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外道に生きるモノ  作者: 神無月夕
第三章/七夕祭に誘われて

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第二夜(1)

 虎尾秋姫に完膚なきまでの完敗を喫してから、丸三日が経っていた。

 日付は、七月七日の金曜日――世間一般で言うところの七夕である。ちなみに、わたしが意識を取り戻したのは、つい昨日。

 虎尾秋姫に敗れた翌々日の深夜だったので、体感としては、一日しか経っていないわけだが――現実として、平成の切り裂きジャックとの激闘から数えて、都合三日間、学校を無断欠席している計算になる。


 わたしは取り敢えず、慣れない病院のベッドから起き上がり、寝すぎて鈍った身体に活を入れた。


「…………体調は、三割、と言ったところですね」


 本調子とは程遠い具合に眉を顰めつつ、それもまた致し方ない、と気持ちを切り替えた。

 むしろ、即死してもおかしくないほどの致命傷を負ったにも関わらず、僅か数日でここまで回復したことは奇跡以外の何物でもない。

 それもこれも、傍らの椅子で腕を組んで、死んだように寝ている龍ヶ崎十八の介護のおかげに他ならないだろう。

 わたしは龍ヶ崎十八の頬を優しく撫でてから、彼の重要度をいっそう強く意識する。


「右腕に違和感は一切ありませんし、内臓も痛む程度で、破裂はもう治っています。この痛み加減だと、骨はヒビがある程度で、骨折は治っているようですね。視力はむしろクリア。本当に、十八くんは素晴らしい異能をお持ちですね――ありがとうございます」


 わたしは眩しいものを見詰めるように目を細めて、心の底からの感謝を口にする。

 龍ヶ崎十八が居なければ、疾うの昔に死んでいただろうし、運良く一命を取り留めていたとして、五体満足には居られなかった。

 それは、当たり前と言えば当たり前のことだ。だからこそ、いまのわたしがこうして生きている奇跡は、龍ヶ崎十八のおかげでしかない。


「……わたしが最強を手にした後には、相応の恩返しをしなければなりませんね」

「――んんぅ?」


 わたしが頬を撫でていると、龍ヶ崎十八がむず痒い顔をして身動ぎする。しかし、疲れが溜まっているのだろう。眠りは深いようで、起き上がることはなかった。


「さて――いつまでも、十八くんを愛でていないで、そろそろ自宅に戻って学校に行かないと……十八くんが起きたら、きっと叱られるでしょうし、引き留められるに決まってますからね」


 わたしは軋む身体を押して、清潔な病院着を脱ぎ捨てると、クローゼットに入っていた医師用の白衣に着替えた。

 正直、下着も着替えたいが、ここには替えの下着は入っていなかった。


「まぁ、これならそこまで目立たないでしょうね……」


 わたしは自らの服装を見下ろして、うむ、と一人納得する。

 さて、あとはここから出るだけ――と、唯一の出入り口である扉に体を向けた時、鋭い殺気が体を貫いた。

 思わず身震いするほど上質な殺意。知らず身体に熱が入りそうになる。

 この場にいるのは、わたしと龍ヶ崎十八だけだ。となれば必然、それが誰から発せられた殺気かは知れた。


「……起きて、いたのですか?」

「今、起きたんだよ――綾女さん、俺さ、絶対安静にしてて、ってお願いしたよね? なのに、着替えてどこに行く気?」


 鋭く棘のある台詞に対して、わたしは愉しげに微笑みながらゆっくりと振り返る。

 振り返った先には、椅子に座って腕を組んでいる姿勢は変わらず、まるで仇を前にして怒り狂っていると思えるくらいの形相をした龍ヶ崎十八が居た。寝起きで睡眠不十分だからか、血走った目がいっそうその怒り具合を演出している。


「…………着替えを覗き見るのは、あまり良い趣味とは言えませんよ?」


 わたしはその威圧に少しだけ気圧されながらも、笑みは崩さず場の空気を茶化してみた。

 途端、心当たりに気付いた龍ヶ崎十八は、顔を真っ赤にしながら、慌てて否定する。


「――あ、ち、違う。俺、見るつもりは……じゃなくて、見てない。見てないよ!?」

「ああ、それは別に構わないですよ? 他ならぬ十八くんですし、そもそもわたしの裸など何度も見ているのでしょう?」

「な、ご、誤解だよ! 俺はそんなつもりで――」


 必死に弁明する龍ヶ崎十八に、わたしは鎌首をもたげていた戦意を萎ませる。慌てる龍ヶ崎十八の様子は可愛らしい。

 さて、と。わたしは、場の空気を良い具合にぐちゃぐちゃにして、空気が緩んだのを見計らい、真面目な会話に戻す。


「――本当のところ、いつから気付いていたのでしょうか? わたしは気配を完全に消していたつもりでしたが……」

「あ……ああ。えと、起きたのは……本当に、綾女さんが服を着替え終わった後だよ。入り口の扉に意識を向けただろ? 実はあの扉には、ちょっとした魔術が施されててさ。何者かの意識、視線が向けられると、術者である俺に警告が届く仕様なんだよ」


 龍ヶ崎十八はポリポリと頬を掻きながら、こともなげにそんな異常を呟いた。

 なるほど、納得はできるが、理解はできない話だ。そんな不可思議なことが出来るとは、魔術とはどれほど万能なのか。


「一応、術式を説明すると、扉には不可視の魔法陣が施されてて、その魔法陣は、人の意識とか、視線とか、関心を受容すると、繋がった術者に電気信号を送るんだ。まぁ、イメージとしては、視線検出センサーが搭載された監視カメラ、みたいなもんかな? 誰かが視線を向けると、視線に反応する技術さ。さして難しい技術じゃないよ」

「……なるほど。イメージとして、監視カメラというのはとても分かり易いですね。けれど、いっそう驚きです。視線検出センサーとは、さすが魔術、でしょうか?」

「んー、魔術だからって訳じゃないけどね。視線検出くらいなら、最新のテクノロジーでも代用できてるし……ま、でも、さすが魔術ってのは、そうかもね。不可視の魔法陣――つまり発見されにくい技術でもって視線検出できるのは、現代社会のテクノロジーじゃ再現できないかな」


 龍ヶ崎十八はそんな自慢じみた台詞を吐きながら、さりげなく扉に回り込んで、わたしの往く手を阻むように立ち塞がる。

 わたしは身構えず自然体のまま龍ヶ崎十八と対峙して、ふぅ、とこれ見よがしに疲れた風な溜息を吐いた。龍ヶ崎十八の態度から、わたしをこの病室から出すつもりがない意思が窺える。


「十八くん。わたし、そろそろ学校に行きたいのですけれど、退いて下さいませんか?」

「――何度でも言うよ? 綾女さんはまだ身体のあちこちが治ってないんだ。少なくとも、あと一週間はここで安静にしていてくれないと困る」


 龍ヶ崎十八は言いながら、逆らうなら実力行使するぞ、と無言のまま闘気を漲らせる。わたしとしては、龍ヶ崎十八と闘り合うのは吝かではない。しかし、いまここで闘り合っても結果は明白だし、何よりも無粋に過ぎるだろう。

 わたしはこれ見よがしの溜息を吐いてから、説得するように言葉を紡ぐ。


「十八くんのおかげで、わたし、日常生活程度なら問題なく対応できますよ? 心配してくださるのはとても嬉しいのですけれど、学校くらいは行かせてもらえませんでしょうか?」

「駄目だ。綾女さんはもう少し、命を狙われた自覚を持つべきだ――いま学校に行ったら、確実にまた襲われるだろう。そしたら、今度こそ死んじゃうかも知れない」

「……それは、ただのリスク――可能性の問題でしょう? 狙われる可能性は、確かに零ではないと思いますけど、確実、は言い過ぎです」

「いいや、確実だよ。だって、為我井優華さんは連中に見張られているはずだからね――綾女さんは、学校に登校したら、確実に為我井さんと接触するだろ? そしたら絶対に襲撃されるに決まってる」


 龍ヶ崎十八は荒い呼吸でそんなことをまくしたてる。

 なるほど、その意見は至極もっともだ。為我井優華が登校していれば、わたしは彼女と必ず接触することになるだろう。そもそも、学校に登校する目的の一つに、為我井優華の体調を確認することがある。

 とはいえ、襲われるのが分かっていても、その程度は登校しない理由にはならない。リスクを受け入れずに、最強の道を志すことは出来ない。

 何よりも、身体が動かないわけでもないのに、病室に閉じ籠って隠れているのは性に合わない。


「そこまで分かっているのなら、逆に問いますけれど、どうして優華さんを保護してはくれないのでしょうか? もしくは、優華さんの動向を見張っているという敵を排除しないのでしょうか?」

「………………」


 わたしは探るような視線を龍ヶ崎十八に向ける。

 龍ヶ崎十八は一見すると、無傷で万全な状態に見える。けれど、目敏くその立ち居振る舞いを眺めると、既に体力が底を尽いているのが見て取れる。ただ立っているだけで呼吸が乱れているし、そもそも目の焦点が合っていない。

 恐らくは、わたしを癒す為にかなりの無茶をしているのだろう。流石に、万能と思える癒しの異能も、何の代償もなしには行使出来ないらしい。

 だが、そんな満身創痍であっても、これほど強烈な闘気を放っている。しかもそれは、わたしの為を想っての本気である。己の命を賭して、わたしを危険に遭わせないように、往く手を阻んでいるのだ。

 わたしはその気概に感動すると共に、心の底から嬉しくなった。最強を志す道程で、龍ヶ崎十八という存在に出逢えたのは、まさに運命だろう。

 龍ヶ崎十八の命懸けの優しさが伝わり、思わず胸が高鳴るほど愛おしさが溢れた。


「……まぁ、だからと言って、引き下がる理由はありませんけれど」


 とはいえ、そんな感情一つで一度決めたことを覆す気にはならない。わたしは、ボソリと独り言を呟きながら、一歩、龍ヶ崎十八に歩み寄った。

 龍ヶ崎十八には申し訳ないが、彼が何を言っても、何をやっても、わたしは既に、学校に向かうことを決めている。それを阻みたいというのならば、もう殺し合うしかあるまい。互いの主張がぶつかり合った時、解決する術などそれ以外にないだろう。

 けれども、わたしは龍ヶ崎十八を殺したくないし、もしも殺し合うなら、彼とは万全の状態で殺り合いたい。


「ねぇ、十八くん、答えてください。どうして、優華さんを保護してくれないのでしょうか? もしくは敵を排除してくれないのでしょうか?」

「……保護しないんじゃなくて、出来ないんだ。護国鎮守府が、為我井さんに接触した場合、彼女が俺らの関係者だと疑われる。そうなれば必然、為我井さん自身も狙われるだろう。だから、見張られてる程度なら、俺らは関わらない方が彼女は安全なんだ。だから表立って監視役も配置出来ないし、見護ることさえ出来ない。綾女さんを狙っている敵が、いったい何者で、どれほどの規模なのか……少なくともそれがハッキリするまで、俺らと為我井さんは、無関係だと思わせないと――」

「――無関係を装っても、優華さんが狙われない確証はありませんよね? という事は、わたしが姿を見せなければ、必然、わたしの手掛かりである優華さんがまた狙われるのではないですか?」


 龍ヶ崎十八の説明に、わたしは突き放すような口調で問い詰める。龍ヶ崎十八が何を言いたいかは理解できるし、その判断も納得できる。しかし、それを了承することはできなかった。


「……た、確かに、狙われないってのは、希望的観測でしかないかも知れない――けど、保護出来ない代わりに、綾女さんの学校を監視している。だから、最悪、為我井さんが狙われても、それを察知して動き出すことは出来――」

「――わざわざ後手に回る意味が分かりません。それならば、こちらから打って出るべきでしょう? 優華さんが怪我でもしたら、誰がどう責任を取るつもりですか?」

「…………もしまた危険な目に遭ったら、俺が絶対に救い出す」

「そういう問題ではありません。事件が起きてからしか対処出来ない点を、わたしは危惧しています。どちらにしろ、狙われる危険性があるならば、わたしという標的を狙わせて、誘き出した方が一網打尽に出来るのではないでしょうか?」

「綾女さんが、絶対安静じゃなければ、それは認めるよ。けど、今は駄目だ。とても戦闘が出来る体調じゃないだろ? いまだって、かろうじて立っているだけで、本調子の何割も、実力が出せないはずだ」


 あえて論点をずらして話していたのに、龍ヶ崎十八は本筋に話を戻しつつ、わたしの体調を心配する台詞を吐く。

 わたしは、はぁ、とこれ見よがしに溜息を漏らして、そうですね、と頷いた。


「ええ、仰る通り、恐らく三割程度しか動けないのではないでしょうか? それでも、今の十八くんほど疲弊はしていませんよ? だから、もう諦めて、わたしを行かせてくれませんか?」

「――俺を侮るなよ? 確かに、疲弊してるけど、それでも綾女さんを止められないほどじゃない!」


 わたしが一歩近づいた時、龍ヶ崎十八がいっそう強烈な闘気を放って、腹の底から響かせるような低くドスの利いた声で言った。なるほど、確かに侮れない闘気である。

 けれど、わたしはその闘気を正面から浴びつつ、仕方ない、と呟き笑顔を浮かべる。


「わたし、十八くんと知り合って日が浅いですけど、十八くんがとても優しいことを知っています。だからこそ、わたしを止めることは不可能です」

「綾女さん。何が狙いで俺を挑発してるか知らないけど――――え!? 何を!?」


 わたしの満面の笑みを前に、龍ヶ崎十八は意図を掴みかねて冷静に返す。しかし次の瞬間、放っていた闘気を一瞬で萎えさせて、顔面を蒼白にさせると駆け寄ってくる。


「…………グッ、ぁ――ッ!?」


 必死に堪えたが、わたしの口から大量の血と苦悶の声が漏れた。流石に、自らの腹部を切り裂くのは、想像以上に激痛だったのだ。


「ば、馬鹿――ッ!!! 何してんだっ!? 自分で脇を抉るなんて――この出血じゃ、命の危険が――」

「……がっ、ハッ……ぁぅ……ええ、そうです、よ? だから……わたしを、生かすには……今すぐ、十八くんが……治癒を、施さない、と……マズイ、でしょうね?」


 白衣を血で染めながら倒れ伏したわたしを優しく抱える龍ヶ崎十八に、そんな台詞を吐きながら、どうですか、と柔らかく微笑んだ。

 息も絶え絶えのわたしの台詞を聞いて、龍ヶ崎十八は信じられないモノを見るように眼を見開いて、顔面を紅潮させていた。怒りに任せて怒鳴り散らしたい気持ちを必死に抑えている様子が見て取れて、その葛藤にいっそうわたしは微笑んだ。

 わたしは必死に意識を繋ぎ止めつつ、急速に冷たくなる身体を意識する。

 自ら抉り取った脇腹は、本調子であれば致命傷にはならない程度の大怪我だ。けれど、体力が低下した今では、充分に致命傷になり得るだろう。しかも、あえて出血が酷くなるように抉っている為、このペースで出血し続ければ、恐らく数分から十数分で失血死するに違いない。

 だからこそ、わたしを助ける為には、龍ヶ崎十八はなけなしの体力と、自らの血液を使って、治癒と同時に輸血を施さなければならない。


「…………わたしを……止める、なら……このまま……放置、すれば、宜しいでしょうね……そうすれば……嫌でも、学校には……行けませ――」

「――クソッ!!! もう喋るなっ!! ここまで狂ってるなんて、思ってなかった!! 死んでも治すから、もう黙っててくれっ!!」

「……ふふ……十八くんに、死なれたら……わたしは、悲しい……ですよ?」

「なら、二度とこんな真似するなよッ!!!」


 龍ヶ崎十八が必死に抑えた声で叱りながら、わたしの身体を優しく撫でる。ふと見れば、硬く握られた拳からは血が滴っている。

 わたしは、龍ヶ崎十八の癒しに安堵しながらも、失いそうになる意識を繋ぎ止める為に、舌を噛み切るギリギリの強さで噛んで堪えた。ここで気絶してしまったら、それこそ計画倒れだ。


「……十八くん……わたしを、治してくれた御礼に……今度……デートしましょうか?」

「黙れっての!! クソ――ッ、何とか傷は塞いだけど……失血が……血が、ギリギリだ……」


 龍ヶ崎十八の必死の治癒のおかげか、わずか数分で、気付けば腹部の穴は塞がっていた。血に塗れた右手で撫でて、傷一つなくなっているのを確認出来た。流石、龍ヶ崎十八である。

 だが、徐々に冷たくなる体温は一向に好転しない。どうやら少しだけ深く抉り過ぎたのか、想定よりも失血量が多くなっているらしい。龍ヶ崎十八が顔面蒼白になりながらも、自らの血をわたしに浴びせ続けている。

 龍ヶ崎十八の治癒においての輸血は、一般的な輸血と同じで、与えた分量と同じだけ自らの血液を消費する。つまり、わたしが失った分の血液と同量の血液を、龍ヶ崎十八は支払っている。


「――ッ、グッ、ゥ……畜生……なんとしてでも……足らせる……」


 つい先ほどのわたしよりもか細い声で、龍ヶ崎十八が呟いていた。気絶寸前の様子だ。

 わたしは静かに深く呼吸をして、脳内のリミッターを外した。同時に、肉体の限界を超える技、外道之太刀【修羅之位(シュラノクライ)】を使用して、身体を活性化させる。


「――ありがとうございます、十八くん。もう充分です。おやすみなさい」

「ッ!? え、な、まさか……ガァ――ッ!?」


 龍ヶ崎十八の意識が胡乱になった隙を突いて、わたしは身体を起こした。そして、先ほどのわたし以上に死に体の龍ヶ崎十八に当身を見舞う。

 隙を突いたその一撃は、龍ヶ崎十八の意識を綺麗に刈り取った。白目を剥いて、仰向けに寝転がる。


「ふぅ――ちょっとだけ血が足りないのか、貧血気味ですけれど、この程度なら許容範囲です。命懸けでわたしを癒してくれて、本当に感謝しかありません。ありがとうございます、十八くん」


 わたしは確信犯じみた笑みを浮かべて、白目を剥いた龍ヶ崎十八に感謝を述べる。ついでに、外国のスキンシップ程度だが、頬にキスの御礼もしておいた。

 意識がないのは理解していたが、それでも少しだけ恥ずかしかった。


 わたしは気絶している龍ヶ崎十八をベッドに寝かせてから、さて、と一呼吸吐いて、計画通りに邪魔者が居なくなった室内を出て行った。

 血塗れの白衣が少しだけ不愉快だったが、もう替えの服がないのでそこは我慢するしかない。


「……病院から脱出するまでは気が抜けません。最悪、九鬼さんレベルの方が現れたら、それこそ詰みですし」


 わたしは堂々と廊下を歩きながら、注意深く意識を張り巡らせた。幸いにも、周囲にはひと気はなく、見渡す限り監視カメラの類も設置されていなかった。


「……この八階が特別な病棟とはいえ、少しだけ不用心ではないのでしょうか?」


 院長クラスでしか立ち入れないセキュリティとはいえ、逆に侵入さえ出来れば、誰にも気付かれずに荒し放題ではないか、とわたしは要らぬ心配をしてしまう。

 とはいえ、周囲はひたすら誰も居ない大部屋しかなかったので、そういう意味では問題ないのかも知れない。

 わたしは八階フロアをグルリと回り、ようやく下階に繋がるエレベーターを発見する。


「なるほど……まぁ、よく考えればそうですね……」


 しかし、エレベーターはボタンを押してもうんともすんとも言わず、全く動く気配がない。恐らくはエレベーターの中にあるタッチパネルに、セキュリティカードをかざさないと稼働しないようだ。

 セキュリティがしっかりしていることを事前に把握していたにも関わらず、セキュリティカード類を失念するとは、思考が思ったよりも鈍っている。


「――とはいえ、馬鹿正直に十八くんからカードを奪って、エレベーターを使用するのは、それこそ危険でしょうね」


 龍ヶ崎十八は当分目覚めないだろう。だから、今から病室に戻ってカードを奪ってくる時間くらいは余裕である。だが、エレベーター以外にセキュリティらしきセキュリティがなかったことを考えると、そもそもエレベーターを使用した瞬間に、何らかのセキュリティが作動する可能性もある。

 それでなくとも冷静に考えれば、エレベーターで下階に移動した時点で、わたしの姿を目撃されるに決まっているし、運よく見付からなかったとしても、この閉鎖病棟の出入口を突破する術がない。どうやれば開けることが出来るのか、わたしは知り得ない。

 結論、エレベーターを普通に利用すること自体が悪手だろう。


「非常階段どころか、換気の窓さえないとは思いませんでした……まぁ、牢獄として見れば、とてもしっかりしたセキュリティですけれど」


 わたしはそんな嫌味を独り呟いて、エレベーター内を見渡す。

 小さなタッチパネルと階数ボタン、階数表示のディスプレイ以外に、特徴的なものは何もない。監視カメラの類も見当たらないが、煙感知器は設置されている。

 ふむ、とわたしはエレベーターを出たり入ったりしてから、ギュッと拳を握り締めた。

 体調の具合は、二割強か――思ったよりも消耗していない。これならば、一度か二度くらいは多少の無茶が出来るだろう。

 わたしはグッと腰を落としてから、右手で手刀を構えたまま天井を見上げる。


「――無刀之型【斬鉄(ザンテツ)】」


 気合の言葉を吐くと同時に、足裏に力を入れて爆発するように飛び上がった。そして、天井にある通気口部分を四角く斬り付ける。

 ガキン――と、手応えのある金属音が響き、天井の一部が落下してエレベーター内に転がった。それにぶつからないよう空中で避けて、猫のように着地する。

 とりあえず脱出口がどこに設置されているのか分からなかったので、直感で非常灯のすぐ横を、人独り分通れるだけの大きさで斬り付けてみたが、それは見事に正解だったらしい。見上げれば、エレベーターシャフトに通じる出入口が出来ていた。


「よ、っと――へぇ? 本当に、こんな風になっているんですね」


 わたしは再び飛び上がり、エレベーターシャフト内に躍り出る。

 そこは無骨な鉄骨と壁に囲まれた薄暗い空間で、強靭なメインロープが中央に一本あり、足元のエレベーターを吊っていた。

 エレベーターと壁の間には1メートルほどの隙間が開いていたが、そこはエレベーターを昇降させているつり合いおもりが通る幅のようで、それほど体格が大きくないわたしでも、ここから降りるのは危険に感じた。万が一、ここで挟まれてしまっては、流石にスプラッターなことになるだろう。そもそもタラップがエレベーターの扉側に設置されているので、エレベーターの箱を通り過ぎて、安全に階下に行くことは出来ない。

 まあ、とはいえ別にわたしは、シャフト内から下に降りるつもりは毛頭なかった。


 わたしは上を見上げる。すると案の定、目算で一階分の高さのところに、エレベーターの出入口である扉が見えており、天井はその更に上にあった。


「あの扉から、屋上のへリポートに出れますね……」


 わたしは安堵の吐息を漏らしながら、噂通りで良かった、と小さく呟く。

 隔離病棟の屋上にあると噂されていた特権階級の入院患者しか利用できないへリポート、それが実在していたのだ。これで、バレずに脱出することが容易になった。

 わたしはタラップに手を掛けて、踏み外さないよう慎重に上る。一階分進んでから、目的の扉を掴んでグッと力を入れる。

 屋上の扉は、壊すまでもなく簡単に開いた。


「――風が、強いですね」


 わたしは片側だけ開いて、屋上に飛び出る。高さがあるからか、思ったよりも強風が吹き荒れていた。


「ヘリポートであることは間違いないようですが、何もありませんね」


 屋上は確かにヘリポートになっていたが、乗り物は何もなかった。あるのは、小さめの貯水タンクに、非常用発電機、エレベーターとその制御室だけである。

 わたしは強風に煽られながらもしっかりとした足取りで、脛までしかない転落防止の手すりに近寄る。

 スッと身体を乗り出して見下ろせば、真下には立体駐車場の屋上が見えていた。立体駐車場の屋上は、確か五階だったと記憶している。

 高さにして三階分だが、目測ではおよそ9メートル強はあるように見える。


「…………まぁ、この程度なら、今のわたしでも余裕ですね」


 チラと周囲を見渡して、地上の見える範囲内に、わたしを注視している存在はいなかった。目撃されていると厄介だな、と思いつつ、わたしは何の躊躇もなくそこから飛び降りる。

 端から見れば、投身自殺にしか思えない光景だ。自由落下で頭から落ちて、そのまま受け身も取らずに立体駐車場の屋上を目指す。

 血塗れの白衣が落下の風ではためいて、落下中の姿は、人が落ちているというよりも、汚れたシーツが落ちてきたみたいな光景に見えただろう。


 さて、そんなことを考えるのも束の間、一秒と少しという短い時間で、もう立体駐車場に到達した。


「ふぅ――っ、と」


 わたしは激突する瞬間、まさに猫が落下時に態勢を整えるようにクルリと回り、重力を感じさせない動きで両手両足の四足でもって着地する。直後、屋上を転がって、勢いを完全に殺す。

 ダン、と凄まじい音が響いて立体駐車場の屋上が人型にへこんだが、衝撃は逃がすことに成功した。


「……誰にも見られず、着地出来たようで、ついてます」


 わたしはゴロゴロと転がったが、すぐさま何事もなかったように立ち上がった。同時に、サッと辺りを見渡して、目撃者が誰も居ないことを確認する。

 よし、と小さくガッツポーズをしてから、素早く立体駐車場の中に駆け込んだ。

 ここまで来たら、後は簡単である。立体駐車場から出れば、徒歩五分ほどで駅があるし、駅からはわたしの家の近くまで行くバスも出ている。一時間以上掛かるが、走って帰ることも出来る。

 流石に血染めの白衣で学校に登校する訳には行かないので、一旦、自宅に帰って制服に着替えなければならない。


「そうなると、まずは着替えを確保しなければ――――おや、丁度良いですね」


 わたしは誰にも見られないよう身を隠しながら、立体駐車場にある車の車内を一つ一つ盗み見る。すると、困ったわたしの為に用意してくれたとしか思えない衣料品を満載したワゴンが見つかった。

 わたしはその場で足を止めて、ワゴンの扉を開けようと試みた。当然、鍵が掛かっている。しかし、わたしの前に鍵など無意味だ。全く悪びれもせず、手刀でワゴンの扉をぶっ壊して、積まれた衣料品を勝手に拝借した。

 少しだけだぶつくが、パーカーと短パン、野球帽を着て、一見しただけではわたしと分からないよう変装する。これで追手が現れても、そう簡単には見付からないだろう。ついでに現金一万円も見つかったので、有難く頂戴した。

 けれどこれは窃盗ではない――見付からなければ、犯罪ではないのだ。


 わたしはそうして、立体駐車場を出てタクシーを捕まえると、自宅の最寄り駅まで送ってもらった。

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