第二夜/後編
二時間か三時間か、わたしは彷徨うように樹海の中を歩き続けていた。霊感で霊波が薄い方向を探りながら、行ったり来たりを繰り返す。
その間、お目付け役の朱火は、どうしてか無言でずっと付き従っていた。
アドバイスもないし、忠告もない。講義してくれるという話さえなくなり、ひたすら無言を貫かれていた。何のコメントもないと言うことは、進む方向は間違っている訳ではないようだが、突然沈黙したので、少し不気味だった。
「――朱火さん。わたし、魔法具のこととか、霊能力のこととか、色々教えて頂きたいのですけれど、教えていただけないのでしょうか?」
「…………」
沈黙に堪えられない訳ではないが、あまりにも無言が続いている為、わたしは何度目になるか分からない問いを投げる。
ただただ無言で歩き続けているこの時間が勿体ない。歩きながらでも勉強はできる。
「……無視、ですか?」
朱火に流し目を向けるが、眉根を顰めたジト目で返されるだけで無言だった。そしてそれは、堺芽衣子も同様で、どうしてか完全沈黙を保っていた。
耳元に響く五月蠅い恨み節がないのは嬉しいことだが、ここまで来ると異変に感じてしまう。とはいえ、問題があれば朱火が何かしら指摘するはずなので、わたしはそれらの不安は無視していた。
「――あら、辿り着きましたか?」
体感では三時間、距離にして15キロ前後、目の前に切り立った崖が現れた。崖の途中からは、音もなく水を落とし続ける光り輝く滝がある。
どうやらここが破邪の滝のようだ。滝壺は浅く、地面に吸い込まれるように飛沫もあげず落ちている。
わたしは思わずその絶景に驚き、はぁ、と溜息を漏らす。
「不思議な光景、ですね。ここが破邪の滝で間違いありませんか?」
朱火に振り返り訊ねると、強く頷きながら、大きく口を開いていた。
「……こ、こで……滝行……」
「――ん? はい? 何ですか、朱火さん?」
怒鳴るような大口で話す朱火だが、電波が悪いようなブツ切りでしか声が届かなかった。わたしの耳がおかしいのか、と疑問を持つほどに音が遠い。
「滝行……だ…………なり……服……」
必死にジェスチャーする朱火の意図を図ろうとするが、意味が分からない。
読唇術で読み取ろうと口元を注視するも、朱火の口の動きは出鱈目だった。何語か分からない唇の動きをしていた。
いままでどうやって意思疎通していたのか、と首を捻るしかない。
「聞こえないのですけれど――」
何が起きているのか、と怪訝な表情になった時、はたと気付いた。
朱火や堺芽衣子の声が聞こえなくなったのは、霊感を修得してからすぐだった。いま知覚している万能の俯瞰視界を手に入れた直後から、そういえば、二人が沈黙していたことに思い至る。
「――まさか、そういうことですか?」
わたしは苦笑しながら自問して、意識のチャンネルを切り替える。
発動していた天仙之位を解いて、感覚で掴んでいた霊感を手離した。途端に、俯瞰で見えていた景色が視力頼りになり、輝く白い光だった滝が、漆黒の塊を落とし続ける滝の姿に変わる。
目線を落として視れば、滝壺は浅いのではなく、黒い塊のような霊力の重さで地面が沈んでいるだけだった。圧倒的な霊力は地面を抉り、転がってから溶けるように染み込んでいく。
だからだろうか。滝壺周辺の地面は、草も生えないドス黒い土地と化していた。
「……綾女……さん……っ! 聞こえ、ます、ですか……!? た、滝壺に……このまま、進むのは、危険ですよ?」
『ヒィィィ――怖い……怖いぃ……怖いぃっ!!』
「やかましい――けれど、ようやく声が聴こえました」
霊感を手放した途端、ジェスチャーしていた朱火の声が聞こえて、同時に、聞きたくもない堺芽衣子の恐怖の叫びも聞こえてきた。
「ねぇ、朱火さん。もしや朱火さんたちの声って、特殊な霊波みたいなモノなのですか?」
音も振動であり、鼓膜で震えを拾うことで認識できるものだ。そう考えれば、霊獣が喋っている声は、霊波ではなかろうか、と推測出来る。そもそも霊獣の声が聞こえ始めたのも、霊力を手に入れた瞬間からである。それも踏まえれば、霊獣の発する声は霊波であることは想像に難くない。
一方で、霊感を修得してから聞こえなくなったのは恐らく、霊獣の声が空間を漂う霊波とは別の波長だからだろう、と推測出来た。
わたしは霊感を手に入れたが、その技術はまだ未熟である。
空間に漂う霊波を拾うことに集中していたが、それ以外の霊波を弾いている可能性はある。波長が違う霊波で、それを遮断してしまったのだとすれば、聴こえないのは道理である。
「……あ、え、そーですよ? あ、あれ? いまのあたしの声……き、聞こえ、ます、ですか? って、もう、霊感強度の調整が、出来たん、ですか……? コツ、を掴むの、早すぎます、ですよ?」
「霊感、強度? それは何ですか?」
「あ、う、え? も、もしかして……自覚、なし……で、やってます、ですか? ちょっと、それ……天才、過ぎます、です……化物、です」
朱火がズレた眼鏡を直しながら、驚愕の表情を浮かべていた。驚くのは勝手だが、とりあえず説明をして欲しい。生憎、わたしには知識が足りないのだ。
「――『霊感強度』とは、なんでしょうか?」
今一度聞き返しつつ、ギラリと強い殺気を篭めて睨みつけた。一瞬たじろいでから、朱火が頷いた。
「う、あ、そ、その……霊感強度、というのは、霊感の知覚範囲……例えば、ラジオとかの、アンテナレベル、みたいなもの、です……周波数の違い、とも言えます、です……」
「なるほど? 周波数の違い、ですか」
わたしの推測した通りのようだが、その説明だけでは確信は持てない。
わたしは今一度、深呼吸してから天仙之位を発動させた。意識を集中させると、耳鳴りがして沈黙に包まれる。視える景色も変わり、俯瞰の視界と霊波の青白い光を捉えるようになる。一方で、この状態だと音が消えてしまう。
「――何か、喋ってらっしゃるようですね?」
「――――」
朱火が身振り手振りで何やら声を出している様子だが、全く音が届かない。つまりこれは、調整が出来ていない状態なのだろう。
どうすればこれを調整出来るのか、再び天仙之位を解いた。
「……霊獣の発声は、霊波としては微弱で……あたしの感覚的には、和音って印象、です……霊感が一番、拾い易い霊波は、不協和音で……」
「朱火さん。申し訳ありませんが、いまの説明を、もう一度最初からお願いできませんか?」
どうやら朱火は『周波数の違い』に関しての説明をしてくれていたようだが、残念ながら、ちょうどその説明の冒頭を聞いていなかった。
「え、あ……は、はい。じゃ、じゃあ、霊感強度、について詳しく説明します、です。霊感強度は先ほど言ったように、霊感の知覚範囲を指します、です。霊感強度が高ければ高いほど、知覚範囲が広がり、あらゆる霊力、霊波を拾えるようになります、です……けど、一方で、霊感強度を高めれば高めるほど、あらゆる霊波を拾うように、なってしまうので……脳と、精神に、だいぶ負担が掛かって、しまいますです……特に慣れないうちは、強い霊波ほど強烈な光に視えるので、強度を高めると逆に、他の霊波が視えなくなってしまう、かもです……だから、霊感強度を高めたうえで、受け取る霊波を調律するのが一般的で……それが難しいんです……あ……もしかして、さっきまでの綾女さん、って……破邪の滝が放つ霊波に意識が奪われてた、んですかね……? そしたら、あたしの声、届かない可能性、ありますです」
「――へぇ? なるほど、ね……いまいち理解が難しいですが……波長の強弱で、知覚範囲を切り分けるということ……それが、周波数の違い、というイメージですか?」
わたしは言いながら、霊波の周波数をイメージしながら、肌で感じる霊波の種類を見分けようと試みた。けれど、強弱はなんとなくわかるのだが、全く区別がつかない。
天仙之位を発動させて集中を高めると、途端に霊獣の声が聞こえなくなるのは変わらなかった。
怪訝な顔を浮かべていると、朱火がしどろもどろと手をばたつかせた。
「あ、えと……周波数、って言ったんですけど、それだと、分かり難いですよね……? あの、ですね……さっき言い掛けたこと、なんですけど……これ、あたしの感覚的な、話になってしまうんですけど……霊獣の発する声って、和音で……とっても弱い霊波が重なり合ってるんです……でも、空気中を漂う霊波って、不協和音、もしくは、単音なんです」
「……和音? 不協和音?」
「そう、なんです……だから、霊感強度を高める際に、意識するコツは……霊波の伝わり方、重なり方に注意すると、いいと思います、です。霊波がほんの僅かズレる感覚が、ある、はず……」
朱火の抽象的な説明に、わたしは首を傾げながらも納得した。
霊波を音として意識し直すと、なるほど確かに、強弱だけではなく、知覚する霊波の感触には刹那の時間差がある。重なって響く弱い霊波と、力強い霊波は理解出来た。
それを切り分けが出来るか否かは、また別問題ではあるが――とりあえず、天仙之位を発動しないでも霊感の俯瞰風景を視れるように努力するのが先決だろう。
「えと……霊体を把握する、ための滝行、ですけど……まずは、手だけで、浴びてみて、くださいです」
わたしが霊感の修得に集中していると、朱火が手を掴んできた。少し強引だが、破邪の滝に引っ張られた。音もなく流れ落ちる黒い塊の霊力に、促されるまま指先で触れる。
「――――っ!? ぐ、っ!?」
「最初は、シンドイ……ですよ? 強烈な霊力に、一瞬で霊圧が壊されて、それが治って……を、繰り返すんです……そうして、強烈な霊力を浴び続けると……霊圧の壁が、元に戻る際に、身体の内側に存在する、霊体を自覚、出来るはず……です」
「ぅ、っ!? く、ぁ……」
無理やり腕を掴まれて、指先から少しづつ、手首までを破邪の滝に突っ込まれた。
全身に電流を流されているかのような強烈な痺れがあり、血液が沸騰したのかと錯覚するほどの激痛が走る。わたしの視界が黒と白の二色で明滅を繰り返し始めて、意識が朦朧としてくる。
痛みには強い自信があったが、この感覚は不快でならない。
肉体的ではなく精神的に堪え難い痛みで、脳内が激情で塗り潰されるような不愉快の絶頂である。
「えーと……ギリギリまで浴びて、そしたら、戻りましょう、です。ちなみにこれ、綾女さんが【霊性開花の数珠】を装備してなかったら、多分……すぐさま、廃人になってた、かもです……霊圧だけじゃなくて霊体も破壊されて、肉体も変質しちゃったでしょうし……脳神経が焼き切れちゃう、ので」
物騒なことを言いながら、引け腰になるわたしを破邪の滝から逃さぬよう押し出してきた。
わたしの身体が意思とは正反対に、突っ込んだ手を引っ込めようとしていた。ビクビクと身体が痙攣して、反射的にバックステップしそうだった。
歯をギリギリと噛み締めて、全身全霊で己の身体を動かさないよう捻じ伏せる。
「……これを……もうちょっとだけ、耐えてください、です……あ、そう言えば、魔法具の講義です、けど……意識、あります、です?」
馬鹿にしたような言い方に、わたしは弱々しく頷いた。馬鹿にするな、と声を出そうとすると、悲鳴が出そうになったので、舌打ちだけして口は噤む。
「……あ、良かった、です。椿さんは、この滝行で、気絶した、って聞いてます、ですから……少し心配で……」
朦朧とする意識を必死に繋ぎ止めて、引け腰になる身体をグッと堪え続ける。
正直、朱火の話をどこまで聴き取れるか自信はないが、とりあえず聞いてみないと分からない。
「えと……どこから、説明、しましょう、ですかね……まずは、その【霊性開花の数珠】……いや、補助で装備してる……【連環の霊輪】のこと、から……ですかね?」
そんなのは本当にどうでもいい。むしろ、どちらのことも教えろ、と叫びたいが、とりあえず口を噤んで押し黙る。
意識が朦朧としているところで、曖昧な物言いは腹が立つ。
「……ひっ!? こ、怖いです、よ……じゃ、じゃあ【連環の霊輪】から、説明します、です……椿さんから、四つのブレスレット、貰いました、よね? いま、身に着けている、霊輪……」
「――っ、く――あ、ぅ――っ!?」
わたしが手首と足首を一瞥すると、朱火が満面の笑みで頷いていた。
「あ、そうです、そうです。その……腕とか脚で反応してる、霊輪です。その反応が、霊輪の効果、なんですよ」
破邪の滝に触れている指先から、多量の霊力が身体に流れ続けていた。
その霊力が手首と足首周辺で一瞬だけ留まり、わたしの霊圧の膜を破壊して霧散する。また、その霧散した霊力はふたたび戻ってきて、霊圧が再構築される。
それが、ずっと繰り返されている状況だった。
わたしが何か意識したのではなく、自動的にそれが行われており、どうしてかと疑問に思っていた。どうやらこの状況こそ、装備した魔法具の効果らしい。
「……霊輪の効果は……霊力の強制制御……です。装備してるだけ、で……内在霊力を消費しますです、けど……代わりに、霊圧を一定値に保つよう、常に制御を掛けて、ますです……」
「――――ッ、っ!!」
「霊輪の効果で、霊力がある限り、霊圧の壁が保たれます、です……だから、霊圧を意識して、霊体を把握してください……です……」
パチパチと明滅する視界で、意識を失わないよう堪えながら、わたしはいっそう集中を高めた。
明鏡止水の境地に立ち、水を掴むかの如く、霊力というよく分からない概念をなんとかコントロールしようと試みた。
「あ、そう言えば……霊輪や【霊性開花の数珠】ですが、これは、人造魔法具って、呼ばれて、ますです……魔法具を創る、魔法具を使って、生み出した魔法具で……だから、誰でも使用できる、汎用性が、あるわけです……」
わたしの苦しむ様など完全に度外視で、朱火は淡々と説明を続けた。それがお経のように聞こえており、正直、意味までは理解できていなかった。
しかし分かることもある。朱火の語る魔法具の講義とやらは、覚えても仕方のない不必要な情報だということだ。
だからなんだ、と一蹴する内容である。
「……えと、続いて【霊性開花の数珠】ですが、これは聞いたかも知れませんが……装備した瞬間から、魔力が霊力に変換される、効果を持って、ますです……また同時に、霊体を自覚し易くさせることも期待できます、です……更には、潜在的な霊力の出力も強化する効果が、期待できますです……実際、魔力持ちの方たちって、霊力を持ってるけど、自覚していない場合が、ほとんどで……霊力を自覚する為に、この数珠を利用する場合が――」
淡々と続ける朱火の台詞に意識が遠のきそうになる。
もう少し興味深い解説が聴きたいし、もっとわたしの為になる講義をして欲しいのだが――願いが叶うことはなさそうだ。
「――あ、それと……もう一つの効果……これが、隠された【霊性開花の数珠】の、真の効果なんですけども……魔力を封じる、ことで……魔力回路をより強化する、ことができる効果です……また、霊力を持たない方でも……耐霊性を得ることが、できますです……」
「――た、耐霊、性……?」
「あ……えと、そうですよ? 耐霊性……つまり、霊撃を含めた霊的な外因に対する、防御性能です。それが、強くなりますです。特に、霊獣からの呪詛や精神攻撃に、耐えられるように、なりますです」
それは素晴らしい、とほくそ笑んだ。そういうメリットがなくては意味がない。わたしが求めている修行の成果としても充分である。
「ちな、みに……霊、装、技術――ッ、ぅ……と、は?」
痛みにだいぶ慣れてきたので、意識を保つためにも疑問に思っていたことを口にした。
柊南天の言っていた勝つ為の条件、その一つに『霊装技術の修得』なるモノがあった。果たして、それはこの修行で身に着けられる類の技術なのだろうか。
「え、アレ? 霊装技術なんて、どちらで? 綾女さんがいくら凄くても……流石に、霊装技術まで、修得するのは……」
「――っ、く――ひ、いらぎ……南天、から――です、っ」
「あ、そゆこと、ですか? 南天様……かぁ……じゃ、じゃあ……詳しく、説明してなくても……仕方ない、ですね……」
なにやら勝手に納得している朱火を睨み付けた。サッサと説明しろ、と目で訴える。そろそろ、本当に意識が飛びそうだった。
しかし、わたしの質問に朱火が答えることはなかった。
唐突に、朱火はハッとした表情で明後日の方向に顔を向けた。
「――おかえりなさい、椿さん! さ、綾女さん。今日の修行は……これで終わりに、なりますです……」
「ぐぅ、ぁ!?」
朱火が容赦なく脇腹を蹴り飛ばしてきた。物理的な衝撃は強くはないが、突き抜ける鈍痛は電撃を浴びたようだった。
わたしは滝から強制的に引き剥がされて、数メートル離れたところの大木に背中を打ち付けた。
破邪の滝から手首を抜くだけなのに、問答無用に蹴りを繰り出すことはないだろうに――とは思ったが、そんな文句は口に出さない。
むしろこの衝撃を受けて、ふと疑問が生じた。
物理的な身体を持ち得ない幽霊の朱火が、どうやって攻撃したのか。先ほどの感触は、見た目通りに肉感があった。
「あ、凄い、です……霊圧の、再構築中で……まさか、あれほどの耐霊性が、あるなんて……ところで、いまのが、霊力を纏った攻撃……霊撃、です」
パチパチと拍手している朱火に、わたしは拳を構えた。次の瞬間、思い切り踏み込んで、空手で言うところの正拳突きを放った。
けれど、それは朱火の身体を手応えなく貫通して、空を切った。
「……こ、怖い……ですよ……けど、無手じゃ……霊体状態の霊獣に、ダメージを与えるのは……無理だと、思いますです……霊力を篭めた攻撃、じゃないと……」
「――――こう、ですか?」
「……ちょ、っと――ぅぁ!?」
ドォン、と爆発するような音が鳴り、わたしの裏拳が朱火に炸裂した。
朱火はかろうじて、両腕で後頭部をガードしてことなきを得ていたが、今度は手応えがあった。
吹っ飛ぶ勢いのまま、朱火は空に溶けるように姿を掻き消す。すかさず天仙之位を発動して、霊感で周囲を確認すれば、朱火の身体が黒い霊力状態になって頭上に浮かんでいるのが分かった。
便利な形態変化だな、と思いつつ、天仙之位を解いて目を凝らす。
朱火は薄ぼんやりとした半透明姿になって、手の届かない空中を揺ら揺らと浮いていた。
「……も、もう、霊力を纏うこと、覚えたのですか……綾女さん……化物、過ぎます、です……霊体、自覚してるん、ですか?」
「――いえ、まだ不十分でしょうね。霊体が、この感覚とは思えませんし……」
わたしは身体を覆う霊圧に集中した。
魔力を循環するイメージを保ちつつ、毛穴から魔力を吹き出す感覚で、霊力のコントロールを実行する。多少は霊力の放出をコントロールできたが、ただそれだけであった。
その根幹、霊体と呼ばれるような大元の感覚はない。まだまだ霊力を自由自在にコントロール出来ているとは思えないし、実際出来ていないだろう。
(……天仙之位を使わないと、あそこまでの俯瞰風景は、視えませんしね……)
霊感のコツは掴めたが、心穏やかに集中を高める程度では、視界に映る景色は普段と変わることはなかった。あれほど鮮明な俯瞰風景は、まだまだ素のままでは難しいようだ。
けれど、破邪の滝を浴びる前後では、朱火の声や堺芽衣子の声がより鮮明に聞こえるようになった。つまりそれだけ、霊感強度が高まっているのだろう。
「ところで――如月さんが、もう帰宅なさったのですか?」
体感では、まだ四、五時間程度しか経っていない。この幽世には太陽が出ていない為、正確な時間までは分からないが、感覚的にはまだ昼間なはずである。
如月椿は学校に勤務しに行ったと聞いていたが、こんなに早く帰ってくるのか。
「え、だって……もう……夜八時、ですし……晩御飯、用意しないと……」
「――はぃ? はち? 夜、八時!?」
朱火の言葉に驚愕して、素っ頓狂な声が出た。そんな馬鹿な、と声を張り上げたが、瞬間的に何が起きているか察して冷静になる。
恐らくこの幽世空間は、外界と時間の流れが異なるのだろう。
いや、もしかしたら、この破邪の滝周辺の時間感覚だけが異なるのかも知れないが――どちらにしろ、既にそれほど時間が経過しているとは思わなかった。
これでは修行時間が短すぎるではないか。まともに鍛錬出来ない。
「はい……夜八時、ですよ……だから、もう帰りましょう……」
「はぁ――分かりました。まあ、戻ってからでも修行は出来ますしね」
「……へ? 修、行、って? え……そんな状態なのに……まだ、やるつもり、ですか? ちょっとストイック、過ぎます、です」
わたしの台詞に朱火が恐怖を浮かべている。
そんな状態、というのがどういう状態だか理解出来ないが、驚かれるようなことではない。そもそもここに来たのは修行する為なのだから、ストイックも何もない。
「帰り道は、こっちですか?」
わたしは記憶を頼りに、来た道を戻ろうと足を踏み出した。
しかし、ガクン、と。一歩踏み出した瞬間に、脚から全ての力が抜けて、膝から崩れ落ちた。恥ずかしくも、受け身も取れずにその場にこけてしまった。
「……どうして……力が、抜けていくのでしょうか……?」
「綾女さん……さっきの、あたしの霊撃で……霊体に傷が付いたん、ですよ。だから、霊圧が安定しなくなって、ますです。いま意識的に、霊力を抑えましたよね? けど、霊圧が不安定だから、霊力が漏出してしまって、肉体から力が抜けてる、です……」
「…………傷付いた? だから肉体から力が抜ける? どういうことでしょうか……」
気合を入れて立ち上がる。漏出する霊力を留めるよう意識すると、身体中に再び力が漲った。
「……霊体と肉体は、重なり合って、存在しています、です……霊体は、魂、生命力と言い換えられるエネルギーで、基本的に剥き出しの裸状態……そして常に、肉体に影響を与えてます、です……また、霊体にも強度があり、それは天性のモノで……霊体を把握する、しないに関わらず、個人差あります、です。霊体は鍛えることが出来ず……霊圧っていう鎧を纏うことで、防御力を高めるんです」
「霊圧は、鎧、ですか? それではいま、わたしが霊力を意識して、霊圧の鎧を纏わせましたけれど、それだけで身体が立ち直ったのはどうしてなのでしょうか? ちなみに、傷付いた霊体は、どうやったら治るのでしょうか? 霊体には痛みはないのでしょうか?」
「……あ、え……と、その……あうぅ……」
わたしが矢継ぎ早に質問を繰り返すと、朱火は言葉に詰まってあわあわと挙動不審になる。
薄々感じていたが、どうやら朱火はあまり賢くはないようだ。思考の回転速度が遅い。まあ、知りたいことは多いが、少しづつ覚えていけばよいか――
「――まあ、良いです。道中で一つずつお聞きします」
「あ……綾女さん……そっち、じゃない、です……」
「は? こっちが来た道――嗚呼、なるほど?」
来る時に付けていた目印を見ながら戻ろうとすると、朱火が遠慮がちに引き留めた。
わたしは苛立ち気味に返したが、すぐさまその意味に気付いた。空気中に漂っている霊波を意識すると、進んでいる方向が明らかに間違っているのが分かった。
ふと立ち止まり、深呼吸と同時に天仙之位を発動する。
霊感強度を引き上げて、進むべき方向を俯瞰で見渡した。すぐに、凄まじく強力な霊波が遠くに感じ取れた。
「……この霊波が、如月椿さん、ですね……」
独り言ちて、如月椿の霊能力者としての実力を再認識する。戦闘力もさることながら、霊力量の点でも抜きんでているようだ。円卓に座っているのは伊達ではない。
数キロも先だというのに、破邪の滝を超えるほどの極大な霊力が視えた。霊波は地響きのようにハッキリと感じ取れる。凄まじい、という言葉でしか言い表せないレベルだった。
わたしはその霊波を目印に、真っ直ぐと歩き出した。朱火が驚きの顔を浮かべているのを見ると、これが正解らしい。
「このまま霊力コントロールが、自由自在に出来ると良いのですけれど……コツが掴めません……」
わざと口に出しながら、コロコロ方向の変わる如月椿の霊波を頼りに歩みを進めた。時には引き返したり、時にはグルグル回ったり、と――
そうして体感で三十分程度進んだ時、ようやく樹海を抜けた。
静かに息を吐いて、天仙之位を解除する。ドッと冷や汗が溢れて、疲労感に襲われた。
「……す、凄い、ですね……まさか、正しい道を、一日目にして、もう見つけるなんて……あたし、助言してないのに……」
「――ふ、ふふ。コツが掴めて、良かったです」
口では余裕ぶって安堵の言葉を吐いていたが、実際はかなり不安である。
樹海を振り返ってみるが、もう一度同じ道を辿れるかは、自信がなかった。実際のところ、いまだにコツは掴めていない――だが、そんな困難を前に、口元は笑みを形作っていた。
これは自分自身に、成長の余地がまだまだあるという証拠である。喜ばしいことだ。
「……綾女さん。すぐにお夕飯にします、です。そのまま、本殿にお越しください……」
朱火は姿を掻き消した。如何なる術かは知らないが、一足先に本殿に飛んでいったらしい。
今度は霊感で周囲を探っても見付からなかったので、隠れた訳ではなさそうだった。幽霊は瞬間移動のような移動術があるのだろう。便利である。
「お? お疲れ様やん、綾女っち。どやった? 破邪の滝には辿り着いたんか?」
缶ビールを片手に、枝豆を摘まみながら胡坐を掻いている如月椿を前に、わたしは胸を張って頷いた。馬鹿にするように、ヒュー、と口笛を吹かれた。
不愉快な態度だが、見下されても仕方ないので甘んじて言葉を呑み込む。
「椿さん……綾女さん、本当に化物です……すぐに、霊圧を調整して……あっという間に、破邪の滝まで、到達してました、です……しかも、忘我の境地で……霊感も修得しました、ですし……まるで、椿さんの子供の頃を、見てるようでした……です」
「ホンマ!? そりゃ、流石や――ほな、修行は順調てな感じなん? にしちゃ、綾女っち本人は、満足でけてへんみたいやけど?」
「――手応えはありましたけれど、いまだ掌握できておりませんので、満足など出来ません」
「ストイックやねぇ。ん? なんや、霊体傷付いとるみたいやけど、朱火っちがやったん?」
如月椿が缶ビールを飲み干してから、出来立ての和食を運んできた朱火に首を傾げた。
わたしは自らの身体を見下ろして、漏出する霊力を眺めるが、今朝起きた時と何ら変わらないようにしか視えなかった。
如月椿は何を視て霊体の損傷を判断したのか――
「は、はい……霊撃を、教えてみました……耐霊性は、中の上から上の下……でした」
「ほな、実質は下の中やね? なんせ、いまの綾女っち、【霊性開花の数珠】が発動しとるし――南天から聞いてたとこで考えると、そないなもんやね」
難儀やねん、と続けて、食事に手を付け始めていた。そんな如月椿を横目に、わたしも配膳された食事に手を合わせた。
味付けは薄かったが、内側から疲労が取れるような気がする食事だった。
「――如月さん。本日、この後はどのような修行をするのでしょうか?」
「ブッ!? なんて!?」
盛大に噴き出した如月椿は、耳を掻きながら恐る恐ると首を傾げる。冗談でしょ、という態度に、わたしは真剣な表情で繰り返す。
「まだ、夜というには早い時間帯でしょう? この後の修行予定をお伺いしているのですけれど?」
「冗談やろ!? 今日はもう仕舞いやで? 霊体も傷付いとるし、霊力も不安定やん――これ以上なんかしても意味ないわ」
「意味がないかどうかは、わたしが決めることです。そちらの蒼矢さんの修行は、どのようなモノでしょうか?」
部屋の隅で腕を組んで微笑んでいた蒼矢に流し目を向けた。蒼矢は不敵な笑みのまま、スッと跪いて恭しく頭を下げた。
「綾女姫、メッチャ申し訳ありませんが、そんな調子じゃ、蒼ちゃんの霊獣講座は無理ですよ。本日は霊体を癒す為にも、もうお休みくださいませ」
「そやで、綾女っち。修行効率もそやけど、今日はこのまま寝て、明日、朝から修行したが強くなるはずやん」
新しい缶ビールをもう一本開けながら、如月椿も強く同調してくる。
わたしは露骨に納得いかない顔を浮かべつつも、不承不承と頷いた。確かに、時には身体を休ませる方が効率が良いだろう。
不完全燃焼だが、そこまで止められたら仕方ないか。
わたしはもう文句は言わず、黙って食事を続けることにした。
11/18の更新はここまで。次は明日アップします




