前哨戦プロローグ
「かわいそう」
それは果たして、誰に向けられた言葉だったのか。街の中央──鐘の塔にて、少女は小さく呟いた。
「かわいそう。だって、知らないんだもの。知らないままに、死んでいくんだもの」
少女の首には、くっきりと数字が刻まれてあった。No.7という、少女を示す数字。か細い指でその数字を撫でながら「でも」と七番目は続ける。
「無知は罪よ。仕方がないの。かわいそうだけど、それが罪なんだもの。本当は楽に逝かせてあげたかったのよ。彼らを除いて全員、楽に逝かせてあげようと思っていたのよ。でも、もう無理なの。恨むなら、すべてを知ってしまった彼らを恨むといいわ」
街を見下す少女の瞳は、どこまでも冷たい。口は弧を描いていたが、瞳には復讐の色しか宿っていなかった。
「さあ、はじまるわよ。わたしたちの次なる手が。覚悟していて。生まれて、この街に住んで、そして何よりアリシアさんを殺したことを、後悔させてあげるんだから」
ふふ、と彼女は嗤う。その様子は、まるで世界を滅ぼそうとする悪魔のようだった。
◆◇◆◇◆
「あ?」
「うわっ」
今すぐ異能を使って逃げたい。タケナカはそう思って、しかしなんとか思うだけで踏みとどまった。それでも一歩ゼロから離れたのは、経験則とでも言おうか。一触即発を越えて既に戦闘体勢を取る二人に、タケナカの口から思わずため息が出た。
「……よお、クソヤロウ」
「……やあ、クソガキ」
もはや恒例ともなっている挨拶は、いやにピリピリしている。ゼロはまるで四区を傷つけた者に対するような態度を取っているし、相手──ディシアという名を持つ男も、親の仇に出会ったかのような様子だ。無論、二人の間にそんな確執はない。彼らはただ単純に性格が合わないだけで、お互いいわく「生理的に無理」らしい。
「相変わらず我が愛しの君に色々と吹き込んでくれてるようだな。死ね」
「あはは、そういう君も相変わらずあの子にべったりみたいだね。くたばれ」
「……」
「……」
二人は笑顔さえも浮かべていない。ゼロの笑いだって、声だけなものだから余計にこわい。タケナカはまた一歩後ずさった。
ディシアは一区に住む熱心なゼウス教徒であり、神子の信奉者でもある。フットワークの軽さから、フィールドワークという名の情報収集を任されていた……はずだ、とタケナカは記憶を漁った。断言できないのは、彼の性格にあった。
「……あの、」
静かに睨み合う二人に、タケナカはいやいやながらも声をかける。このまま放っておけば日が暮れてしまう。そんな風に思ってかけた声に反応したのは、ディシアの方が先だった。
「ああ、タケナカさん。すみません。麗しいあなたにこのような醜い場面を見せてしまって。オレとしたことが、どうにもコイツを見ると感情が昂ってしまうようだ」
「……醜いってわかってるならさっさと消えなよ、クズヤロウ」
「あ? オレは今タケナカさんに話してるんだよ、クソジジイ」
「……」
「……」
止めるはずが、新たな火種を追加してしまったようだ。タケナカは頭を抱える。ディシアのいいところであると同時にわるいところでもある『フェミニスト』という面が、今日はダメなように作用していた。
「……ゼロ、お願いです。一度、落ち着いてください。それからディシア、どうして四区へ? あなたは基本、こちらにはやって来ないでしょう」
本当は嫌だが、と態度に表しながらも、タケナカは二人の間に割って入る。ゼロもディシアも、さすがにタケナカを挟んで睨み合うようなことはせず、お互い舌打ち一つで言い争いを中断する。
「なぜと言われても。オレはゼウスの導きのまま、背徳者を探しているに過ぎません。ああご安心を、麗しき人。あなた方の愛する異能者を傷つけようとは思っておりません。無論、彼らのなかに異教徒が混ざっていれば別ですが──その場合は、あなたにもきちんと言いましょう」
ゼロとタケナカは異教徒という言葉に反応する。ディシアの言った内容からわかる通り、彼は異能者=異教徒という考えではない。では、彼の指す異教徒とは。
悩むことはなかった。ここ連日の動きからして、ゼロとタケナカには彼の追う人物たちは、よくわかった。
「……差し支えなければ教えて下さい。今あなたが把握しているだけで、何人いますか」
タケナカはあえて明確な言葉を避けて尋ねた。いがみ合っていたゼロも真剣な表情になって、ディシアの言葉を待つ。
「もちろん教えます。我が愛しの君は──大変にイラつくことではありますけど、そちらのクソヤロウ含めて、『あなた方』への情報提供は惜しまぬようにと仰った。……そうですね、この区に限っていうのならば、まだ数名。片手で足りる程度。けれど、都市すべてとなれば……」
思案するようにそこで言葉は区切られた。二人は静かにディシアを待つ。
「──オレたちが把握しているだけで50は下らない。実際となれば、もっといくはずだ。事実、我が愛しの君の見立てでは、三桁ほどは対象になるだろうと」
「……そう、ですか」
「……期間は? どれくらいの間で、どれくらい増えたの?」
タケナカは考え込み、ゼロは質問をさらに続けた。どちらの表情も、苦虫を噛み潰したようである。ディシアもさすがに悪態をつくことなく、素直にゼロの質問に答えた。
「ここ一月だ」
「……ふうん」
ゼロのそれは、何かを確信した頷きだった。「……タケナカ」とゼロは呼び掛ける。
「今から僕は、残酷なことを言うよ。……無理だ、諦めろ」
「……っ」
「わかってるでしょ。諦めなくちゃいけない。無理だよ。もう無理なんだ。僕たちは、数人の命を見捨てなくちゃいけない」
「です、が……それは、あまりにも……」
「うん。残酷で、身勝手だよ。僕たちはそうならないために動いていたけど、そうなっちゃった。それなら、僕たちの責任として、罪として、背負っていかなくちゃいけない」
「……」
「……さあ、見回りを続けよう。これ以上見捨てたくないなら、僕たちが警戒の『ポーズ』を取るのが一番なんだ。アイツらは間違いなく僕らの動向に注意してるから」
静かに、タケナカは頷いた。その様子を黙ってみていたディシアは、ここでようやく二人に声をかける。
「【異端者】そして【軍師】。あなたたち二人は、オレの知らないことを知っているんだろうな。オレは神子からただ断片的な情報を預かったに過ぎない。それをもとに異教徒を探しているに過ぎない。だがあなたたちは異教徒の裏側に潜む『何か』まで知っているみたいじゃないか」
「……知りたい?」
ゼロの問いかけに対して、ディシアは首を横に振った。
「ゼウスは、オレがそれを知るべきときに答えを示すだろう。オレは今、それを知っちゃいけない。だから答えは示されない。ただそれだけだ。あんたからわざわざ聞く必要なんてない」
「あっそ」
「……情報提供、感謝します」
うつむいて暗い表情をしたまま、タケナカは消えるような声でお礼を言う。血が滲み出るほど強く握られた手を見て、ゼロは彼女の頭をゆっくりと撫でた。
「ディシア、あの子に伝えて。君たちの言う異教徒なら、どんな対応でも僕たちは見逃す。無関係の仲間を巻き込むようなら容赦はしないけど──あくまで『異教徒』を傷つけるなら、別になにも言わない」
「……まあいいさ。確かに伝えてやる」
肯定を受けとると、ゼロはタケナカの腕を引いて四区の中心部へと向かっていった。ぽつりと、路地にディシアが残される。
しばらくゼロたちが消えた方を見ていた彼も、やがて一区の方へと移動していった。
◆◇◆◇◆
「な、な、なんでですか!?」
一人の女性の絶叫が、二区の路地に木霊した。彼女の背後からは、三名ほどの屈強な男たちが迫ってきている。
「こんなはずじゃなかったのにっ! なんで、追われてるのですか!?」
必死に逃げる彼女の瞳には涙が浮かんでいた。そもそも彼女の専門は頭脳戦であり、戦場指揮である。正面切っての戦闘は専門外だ。
こうしてなんとか逃げられるのは、ある程度の基礎体力作りを行っていたお陰だろうか。なんとなくで続けていた日課の筋トレに、今ばかりは感謝せずにいられなかった。
ちらりと彼女は後ろを見た。後ろを見て、後悔した。男たちとの距離はそうなく、しかも全員が武装している。情けない悲鳴をあげて、女性は走るスピードをあげた。
とたん。
「うわっ、わわっ、す、すみません!!」
誰かにぶつかりそうになって、バランスを崩す。すぐに立て直して、謝罪もそこそこに彼女はふたたび走り始めた。相手の顔を確認する時間も惜しい。後ろでぎゃははとかいう笑い声が追加された気がしても、彼女はやっぱり走り続けた。
だが、数分ほど走って異変に気づく。背後からは迫っていた気配がいつの間にか消えているのだ。恐る恐る振り返ってみれば、そこに男たちの姿はない。
「た、助かった……?」
へなへなと、彼女は力なくその場にしゃがみこんだ。それから大きく息を吐き出して、ゆっくり立ち上がる。
「な、なんとかなったし、仕事、頑張らなくちゃですよね。はは、本当に想定外だった……もう二度とあんなことになりませんように。えーっと……ナムナム?」
それは少し違う、などと突っ込む人物は残念ながらそこにはおらず。女性──ケムダーと名乗る彼女は、間違いに気づくことなく、与えられた仕事に戻っていった。