106[器楽の音楽]
106
[器楽の音楽]
1304年新年―――、アルトワ伯国アラス。
聖堂には聖歌隊の声が厳かに響き渡っていました。
―――主よ、憐れみ給え……
キリストよ、憐れみ給え……
主よ、憐れみ給え……
祈りを捧げる中心人物、それは、アルトワ女伯マオ・ダルトワ(1269-)でした。
「父上……。」
司教による戦没者への言葉と共に、少年合唱隊が旋律を重ねていきます。
伝統的で美しく整った響きが続きます。
しかし一部の声部が他の声部よりも一呼吸早く唄い出します。
この手法で声部の重なり方にズレが生まれ、少しずつ声量が増えていく神秘的な効果を齎します。
この手法によって独特の拍感が生まれていました。
一拍手前で唄い出すアウフタクトを取り入れていたのです。
また、不意に短い休符を入れる事で細かな拍感を作り、新しいリズム感を作りだしていました。
言葉の節に抑揚を付ける事が要であった聖歌。
謂わば言葉に支配されていた歌に、リズム感を加える風潮が動き出していました。
“うん、我ながら良い出来だ……!”
少年合唱隊の中、一際年長者であるフィリップは、聴衆が感動する表情に実感を覚えていました。
少年フィリップは、新しい可能性に期待しながら唄い続けていました―――……
―――……‥‥・・・
ミサが終わると、マオ・ダルトワは壇上に上がりました。
「私はこの数年で多くの大切な人を失いました。
弟フィリップ・ダルトワ(1269-1298)、
そして父ロベール2世(1252-1302)を相次いで失くし、
更に去年は夫ブルゴーニュ伯オトン4世(1279-1303)までも失いました。
皆はフランドル伯領の暴徒を鎮めんが為に出陣し命を落としたのです…!
フランドルの反乱軍はさらに我がアルトワ伯領の領土までも侵し始めています!!」
――許せぬぞ!!――
――早く復讐を!!――
――奴らに痛い目を見せてやろうぞ!!――
演説を聴いている貴族の殆どは憤りの声を上げていました。
「諸君!力を合わせて戦いましょう!!
私達の領土を取り返しましょう!
国王陛下は軍を準備してくれています!!
陛下と共に戦いましょう!!私達の領土を取り戻す為に!!」
――マオ様万歳!!!――
――マオ様と国王陛下に万歳!!――
――戦いましょう!!マオ様!!――
――国王陛下と共に!!!―――
貴族達はマオ・ダルトワと国王フィリップ4世を讃えました。
「さあ、貴方達も。」
マオは、亡きオトン4世との子供達、
ジャンヌ2世・ド・コンテ・ド・ブルゴーニュ(1291-)、
ブランシュ・ド・コンテ・ド・ブルゴーニュ(1296-)
長男ロベール(1300-)を抱きしめました。
マオと国王を讃える声は暫くの間続いていました。
……―――ちっ………!
しかしその陰で、別の怒りを覚えている青年がいました。
それは、ロベール・ダルトワ(1287-)。
「くそっ……、なぜ伯母が出しゃばるんだよ……!!」
「殿下……、事を急いてなりません……。」
「急くも何も無いだろう?!
このままでは領土と財産は伯母の物になっちまう……!
フランス王国は男系優先だろ?!
祖父が亡くなったなら、
男系直系の孫である俺が相続するのが筋じゃないか……!!」
「フランス王国家臣ではあっても、
このアルトワの土地は古来より長子を優先させています。
故に、お父君の姉であるマオ様を相続者に、
と、多くのアルトワ貴族が承認しています。」
「ぐっ!!それはもう何度も聞いた!!
だがアルトワは既にフランス王国内だ!
ならば男系優先となるべきでは無いのか!?
くそっ……、必ず俺が伯爵位を取り戻してやる………!」
フィリップ・ダルトワの長男ロベール・ダルトワとその支援者だけは、
この場に似つかわしくない態度をとっていました。
会場では、いまだフランス国王を讃える声が響いていました。
―――……‥‥・・・
―――……‥‥・・・
フランス王国首都パリ。
パリの年末年始は、問題がひと段落して落ち着きを取り戻していました。
「おめでとうございます、陛下。
祝いの品が続々と持ち運ばれて来ています。
多くの者が臣従礼をしに詣でているのです。
これは王権強化が順調に進んでいる証拠です。」
王弟ヴァロワ伯シャルル(1270-)が言うと、
国王フィリップ4世(1268-)はそれらを眺めて、頷きました。
「各地の豪族が各々の権力と法で税収を得ており、
封主である国王はその細部までを知る事が出来ない。
そのような状況では豪族が跋扈し国として一つにまとまる事が出来ない。
これを打開すべく、
各公伯爵が持つ権利を全て国王に集中させる事でその全容を掴み、
国内の全ての政務を王家が統括するようにする。」
「国内の権力を全て国王に集中させるという事ですね。」
「ですが、陛下。
これまでの数々の戦争で財政は悪化したままです。
特に、コルトレイクでの戦敗でアルトワ伯らを失った事は非常に痛手となり、
被害額は相当なものとなりました。
パリとプロヴァンスを繋ぐ為のブルゴーニュ伯領の教会整備は良き策ですが、
その収入が見込めるのはまだまだ先の話。
何か別の手を考えないといけません。」
先王フィリップ3世の弟、
クレルモン伯ロベール・ド・クレルモン(1256-)が腕を組み唸りました。
「クレルモン殿。ご心配なさらずとも、手は打ってあります。」
「ふむ?」
「新しい教皇庁も、今のところ陛下との敵対を避けようとしています。
破門が解かれた事によって国内庶司教も何不自由無く陛下の命に従う事が出来ます。」
「とは言ってもだな……。」
「ノガレ殿が新たな策を考えています。」
「ギョーム・ド・ノガレ……、か……、、うぬぬ。」
クレルモン伯は不安げな表情を浮かべていました。
フランス国王フィリップ4世とローマ教皇ボニファティウス8世の対立。
発端としては、フランス王国の財政対策として、
国内の聖職者に対しても平民と同じような税金を課す、教会課税を実施した事にありました。
ボニファティウス8世はこれを非難していましたが、ローマ教皇庁としては、
フランスと完全に敵対する事は、フランス王国から上がる税収を完全に失う事になる為、
それを避けるべく徹底的な対立をしてきていませんでした。
と言うのも、世界的に見れば教皇庁の権威も忘れ去られようとしており、
教皇庁も財政難に陥っていたからでした。
その主たる原因は、
貨幣経済の発達によってミラノ、ジェノヴァ、フィレンツェ、ヴェネツィアなどの商業国家や
テンプル騎士団などの組織による資本制が発達し、
教会の存在よりも経済社会が重要視されるようになって来た事などが挙げられます。
ボニファティウス8世は財政対策に、
世俗界の凡ゆる対立を利用して金策を講じていました。
そしてその一つとして、フィレンツェの反教皇派の討伐にヴァロワ伯シャルルが利用されました。
このような事が重なり、次第にフランス王国とローマ教皇庁の対立が深まっていく中で、
1301年、フランス王国は教会課税を激しく非難したパミエ司教ベルナール・セッセを逮捕しました。
ボニファティウス8世はこれに対し、
世俗君主が聖職者を裁判にかける事は赦されていないとしてフィリップ4世を破門にしてしまいます。
無論、フランス王国内の多くの聖職者は徴税されながらもその恩恵を受けており、ローマ教皇庁を非難。
これが決定的な対立となり、
1302年末、ボニファティウス8世は、
全ての世俗君主も教皇命には絶対服従しなければならない
という『教皇勅書「ウナム・サンクタム」』を発表したのです。
対してフランス王国は、コロンナ家の手を借りる事にしました。
コロンナ家は以前よりボニファティウス8世を否定して対立しており、
一族共に破門され財産を没収されてしまっていました。
この為コロンナ家はボニファティウス8世を酷く恨んでいたのです。
フランス王国大法官ギョーム・ド・ノガレもまたローマ教皇庁に個人的怨みがあり、
フランス王室とコロンナ家は結託。
1303年9月8日、ローマ教皇ボニファティウス8世のアナーニにある別荘を、
ギョーム・ド・ノガレとシャラ・コロンナが率いる軍が襲撃し、教皇を数日監禁するという事件が発生しました。
事件は直ぐにアナーニ町民の猛抗議によって軍が介入。
ボニファティウス8世は助けて出されるも、
教皇本人が抱えていた病気が悪化し、結局事件の1ヶ月後に薨去してしまいます。
これを、通称『アナーニ事件』と呼びます。
そして、次のコンクラーヴェで選ばれたのは、ベネディクトゥス11世。
彼の教皇登位の理由には、
フランス王国と真っ向対立していない為、という事も挙げられました。
―――聖下が先ずしなければならないのは、
フランスの怒りを鎮める事……!―――
―――フランス国王フィリップ4世は、
先代ローマ教皇ボニファティウス8世との対立によって破門されています。
先ずは、フィリップ4世の破門を解く事が先決です。―――
―――もう一人の当事者であるシャラ・コロンナは、
コロンナ家一族が破門にされ財産を全て没収された事に怨みを持ってこの暴行に及んだと聞いております。
一族の破門も解く必要があります。―――
――うむ。フランス王国と徹底的に対立した為に先のような悲劇が生まれたのだ。
先ずは多くの者が提案する通り、彼らの破門を取り消す事としよう。――
ベネディクトゥス11世は、フランス王権を恐れる諸司教の助言によって、
フランス国王フィリップ4世の破門を解くことにしました。
それが、先月1303年12月の事。
これで晴れてめでたくフランス王国は降誕節と新年を迎える事が出来たのです。
「兄上!これで王室も安泰となるわけですね!」
王弟エヴルー伯ルイ・デヴルー(1276-)も新年の挨拶に訪れていまひた。
「せっかくの新年なんです、暗い話題ではなく、
おめでたい話をしましょうよ!
そう言えば、シャルル兄さんの所も去年子供が産まれましたね。
おめでとうございます!
これでシャルル兄さんは、
アンジュー家の血筋のみならず、
ラテン皇帝家の男子と女子を儲けた事になる。
ますます重要な立場となりますね。」
「ええ。そうですね。
エヴルー殿も、フィリップ・ダルトワの長女マルグリット・ダルトワとの間に子が生まれたとか。」
「そうなんですよ!マリーと言って、もう可愛いってなんの!
あ、うちは始めてだから、子沢山のシャルル兄さんや、
兄王陛下にもいろいろと子育ての事を教えて貰いたいです。」
「アルトワ家であれば、
その当主アルトワ女伯マオ殿の娘達をいずれ、
パリに、王家にお迎えする予定です。
顔馴染みの家臣団もいる事でしょう。」
「マオ・ダルトワの娘を?」
「そうです。
こうも都合良く事が運ぶとは思いませんでした。」
沈黙を通していた国王フィリップ4世が口を開きました。
「忠実な家臣であったアルトワ伯ロベール2世の長女マオ・ダルトワ。
彼女と、ブルゴーニュ伯オトン4世を妻わせておいた事は正解でした。
マオ・ダルトワを介し、ブルゴーニュ伯国の相続者を王家が管理出来るようになるのです。」
「……そうか……。
女性であるマオ・ダルトワへアルトワ伯爵位を認めるのは……、
そのような理由も……。
男系優先であるフランス王国であるのに、
マオ・ダルトワへの相続を何も問題視していないのは少し不思議だなと思っていまして……。」
「エヴルー殿。何か不服かな。」
「いいえ。そんな事は……。
ただ……、
私の妻が、弟のロベールの事を心配しているので……。」
「エヴルー殿が心配する事は何一つありません。
マオ殿も貴方も、王家の決定に従っていれば良いのですから。」
「は……。その通りで……。」
そしてその後、話題は次第に軍議と変わって行きました。
「目下の懸念事項は、やはりアルトワ伯国です。
フランドルの反乱に留まらず、
ユーリヒ伯国とブラバント公国が同時に展開してくる可能性が大いにあります。」
「ブルターニュ公殿。
アングルテール王国から何か得ている情報はありますか。」
ブルターニュ公ジャン2世(1239-)は、
フランス王国家臣のブルターニュ公爵でありながら、
亡き妃が英国王女であった事からアングルテール国王家臣リッシュモン(リッチモンド)伯爵でもありました。
フランドル戦線においてジャン2世の嫡男アルテュール2世(1261-)はフランス国王に臣従し、
1297年からブルターニュ公国はフランス王国に従いフランドル戦争の主力部隊となっていました。
「アングルテール国王エドゥアルド1世陛下はこの冬は
スコットランドのダンファームリンで足留めを喰らっています。
それに、ウィリアム・ウォレスがフランスを抜け出し帰国したとの噂も聞いております。
これが本当であれば、アングルテール政府はフランドルに構っている余裕はありません。
それに諸侯は殆どがフランドルでの戦争に難色を示しています。
よってアングルテール王国からの直接介入はあり得ません。
そもそもユーリヒ伯国がゼーラント領を奪おうとしているのはフランドルの為ではなく、
フランドル伯からエノー伯に移されたゼーラントの主権を自らが握りたいからに他なりません。
ユーリヒ伯は、海洋貿易に有利なホラントとゼーラントを自らが欲しているだけの私戦なのです。
また、ユーリヒ伯国がブラバント公国と連携しているのは、
もともと反ケルン大司教連合だった縁で協力体制をとっているからで、
連携が強化されたのはヴォーリンゲンの戦いの時よりと、この数年の話。
ブラバント公国が動いている理由は、
エノー伯国とルクセンブルク伯国が共にフランス王国に忠実となり協力関係にあり、
ブラバント公国はそもそも隣国であるルクセンブルク家とは対立関係、
ヴェストカペレの戦いの頃からは完全に仇敵関係となっています。
ユーリヒ伯国は、その対立関係を利用してブラバント公国を動かそうとしているのです。
ルクセンブルクとブラバントは今でも断続的に戦争が続いており、
アングルテール王国からの支援も見込めない状況で、
ブラバントはユーリヒ伯国の私戦に本格的に協力するとは思えません。
よって、暖かくなる頃には自ずと厭戦的となりましょう。
結局のところ、今度のネーデルラント戦線では、
ユーリヒ伯にダンピエール家が加わるだけの戦いになるでしょう。
フランス王国としては、
諸外国が離脱した時を狙ってから打って出るのが得策かと。」
フィリップ4世はその瞳でじっとブルターニュ公を見つめました。
ブルターニュ公が息を飲むと、
フィリップ4世は無言でゆっくりと頷きました。
これを見て、ヴァロワ伯が口を開きました。
「ではブルターニュ殿。
我々にはゆっくりと軍備をする時間があるという事ですね。」
「うむ、その通り。」
フィリップ4世とヴァロワ伯は頷き合いました。
ブルターニュ公はほっと肩を撫でおろしました。
「ヴァロワ伯に命ず。春までに軍を準備し、ゼーラントに進軍せよ。」
「は!!御意に!!」
ブルターニュ公ジャン2世は大きく深呼吸しました。
その嫡男アルテュール2世はしてやったりと口元を緩め、王命に従う事になります。
こうして、フランス王国によるフランドル戦争が再開されようとしていました―――………
・・・‥‥……―――
・・・‥‥……―――
―――1304年5月23日。
――――甘く優しい恋人よ。あなただけに、
私は自らの心を捧げました。
もう、取り戻せないその心を――――
踏み台が外されました―――。
この日、フィレンツェのとある広場で、
4人の若い聖職者の公開絞首刑が執行されました。
「……クルーチェ君。
惜しい人物を亡くしましたね…。」
見物人の喧騒の中にいたペトルス・デ・クルーチェは突然声を掛けられました。
振り向いて見ると………。
「あ…、フランコ先生!
わざわざローマからいらして……!?」
「んむ……」
年老いたフランコ・デ・ケルンは複雑な表情で、
ただ人だかりの中心を見ていました。
「―――そうですね……。
聖職者ともあろう者が……
否!
監禁強姦だなんて、人間として許せる事ではありません!!」
「んむ。そうじゃのう……。
はぁ……。彼はなかなか才能があると思ったんじゃがねぇ。
彼の作るモノフォニーの曲は、新しい時代を予感させるものがあった。
素朴なメロディはとても魅力的だった。」
「そうですね。
ジャンノ・ド・レスキュレル。良い青年でした。」
ジャンノ・ド・レスキュレルはパリの商人の生まれ。
彼について分かっている事はノートルダム大聖堂で教育を受けたトルヴェールであるという事のみ。
その他は、彼についての詳細は分かっていません。
30曲以上の歌曲が残されており、その殆どがモノフォニー音楽でした。
「抒情的で豊かなメロディ……
音楽とは、本来こう言う物なのかも知れんな。
ところで、クルーチェくん。
儂がパリに来た目的はこれの見物ではない。
グロケイオ氏に会ってみたいと思ったんじゃが…、
今日のこの事を聞いて、誰かに会えるかと思ってここに来たのじゃ。
クルーチェ君、取り次いでもらえるかね?」
「ヨハンネス・デ・グロケイオさんですね。
勿論です!
日程を組みましょう。」
こんな事を喋りながら、ペトルス・デ・クルーチェは十字架を切りました――――……‥‥
―――まもなく50代になろうとする音楽理論家ヨハンネス・デ・グロケイオ(c.1255-)。
「おぉぉ、まさかケルンのフランコさんがお会いに来て下さるとは!
どうぞ、お寛ぎください。」
グロケイオはフランコの訪問を歓迎しました。
「『音楽論(De Musica)』を読ませて頂いた。
大変面白い理論書だった。
とても素晴らしいと思った。」
「ありがとうございます……!」
「是非、直接考えを聞いてみたいと思いここまで来たのじゃ。
説いてくれないだろうか。」
「ええ。勿論ですとも。
“音楽とは何か”。これを私は改めて考え直しました。
今の音楽は、旋律に旋律を重ねて、聞こえない旋律にまで複雑に組み立てて作られている物が多い。
これを人が聴いてどう思うか。
偶発的に綺麗な調和が生み出される事もあり、複雑な不協和音の合間に突然響く協和音。
この対比が素晴らしい物が、今まで“良い”音楽とされてきました。
しかし、私はそれを音楽の本質とは思いません。
聴く者がどのように感じるか。
『言葉』が非常に大事な事は論じています。
しかし、ボエティウス(c.480-524)が完成させた『三つの音楽』は、既に過去の物です。
“あぁ!美しい旋律だ!”と人に感動を与えてこそ、音楽だと思うんです。
これからの“音楽家”とは、“哲学者”であってはならないのです。
音楽家とは“芸術家”や“職人”の類であり、音楽家は人に感動を与える職業で無ければなりません。
ですから、私が書いた音楽論も、器楽の音楽(『ムジカ・インストルメンタリス』)にのみ焦点を当て、
楽器の重要性や、楽器同士が創り出す音色、和声を追求しようと思うのです。
これら言葉の無い音楽で人を感動させられたら素晴らしいと思いませんか!」
グロケイオは、当時の音楽家とは全く一線を引いた考え方を持っていました。
器楽の音楽。
これまでの伝統を覆し、ボエティウスの思弁的音楽論を批判した初めての『音楽論』。
その出だしこそ音楽の原理を書き出していますが、
次に、そして最初の重要な事柄として、耳に聴こえる協和音程について論じています。
これを引き合いに音楽の定義を示すなど、従来の『ムジカ・ムンダーナ』『ムジカ・フマーナ』の考えから逸脱していました。
「古来から楽器だけの音楽は各地に存在していました。
トルバドゥール達の音楽の中にも素晴らしい物もたくさんあります。
世俗の者達が、各々が楽器を用いたり、そこら辺の物を叩いたりして創り出す音楽にだって、素晴らしいものはあります。
即興的に演奏された舞曲も、人々が楽しみ、心を豊かにする。
音楽とは、本来そういうものなのです。
言葉が分からなくても、意味を考えなくても、
奏でられるリズムに身を任せて心を躍らせ、
聴こえてくる旋律に、人々がいろいろな情景を思い浮かべる。
作曲者が思い描いた通りに感じ取らせる事が出来れば素晴らしいでしょうが、
きっとそうではありません。
言葉の無い旋律に、各人が違ったイマージュを持つ。
それも楽しいと思いませんか?
折り重なる音を聴いて、それで人々が楽しめればいいのですよ。」
グロケイオが熱弁すると、フランコは大きく頷きました。
「うむ。やはり素晴らしい考え方じゃ……
まさに今の時勢に合った、先進的な捉え方ですな。
ところで言葉、言葉、としばしば言われているが、
モテトゥスについては、どうお考えかね?」
「モテトゥスは、最高に知的な音楽だと思っています。
教養人が、その技術や知識の深さを誇る為の音楽です。
こういう技術の高い音楽は、教養人が競い合って高めていけば良いのです。
歌詞は、別に聴き取る必要はありません。
テノール部分は、歌わずに楽器での演奏でも構いません。
上声部は、この頃はもっぱら二つの旋律の方が扱い易くて人気ですが、
従来の三分割から、最近は二分割したり、四分割したりと、さまざまな試みが見られるようになる。
こうした技術の進歩はもちろん音楽の発展には重要な事だと思いますよ。
あの若いクルーチェ君も、そんな新しい事をする一人ですね。」
「そうなんだ、
儂の計量記譜法の枠をどんどん飛び越えて行ってしまう、ははは。」
「で、リエージュのジャックさん(ジャック・ド・リエージュ(1260-))が怒り狂ってるんでしょう?
“三位一体の秩序を崩すとは何事だ!!”ってね。」
「そうだね。彼はグロケイオさんより若干若かったかな?
今はね、だから儂の記譜法をさらに発展させるべく、猛勉強している者がパドヴァに居る。
マルケット・ド・パドヴァ(1274-)と言って、
新しい音楽に熱心で、儂のパリ旅行にも同行したいと言っておったが、
パドヴァ大聖堂の音楽教師試験に集中しなさいと断ったよ、ははは。」
「それはそうと、アルトワ近郊のヴィトリという町の聖歌隊にも、
なかなか将来の有りそうな子がいるんです。
いずれパリで学ばせてあげたいと思っています。」
「もしや、フィリップ君のことですかな?
確かに、彼の音楽性には惹かれるものがあります。」
「ぉお、御存知とは……、さすがです!」
「フィリップ・ド・ヴィトリ。まだ14歳の学生だ。
彼の将来が、楽しみだね。」
―――理論家同士の話は尽きず、夜遅くまで語り合っていました。
教会内では相変わらずグレゴリオ聖歌が歌われていました。
しかし、音楽の多様化は留まるところを知りません。
キリスト教に熱心ではあっても、土地にはそれぞれ個性がある。
フランス、ネーデルラント、イタリア半島などなど、各地で新しい音楽が生み出され続けていました。
民衆の心は、もう新しい時代へと躍進していこうとしていたのでした―――。