ハリエットの日常(1)
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ハリエットの趣味は刺繍に編み物、編み物の中でも特にレース編み。あとは、
「はぁ……今日も素敵」
レオリールの観賞だ。
明るい日差しの下、レオリールは侍女であり騎士でもあるパルヴィーンと馬術の訓練をしている。涼しい木陰で、ハリエットは侍女に侍従、護衛を引き連れ、今日も趣味の時間を楽しんでいた。
当然、ハリエットの視線の先は馬上のレオリールに注がれている。手元ではほぼ見ないまま進められているレース編みがそろそろ完成しつつあった。このレースは後日、ハリエット自身が着るドレスの一部に使われる予定である。
成人し、半年程前まではまだレオリールにも少々残っていた子供っぽさは近頃姿を潜めてきている。その代わり、爽やかさと凛々しさ、そしてアテル王家の血から来るのであろう、優美さが前面に現れてきていた。ハリエットは今日も堂々とそんなレオリールを愛でることのできる環境に、感謝の雄たけびをあげたいような気分になった。
「レオリール様。休憩などはいかがかしら?」
そんなはしたないことは淑女を目指す者として、できる訳がない。だから、ハリエットはレオリールを呼びつけ、もっと近くでその容姿を堪能することにした。
「……ありがとう、ハリエット」
優雅に歩み寄り、自分の隣の椅子に座ったレオリールに、ハリエットはつい先ほどまで自分が使っていた茶器や、カトラリーをそのまま差し出した。
これは毒の混入を警戒したものであって、決して間接キスを狙ってのものではない。断じて違う。決して、決して自分の飲みかけや、食べかけを口にする姿を見て胸をときめかせているのではない。レオリールの健康と安全のためだ。
レオリールが使った後の茶器やカトラリーを自分以外の誰かに触れさせるつもりは一切ないけれど、本当に、心の底からハリエットは信頼できる部下や側近の少ないレオリールの安全を心配しているし、こうやって一緒の時間を過ごしたり、護衛や侍女や侍従を貸し出すことで守ってやっているつもりでいる。
遅れてやって来たイスメールとパルヴィーンにもハリエットは休むように言いつけ、お茶とお菓子を勧めた。
今日、侍女のロレーナが用意したのは、ミモザかエニシダを連想させる、綺麗な黄色の甘いオムレツ。これにはチーズクリームのソースがとろりとかけられていて、口に含むとふわりと香りが鼻に抜ける。
先に口にしていたハリエットは、後でまた食べたいからまた用意するように、とこっそりロレーナに伝えてあった。きっと明日か明後日にはまた何かの形でこの素敵なオムレツを食べることができるだろう。
他にテーブルに並んでいるのは塩気の強いクラッカーに、チョコレートをサンドしたラング・ド・シャとハムサンド。全て、ハリエットによって毒味を済ませてあった。
パンジーや水仙の植えられた花壇の向こうでは、馬場専属の使用人達が馬に水を飲ませ、休ませている。
レオリールがオムレツを一口食べ、頬を緩める瞬間をハリエットは見逃さなかった。甘いオムレツが幼いときのレオリールの好物だった、という情報は合っていたらしい。
この情報を持ってきた護衛には、あとで報奨を与えなければならない、とテーブルの下でハリエットは拳を握りしめた。
馬場からここまではかなり近いが、埃などが来ないような魔法でできた良いしかけが設置してあって、だからハリエットはここでお茶をしながら趣味のひとときを満喫できている。
カップを持つ、レオリールの指先。細くしなやかな自分のものとは違う、ちょっとだけ太い様子が男らしさを感じさせる。爪の短く整えられた指先が繊細な作りのカップを持ち上げる。花びらのカーブを模したカップの縁が、レオリールの形のよい唇に触れるのを、ハリエットはぼうっと見つめていた。
「俺の顔に何かついてますか?」
首を傾げたレオリールの茶色い瞳は、飴細工のようだ。
レオリールを独り占めできる、贅沢な時間。
「いえ。……わたくし、今、とても幸せだなと思いまして」
とびきりの笑顔をハリエットはレオリールに向けると、レオリールのほうは表情を陰らせた。
「ハリエットにとっては、今のこの状況が幸せなんだね」
「あら?レオリール様は、違いますの?」
婚約を交わしてはおらず、家族とはいえ従兄弟同士でしかない今のこの関係では、常に一緒にいることなどできない。もしかして、だからだろうか? それならば婚約のお話を進めましょう!……と都合の良すぎる期待を抱きつつ、ハリエットは完璧な角度でレオリールを見上げた。
「お祖父様の容態が気になって、ね」
ため息混じりに返ってきたのは、ハリエットが予想していたのとは全く違う角度からの言葉だった。
だから、ハリエットは必死になって表情を取り繕い、あわてて会話の焦点をレオリールが意識しているであろう方向に合わせていく。
「まぁ……レオリール様はお優しいのね。わたくしもお祖父様の病状は気になってますわ。 けど……でも、お医者様もどうしようもないとおっしゃってることですから……」
どちらかというと、ハリエットが心配しているのは、あまり関わりを持ったことのない祖父ではない。父親が他界し、母親は別宅に引きこもり、城にいた庇護者の一人であった祖父をこれから失おうとしている、レオリールのほうだ。
「それにしても、お祖父様が早く後継を決めてくださらないから」
だから、レオリールがこんな形で危険に晒されるような事態になっているのだ、とハリエットは唇を尖らせた。
そして、そっとレオリールの腕に触れる。
「ね、レオリール様。やっぱり、一旦、わたくしの父に領主になってもらいましょうよ」
「ダメだよ、ハリエット」
そっと触れた手は、取り払われてしまう。それはとても優しい仕草と微笑みだったけれど、はっきりとした拒否だ。
だが、この程度でハリエットはめげたりはしない。
「わたくしとレオリール様が婚姻を結び、レオリール様がわたくしの父を継ぐという形にするのが、領内や城の中でも混乱が少なくて一番良いんじゃないかしら?」
もう一度、上目遣いにレオリールを見上げながら説得を試みる。それにも、レオリールははっきりと首を横に振った。
「ハリエット。きっとそんな婚姻や後継は、エグバートもイブリンも納得しないと思う。それに、俺は領主を継ぐという理由で君と結婚はしたくない。君だってそんな形で決められた婚姻は嫌だろ?」
「でも……」
ハリエットはそっと睫毛を伏せて、少しだけ唇を噛んだ。
どんな形でもいい、ハリエットはレオリールと結ばれたい。レオリールから手を差し伸べて迎え入れてくれるのが一番良いのだけれど、なぜかレオリールはハリエットと婚約をしようとは言ってくれない。
そんなに恥ずかしがらなくても、いつでもわたくしは待っています、との気持ちをたっぷり込めて、ハリエットは目をうるませた。
「でも、わたくしが必要でしたら、いつでも言ってくださいね。わたくし、覚悟はできていますから」
いつものようにハリエットが婚約をおねだりし、いつものようにレオリールが拒否してお茶の時間は終わる。レオリールはまだ馬術の練習をするらしいし、ハリエットはそろそろ家庭教師に勉強を教わる時間が近い。
今日も、ハリエットは自分の護衛と侍従の何人かに、レオリールの身の回りのことをするようにと言いつけた。
いくら埃が飛んで来ない場所とはいえ、屋外にいたのだから着替えなくてはならない。ハリエットは後ろ髪を引かれる思いで馬場に戻っていくレオリールの背中をしばらく眺め、自分の部屋に向かうことにした。
レオリールが触れた茶器やカトラリー、ナプキンはハリエット自らの手で籠に入れたので、指示など出さなくても自室に届く。先ほど完成したレース編みはまだテーブルに置いたままだけれど、侍女の手で綺麗に整えられ、きちんと仕舞われるだろう。
……あのレースを使ったドレスを着て、婚姻の儀式を行うのがハリエットの今の夢だ。誰の隣に立つつもりかは、もう決めている。
部屋に戻れば、湯と着替えの支度が整っていた。ハリエットにとっては当然のことなので、どんなドレスが用意してあったのかだけをチラリと見た。
「替えて。……そうね、裾の方にオレンジ色の刺繍をしたのがあったわね?あれがいいわ」
「かしこまりました」
侍女の一人が頭を下げて、衣装室に向かっていった。ハリエットは浴室で軽く湯あみをしてから、着替えを済ませる。浴室を出て、用意されていたドレスはミモザの黄色に、オレンジ色の刺繍が入ったもの。黄色いドレスで、オレンジ色の刺繍のあるドレス、というくくりの中では比較的大人しいデザインで、シンプルなつくりになっている。
結果、ハリエットはだいたい決められた時間、をほんの少し遅れたかもしれない、くらいに学習室に到着した。
もしかしたら一時間ほど遅刻したかもしれないが、今雇っている家庭教師は平民の優秀な学者とやらなので、全く問題はない。
時間はきちんと守りなさい、と少々何か言われたような気がしないでもないけれど、ハリエットは自分のことを優しく穏やかな人種だと考えている。この学者とやらが優秀なのであれば、それなりに大事にしておいた方が良いのだろう、と判断し、ちょっと眉を寄せるだけの反応でだいたい聞き流した。
たぶん、データスならこの小うるさい学者とやらをとっくに処刑している。
頭をゆるく振り、ため息をついて授業を開始した家庭教師の姿に、従兄弟たちと学習室を分けていて良かった、とハリエットは切実に思った。
お勉強を終わればまた自室に戻り、着替えて今度は晩餐。
晩餐の席には領主の城に住む、一族が全員揃う。これには遅刻などあり得ないので、手早く身支度を整えることになる。ただし、朝食や昼食の席と違い、晩餐にあまり美しくない格好で向かうとファニー辺りがやかましい。なので晩餐に限り、ドレス選びや髪型には要注意だ。
静かに、おしとやかに。若草色に、黄色い糸で小花をあしらったドレスを身にまとい、晩餐の席につく。隙を見せない為にも会話は極力避け、手早く食事を済ませたら、ハリエットはさっさと家族の居間で食後のお茶をいただくことにしている。
レオリールの観賞も控えめに。チラリとチェックする以上のことはしない。
「今日はね、素敵なデザートの用意がありますのよ」
そろそろ夕食を終えようという頃に、ハリエットにとっては叔母にあたるファニーがそう言いだした。タイミングを合わせていたのだろう、台に載せられたケーキのようなものが食堂に運び込まれる。
一瞬だけとはいえ、露骨に顔をしかめたのはチェルノの第二夫人。こういう趣向が催されれば、早々に食堂を退出することが難しくなるので、ハリエットも少しだけため息を吐きたいような気分になった。
「今度、フェリックス王子がいらっしゃるのでしょう?わたくし、最近とっても珍しいお菓子の作り方を手に入れましたの。ですから、こちらでもてなそうと思いまして。その前に、是非とも皆様には味見をしていただきたくって」
「……その、クロカンブッシュ……だっけ?それとも、シュークリームで?」
データスが行儀悪く、テーブルに肘をついていた。データスはあまりケーキ類が好きでは無いらしいので、わざわざ『趣向を凝らしたデザート』であるのなら、シャーベットやアイスクリームのようなものを使ったデザートが良かったのだろう。
クロカンブッシュはヨヌイールチの王都では半年ほど前に流行していた菓子だと聞いている。
ハリエットはシュークリームもクロカンブッシュもまだ数回しか食べたことがないので、違いがよくわからない。フェリックス王子を歓待するデザートとしてはどうだろう、中身のクリームの工夫次第なのでは、とハリエットは考たけれど、ここでは黙っておく。
ハリエットは最後の料理を食べきり、カトラリーを置いた。
この晩餐の空気は息詰まりだから、取り繕うことなく自由に過ごせる家族の居間に早く退出したいが、ちょっと珍しいお菓子は大好きだ。
「データスは、クロカンブッシュを知っていたのね」
ファニーの笑顔が一瞬ひきつっていた。
「知ってますよ。……なぁ、ハリエット!ハリエットも食べた事があるだろう?」
「ええ、何度かお茶会などでいただいたことがありますから。今日のデザートはとても楽しみです」
やめて、今話を振らないで、と思いつつも、淑女の仮面でハリエットは微笑む。ファニーの笑顔がまた、ぴくりとひきつった。
「普通のシュークリームだな」
一口食べたファニーの息子であるコーマックまでがそう言いだし、
「ファニー。ヨヌイールチではよく食べられている、おいしいデザートをありがとう」
表情を消したような声で、ファニーの夫チェルノもこの程度のデザートでは王子のもてなしには相当しない、と裁定した。
レオリールはその間ずっと無言だ。
ハリエットが最初にシュークリームを食べたのは一年前、レオリールとのお茶会の席である。クロカンブッシュを目にしたのはお友達の集まるお茶会だった。アテル領内では、まだ存在を知らない貴族の方が多いお菓子だ……が、きっと、ヨヌイールチではもう、ブームも去っている頃だろう。
微妙な空気に耐えかねたのか、今夜は珍しく、ファニーが一番に食堂を退出した。