第九夜(3)
高まる緊張感に、心臓の鼓動もどんどん早くなる。一触即発の空気に胸が躍り、血が滾る。
わたしと八重巴の状態は、ここにきて最高潮に出力が上昇していた。
お互いに万全とは言い難いが、それが逆に、全ての無駄を削ぎ落として、無我の境地に至らせている。本当の意味で死力を尽くしている状況であり、必死の心境でお互いが一瞬の隙を窺っていた。
極上の展開、最高のシチュエーションである。これぞまさに、死闘の決着に相応しい最終局面と言えるだろう。
ただ、この瞬間を迎えて、ほんの少しだけ残念な思いがある。
これほど愉しい瞬間も、このギリギリの窮地も、次の一撃で終わってしまうのだ。無性に勿体ない気持ちが浮かんだ。
これならば、もっとたくさん、いろんな引き出しを試せば良かっ――
「――――【神威剣】」
刹那、八重巴の渾身の斬撃が振り下ろされていた。片手とは思えない美麗な剣技だった。
思考を読んでいるのか、と思うほど見事に、無意識に油断したその刹那の間隙を縫って、八重巴の神剣がわたしの身体を両断する。
振り下ろした瞬間など視えない。目に映ったのは、残心の姿勢をした八重巴だけだ。
疾い、ではなく、巧い剣技である。意識が一瞬だけ浮ついたのを見逃さず、無拍子で繰り出された究極の袈裟斬りである。しかも今度は、凄まじい霊力と魔力が篭められており、わたしの防御など紙のように切り裂く破壊力を秘めていた。
実際、振り下ろした神剣は、その余波で【破邪之太刀】と同レベルの亀裂を地面に刻んでいる。
「八重示現流、始の剣技――【天御柱剣】」
八重巴の攻撃は、当然のように、それだけで終わらなかった。
わたしの身体を両断して神剣を振り下ろした姿勢から、瞬間、身体を捻り上げて、天空に向かって斬り上げを繰り出していた。
それは本当に、舌を巻くほど流麗な、芸術的な剣技だった。傍から見ても美しいと溜息を漏らすほどの剣である。
繰り出された斬り上げは、剣気で流線形の軌跡を空中に描いた。空間を切り裂いたような白刃の煌めきに続いて、神剣の纏っていた霊力が巨大な柱のように立ち昇った。
一瞬にして、わたしが立っていた場所を、光の柱が呑み込んだ。それはまるで、天から降り注ぐ巨大なレーザービーム砲である。柱の内側は、具現化した稲妻が暴れ回っているようだった。
柱の中には避ける隙間などなく、紫電が迸って踊り狂っている。幾度も幾度も凄まじい爆音と雷鳴が轟き、そのたびに衝撃波が暴風となって辺りに吹き荒れる。
技を放った八重巴自身もその暴風には堪えられず、光の柱を出現させると同時に、弾かれるように吹っ飛んでいた。
自らが振るった剣技の威力に、振り回されている様子が分かる。
(――嗚呼、これ、どこかで視たと思ったら、この前の『聖剣技』とやらに、似ていますね)
ふと、思い出した、とばかりに脳内でポンと手を叩いた。
その衝撃と威力、光の柱という見た目に、騎士リィザ・ファミルの模造人形と闘った際に観た剣技を思い出していた。
確か『閃光糸』とか言っていた覚えがあるが、アレと同じような剣技――否、剣技とは呼びたくない術理不明の技である。
「――これで、終わり、じゃ……」
ところで、吹っ飛んで転がっていた八重巴が、ふとそんな呟きを漏らしていた。
視線を向ければ、神剣を杖代わりに身体を起こして、よろよろと態勢を整えている。その目線の先には、雷鳴を轟かせて爆風を巻き起こしている光の柱がある。
八重巴の表情には、ここに来て初めて安堵の色が浮かんでいた。勝利を確信した慢心の顔だ。荒くなった呼吸を隠すこともなく、肩で息を吐いている。
それにしても、この剣技はだいぶ霊力と魔力を消費するようで、もはや八重巴は霊衣を維持できなくなっていた。相変わらず白い軍服からは強烈な霊波が漂ってくるが、八重巴自身からは魔力も霊力もほとんど感じ取れなくなっていた。死力を注ぎ、何もかも出し尽くした感がある。
そんな八重巴の最期の呟きをしっかり咀嚼してから、影のように背後で控えていたわたしは、仕込刀を一閃した。
音はない。静かに、振るった仕込刀が、空中に一条の白線を刻んだのみだ。そしてこの一閃は、八重巴の首を刎ね飛ばす。
「ええ――これで、終わりです」
それは完全な不意打ちである。いま八重巴が放った壮絶な破壊力を秘めた剣技ではない。けれど、人を殺すには充分過ぎる致命の斬撃だ。
「な、っ――――っ!?」
八重巴は驚愕の声を出しながら、空中で視界を一回転させつつ、首のない己の身体を眺める。それが最後の光景となり、そのまま絶命する。
斬られたことに気付かないまま、わたしの声に反応した結果がこうである。
ポトン、と八重巴の生首が地面を転がり、遅れて、首のない身体が倒れ伏した。
転がっている首は、驚愕に目を見開いたままで固まっており、ホラー映画の小道具かと思うほど血色が良かった。
「ありがとうございます、八重さん。最期に、わたしは新しい外道之太刀を編み出すことが出来ました」
わたしはペコリと頭を下げた。すると、それに応えるように、首を失った胴体から血が噴き出して地面を汚す。
驚愕の表情をした顔も、血の海に転がりながら血の気を失い始めた。
その様を見下ろしてから、サッと血振りをする。最後は本当にあっけない幕切れだった。だが、とても有意義な殺し合いだった。満足である。
「……勝負は決した。最後は、美しい一太刀だった。私でさえも思わず、お嬢さんの動きを見逃しそうになったほどだよ」
パチパチ、と控えめな拍手をしながら、音もなく天桐・リース・ヘブンロードが近付いてきた。
そこに鋭い視線を向けて、大きく深呼吸する。気持ちを落ち着かせないと、今にもこのまま勝負を挑みそうになってしまう。
けれど、まだその時ではない。
今日はここで、天桐・リース・ヘブンロードと一騎打ちをし始める訳にはいかないのだ。
「――光栄ですね。ヘブンロードさんに、褒めていただけるなんて……けれど、見逃しそう、ということは結局、わたしの動きは捉えていたのでしょう?」
「かろうじて、な。非常に惜しかったが、あの動きには音があった」
「お、と……? 音、ですか? そんなはずは……呼吸音でも、漏れていたのでしょうか?」
わたしは天桐・リース・ヘブンロードの指摘に、あり得ない、と呟きながら怪訝な表情を浮かべた。
あの斬撃は無音で放った一撃であり、実際に、音を置き去りにする居合術でもある。しかも八重巴の死角、背後に隠れた際にも、空無之位と歩法朧を用いて、己の気配を消したうえで、無音で移動している。
まだ名前も付けていない剣技だが、これは、最速で対象の死角に回り込み、同時に、対象が意識を逸らした刹那の隙を切り裂く即死の斬撃である。
究極に研ぎ澄ました集中から放たれる音速の居合術ゆえに、斬撃の瞬間に、音など聞こえるはずはない。否、聞こえてもそれは振り抜いた後だろう。だからこそ、音が聞こえたのであればそれは、無意識に息を吐いた音くらいしか考えられない。
そんな自負を持って、わたしは天桐・リース・ヘブンロードに問い掛ける。
「いや、呼吸音ではない――そうだな。手の内を明かすのは、武人としては良くないが、【人修羅】の強さに敬意を表して、それくらいは教えておこうか」
天桐・リース・ヘブンロードは優しい微笑みを浮かべながら、自らの心臓に左手を当てていた。
「化境の境地に至った者であれば、任意の相手の拍動程度は聞き取れる――誰でも出来ることではないが、私以外でも拍動を追える武人は居るぞ?」
「……拍動、程度……? 心臓の音、を聞き取った、と言うことですか?」
「そうだ。だから私は、お嬢さんがオフィサーの背後に忍び寄ったのを捉えることが出来た。とはいえ、不意打ちの無拍子で、無意識の隙を突く、という発想は素晴らしかった。姿を掻き消す過程も見事だった。剣技の術理を理解していても、咄嗟に放たれたならば、早々見破れるものではないな」
そう言いながら、もう一度パチパチと拍手をしてくる。
随分と上から目線な解説だが、見切られてしまっている以上、天桐・リース・ヘブンロードには児戯に等しかったのだろう。
それにしても、心臓の鼓動を聞き取れる化物など、まったく想定していなかった。
天桐・リース・ヘブンロードが例外中の例外であるのは間違いないが、そんな化物を殺す為に編み出そうとした技なのだから、だいぶ悔しい。もっと研鑽を積んで、剣技を昇華する必要がある。
わたしは素直に反省した。呼吸を整えつつ、苛立ちも抑える。
「……ちなみに、化境? とやらが、どういった境地か存じ上げないのですけれど、そこに至った方は、世界にどれくらい居られるのでしょうか?」
「さあ? どれくらいか……少なくとも、私が知るだけで、三人は居るな」
「――――へぇ? それは重畳、ですね」
ふふふ、と思わず笑みが零れた。
世界は広く、見知らぬ強者はまだまだ多いようだ。少なくとも、【最強を冠する魔女】天桐・リース・ヘブンロードの地平に立つ化物が、三人は存在している。
最強の頂きが遠いのは、喜ばしいことである。登る山は高ければ高いほど、視える景色は素晴らしいのだから――
「おっと、脱線してしまったな――それでは、これにて円卓席次戦の終了を宣言しよう」
天桐・リース・ヘブンロードはポンと手を叩いて、そうだそうだ、と辺りを見渡しながら口を開いた。
わたしは、うむ、と頷きつつ、首のない遺体となった八重巴に視線を向けた。それを追うように、天桐・リース・ヘブンロードも八重巴の遺体に手を向ける。
「勝敗の条件は、先日行われた八重示現流の流儀に則られる。今回、相手を殺してしまったため、【人修羅】鳳仙綾女は敗北となり、八重巴が勝利条件を満たした。勝者は八重巴であり、円卓六席の移譲は発生しない」
「…………ふぅ」
わたしはひとまず安堵した。柊南天から事前に聞いていたが、予定通りの決着になってくれたらしい。
円卓六席を殺したことで、もしかしたら円卓に座ることになるかも知れない、と実は戦々恐々としていたのだ。だが杞憂だった。
円卓席次戦――ルールは双方の合意であれば、どんなルールでも可能。そして、結果として席次戦に勝利さえすれば、戦闘力の優劣は無関係に、席次が移譲されるらしい。ちなみに、この席次戦が開催される条件としては、双方が円卓に座る強さを保有している前提がある。
それゆえに、先日の八重示現流の流儀で定められた勝利条件を満たす訳にはいかなかった。具体的には、わたしは戦闘不能になれず、八重巴も戦闘不能で終わらせることは出来なかった。
「それでお嬢さん。お嬢さんは、この結果に、何か異論はあるか?」
「ありません――勝敗の結果は妥当です。さてそうなると、勝利品は、どのように渡せば宜しいのでしょうか?」
わたしは即答で首を振った。ここで異論を口にすれば、席次戦の裏ルールが発動してしまう。それは避けたい。
「ほぅ? 異論はない、と? 実力で八重巴を殺したのに、敗北になったことは、納得出来る、と?」
「ええ。わたしは、残念ながらルールに基づいて敗北しました。甘んじてそれは受け入れますよ?」
「そうか――それでは、改めて宣誓しよう。円卓席次戦、決着は『八重巴の勝利』である」
その宣言と同時に、ピシリと空間にヒビが入り、隔離されていた魔術結界が、ガラガラと崩れ落ち始めた。ガラス片のような半透明の空が落ちてきて、時が凍っていたような世界が現実に変わる。
次の瞬間、基本的には同じ景色なのだが、わたしが殺した一般人の死体が転がった裏路地に戻っていた。濃い血の臭いも漂っている。
そこに、パッと首を失った八重巴の身体が現れて、頭部も転がった。
「さて、それでは勝利品の譲渡だが――オフィサーは死亡しているので、渡すことが出来ない。権利は本人以外に行使出来ないので、意思確認が出来ない以上、お嬢さんの意見でもって、それを双方合意と見做すしかないな」
天桐・リース・ヘブンロードは真顔でそう言って、わたしに向き直る。
「お嬢さん。どうする? 渡すのを拒否するか? それとも――」
「――当然、お渡ししますよ? だって、わたしは敗北しましたからね」
わたしは天桐・リース・ヘブンロードに最後まで言わせず、仕込刀を八重巴の遺体に投げた。また同時に、柊南天から渡されていた宝石も放り投げた。
「…………それが【人修羅の業】か?」
「ええ、そうですよ? 意識がないと、使えるかどうかは知りませんけれど」
両手をお手上げして、これ以上はもうない、渡せない、とばかりにジェスチャーした。天桐・リース・ヘブンロードは首を傾げつつ、八重巴の遺体に視線を向ける。
「事前に、人修羅の相棒から、勝者に連絡先を渡してくれ、と言われている。連絡先は魔術で記憶に刻もうと思っていたが、死亡しているから無理だな」
当たり前のことを呟きながら、天桐・リース・ヘブンロードは右手を高々と掲げた。グッと拳を握り締めると、辺りを照らす光を放ち、それを八重巴に放った。光は八重巴の頭に当たり、すぐに消え失せる。これが魔術による情報伝達なのだろう。
そうこうしていると、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
サイレンは裏路地の入口と出口両方から同時であり、距離があっても分かるくらいに、多数の警官の声も聞こえてくる。
どうやら裏路地を封鎖する勢いで、人員を配置している様子だ。怖くはないが、鬱陶しい。
「――これで、円卓席次戦の審判としての、私の役目は終わった。後は自由にしろ」
「はい。公平な立場で、最後まで対応いただき、ありがとうございます」
天桐・リース・ヘブンロードの言葉を聞いてから、わたしは八重巴の遺体に放り投げた仕込刀と宝石を拾い上げた。このアクションは、誰かの落とし物を勝手に盗んだ、という体である。
これに対しては、何も咎められることはなかった。
席次戦が終わった後であれば、もう立会人は干渉しない決まりらしい。これも席次戦の裏ルールだと聞いている。
審判が自分の役目が終わったことを宣言するまで、席次戦は真の意味では終了していない――だが、これでようやく終わった。
ちなみに、席次戦の裏ルールとは、開始前に同意した内容に一つでも異論を唱えた場合、席次戦自体が無効になる、というルールである。さらに、席次戦が終わるまでは、勝利品を奪う行為はルール違反であり、その場合もやはり席次戦が無効になる。
つまり席次戦においては、どのような結果、過程であろうとも、開始してから終わるまで、何か一つでも異論を口にすれば、その内容に依らず無効となるのだ。
八重巴はこの裏ルールを利用して、わたしを殺した後に席次戦を無効とする算段だったと思われる。
席次戦は融通の利かない厳格なルールがあるが、八重示現流の流儀による賭け試合であれば、勝敗は幾らでも覆すことができるからだ。
いかにも卑怯な、腹黒嘘吐き妖怪婆らしい考えである。だがその逃げ道があったからこそ、八重巴はわたしの勝負を受けたとも言える。
(……それはそれとして、本当に、名残惜しいですけれど……ここでヘブンロードさんと闘うのは我慢、ですよね……思ったより、ツライです……)
わたしは深い溜息を漏らしてから、気持ちを切り替えて仕込刀を鞘に納めた。サッサとこの場を去らないと、警察に囲まれてしまって面倒になるだろう。
「おや? お嬢さんは、このまま去るつもりか? 私と闘わないのか?」
わたしが裏路地をキョロキョロしながら、どうやって逃げようか考えていると、天桐・リース・ヘブンロードが挑発的な視線で首を傾げる。緩く闘気を放ちながら、挑発的に殺気をぶつけてくる。
思わず疼いてしまう気持ちを呑み込み、わたしは消沈した顔で首を横に振る。
「ええ、ここでは闘いません。残念ですけれど、ね」
「血気方剛なお嬢さんらしからぬ、冷静な判断だな。どうかしたのか?」
「相棒の入れ知恵ですよ――わたしがここで、ヘブンロードさんと闘うと、それは、円卓六席に座るための試験になるのでしょう?」
わたしは天桐・リース・ヘブンロードに背を向けて、薄汚い雑居ビルの入口に足を向ける。その背中に、ほぅ、と感心の吐息が聞こえてきた。
「知っていたのか? 人修羅の相棒は、円卓の人間か?」
「それはどうでしょうね? どちらにしろ、ヘブンロードさんの思惑には乗りませんよ――それに、ここで油を売っていると、清香さんが来てしまいます。そうなると、わたしも少し具合が悪いのです」
「ふむ、為我井清香のことか……確かに、彼女は厄介だと聞いているが、そうか――それでは、私もそろそろ帰るとするか。次はいつ、逢えるのかな?」
わたしは雑居ビルに入ろうとした足を止めて、顔だけ振り向いた。天桐・リース・ヘブンロードはまだ道のど真ん中で堂々と立っていた。
「――夏休み中に一度は、神楽さんの顔を見に行こうと思いますよ」
わたしの台詞に、天桐・リース・ヘブンロードは驚いた表情を浮かべて、口元に人差し指を添えた。
「……なるほど、納得だ。だから先ほども、円卓席次戦の裏ルールに注意を払っていたのか……事前に知り得ていなければ、あんな言い回しなぞ出来なかったはず……偶然ではなかったか。しかも、神言桜花宗の動きも把握している、ということは、第二席か第三席、第七席か第十席あたりが、協力しているのかな?」
「さあ? それでは、わたしはこれで失礼いたします――次にお逢いする時は、存分に殺し合いましょう」
もう話は終わった、とわたしは雑居ビルの中に入った。その背中に向けて、天桐・リース・ヘブンロードは大きな声で笑いながら、何やら意味不明な台詞を吐いた。
「今日、空席になってしまった円卓六席だが、実は候補者が二人居たんだ。当然、一人はお嬢さんだ。だが残念ながら、お嬢さんはこの試験を辞退した。だから、もう一人の候補者には、強制的に試験を受けてもらうことにする――新月の夜には気を付けた方が良いぞ?」
円卓六席の候補者と、新月の夜に気を付けた方が良い、という言葉が全く結びつかない。何が言いたいのか、と首を傾げながら、わたしは振り返らず雑居ビルの屋上を目指して階段を上がる。
階段の踊り場で、チラと天桐・リース・ヘブンロードはどこに逃げたか見てみると、来た時同様に、堂々と道を戻っていた。
警官の包囲網をどうやって突破するつもりか、少しだけ興味を引いた。けれど、そんな野次馬根性は今は不要だ。サッサと屋上に出て、逃げることにしよう。
「――――はい、もしもし?」
七階建てビルの屋上に出た時、ちょうど携帯電話に着信があった。見ればそれは、柊南天からの電話である。すかさず電話に出る。
『あ、お疲れ様っス。ちょうど綾女嬢のGPSが出現したんで、頃合い的にも決着したかな、と思って架けて見たっス――どうでした?』
「ええ。無事に、終わりました。とても愉しめましたよ? たくさん勉強も出来て、成長を実感できました。こういう修行も悪くはないですね」
『あ、そスか? じゃあ、ま、良かったスよ。怪我とか、どースか? 大丈夫スか?』
「……大丈夫、ではありますけれど、少し血が足りなくなっていますね。後は、左手が負傷している感じですね――どちらに向かいますか?」
『んん? その負傷って、どれくらいの負傷スか? 軽傷……な訳、ないっスよね?』
柊南天が不穏な口調で聞き返してきた。それに苦笑しながら、軽傷ですよ、と軽く返した。
強がりではない。致命傷さえなければ、ただの軽傷でしかない。とはいえ、少しふらつきだしたので、屋上の扉にもたれ掛かった。
「貧血を何とかしたい、ですかね? 嗚呼、それはそうと――柊さんはどうですか? 予定通りになりましたか?」
『そっちは万事滞りなく、っス。証拠の捏造と、清香嬢へのリークは済んだっス。特異課にも介入させないよう段取り済みっス。言うても、後は警察内部でどう処理するかって話スけどね。ま、ただ、異端管理局とのパイプ役だった巴女史が居なくなった穴を、誰が、どう埋めるか、ってとこで、揉めるんでしょうよ。うち、そこはノータッチなんで――』
「嗚呼、そうそう……そこの件なのですけれど、円卓六席には、わたし以外にも候補が居た、と先ほどお伺いいたしました。柊さんは、ご存じですか?」
『――――円卓六席の候補、スか? 綾女嬢、以外で?』
一瞬だけ息を呑んだ音が聞こえて、何やら探るような問い返しをされる。心当たりはありそうだ。
「ええ、そうです。ヘブンロードさんからは『新月の夜には気を付けた方が良い』と言われました。どういう意味でしょうか?」
わたしの言葉に、ハッキリと息を呑んだ声が聞こえる。マジか、と呟きが続き、いきなり大笑いが響いてきた。
『ま、ともかく、それは置いといてっスね! 新しい円卓六席の候補は、うちが調べとくんで――そスね。ひとまずは、綾女嬢の治療もしたいんで、京道大附属病院に向かいましょか?』
だいぶ強引に話を切り替えて、電話を切り急ぎたい様子が伺えた。
まあ、ここで追及しても仕方ないだろう。言われるまま、京道大附属病院に向かうことにしよう。
「……分かりました。一旦は、そちらで合流、ということですね? 警察署の裏手辺りに、口の固いタクシーを呼んでいただけませんかね?」
『承知っス。二、三十分お待ちくださいっスよ――』
ピ、と電話は一方的に切れた。ふむ、とわたしは身体を動かして、屋上から地上の喧騒を眺めた。
八重巴や一般人の死体が転がった現場では、多くの警官がドタバタと慌ただしく駆け回っていた。とりあえずで死体周辺にブルーシートを準備して、見えないように配慮している。また、立ち入り禁止の黄色いテープで、裏路地の入口と出口を封鎖している。
そんなドタバタを見ていると、勘の良い警官の一人が、屋上で佇むわたしを発見していた。
何やら指示を飛ばして、雑居ビルの中に武装した警官が侵入してきていた。拳銃を構えていたので、わたしの抵抗次第では発砲も辞さない態度だろう。
「さて、いつまでも見物していないで、そろそろ移動しますか……」
チラと見れば、天桐・リース・ヘブンロードは当たり前みたいな所作で、平然と、立ち入り禁止の黄色いテープを跨いでいた。それに誰も気付いていない。
ふいに、裏路地を抜けた天桐・リース・ヘブンロードが一瞬だけ振り返り、屋上のわたしに視線を投げていた。魔力視すると、その全身が薄い魔力膜に包まれていた。どうやら、隠蔽の魔術か何かで周囲から意識されないようにしているらしい。
ヒラヒラ、と手を振られたので、わたしは中指を立てて笑顔で微笑んだ。
「――――何をするか、分からないぞ!! 危険と感じたら、即発砲しろ!」
そんなことをしていると、背後の扉から怒号が聞こえてくる。ようやく警官たちが登場らしい。しかし、その人数はわずか五人だ。
わたしは思わず呆れた笑いを漏らしていた。その程度で、誰を相手にするつもりだろうか。
(……と、姿を見られるのは、宜しくありません……)
黒いスーツにポニーテールと、普段とは異なる格好で変装しているとはいえ、この姿を晒す理由はまったくない。ただでさえ、胸元も裂けて血だらけである。人前に出られる格好ではない。
わたしは騒がしくなる扉に駆け寄って、思い切りヤクザキックをお見舞いした。
ドガン、と爆音じみた音が鳴り、鉄製の扉には足形がくっきりついて、大きく変形する。勢いそのままドアノブを破壊して、内側から容易に開けられないよう小細工した。
その音に驚き、扉の向こうでは慌てて動きを止める警官たちの気配を感じた。拳銃を構えて、わたしが飛び出してくるのを警戒しているようだ。
「――――警察署は、そっちですね」
息を呑んで緊張している警官たちを嘲笑いながら、わたしは歩法飛天を駆使して、ビルの屋上から隣の住居の屋上へと飛び移った。
ビルの距離間は5メートル程度、しかし住居の高さは三階建てだったので、少しだけ高低差がある。とはいえ、わたしにとっては何ら問題にはならない。
跳躍した瞬間、地上を一瞥すると、幸いにもわたしを見上げている警官はいなかった。
スタっと音もなく着地して、すかさずその屋上も駆け抜ける。パルクールを思わせる動きで、ビルからビルへと次々に飛び移った。ただし、その速度は弾丸じみた全力疾走で、50メートルを4秒切るほどの疾さである。
警官たちの密集した裏路地近辺を離脱してから、わたしは少し離れた一軒家の庭に飛び降りた。庭から気配を探ると、一軒家の中には誰もいないことが分かる。
わたしはリビングの窓を割り、室内に入る。
完全に不法侵入、空き巣でしかないが、住民に見付からなければ騒がれることはない。
「お邪魔します――この服、頂戴いたします」
整頓された綺麗なリビングを見渡して、ちょうどクリーニングから回収したと思しき、冬物のチェスターコートを手に取った。
ブランド物ではないが、着古されたグレーのロング丈のコートだ。夏場に着る服ではないが、前ボタンを留めれば、身体が隠せるので良い塩梅である。
わたしはそれを羽織って、切り裂かれた胸元を隠すようにボタンを留めた。
「荒らしてしまったお詫びです――それでは失礼」
リビングのテーブルに、わたしは手持ちの現金を置いた。とりあえず、二十万円程度で充分だろう。これで窓ガラスの交換とチェスターコートを換えて欲しい。
ふたたび割った窓から庭に出て、玄関に回り込み、当然の顔で立ち去った。ちなみに、室内や庭には監視カメラの類はなかった。
通報するかどうかは家主次第だが、被害額と置き去りにした現金を天秤にかけたならば、泣き寝入りしそうである。
さて、とわたしは束ねた髪をほどいた。日傘を差して、警察署に向かって歩き出す。
真夏日に日傘を差しているのに、内側はロングコートという不釣り合いの格好を見ると、周囲の通行人たちは揃って、まるで露出狂を見るような視線を向けてきた。
ひどく鬱陶しいが、とりあえず甘んじて受けた。目撃情報を残す為にも、ここで気配を消してはマズイのである。
「すいません。予約していたのですけれど、よろしいですか?」
わたしは警察署の裏手に止まって、煙草を吸いながら待機していたタクシー運転手に声を掛けた。
「あ、え? あ――ご利用、ありがとうございます……えと、予約くださった『八重巴』さん?」
「ええ、そうです。ここから京道大附属病院までお願いします」
「あ、は、はい」
一瞬だけ、タクシー運転手はわたしの姿に動揺して、挙動不審な態度をしていたが、すぐに後部座席を開けてくれた。乗り込むと同時に、目的地を告げる。
「――なんか、この向こうの『爽やか商店通り』って裏路地が、やたらと騒がしかったですけど……お客さん、何か知ってますか?」
「ええ、何でも通り魔殺人が起きたようですよ? 警察の方がたくさん騒いでらっしゃいました」
「え、ええ!? 通り魔、殺人、ですか!? そんな、まだニュースにも――」
「――嗚呼、申し訳ありませんけれど、わたし無駄話は好きではないので、黙ってもらえますか?」
わたしはニッコリと笑って、騒ぎ始めたタクシー運転手を殺気と共に黙らせた。ヒッ、と小さく息を呑んで、タクシー運転手は押し黙る。
あえて裏路地での事件を口にして興味を持たせることで、わたしという奇抜な格好の人間を記憶させることに成功した。後日、運転手が万が一にも取り調べられた際には、この証言をしてくれるだろう。
静かにほくそ笑みながら、わたしは窓から降り注ぐ陽光に目を細める。
まだ十四時を少し回った程度である。柊南天と合流したら、少し遅いが昼食を摂るのも良いだろう。
年内に推敲し切れなかった…もうちょい第六章は続きます。




