第五夜/後編
はぁはぁ、と不愉快な吐息が耳元で聞こえる気がする。
何かが這いずるような不快感が、全身のいたるところから感じられる。
ピチャピチャ、と嫌悪感を催すような水音、ナメクジが肌を這うような感触、むわっとした湿気が、わたしの全身にまとわりついている。
わたしは無意識に、目を開けようと瞼を動かした。しかし瞼は開かなかった。だと言うのに、視界は薄ぼんやりと脳内に浮かぶ。
胡乱な思考に浮かび上がったのは、不思議な光景だった。
わたしの身体を取り囲む全裸の男たち。
彼らは性別だけは分かるものの、どうしてかその顔には靄がかかっており、誰一人として表情が判別できない。
わたしは、キングサイズのベッドの中心で磔されたように大の字で寝ており、下着姿を晒したまま顔を紅潮させて荒い呼吸をしていた。
視界は暗いのに、どうしてか脳内には、下から上に見上げる映像と、上から全体を見下ろしている俯瞰の映像が浮かんでいる。
「ぁ、はぁ――ぁん、はっ、はっ」
信じられないほど、はしたなく荒い吐息がわたしの口から漏れている。
寝転んでいるわたしは、誰かも分からない何者かと濃厚なディープキスをしており、舌を絡めてこれ見よがしに唾液交換までしている。
「あん――っ、んぁ、はぁ――っ」
わたしを取り囲む全裸の男たちが、左右から手を伸ばして身体のあちこちを弄っていた。何人かの男はわたしの肌や手足を舐め回している。
そんな光景を眺めるのも、その手触りさえも不愉快でならない。
強烈な嫌悪感、激しい不快感、凄まじい厭悪がわたしの胸中に渦巻いている。
けれどわたしから漏れ出る声は、気持ちとは全く裏腹に、愉悦に満ちた艶やかな音で、聞いている分には本気で感じているようにしか思えなかった。
「――――ん、ぁああ、っ!?」
突然、感電したようにわたしの身体はビクついた。それと同時に、ひときわ甲高い喘ぎ声が響き渡る。脳内を貫かれたような強烈な快感があり、直後に凄まじい脱力が襲ってきた。
これが性的な絶頂なのだろうか。生まれて初めての感覚過ぎて、わたしは混乱した。
さて、そんなわたしの反応を見て、周囲の男たちは、一斉に下卑た笑いを浮かべていた。そこかしこから嘲笑が沸き上がり、ベッドの上がいっそう盛り上がっていた。
吐き気を催すはずのその乱痴気騒ぎに晒されて、わたしの感覚はそれを悦びと誤認識し始めている。
(……なるほど。これが、最後の仕上げ――『淫夢を見ろ』ね)
現実にしか思えない感触。
現実であるという強烈な思い込み。
強迫観念めいた現実感の強要。
きっとこの映像と感覚を受け入れてしまえば、怠惰で享楽に満ちた快楽の世界に堕落出来るのだろう。それは甘美で魅力的な提案に違いない。それこそ、長年の望みを手に入れるのと同じくらいの絶頂感を得られるはずだ。
けれど、そんな安易な快楽に身を委ねるつもりはない。他人が用意した代替品で満足できるほど、わたしは無欲恬淡ではない。
(フッ……とはいえ、まだ抗うのは早いですね……思考を切り替えないと……)
わたしは興奮と快感を素直に享受しながら、これが現実ではないと自覚しないよう意図的に、別のことに意識を向ける。
この機会に、少しでも虚空時貞の催眠術に対する耐性を得ておくべきだろう。
そんな思惑を深層心理で持ちながら、わたしは強烈な肉体の快感をありのまま受け入れて、聴覚に全神経を集中させた。
「――はぁ、はぁ、っ、は、ぁ、ん――っ、あぁ……」
気色悪いわたし自身の吐息を聞き流しながら、思考に浮かぶ映像を全て無視して、聴覚をひたすら研ぎ澄ます。すると次第に、雑多な音が一つ一つクリアになっていった。
下卑た嘲笑、男たちの荒い息遣い、粘り気のある水音、舌が這いずる不快音――それらはしかし、実際の音ではなく、わたしの脳が聴かせている幻聴のようだった。
肉体の精度を更に上げて、聴覚をよりいっそう研ぎ澄ました。その過程で、予期せず性感が刺激されてしまい、一瞬ビクッと身体を震わせてしまう。恥ずかしい限りである。
ところで、精度を上げた聴覚で捉えた実際は、周囲は静まり返っており、響いているのはわたしの荒い呼吸だけだった。
――ゴゥンゴゥン、チン、プシュ、カツ、カツ、カツ。
その時ふと、遠くから機械音が響いてきた。扉が開く音と、反響する靴音も聞こえてくる。
靴音の反響具合から察するに、通路は幅がそれほど広くない一本道で、壁と床はコンクリート製のようだった。靴は踵の低いパンプスで、穿いている人間の体重は50キロ台、歩幅は一定で体幹はしっかりしていそうだ。
決め付けるのは早計かも知れないが、十中八九、やってきたのは女性――武装ハーレム七人衆の中の誰かだろう。
カツ、カツ、カ――ッ、カ。
歩数にして、およそ三十歩。距離で考えると20メートル前後か。
靴音はわたしのすぐそばで立ち止まり、蔑むような失笑が聞こえてきた。どうやらわたしを見下ろして嗤っているようだ。
「鳳仙綾女……哀れな肉便器だな。副教主様に不敬な態度を取るから、こうなる――そもそも偉大なる副教主様に挑もうと思うのがおかしい」
吐き捨てるような言葉と共に、ガン、と鉄格子を蹴るような音が聞こえる。
なるほど、わたしがいま倒れている場所は、牢屋のようだ。
「……それにしても、これ。ボクがわざわざ、監視する必要あるのか? 淫夢状態になったら、きっと他の幹部様でも抗えないと思うけどな」
パイプ椅子を組み立てる音と、そこに腰掛ける音がした。スマホを操作する電子音も聞こえる。
監視、と言っていることから、わたしを見張りに来たらしい――警戒されていると解釈すべきか、念の為の用心深さだと取るべきか、悩ましい。
どちらにしろ、わたしにとっては好都合でもある。そろそろ起きようか――
「ぁ、ん、っ――ぁ、はぁ――」
冷静に思考する一方で、絶えず脳内で再生されているわたしの痴態は、いよいよもって本番に差し掛かろうとしていた。
荒い呼吸を続けるわたしは、自ら下着を全て脱ぎ去って、股間に手を当てていた。
もはや正視に堪えない破廉恥な映像だ。想像とはいえ、ここまで卑猥な妄想を見せられるとは思っていなかった。ちなみに、再生される映像に伴って、身体を襲う快感も強くなっているのが厄介だ。
だが、それでも堪えられる。我を失って、快感に埋没することは絶対にありえない。
理由は単純――わたしは、これが柊南天の部屋で読んだ官能小説と同じ展開であることを知っているからだ。妄想の映像でしかないと深層心理で認識しているが故に、この淫夢に囚われることはない。
さて、とわたしは、とりあえず覚醒するより先に、肉体を起こすことに決めた。思考は淫夢に取り憑かれたままで、瞼をカッと見開いて見せる。
「――ん!? なに!?」
瞬間、驚愕の声と共に、ガタ、とパイプ椅子から立ち上がる音がする。それを耳にしながら、わたしは強制的に身体を起こす。
「バ、バカな!? 副教主様の催眠術は、まだ間違いなく効いてるのに!?」
「ぅ……ぁ、はぁ……あ、んっ、はぁ……」
「淫夢に囚われてるはず――って、ん? 意識が、ない?」
思考は胡乱なまま、夢を夢と自覚させず、わたしは強制的に肉体だけを覚醒させる。すると不思議なことに、脳内には三つの映像が浮かんでいた。
一つは実際に瞳に映る景色――鉄格子を挟んで、驚愕の表情を浮かべているビジネススーツ美女だ。彼女は確か、虚空時貞が『可南子くん』と呼んでいた女性である。
そして、もう二つの映像は、全裸になったわたしがキングサイズのベッドに横たわって、ぼやけた顔の男性たちと絡み合う妄想の絵――俯瞰からの光景と、正面から見る仰望である。
それら三つの映像が、いま同時に脳内で再生されていた。おかげで思考がだいぶ混乱している。
「魔力抵抗、していない? なんだ? どうして、起き上がれる?」
鉄格子を挟んで慌てふためくビジネススーツを着こなした美女――可南子は、立ち上がって虚ろな双眸をしたわたしの全身を魔力視している。
恐らく魔力で抵抗したとでも思っているのだろう。それはだいぶ的外れな考えだ。
わたしは魔力など使用していない。これは事前に準備していた自己催眠による強制的な肉体覚醒である。まあ、まだ正気には戻していないが――
「は、ぁ、ぅ……はぁ、はぁ――ぐぅ!?」
わたしは、いい加減妄想を見るのが嫌になり、下唇を強く噛んで、左手の小指を圧し折った。
肉体の感度が限界近くまで鋭敏になっていた為、凄まじい激痛が脳内の性欲を一発で吹き飛ばす。それと併せて、強く鮮明に、いまわたしが観ている映像が、ただの官能小説の内容でしかないことを思い出す。自覚すれば、起きるのはすぐだ。
わたしの視界が、パァ――っと開けて、脳内がクリアになった。寝惚けることもなく、すっきりと目覚めて、ようやっと正気に戻ってくる。
「――化物か。鳳仙綾女!?」
可南子が恐怖に染まった顔で叫んでいた。一歩後退りする。けれど幸いにも、その場から逃げるようなこともせず、手元のスマホで連絡をする素振りもなかった。
それは致命的な油断だ。
わたしは可南子の叫びを合図に、小指の折れた左手を素早く振るう。
「――無刀之型【雨燕】」
高速で振るわれた左手からは、魔力を篭めた拳大の斬撃が飛んだ。
さすがに魔力を篭めても、鉄格子を切り裂けるほどの威力にはならない。当然、腕を切断するほどでもない。だが、スマホを壊すだけなら、充分すぎるほどの破壊力を持っている。
「魔弾っ!? じゃ、ない――クソ!? 何だッ!?」
わたしの飛ぶ斬撃を初見で躱せるほど、可南子は強者ではなかったようだ。咄嗟に身構えたところまでは見事だが、どんな攻撃か想像できなかった時点で甘い。
魔力が篭められて威力と速度が跳ね上がった雨燕は、狙い澄ましたようにスマホを直撃して、液晶画面を復旧不可能なほどに叩き割った。
「ふ、ふふ……これで、連絡は、取れなく、なりましたね? 怖いですか? 逃げたければ、どうぞ?」
はぁはぁ、と興奮冷めやらぬ呼吸のまま、わたしはニッコリと笑顔を浮かべる。挑発的な口調で、通路奥のエレベーター側に視線と手を向けた。
わたしのその態度に、恐怖を浮かべていた可南子は、怒りの色を強めていた。
まったくチョロい――わたしは、心の中でほくそ笑む。これで逃げる選択肢を封じることに成功した。
「わたしが、怖いの、でしょう? 素直になったら、いかがでしょうか?」
「――ボクを、馬鹿にしてるのか? 携帯を壊したくらいで、粋がるなよ。どうせ、そこから出られないってのに遠吠えしやがって、恥ずかしい奴だな」
わたしの挑発を真に受けて、可南子は苛立ちを露わに返してきた。顔に浮かんでいた恐怖を呑み込んで、逃げたい気持ちを無視して、割れて動かなくなったスマホを投げ捨てている。
わたしは深呼吸して、心と身体を整える。
先ほどまでの淫夢の影響で、身体がだいぶ火照っており、自然と呼吸が荒くなっていた。表情も少し赤らんでいる。
「……確かに。わたしは捕らわれの身ですね……はしたない恰好ですし……けれど、貴女――可南子さんのように、魔王さんに媚びへつらう肉便器と比べたら、それほど恥ずかしくはありませんけれど――」
「――ボクは肉便器じゃない。ボクだけじゃなくて、副教主様も馬鹿にしてるのか!?」
わたしは自らの身体を一瞥してから、目の前に立つ可南子をつま先から頭のてっぺんまでマジマジと眺める。見下すような蔑んだ視線を向ければ、可南子はいっそう怒り心頭になっていた。
ところで実際、わたしの恰好はだいぶ恥ずかしい状況だった。
先ほどの淫夢とは違って、一応は制服姿のままではあるのだが、失禁した跡がくっきりとスカートに染みを作っているし、制服も腹部が破けて煽情的なへそ出しスタイルになってしまっている。そもそもなぜか、穿いていたショーツとスポーツブラが脱がされていた。つまり、いまのわたしはノーパンノーブラ状態である。
恐らく運ばれている最中に、敵意を持たない信者の誰かに脱がされたのだろう。不愉快で仕方ないことだが、まあこの際、それは捨て置く。
「肉便器じゃない? へぇ? そうなのですか? それは失礼いたしました。わたしはてっきり、武装ハーレム七人衆の方たちは全員、魔王さんの肉便器と認識しておりましたので。可南子さんもその独りだと――」
「――おい、鳳仙綾女。調子に乗るなよ? 副教主様の催眠術を偶然に解除出来たからって、何を勝ち誇ってやがる!? だいたい、さっきから不敬だ!! ボクを気安く名前で呼びやがって!!」
「あら? それも失礼いたしました。けれど、わたしは可南子さんの苗字を存じませんので」
「ボクは一之宮可南子だ――敬意を表して、一之宮様、と呼ぶことを許可してやる」
一之宮可南子は語気荒く言って、バキボキと拳を鳴らしている。鉄格子を挟んで凄んでくる様は、少しだけ滑稽に映った。
わたしは、絶対優位のマウントを取っている一之宮可南子に対して、あえて挑発的に振舞うことに決める。ここまでの問答から、一之宮可南子はプライドが高く、人を見下す性格に思えたからだ。
挑発すればするほど、冷静な判断を欠くだろう。感情的になり易い相手ほど、思考を御しやすいものである。
「それでは質問です、肉便器可南子さん――わたしの仕込刀はどちらにあるのでしょうか?」
「喧嘩、売ってるのか!? ボクは肉便器じゃないっ!! それにもう一度言うぞ!? ボクを気安く名前で呼ぶなっ!! ボクを名前で呼んで良いのは、唯一、副教主様だけだ!!」
「――それは失礼、肉便器可南子さん。それで? わたしの仕込刀はどこにありますか?」
ぶわっと、一之宮可南子の全身から湯気の如き殺意と覇気が放たれる。魔力視をするまでもなく、きっと凄まじい魔力を放っているのだろう。
わたしはそんな怒り心頭の一之宮可南子を鼻で笑いながら、小馬鹿にするような笑顔で首を傾げた。
「肉便器だから、短気なんでしょうか? 会話が成立しないと、わたし困ってしまいます」
「――肉便器なのは、貴様のことだろ、鳳仙綾女っ!! 貴様は今後、信者たちに股を開くだけの肉便器になるんだ!! 自ら好んで、誰とも知らない信者と交わって、快感に我を忘れて悦ぶ道具に!!」
「ねぇ、肉便器可南子さん、わたしの大事な仕込刀はどこでしょうか?」
一歩も譲らず、わたしは三度同じ質問を繰り返した。すると、怒りの臨界点を振り切ったのか、一之宮可南子は顔を強張らせたまま、ピタリと感情を凍らせる。
スゥ、と深呼吸をしてから一拍置いて、一之宮可南子はふたたびパイプ椅子に腰を下ろす。
「鳳仙綾女、貴様が必死なのは理解した。ボクと副教主様に対する不敬も、貴様のこれからを思えば少しだけ同情してやる――だから、冥途の土産に教えてやるよ。貴様の持ってきたあの強力な呪いの刀は、倉庫で大切に保管してる。魔法具でもないのに、破壊が出来なかったほどの危険な代物だからな。アレは超越者たる教主様に捧げる予定だ」
「――へぇ? 倉庫、ねぇ」
一之宮可南子は冷静さを取り戻したように、パイプ椅子で脚を組み、鉄格子の中のわたしに冷ややかな視線を向けてくる。籠の鳥であるわたしを前にして、絶対的優位なのはどちらか、それを再認識したらしい。
いまのわたしでは、万が一にも、鉄格子からは出られないと高を括っているのが分かった。
「ボクを挑発して、牢屋から逃げ出す隙を探ってたんだろ? 生憎だね。逃がすな、と副教主様には念押しされている。もう油断はしないよ」
「ふふふ――油断しない、ですか? それが、油断ですよ」
上から目線で脚を組みなおす一之宮可南子に、わたしは不敵な笑みを浮かべる。そして、牢屋じみた鉄格子の扉部分に右手を当てると、鍵がかかっていることを確認した。
見れば鍵穴には南京錠も施されており、複数の鍵を使用しないと開けられない構造だった。
捕らわれていた牢屋の中を見渡す。不衛生な簡易トイレが端に置かれて、薄汚い毛布が一枚転がっているだけだ。武器になりそうな物は何一つない。
「ところで、いま何時ですか?」
わたしは軽い口調で問い掛ける。
一之宮可南子は、律儀に腕時計に視線を落として、フッ、と鼻で笑いながら答えた。まったく度し難いほど致命的な油断である。
「午後十一時半だ。そろそろ騒がずに寝てくれると嬉しいが――っ!?」
「――【斬鉄】」
わたしがこの程度の牢屋を抜けられないと思っているのが、大きな勘違いである。先ほどの飛ぶ斬撃で警戒されるかと少しだけ心配したが、杞憂に終わって助かった。
カキン、と金属が割れたような音と共に、鉄格子の鍵穴付近はバラバラに崩れ落ちる。同時にわたしは入口を蹴り飛ばして、廊下に駆け出した。
「――馬鹿なッ!? この――くそっ!?」
「もう逃げられませんよ?」
わたしが鍵を切断した瞬間、一之宮可南子はパイプ椅子から立ち上がる。だがそれよりも早く、わたしはパイプ椅子を蹴り飛ばして、ついでに一之宮可南子の胸元に正拳突きをお見舞いした。咄嗟に両腕を交差させて十字受けする反射神経は見事だが、衝撃を殺し切れていない。
一之宮可南子は無様に吹っ飛んで、床を転がった。
わたしは素早く身構えて、エレベーター側の通路に立ち塞がる。
「魔力なんか、ほとんど纏ってない、のに――な、んなんだよ、この威力は!? 化物か!?」
悪態を吐きながら、一之宮可南子はすかさず起き上がった。けれど、その左腕は力なく垂れさがっている。見れば酷く腫れており、尺骨が折れているのが見て取れた。
油断の代償は左腕一本か。片腕となってしまったら、もうわたしに勝てる要素はないだろう。
「さて――それでは、肉便器……いえ、失礼。一之宮さん。わたしのリハビリに付き合って頂けないでしょうか?」
「――何が、リハビリだ……化物め」
わたしが不敵な笑みで構えると、一之宮可南子も左腕を下げた姿勢で構えを取った。それはまるでデトロイト・スタイルのボクサーのようだ。タンタン、と軽快なステップも刻み始める。
わたしは口元を綻ばせて、フッと脱力した。先手を譲るという意思表示だ。
「――信者たちには悪いが、鳳仙綾女。貴様は殺す」
わたしの余裕ある態度に、一之宮可南子は怒りを爆発させる。魔力視をすると、その全身からオレンジ色をした魔力が噴き出すのが分かった。
魔力量の多寡で強さが決まるのであれば、比べるべくもなくわたしが負けるだろう。しかし、そんな単純なことで強者は推し量れない。
「ハンデ戦……いわゆる制限プレイといきましょうか?」
わたしは修羅之位を発動せずに、薄い魔力を纏っただけで両手を広げる。その所作が、闘いの引き金となった。ちなみに制限プレイの条件は、外道之太刀を一切使用せず、魔力強化のみで肉体を使用することである。
「舐める、な!!」
一之宮可南子が裂帛の気合と共に砲弾の如く飛び込んでくる。オレンジ色の魔力がまさに巨大な火の玉を思わせた。
右拳を振りかぶり、全体重と勢いを乗せた渾身の一撃を繰り出してくる。
わたしはそれを眼前スレスレまで引き付けて、紙一重で躱す。同時に、見様見真似の合気道で、勢いと拳を受け流して、側面の壁に叩きつけた。
「――この程度でっ!!」
壁に身体をめり込ませつつも、一之宮可南子はわたしに拳を突き出してくる。鋭く重い右フックの一閃だが、それを右手の甲で丁寧にいなす。
「おぉおお――ッ」
獣じみた咆哮と、右手だけの怒涛のラッシュが繰り出された。それはまさしくマシンガンジャブ――息つく間もない無呼吸の連打だ。
わたしは嗤いながら、そのラッシュを左の掌で全て受け切った。
とはいえ、一撃一撃が凄まじく重い。少しでも威力を受け流すことに失敗すれば、きっと手の骨は砕け散るだろう。
「――――お、らぁ!」
ラッシュの次は、高速の三連脚だ。
一之宮可南子は空中を駆けるように、見事な旋回をしながら鎌のような蹴りを三連続に繰り出す。それを左手でいなし、右手で叩き、右足を蹴り上げて相殺させる。
トン、と着地した瞬間、わたしは回し蹴りを腹部にお見舞いした。けれどその蹴りは、力なく下げられた左手で防がれる。巧い使い方だ。
感心した瞬間、ふと、一之宮可南子の姿が掻き消える。虚を突いて死角に移動したようだ。
「――へぇ? やります、ね」
「化物め!!!」
わたしは空気の振動だけ頼りに、死角から飛んできた裏拳を防御する。魔力で強化しているにも関わらず、防御した右腕の骨は、一撃でヒビが入ったようだった。
咄嗟に、ステップバックして距離を取る。
この闘いはただの余興であり、前菜だ。ここで大怪我をするのはまだ早い――そう思ったのが、わたしの油断だったらしい。
「はぁああああ――――【魔弾の驟雨】ッ!!」
「っ!?」
一之宮可南子が中二病じみた台詞を叫ぶのと同時に、その全身から豪雨の具現みたいな無数の魔力弾が飛び出した。それはオレンジ色の魔力弾であり、まるで散弾銃のように辺り一面を蜂の巣にする。
怒涛の勢いと轟音が響き渡った。
床も壁も親指大の穴が穿たれて、当然ながら、すぐ傍に居たわたしの身体も被弾した。
叩きつけられる横雨の如き魔力弾に、わたしは顔を防御する。すかさず身体も丸めて、重要な臓器が傷付かないよう致命傷も避ける。全身をくまなく魔力で覆って肉体も硬化させた。
考えるまでもなく、この攻撃を躱し切ることは不可能だった。だから防御に全神経を集中させる。
それにしても――この想定外の攻撃を目の当たりにして、わたしは思わず自嘲した。
これじゃあ他人のことを馬鹿に出来ないではないか。
油断していないつもりだったが、魔術攻撃のことは完全に想定していなかった。これは大いに反省しなければならない。
今後は、もっと非常識な展開も覚悟しておくべきだろう。
「……まあ、幸い、それほど高威力ではないようですが……」
魔力弾が降り注いだ直後、わたしは愉しそうに呟いた。
散弾銃の如くバラまかれた魔力弾は、本物の銃弾と同程度か、若干弱いくらいの破壊力だった。一撃一撃が、コンクリートブロックを一枚貫通できるかどうかという程度の威力だ。
まあそれでも、当たり所が悪ければ即死してもおかしくはないだろうが、しっかり準備した状況であれば致命傷にはなり得ない。
実際、わたしの魔力で硬化した筋肉は貫けず、骨にも到達できずに弾かれており、制服と全身の表皮を切り裂いただけで終わってくれた。あちこち擦傷して血だらけになっているが、見た目の割にダメージはなく致命傷もない。
とはいえ、ほぼ全身が擦過傷ともなれば、失血死の危険性も出てくる。軽傷だと油断して吐き捨てることは出来ないだろう。
「――仕方ない。ボチボチ、終わらせましょうか?」
「チッ、この化物ぉ――ッ!!」
わたしが顔を上げて、丸めていた身体を開いた瞬間、一之宮可南子は憤怒の形相で懐に潜り込んで、超インファイトを仕掛けてきた。
わたしの顎を狙った右アッパー、それをスウェーして膝を胸元に喰らわす。
めげずに右肩でタックルをしてくるが、バックステップで受け流して、右肘で顎を揺らす。
一之宮可南子はよろけた姿勢のまま、強烈なハイキックと後ろ回し蹴りの二連脚を繰り出す。けれどそれを冷静に叩き落として、後ろ回し蹴りのタイミングにカウンターの裏拳を合わせた。
グラついて膝を突いたが、右手を床に当てて、そこを支点に鋭い足払いを放ってきた。
わたしはあえてその思惑に乗って、足払いを軽い跳躍で躱す。すると想定通りとばかりに、しなやかな体捌きで前回転して、落雷の如き踵落としを放ってきた。
甘んじてその踵落としは肩で受ける。わたしはドタン、と勢いよく床に這いつくばった。
その瞬間を待ち構えていたとばかりに、ダラリと下がっていた不能な左腕が鞭のようにしなって、わたしの顎に迫ってくる。
不能だと誤認識させていた左腕の不意打ち、見事な必殺だ――わたし以外が相手であれば。
「――――ガ、ッ!?」
果たして、崩れ落ちたのは一之宮可南子だった。
わたしは顎を狙った不意打ちの左を当然のように捌いて、カウンターの三日月蹴りで、屈んだ状態の一之宮可南子の顎を撃ち抜いた。
ゴキン、と嫌な音で骨が鳴り、綺麗に意識を刈り取っていた。
一之宮可南子はそのままパタリと顔面から床に突っ伏して、ビクビクと身体を痙攣させていた。それを見下ろしながら、ゆっくりと深呼吸して昂揚した気持ちを落ち着かせる。
「さて、とりあえず着替えさせてもらいますね」
わたしは気絶した一之宮可南子に合掌してから、容赦なくビジネススーツを脱がす。
幸いにして、胸周り以外はそれほど体格が違わなかったので、違和感なく着こなせた。ただし、ジャケットとシャツが少しだけだぶついた。
いっそ下着も脱がして頂戴しようかとも考えたが、明らかに高級で煽情的な黒いレースの上下を見て、その気は失せた。そもそも大きさが合わなすぎるので、論外でもある。
「まあ、魔王さんの肉便器ですから、変な病気持ちかも知れませんし……そんな女性の下着など、怖くて着れませんね」
負け惜しみじみた響きの台詞を吐いてから、思考を切り替えて精神を集中する。
「――天仙之位」
静かな宣言と同時に、わたしの思考は研ぎ澄まされた。
五感は鋭く鮮明になり、血管の伸縮や魔力の流れさえハッキリと掌握出来るようになる。わたし独りの世界を完全に支配する感覚――この集中の世界で、全精力を止血に費やした。
全身にある無数の傷口に魔力を留めた。並行して、循環器系に魔力を止めどなく巡らせる。
自然治癒力が爆発的に向上するのを自覚しながら、わたしは更に、不慣れな内功も駆使して、身体の治癒に専念した。
「魔力という概念が追加されただけで、ここまで領域が広がって視える……まさに感動です」
わたしはしみじみと呟きながら、全身が凄まじい速度で代謝を繰り返すのを認識した。
天仙之位――自らの肉体を完全掌握することで、肉体性能、気力を100%活用することが出来る外道之太刀の奥義の一つだ。凄まじい体力を消耗する割に、肉体性能の限界までしか能力を絞り出せない奥義であることから、わたしは好んで使用していなかった。修羅之位のように、肉体性能の限界を超えて活動出来る奥義の方が、圧倒的に有用と思っていたのだ。
ところが、魔力という概念を修得した今であれば、この奥義がどれほど有用か理解出来た。天仙之位であれば、わたしが保有する魔力についても100%操作出来るからだ。
魔力を充実させることで、わたしの肉体は強度だけでなく、あらゆる性能が向上する。加えて、内功の助けも借りることで自然治癒力を高めて、常人よりはるかに強力な回復力を得ることに成功している。
極めつけは、肉体性能の限界まで新陳代謝を活性化することで、疑似的に龍ヶ崎十八の【治癒】と同じことが出来るようにもなっている。
「……ふぅ、はぁ……代償に、体力の消耗が、激しいのが、難点ですけどね……」
ひとところに留まって、回復に専念しなければならないのが厄介だが、余裕と時間さえあれば、非常に有用な奥義だった。このおかげで、軽い擦過傷はものの数秒で全てカサブタに変わっており、もう傷口はほとんど治っていた。出血もとっくに止まっている。
わたしは天仙之位を解いて、さて、とエレベーターとは逆の通路奥に顔を向ける。
見渡す限り、通路奥は行き止まりのようだ。
となると、移動手段はエレベーターだけだろうか――首を傾げながら、とりあえず制服に着替えさせた一之宮可南子を近くの牢屋に放り込んだ。




