後篇
幼い少年が、タケナカの発見を助けた。スラムに住む非異能者の彼は、タケナカに借りた絵本を返しに彼女の部屋を訪れようとしたらしい。
タケナカの家は一人で住むには少し大きい、レンガ造りの建物だ。何かあった時にせめて十人は避難できるようにと、その家を選んだらしい。スラムに隣接するというのもポイントで、一番狙われやすく問題が起きやすいそこへ、もしものときはすぐ駆けつけられるようにという配慮がある。
見せつけかと言われそうではあるが、そんなことは結局起こらなかった。彼女がスラムの住人に親身だったからだろう。実際、彼女はスラムへ一日一回は赴き、様子をうかがい、月に一度は何かしらの食事を振る舞う。子どもには絵本を貸すこともあった。
少年はそうして、絵本を借りた子どもだった。朝一番に返そうと、その日はかなり早い時間に起きた。もし彼が時計を読めたなら――そして、時計を持っていたなら、まだ六時にもなっていないということに気づけただろう。
親を起こさないようにそっと自分の寝床を出た少年は、借りた絵本を両手で抱えてスラムを走り抜けた。少年が寝泊まりする『家』はスラムの中でも端に近く、タケナカの家には二分強でたどり着ける。
ガンガンと無遠慮に、彼は扉を叩いた。レンガ造りの家ではあるが、扉だけは木造で、その音は案外大きく響き渡る。
いつもなら、一分もしないうちにタケナカから返答がある。もちろん家にいないときは無理だが、『普段』ならこの時間は家に滞在しているはずだ。少年はこの時間帯にこうして彼女の家を訪れることが多い。絵本を預けられた翌日は、いつもそうだった。朝一番に彼女のもとへ行き、絵本のお礼を言って感想を伝える。一種のルーチンワークのようなもので、タケナカもそれを了承していた。
だが、いつまで経ってもタケナカは出てこなかった。不思議に思った少年が、少し大きめの声で「おねえちゃん、いないのー?」と言う。それでも返答はなかった。
子どもはいい意味でも悪い意味でも単純で純粋だ。非日常というものに慣れていない。少年も例にもれず、『タケナカが出てこない』という非日常に戸惑い――単純な感情表現をした。
大声で、泣いたのだ。人目も時間帯も考えず、ただ泣いてその異常事態を消化しようとした。さすがにここまでうるさくすれば、近隣の住人たちは何事かと目を覚ます。そして、運がいいことにこの少年を発見したのは『目のいい』老婦人だった。
老婦人はスラムの住人ではない。スラムの近くにある、少しボロい小屋に住んでいた。
彼女の朝は早く、太陽が昇る前から『一日』が始まる。換気のために軋む窓を開けて、家の掃除をするのが日課だった。一通りのホコリを掃い終わったら、窓際の椅子に座って休憩をする。その時に、老婦人は少年の泣き声を聞いた。
声の聞こえた方向がタケナカの家がある場所だったので、はじめは慌てていなかった。すぐに彼女が出てきてなだめるだろうと思ったのだ。まさか、そのタケナカが出てこないことで泣いているとは考えていなかった。
それでも老婦人は気になって、ゆっくり身支度をして家を出た。泣き声がやまないことに違和感を覚えたのは、家の鍵を閉めた時だった。さすがに嫌な予感がして、老婦人は少し早めに歩き、タケナカの家を目指す。そして見つけたのが、件の少年だった。
一人で泣き続ける少年に、老婦人は慌てて駆け寄った。どうしたの、何かあったの。そう尋ねても、泣き声しか返ってこない。切り口を変えて、タケナカさんはどうしたの、と聞けば、より一層泣き声は大きくなった。困り果てた老婦人は、まず彼を泣き止ませる方向へと行動を変える。大丈夫よ、と言って彼を抱きしめ、その背中を何度も撫でた。
それは四区らしい光景だった。他の区であれば、顔見知りとさえもいえない、ただ見たことがあるだけの子どもにここまでの対応はできなかっただろう。タケナカの家の前で、彼女が関係しているらしい、というのもその行動に至った理由の一つではあるが、彼女が関係していなくても、老婦人は同じ行動を取っただろう。
そんな老婦人のおかげで、少年は少しずつ落ち着いていった。泣き声はやがて小さくなり、最終的に鼻をすするだけになる。そろそろ頃合いだろうと、老婦人はもう一度少年に尋ねた。
「ぼうや、何があったの。どうしてあんなに泣いていたの? おばあちゃんに話せるかしら」
なるべく優しく尋ねる。責めるのではなく、強要するのでもなく、促すような声掛けをした。ぐずぐずと涙をぬぐっていた少年は、少し声を詰まらせながらも、なんとか答える。
「おねえちゃんが、いない。おねえちゃんが、でてきてくれない」
それだけ伝えると、少年はまた泣き出してしまった。先ほどのような大声ではないが、それでもしっかりと声を出して泣いた。老婦人以外の人々も集まってきて、何事かと少年を見る。
泣き続ける少年を、野次馬の一人――老婦人がよく知るスラムの女性に預けて、彼女は持ってきたわずかな荷物のなかから、一本の鍵を取り出した。とある青年から預けられたそれは、彼女の家の合鍵である。
――タケナカは、無理しすぎるんだ。だから、僕がいない間、あなたにこれを預けようと思う。もし何かあったら、タケナカのことを支えてあげてほしい。
鍵を渡された時の会話を思い出して、老婆は扉に近づいた。この四区に『希望』を与えてくれた青年の言っていたときが、まさに今なのだと思った。
念のため、鍵を使う前にドアノブを回してみる。回りきらないそれに、やはり鍵はかかっているのだと教えられた。今度こそ老婦人は鍵を使う。確かな手ごたえとガチャリという音がした。
「タケナカさん、入るわよ」
扉を開けて、一応声をかける。だが、それでも返事はない。返事だけではなく、誰かがいる気配もなかった。さすがにおかしいと思って、失礼ではあるとわかっていながら、老婦人は無断で家に入った。ひとつひとつ部屋を確認するが、タケナカの姿はやはりない。
家から出て、集まっていた人々に事実を伝える。ひとりが「ただ帰っていないだけじゃないのか」と言ったが、老婦人は首を振って否定した。
「たぶん、違うと思うの。あなたたちも気づいていたでしょう。ここ最近、彼女、すごくしんどそうだったじゃない。あの男たちの噂もあったし……嫌な予感がするわ」
思い当たる節があったのだろう。彼らは一様にして黙り込んだ。そして、誰からともなく「彼女を探すため、あちらへ行ってくる」と言い出した。それぞれが散って、少年を抱えた女性と老婦人だけがタケナカの家の前に残った。二人は話し合って、これからの行動を決める。結果、老婦人はタケナカの家で彼女が帰ってくるかもしれない可能性を待ち、女性は少年を『家』に送り届けることとなった。
タケナカが都市の外周付近の路地裏で発見されたのは、それから三時間後のことだった。
◆◇◆◇◆
遠い記憶の片隅で、よく知る少年が泣いていた。不安げに自分を見上げ、体を震わせている。いつもなら抱きしめて優しい言葉をかけてくれる二人は、どこかへ出ているようでここにいない。それが余計、少年の恐怖心を煽っているのだろう。
ああ、これはあの日の記憶だ。いつかの日。もう忘れてしまいたい、だけど忘れたくない、そんな日々。その一コマだと、タケナカは少年を見て思う。少年はまだ泣き続けている。声は上げていなかったが、両目からこぼれる雫が止まる様子はなかった。
「だいじょうぶだよ」
幼い『タケナカ』が声をかける。まだつたない言葉で、なるべく彼を安心させるよう心掛けて。だいじょうぶだよと繰り返す。
――本当は、自分だって泣き出したいのに、それを我慢して。
「わたしがいるから、だいじょうぶだよ」
「あのひとたちみたいにつよくないけど、わたしがまもるからね」
「だってわたし」
◆◇◆◇◆
「……わたし、は」
夢は途切れた。薄暗い部屋も、泣いていた少年もいなくなる。代わりに、見慣れた天井と、驚いた表情で固まる義弟が視界に入った。
「ねえ、さん……?」
懐かしい呼び方だ。最後にそう呼ばれたのはいつだったか。夢の少年と現実の彼が重なる。現状を把握するよりも、彼を安心させねばと思って、タケナカは義弟の名前を呼んだ。
「マサムネ、」
そのあとに、何を続けたものか。タケナカは少しだけ考えて、あの日と同じ言葉を口にした。
「大丈夫ですよ」
「っ」
「だって、私は、あなたの義姉で――」
「っふざけてんじゃねえぞ!」
またもや言い切る前に、その言葉が途切れる。叫んだマサムネが体を起こしたばかりのタケナカに近寄り、その胸倉を掴みあげた。
「なにが大丈夫だっ! ぶっ倒れて、三日も眠って、そんな泣きそうな顔でっ! 何が、どこが大丈夫なんだよ! ふざけんのもいい加減にしろってんだ!」
「なっ」
いつもなら、それが姉に対する言葉遣いかと言っていたのだろう。だが、今のタケナカにそう言うことはできなかった。
マサムネは怒っている。眉間にしわを寄せて、ただでさえ目つきが悪い顔をさらに歪めて、叫んでいる。けれども。
「どう、して……」
おそらくタケナカだからこそわかった。幼いマサムネを知っている彼女だから、わかった。
「どうして、泣きそうなんですか……?」
怒ると同時に、マサムネは、涙をこらえているようだった。彼がなぜ泣きそうなのかわからずに、タケナカは困惑の声を上げる。マサムネは答えず、何も言わないでうつむいた。ゆっくりと、彼女の胸倉を掴んでいた手の力が抜けていく。
「……わかんねえのかよ」
「――ええ。わかりません。……おそらく私は倒れてしまったのでしょう。でも、だからといってあなたが悲しむ理由は」
「あるに、決まってるだろ!」
再び、マサムネが叫んだ。
「俺は、アンタの『きょうだい』だ。ゼロも含めて、家族なんだよ。その家族を、どうして心配しちゃいけねえんだ!」
「それ、は」
「……なあ、姉さん。俺は、頼りないか。俺は、信頼できないか。俺じゃあ、あんたの力になれないのか。異能がないから、ダメなのか?」
「なっ、違います! そんなわけないでしょう!」
思わず、タケナカも大声を出して否定した。「そんなわけ、ないじゃないですか」と続いた声は、近くにいなければ聞こえないような、小さなものだった。
「それなら、どうして俺を頼らねえんだよ!」
「……」
「全部聞いた。姉さんが警戒している奴らのことも、ここ最近の姉さんの様子も。四区のやつらが教えてくれた。アンタがゼロの代わりに努力しようとしているのは知ってるが――全部、一人でやる必要なんて」
「あるんですよ、マサムネ」
やはり小さな声で、それでも確かな意思を宿して、タケナカはマサムネの言葉を遮る。
「あるんです。私は、四区を守る義務があります。あなたの義姉である以上、あなたを守る義務もあります。当然、どちらにも理由だってあります。私は私の意志で、四区とあなたを守りたいと思っている。他のすべてを投げ出しても、私は守らなくてはならない。それに、今はゼロが不在です。私は彼に任された。彼のいない間、この区を守ることを任されました。だから、私はやらなくてはならない」
「――違うだろ、ソレ」
静かにタケナカの話を聞いていたマサムネが、少し間を取ってからそう言った。その声は落ち着いている。先ほどまで叫んでいた荒々しさはなくなっていた。
「俺は、確かにあんまり頭回んねえよ。けどな、それぐらいはわかる。今の姉さんは間違っている。ゼロが守れって言った四区の中に、姉さんだって絶対入ってる。ゼロは、姉さんがぶっ倒れるまで四区を守ってほしいとは思ってないだろう。それに――」
次に伝えるべきことを、どう表現するのか迷っているのだろう。「あー」と意味のない言葉を言って、しばらく。マサムネはタケナカの瞳を見て言った。
「ゼロだって、一人じゃできないことはあった。そういう時、ゼロはいつも、俺たちに『手伝ってくれ』って言ってただろ」
マサムネの言うとおりだった。ナンバーゼロは、いつだって一人で何かをしていたわけではない。動揺するタケナカに追い打ちをかけるが如く、マサムネはさらに続ける。
「なあ、タケ。俺の姉さん。アンタはすげえよ。だけどな、アンタは頑張りすぎた。もう少し、他の奴らを頼ったっていいんだよ。俺だけじゃない。四区の奴らだって、頼めばいくらでも力を貸してくれる。だから、一人で抱え込むなよ。ひとりで、泣くなよ。……みんな、姉さんの一言を待ってるんだ」
その言葉が。
その想いが。
タケナカにとっては、今もっとも必要だったもので。
つう、と。無音で、彼女の瞳から雫がこぼれ落ちた。
それをぬぐうこともなく、か細い声で、タケナカはようやく心の奥にあった想いを、言葉に出した。
「マサムネ、」
「おう」
「私を――私たちを、たすけて」
「ああ、いいぜ」
◆◇◆◇◆
男は闇に紛れるように、黒いマントを羽織っていた。マントの下には戦闘服。いつでも動けるように、右手にナイフを握ったままにしていた。
下見を繰り返してすでに半月が経っている。何度か『町』の住人と遭遇したが、彼らは誰一人としてこちらを追うそぶりは見せなかった。
男は下見によって得た情報を再度整理する。ターゲットたちの数はさほど多くなく、非戦闘員もいるようだった。異能というバケモノのような力を使う連中でも、数に押されてはどうにもならないだろう。まして非戦闘員がいるならなおさらだ。彼らは一様にして団結力が高いと聞く。それを利用して、全員を抑え込む。男がこれから行おうとしている作戦は、そんな概要だった。
なぜ依頼主が異能者を求めているのか、彼は知らない。異能という力についても、決して詳しいわけではない。ただ魔法とか超能力とか、そういった類の力であるとだけ、男は理解していた。
すでに男の仲間たちが、闇に紛れるようにして都市を襲っているはずだった。ここに残っているのは二十人ほど。町のすぐそば、曖昧な『内側』と『外側』の境界付近で、全員が息をひそめている。
男たちに与えられた役割は、逃げようとするターゲットをとらえることだった。現在、町の中では乱闘騒ぎが起こっている。戦えない者や手負いの者は町の外へ逃げ出そうとする可能性もあった。そういう者たちをとらえる。多少の傷は致し方ないとされていたので、容赦など一切するつもりはない。
ざわり、と町の中が騒がしくなる。ようやく始まったようだと、男も集中しなおした。誰かが近づけば、すぐにわかるように。そう、気を付けていた。
だが。
それでも。
「さすがに、突然現れては対処できないでしょう」
そんな女の声が聞こえると同時に。
男の身体は、生きることをやめた。
◆◇◆◇◆
これはいったいどういうことだと、自問する。当然答えなど返ってこない。ただ残酷で恐ろしい現実が、目の前で笑っていた。
「どういうつもりか知らねえがな、オマエらは、喧嘩を売っちゃあいけねえ奴らに喧嘩を売ったんだ。自業自得ってやつだよ」
東洋の刀を携えた男は、そう言って笑う。だが、瞳はまったく笑っていない。
「どうして、」
こんなはずじゃなかった。もっと、こちらが優勢で、一方的かつ圧倒的に蹂躙するつもりだったのだ。それなのになぜ。そんな疑問に答えるように、目の前の男は「決まってるじゃねえか」と言った。
「んなもの、オマエらがこの都市を、そんでもって四区の奴らを甘く見てたからだよ。ついでにアンタにはわけわかんねえだろうが、いいこと教えてやる。――俺はな、二区の連中にも声をかけてやったんだ。相手は外の奴だから、遠慮なんざする必要はない。腹の足しにもならねえ甘っちょろいやつらだろうが、ストレス発散程度にはなるかもしんねえ。容赦なくぶった切っていいから、オマエらちょいと、四区の奴らに手を貸してみねえか。そう言って、《災いの死神》にいるやつらを集めたんだ。ははっ、喜べよ。オマエらが相手にしてんのは、この都市でも過激な奴らばっかりだぞ。誰一人として情けなんざなくオマエらを殺してくれる」
何を喜べるのか、まったくわからなかった。いや、それ以前に、彼の言っていることの意味が、半分以上わからなかった。
それでも。確かにひとつわかることといえば。
「じゃあそういうわけで――死んでくれや」
とんでもないモノに手を出したという、どうしようもなく愚かな事実だけだった。
◆◇◆◇◆
「――と、いうことがありまして。これ以来、タケナカさんは、ちゃんと私たちを頼ってくれるようになったんです」
現実を侵食していた色褪せたセピアが、少しずつ消えていく。激戦区であった場所は一般的な雑貨屋へと戻り、大勢いた人々も、たった二人を残して消えた。
「ふうん。そんなことがね。というかさあ、やっぱりタケナカ無理してたんだ」
そう言って笑うのは、昔話をしてほしいと女性に頼んだ男、ナンバーゼロだった。彼と向かい合って立っているのは、一年前に雑貨屋の店主となった人物であり、『追憶の映画館』という異能の使い手でもある女性だった。
「ありがとう、話してくれて。僕がいない間に何があったのか、またいろいろ話してほしいな。――頼める?」
「もちろんですよ! それにですね、私、異能の扱いうまくなったんですよ。昔みたいに制御が効かないってこともなくなったし!」
「あはは。うん。それは本当に頼もしい。……それじゃあ、またお願い。今日は本当にありがとう」
「はい!」
笑顔で彼女は頷く。ナンバーゼロも、やはり笑顔で、店を出て行った。その背中が、彼女の記憶にあるタケナカのものと重なる。
すべてが片付いたあと、少女にお礼を言いに来たタケナカ。そのときの彼女は、以前よりずっと頼もしく見えて。
「こんにちは、買い物、いいでしょうか」
「! はい、もちろんです――タケナカさん」
彼女は笑ってタケナカを出迎える。
そして。
いつもと変わらい、少しだけにぎやかになった日々は、今日もまた過ぎていく。