじゃないんだ。今の格納庫内を見ろ。お前はただでさえ足りない整備班の人間を、わざわざたった一機の戦闘機のために時間を割かせるのか? これはただ腕だけを外せば良いってもんじゃない。火器管制、姿勢制御プログラムを再調整する必要があるし、安全のための稼働テストだって必要になる。こんなことをしている間に、どれだけの機体を整備し、修理できるか、そこをよく考えてみろ」
「それはそうですが……」
理由はそれだけではない。
正直、あの機体にはイリス以外の人間を乗せたくなかったのだ。
〈ホワイトローズ〉はイリスだけのもの。これだけは妥協する気にはなれなかった。
「しかし、今日入ってくる補充隊員のこともあります。彼だけ戦闘機がない、というのもどうかと……」
今、アハトは聞き捨てならないことを言った。
「……補充隊員、だと?」
「はい」
「いま、補充隊員って言ったな?」
「そうですけど―――って、さっきシミュレーター訓練のときに通達があったじゃないですか。それに、訓練が終わったあとに手続きに来いって。隊長だって、ちゃんと返事していたじゃないですか?」
「………」
まったく憶えがなかった。
「もしかして、憶えていないんですか」
問いを無言で返す。アハトもそれを肯定と受け取ったようだ。
「何か今日の隊長、ヘンですよ」
「……何でもない。今日は少し調子が悪いだけだ」
「本当ですか?」
半目で睨むアハト。そんな彼の眼を直視できない俺。
「そ、その話はもういい。補充隊員のことを教えてくれ」
彼は嘆息。「ま、いいですけどね」
「今日突然決まったらしいですよ、その補充隊員。何か、昼間に突然押しかけてきたとか。すごい騒ぎになってたらしいですけど、知らなかったんですか?」
「知らん。―――っていうか、そいつは押しかけなのか? 転属とか、そういう正規の軍人じゃなくて?」
「みたいですよ。しかも戦闘機乗り志願だそうです」
「……今更、戦闘機乗りに志望? どこの馬鹿だ、そいつは」
そいつは戦闘機をナメているとしか思えない。
一朝一夕の訓練で身に付けた技術で、戦闘機に乗れると本当に思っているのなら、それは途轍もなく、破滅的に大きな勘違いだ。
戦闘機のパイロットになるには、それ相応の知識と、長期間における専門訓練を受けてようやく、歩かせることが出来る。一日二日訓練したからって乗れるほど、甘くはないのだ。
実際、戦闘機目的で軍に入ってくる輩は多い。俺もそんな連中の一人だった。
しかし搭乗を許されるのは、厳しい訓練を乗り越えなければならない。
俺たちの代は、ガンズ曹長が当時の教官だった。
彼のしごきはあまりに過酷だったのを 今でも鮮明に憶えている。
あまりの厳しさに、一日目にして、半分の人間が逃げ出した。そして二日目にまた半分。三ヵ月後にはとうとう、自分とイリスを含めた十二人だけが残った。
百人近くいた志願者が、たった三ヶ月で十二人である。その厳しい訓練を、五年経った今でも忘れることが出来ない。ほとんどトラウマものだ。
「その人、どうしても054隊に入れろって大暴れしたらしいですよ。その後で、別室で入隊手続きしてたみたいですけど」
「つまり、054隊の正式配属になった、と?」
はい、とアハトは頷く。
「…ったく、上の連中は何考えてやがる。明日は大事な日だっていうのに……!」
どうしてこう悩み種は尽きないのか。本当に頭が痛くなってきた。
「隊長はどうする気ですか? その補充隊員」
「どうするも何も、指揮車に乗っけとくしかないだろ。入りたてホヤホヤのど新人に任せる仕事なんてない」
「ですよね。さすがにいきなり戦場に出すわけにはいきませんよね」
「当たり前だ」
そんなやつにイリスの愛機に乗せるなんて、悪夢以外の何ものでもない。
「でも……」
「でも、何だ?」
俺の問いに、アハトはバツが悪そうな表情をしていた。余程言い難いことなのだろうか。
「その補充隊員のことなんですが……」
本当に言い難そうである。
「よく分からんが話してみろ。まずはそこからだ」
「はい。実は〈ホワイトローズ〉に補充隊員に乗せろっていう―――」
「何だとっ!?」
アハトが言い終える前に、俺の手が彼の襟を掴み上げた。
「ちょ――っ! 僕が言ったんじゃないですってば。さっきそうするって、ガンズ曹長が……っ」
「ガンズの指示だと!? そんな馬鹿な…っ」
これは悪い冗談だ。あの機体の特異性を一番理解しているのは、他でもないガンズ自身だというのに。
「おい、オレの庭で何騒いでやがる」
そんな俺たちを割り込む野太い声。
どうということはない。この声は飽きるほど聞いている。
「お前らか。何をごちゃごちゃ――」
「ガンズ!」
アハトを握っていた手を、今度はガンズへと変える。
「おいおい、穏やかじゃないな。一体、どういうつもりだ?」
「ふざけんな! アンタこそどういうつもりで、あの機体にど新人を乗せる気だ!?」
「良いも悪いも、配属は上の連中の指示だし、〈ホワイトローズ〉の適性があるんだ。それを使わない手はないだろ?」
「適性だと? 今日押しかけてきたヒヨッコにあれを使いこなせるわけが―――!」
「五月蝿いですよ、隊長。いい加減、ピーピー騒ぐのを止めてください。見苦しいです」
凛とした声。
騒がしい格納庫内でもよく響く。強く捲し立てるケルトを窘めたのは、ガンズでも、アハトでもなかった。
「なに?」
だが完全に頭に血が上っていた俺は、その正体を見抜くことが出来なかった。
だからだろう。一瞬、自分の中の時間が凍りついたのが、よく分かった。
「お前、どうして……」
自分の目を疑う。
そんな馬鹿な話があるか。だってあいつは、もう。
「はて、どこかで貴方とお会いしましたか?」
だというのに当の本人の視線は冷たく、まるで嘲笑うようだった。瞳の奥に宿っているのは、紛れもない怒り。眼光はよく切れる刃のよう。
声の主は姿勢を正し、敬礼する。
「は・じ・め・ま・し・て! 私、本日付で054隊に配属となりました、『イアリス・フューリア』であります。どうぞ、よろしくお願いいたします」
そこにいるのは紛れもなく、間違いなく―――イアリス・ディ・ハイネス本人であった。
「……アハト。さっきお前、補充隊員のことを『彼』、って言わなかったか?」
「いや、その……暴れていたというので、僕はてっきり男かと……」
訓練中はずっと一緒にいたのだから、顔を見たことが無いのは当たり前である。
「おい! 『フューリア』って何だ! お前の名前は『ハイネス』だろうっ!?」
「ハイネス? さぁ、知りませんね、そんな人。そういう人がいたんですか、ここに」
しか彼女は、そんな人は知らないと言い張る。もう、訳が分からん。
「私は、イアリス・フューリアです。以後、お気を付けください」
びしり、と再び敬礼する、イアリス・《自称》フューリア。
これ以上見事な敬礼をする新人が、この世界のどこにいるというのだろう。
「どういうつもりだ?」
「どうと言われても、私には意味が理解出来かねますが?」
格納庫の裏手。ここに立ち寄る者は殆どおらず、よく人がこっそりと集まって何かしら悪いことをしたり、告白の場にしたり、いかがわしいことをしたり等々……学校でいうところの体育館裏的スポットである。
「茶化すんじゃない」
そんな場所に二人きり、一人が俺ことケミルフィル・フューリア、もう片方がイアリス・フューリア(自称)である。
「ふざけるな! いい加減にしろ、イリス。どうしてお前が軍にいるんだって聞いているんだよ、俺は!」
「志願したからです。それだけの理由では不服ですか?」
「ああ、不服だね、イリアス・ディ・ハイネス。昨日軍から去ったと思ったら、これだ。しかも名前まで変えて! これじゃあ、今までの俺の苦労は―――」
「ふざけているのは貴方でしょうっ? 勝手に私を追い出して! しかも曹長から聞いたわよ。貴方、シミュレーター訓練で撃墜されてばかりなんですってね。しかも『後ろ』から! これで私の有り難味が解ったでしょう? そっちこそどういうつもりかは知らないけど、そういう自分勝手なことは、今後一切しないで! もし同じことをしたら、次は貴方を殴るだけじゃ済まさないわ」
突然捲くし立てるイアリス。
やはり彼女は、あのイリスだった。俺の知っているイリス。だけど、今はそれどころじゃない。どうして、お前は戻ってきてしまったんだ。
「自分勝手、だと? お前こそ俺の―――」
俺の気なんて知りもしないくせに!―――そう言ってやろうと思った。
「ええ、貴方の気持ちなんかこれっぽっちも知らない! 知りたくもない! いい? 確かに最初は、親の命令で軍に入隊したわ。でもね、今は自分の意思でいたのよ、自分の意思で! それを貴方は何? 勝手に根回しして、私の考えも覚悟さえも無視して! そうやって自分の都合ばかりを私に押し付けて! 勝手に満足して! そして勝手に腑抜けになって! それが貴方のやりたかったこと? とどのつまりはただの我侭なのよ。悪いけど、私はそんなのに付き合うほど優しい女じゃないの」
「……わ、我侭だあ? 俺はただお前に生きていて欲しかったんだよ。それを我侭たぁお前、何様のつもりで言ってやがる!」
そんなに俺の考えが解るなら、どうしておとなしく聞いてくれないんだ。
「それが自分勝手だって言うのよ。私は軍を去る気なんてない! 最後の最後まで戦う。だから私は、家との縁を切ったんだから!」
「ッ?」
こいつ、今なんて言いやがった?
家との縁を切った?
それはつまり、『ハイネス家』との縁を?
何てことだ。それが本当ならば―――
「馬鹿っ! お前、そんなことしたら……」
「そうよ。私はもうハイネスの人間じゃない。だから、明日のシャトルに乗る資格はないわ」
「…………っ」
なんて馬鹿なことをしてくれたんだ。
これじゃあ、俺が今までやって来たことが、全て水の泡だ。
「最初からそうするべきだったのよ。戦う覚悟を決めたときからね」
どうしてお前は、そんな平気な顔をしていられるんだ。
これから俺たちが挑もうとしていることは、どう考えたって―――
「ハイネス家は私に残された唯一の甘え―――逃げ道だった。だから私は、最後の逃げ道を断った。そして私はただのイリスになった」
――どうして。
「名前を変えたのは、単に入隊に必要だったからよ。ハイネス家とは縁を切っても、やっぱり親から貰ったイアリス、という名前は捨てられなかったの」
――どうして。
「それに貴方の名前を使ったのだって、ちゃんしたと理由があるんだから」
イリスの瞳が揺らぐ。
「だって、貴方と同じ名前にすれば、そうすればずっと貴方と……」
揺らぎはやがて水滴という形となって。頬へと零れていく。
「貴方と、ずっと一緒にいられると思ったから―――」
「イリス」
言い終える前に、俺はイリスを抱きしめた。その身体は、微かに震えていた。見るだけでは気付かなかっただろう、小さな震え。
「もういい。何も言うな。俺が悪かった」
ううん、と、俺の胸の中で彼女が首を振った。
「違う。悪いのは私」
俺の背に回すイリスの腕が強くなる。
「私を軍から遠ざけようとしたのは、私のためなんでしょう? 本当はね、すごく嬉しかった。でもね、私だけ生き残っても駄目なの」
「イリス?」
ケルトの声が聞こえていないのだろうか。彼女は、独白を続ける。
「やっぱり私はケルトがいないと駄目。ずっと貴方のことを考えてしまう。貴方のいない未来なんて考えられない……」
普段、彼女は言葉使いに気を遣う。それは、仮にも彼女は皇族だったからだ。
でも俺と二人きりのときは違う。そのときのイリスは素の、本来の彼女になるのだ。
今目の前にいるイリスこそ、これまできっと自分しか知らない。ただ一人の普通の女性だということ。
「私はずっとケルトと一緒にいたい。ケルトなしでは生きていけない。本当は分かってる。一番勝手なのは私。自分のエゴを通したかっただけなのよ」
それは懺悔である。
「それでも私はケルトの……貴方の側にいたい」
それは己の罪の独白である。
「……もういいんだ、イリス」
彼女を抱きしめる腕に力を込める。
二度と手放さぬように。
それは彼女にとって、唯一の赦しであった。
「俺も今日はほとほと思い知らされたよ。やっぱり、お前がいないと駄目だ」
軍服越しに感じるイリスの温もり。
少し速めの、心臓の鼓動。
「なあ、イリス」
「……なに?」
「ごめんな。寂しい思いをさせた」
「ううん。私こそ、ごめんなさい。貴方を困らせちゃった」
二人は強くお互いを抱きしめた。
「なあ、アンタは全部知っていたんだろ」
「んなこたぁないさ」
機体整備も終わり、俺はガンズの私室にいた。
ちなみに呼びつけた本人は、ベッドの下をゴソゴソと漁っている最中である。
「暴れている姫さんを見たときゃあ、さすがに驚いたがな。なぁに、あれが本当の顔なんだろうよ。ただ、それだけだ」
「それで、俺に何も言わんとアハトに、〈ホワイトローズ〉を使うとだけ伝えたわけだ。つまんねぇことしやがって」
「たわけ。どうせ教えたって、右から左だろうに―――お、あったあった」
ようやく引っ張り上げたのは、一本の壜であった。
「ほれ」
ガンズはそれを放って俺に渡した。
「これは………酒か?」
「ああ。大変なんだぞ、こっそりと酒を持ち込むのはな。やるよ、一番のとっておきだ」
「良いのか? これって貴重なんだろ?」
愉快気に豪笑するガンズ。
「気にすんな。今日は054の部下たちとのんびりと飲めや。明日は大事な日、だからな」
「なに言ってんだ。今日はもう消灯だぞ」
「……お前は本当に何も聞いてなかったんだな」
ガンズは呆れた体で首を振る。やれやれ、と。
「今日の消灯時間は少し延長だ。その間は何したって自由。仲間同士でわいわい騒ごうが、シミュレーターで遊ぼうが、とっとと寝ようが、大事なヤツとナニしようが、な。上の連中もそこまで薄情じゃあないってこった」
「そ、そうなのか……」
やばいな。今日の俺、本当に何も聞いてなかったようだ。
「その酒は俺からの差し入れだ。ただしお偉いさんには見つかるなよ?」
「そうかい。でもな、ガンズ。後悔すんなよ」
「あ?」
「アンタが酒隠しているってウチの連中が知ったら、間違いなく全部飲みつくされるってことだよ」
●
「遅いですよ、隊長。こっちはもう、みんなずっと待ってたんですから」
格納庫から少し離れた場所にある、昨夜イリスと話した場所とは違う所。ここは昔から、どんちゃん騒ぎするにはちょうど良いスペースがあるのだ。
「悪い悪い。ほれ、差し入れ」
さっきガンズから貰った酒瓶を隊員たちに見せる。
「お、こりゃあウィンズリーの上物じゃねえか! さっすが曹長。やっぱ持ってるモンが違うねえ」
活き活きとしながら酒瓶を奪い取ったのは『ギリトール・ウェイン』。
愛称は『ギル』で、〈ペリシテ・03〉の操縦者だ。
「満月を肴に酒……ですか。良いですね。一つ贅沢を言うならば、ウィンズリーではなく、ジャネ酒のほうが合うと思うのですが」
そう言いつつも満足げに頷いているのは、『ウルゲイ・イグナス』。〈ペリシテ・04〉のパイロット。
「そう言うなよ。入手に苦労した逸品らしいからな」
「私としては、飲酒を咎めなければいけない立場なのですが……今日は特別です。今夜だけは大目に見ましょう!」
とか言ながら、早く飲みたくて仕方ない体の少女は、指揮車でオペレーターを勤めている『リア・ラスティ』。年は十七歳と若いが、彼女の情報処理能力は高い。
「落ち着きなさいよ、リア。焦っても、お酒は逃げやしないんだから」
そんな彼女を宥めるのは、〈ペリシテ・06〉のパイロット、『ツィア・ミン』。
054隊で狙撃を担当している彼女は以前、軍が開催した狙撃大会で優勝したことがある―――つまり軍内でナンバーワン実力を持つスナイパーだ。
「一番飲みたくて仕方ないのは、どうやらリアみたいね」
そこにはイリスもいた。以前着ていた制服ではなく、新兵に支給されるものであったが。
あれはイリアス・ディ・ハイネスのものであって、決してイリアス・フューリアのものではない、というのが彼女の弁。誰も気にしないだろうが、これも彼女なりのケジメなのだろう。
「むぅ~っ! そんなことありませんよ!」
ムスッと頬を膨らませるリアを見て、隊員たちが一斉に吹き出す。ますます機嫌が悪くなる彼女だが、それもすぐに直るだろう。
とにかく、これで054隊の戦闘機乗りたちが勢ぞろいしたわけだ。
〈オアンネス・ブラックナイト〉の乗り手である、俺ことケミルフィル・フューリア。
〈ハイドラ・ホワイトローズ〉の乗り手、イアリス・フューリア。
〈ペリシテ・03〉の乗り手、ギリトール・ウェイン。
〈ペリシテ・04〉の乗り手、ウルゲイ・イグナス。
〈ペリシテ・05〉の乗り手、アーノルディ・ハトレルカ。
〈ペリシテ・06〉の乗り手、ツィア・ミン。
そしてオペレーター、リア・ラスティ。
リアとは一年程度だが、他の連中は皆三年以上の付き合いだ。
入隊したときから一緒の奴もいれば、途中から入ってきた奴、隊から外れた奴だっている。
こんなに心強い仲間たちなど他にいるだろうか?―――いや、いない。
こいつらほど、側にいて頼りになる連中はいない。こいつらほど、側にいて安心できる連中などいやしない。
ここいる誰もが、明日の過酷さを承知しているはずだ。それでも尚、こうやって笑っていられる。
俺には分かる。こいつらは死ぬ気など端からないのだ。生き残る気力に満ち溢れている。
自分の口の端が、微かに笑む。
俺たちは死なない。
必ず生き残る。
何故だろう。確信めいた何かがあるのだ。
――ああ、なるほど。これが……。
これが、『死ぬ気がしない』ってやつか。
ガンズがくれたこの酒は、明日の勝利の前祝いである。
「全員に酒は行き渡ったか?」
隊員たちが無言で頷く。
「よし―――あ、そうそう。最初に言っておくけど、これは前祝いだぞ。これは確定事項だ。絶対に祈ったりしないからな」
俺の発言に全員が苦笑するも、反論する者は誰一人いなかった。
「では改めて……明日の成功を祝して―――乾杯!」
『乾杯!』
一日早い祝勝会の始まりだ。
―――作戦開始まで、後10時間30分。