前哨戦エピローグ
ディシアにとって大切なのは『ゼウス』という存在そのものであり、『神子』に関してはそれほど執着がない。アインという存在はあくまでゼウスありきの存在であり、それゆえに神子という存在を尊重しているだけに過ぎなかった。
「だから、今からオレが伝えることは、あなたのためではなく、ゼウスの御心であるということをご理解ください、我が愛しの君よ」
アインの前に跪いていたディシアはそう前置く。アインも「わかりました」と頷いた。このセリフは、彼が何かを報告するたびに告げる言葉である。アインの横に控えていたリターニアはわずかに眉をひそめたが、それだけでとどめた。
「では、ご報告を」
ディシアはまず、持ってきていた紙束をアインへと差し出した。そこにはびっしりと、誰かの名前らしきものが書かれてある。
「まず一区と四区ですが、異教徒はおれども、数はさほど多くありません。もっともそれも、残り二つに比べればにすぎませんが」
「――そうですか」
「ええ。いくつかの条件を出して各住民に聞き取りを行ったところ、かなりの数あてはまる人物がいました。しかし、実際に異教徒として当てはまるのはそのうちの一割ほど……ざっとあわせて、100名弱と言ったところでしょうか」
「……」
アインは静かにディシアの言葉を聞いていた。リターニアも何も言わず、彼の言葉に耳を傾けている。「問題は、」と彼はさらに続けた。
「残りの二つの区です。こちらはオレが直接調査に赴いたわけではありませんが、信用できるものを調査にあてていました。その結果が、こちらになります」
続いて取り出されたのは、先ほどと同じような紙束だった。唯一の違いは、その数が三倍ほどあったことだろう。
「二区、三区、あわせて300名弱。こちらは『疑わしきは罰せず』という理論でまとめたものですので、グレーも含めればさらに200ほど増えます。精密な調査および選別は、現在行っているところです。十数日ほどいただければ、さらに精度の高い名簿が提出できるかと」
「――わかりました。ありがとうございます、ディシア」
アインの口から、深いため息がもれた。何かを憂いているような、悲しんでいるような、あるいは祈っているような、そんな表情をしていた。珍しい表情に、ディシアは少し動揺する。わずかに躊躇った後、それでも彼は再び口を開いた。
「――我が愛しの君よ。もう一つ、報告せねばならないことがあります」
予想外の言葉だったのだろう。アインが「え?」と声をあげる。リターニアも、訝しげな顔になった。それを無視して、ディシアは端的に事実を告げる。
「【将軍】マサムネが、行方知れずとなっております」
「なっ」
驚きの声を上げたのはリターニアの方だった。「それ、どういう意味」強い語勢で、ディシアに問う。
「怒らないでくれ、リターニア。オレはキミを怒らせたいわけではないんだ」
「めんどうなの、いらないよ。意味だけ教えて」
「――そのままの意味だ。第二区トップ、マサムネは、現在居場所がわからない。四冠たちはいつも通りにしている。彼の居場所を知っているのかどうかはわからないが、いないことに気づいてはいるだろう」
「そう、ですか」
こくりと、アインはひとつ頷いた。驚いてはいるようだったが、さほど動揺はしていないように見えた。マサムネほどの人物が行方知れずとなればかなりの大事件だが、なぜだろう。理由を尋ねる前に、アインは自らその答えを呟いた。
「思ったより、早かったのですね」
思ったより早かった。その言葉の意味するところに気づいて、ディシアとリターニアは顔を見合わせる。「知っていたのですか」ディシアの問いに、アインは否定も肯定もしなかった。代わりに「大丈夫ですよ」と言う。
「彼のことは、構いません。わたくしたちがすることに、何の影響もありませんから。わたくしたちは、わたくしたちが為すべきことをするだけです」
アインはそれ以上、何も言おうとしなかった。ただ瞳を閉じて、両手を組んで。静かに祈りを捧げていた。
◆◇◆◇◆
「むーりーでーすー!」
荒野に、悲鳴が響いた。情けない声を上げているのは、コンコルディア四区に住む一人の女性だった。
「むりむりむりむりぜったいむりです! 私、やっぱり今からでも都市に帰ります! だからマサムネさんも帰りましょうよ。ほら、都市が心配だったりしませんか!」
彼女はぎゅっとマサムネの服を掴んで、動こうとしなかった。すでにコンコルディアを離れて一週間以上立っている。都市の影は地平線の向こう側だった。
涙目でむりだと繰り返す女性に、マサムネは頭をかいた。昔はここまで図々しくなかったのに、生意気になりやがってと思わなくもない。それでも強く当たらない――たとえば、うるさいと言って刀を向けたりしないのは、やはりどこか彼女を気に入っているというのが関係しているのだろう。かつてあったとある事件以来、マサムネはどうもこの女性に強く当たることはできなかった。
それでも、やはり文句くらいは言うわけで。
「あのなあ、オマエが無理って言おうがなんだろうが、俺は抱えてでも連れて行くからな。つーか手はなせ。服がのびる」
「な、な、なんでですかぁ……だって、私、生まれも育ちもコンコルディアですよ!? 都市の外なんて、そんな、無理に決まって!」
「じゃあ、オマエ、ゼロの頼みを蹴るっていうのか」
さすがにこの言葉には、彼女も「うっ」と言葉を詰まらせた。ここで「なぜ自分なのか」という言葉が出てこないところを見ると、自分の異能が必要だということはわかっているらしい。しばらく「でも」「やっぱり」と彼女はためらっていたが、ようやく納得したらしい。しぶしぶ「わかりました」と頷いた。
「行きます。頼まれたし、やらなきゃいけないし。頼れって言ったの、私だし……」
「おう」
「それに、誰かが襲ってきても、マサムネさんがシュバッ、とやっちゃってくれるんですよね!」
「まあな」
「……まあ、やっぱりちょっと不安ですけど、ゼロさんとタケナカさんのために頑張りますね」
えへへ、と女性――シエラは笑った。これなら大丈夫だろうとマサムネも判断して、安どの息を漏らす。それから、今マサムネにとってもっとも重要なことをひとつ伝えた。
「とりあえず服から手を離せ。のびる」