前篇
強さとは何か。
意義とは何か。
責任とは何か。
正解とは何か。
〔なかないでと、きみはわらう〕
空には満月が昇っていた。雲一つない、きれいな夜空。星が輝く様子も、しっかりと地上から見上げられた。
彼も今、この夜空を見上げているのだろうか。ふとそう考えて、ばかばかしいとタケナカは首を振った。地球上のどこかで生きてはいるのだろうが、どこにいるかまでは把握していない。彼が太陽のもとにいる可能性だって、十分にあるのだ。感傷に浸っている場合ではないと、自分を叱咤する。
哨戒のために夜の見回りを初めて、すでに五日が経過していた。今のところ、目立った騒ぎも怪しい人影も見られない。それでも気は抜けずにいて、肩に力が入ってしまっていた。ふっと息を吐きだして、力みすぎた心と体をほぐす。
「杞憂であればいいのですが」
目を伏せて、小さくタケナカはつぶやく。今、ナンバーゼロと呼ばれた彼はいない。自分がしっかりしなくてはという思いが、どうにも重荷になっているようだった。それでも、彼に四区の統率を任されたのだ、弱音は吐けなかった。一度でも弱音を吐けば、それは、自分の意思を崩してしまいそうだった。
「……いえ、そんなことを考えている場合ではありませんね。集中、しないと」
自身に言い聞かせるように、彼女は言葉を紡ぐ。それから、もう一度だけ空を見上げて、遠くにいるだろう恩人へ思いを馳せた。一秒にも満たない短い時間。それで彼女は終わりにして、異能を使い、移動した。
◆◇◆◇◆
彼女がその噂を耳にしたのは、偶然だった。意図したわけでも、情報を集めていたわけでもない。世間話として、その話を耳にした。
「黒服の男たち、ですか」
「ええ、そう。タケナカさんは、見てないの?」
「そうですね、外からやってきたと思われるような人々には、ここ最近遭遇していません」
四区の一角にある小さな雑貨屋での出来事だった。買い物を済ませたタケナカに、店主の娘である少女が声をかけてきた。
「あのね、最近、都市の近くを黒服の男たちが徘徊しているみたいなの。まだ内部に入ってきてはいないんだけど、どうも、四区付近をウロチョロしているみたいなのよね。怪しいから、一応伝えておこうと思って」
「……そうでしたか。ありがとうございます。こちらも気を付けるようにしましょう。もし、また何かあれば伝えてください」
「うん。わかった。気づいたことがあれば伝えるね」
少女は笑って、タケナカもそれに笑顔で応えた。では、と言って店を出ようとしたタケナカに、少女が「そうだ」と声をかける。
「タケナカさん、無理しちゃだめだからね。確かにあの人はいないけど、四区のみんなはいつでも力を貸すんだから。一人で背負い込んじゃだめだからね」
「……ええ。わかっていますよ。ありがとう、その気持ちがうれしいです」
今度こそ、タケナカは店を出た。そしてすぐに、息を吐く。最後の少女の言葉が、頭の中で反響していた。
「……そんなに、わかりやすく無理をしているように見えたのでしょうか」
つぶやいた言葉に、返事はない。もう一度息を吐きだして、タケナカは歩き出す。
無理をしていた自覚はあった。だが、それを表に出さないようにしていたはずだった。少なくとも、タケナカはそういう努力をしていた。下手に四区の住人を不安がらせてはならないと思って隠すつもりだったのに、どうやらバレてしまっていたらしい。
「まだまだ、というわけですか」
自己嫌悪と、疲労とがごちゃ混ぜになった、深いため息が再び吐き出された。ここに彼がいたなら「ああ、ダメだよ、タケナカ。幸せが逃げるぞー」とでも言ったのだろうか。笑顔の彼を思い浮かべて――すぐにこれではだめだと思いなおす。いつまでも彼に頼りきりではいけないのだ。
それが無理をしているのだ、ということにタケナカは気づいていない。仮に気付いたとしても、改めることはないだろう。彼女はそういう人間で、そういうタイプの人種だった。
思考を切り替えたタケナカは、先ほどの少女が話題にした黒服の人物たちについて考え始める。都市の近く、それも、なぜか四区周辺にしか現れないらしい彼ら。一言で表すなら。
「怪しすぎますね」
警戒するには十分だった。もとより、四区には異能という特異性を有した人々が多い。それを狙っていることだってあり得ない話ではなかった。
異能。超能力や魔法などとも似たような『超次元的能力』の総称である。発現理由は様々だが、生きるために生まれたものが多いらしい。かくいうタケナカも、『生きる』ために異能を発現させた一人だった。
タケナカの異能は『座標指定』という。異能の名前は自分でつけることも、他者によって命名されることもある。彼女の異能は前者のタイプで、そのシンプルな呼称がタケナカの性格を表しているようだった。
座標指定は、『空間』と『空間』を入れ替える能力である。結果だけ見れば瞬間移動と変わりないように見えるが、異能を使用する本人に言わせてみれば、まったく違うものだ。座標指定はあくまで入れ替えであり、転送ではない。指定した場所――座標に物があればそれごと入れ替えるのである。自分が行きたい場所に道具があれば、かわりに自分のいた場所にその道具がやってくることとなる。慣れない間は使いにくい異能だ。
しかもこの異能には制限がある。自分の視界の範囲でしか入れ替えができないのである。例外としてタケナカの自室があるものの、正直それは戦闘において意味をなさない。
ただし、買い物帰りにはこの例外が役立つ。いくら物を買っても、すぐに自室へ戻れるからだ。今回はそこまで荷物が多くないので異能を使うつもりはないが、体力も時間も節約できるこの帰宅方法を、彼女は愛用していた。
「……ついでですし、情報収集でもしていきましょうか」
ふと思って、自室へ向いていた足を、くるりと方向転換させる。先ほどの少女が言っていた噂について、さらに詳しい情報がほしい。そう考えての行動だった。
荒廃都市、と称されるコンコルディア。それなりの広さを持つこの町は、現在四つ――中立地帯を合わせるなら五つ――の区域に分かれている。それぞれの区域には特色があるものの、特別な名称はなく、単純に『一区』『二区』『三区』『四区』とそれぞれが呼ばれていた。
各区域は、平等な土地配分がされているわけではない。その境界もあいまいだ。そのため、正確な土地の広さを比べることはできない。だが、一区が最も広く、四区が最も小さいというのはこの都市における常識のようなものだった。
タケナカは、その『最も小さい』四区の住人で、まとめ役だった。一区が宗教団体、三区が商業組合によって統治されているように、四区にもそういった集まりがある。そのトップ――ではなく、サブトップが彼女なのである。
四区の住人は《愚か者達》と呼ばれる。これは侮蔑でなく、そういう集団であるというだけの名称だった。流れ者、はぐれ者。そういった人物たちの集まり。『組織』ではなく『集団』と称されるのも、そこが原因だろう。
《愚か者達》に属する人間は、その八割が異能を持っている。これは意図しているわけではなく、自然とそうなるのだ。社会に適合できない人間が、一般人になじめない人々が、独自の集団を作るように、異能者もまた異能者同士で集まり、グループを結成した。その結果が《愚か者達》であり、そのトップを支える立場なのがタケナカだった。
現在、四区のトップはこの都市に居ない。その結果、まとめ役――トップの代理となったのは当然のごとくタケナカだった。彼女は嫌がることもなく、それが自分の役目ならばと引き受けた。
(私は、だからこそこの区に住む人々を守らなくてはならない)
言い聞かせるように、彼女は声に出さずそう紡いだ。腕に抱えた紙袋が、がさりと音を立てる。太陽はまだ、頭上で輝いていた。
◆◇◆◇◆
「怪しい人? ああ、あの人たちね。私が見たときは三人くらいだったかなぁ。こうね、全員がサングラスかけて、スーツ着て、じぃっとこちっを見てるのよ」
「黒服? うん、見たぜ。たった一人で、都市の入り口付近をウロチョロしてんだ。俺を見たら、慌ててどこかに消えてったけどよ」
「ええっと都市の外でうろつく人たちねぇ。うぅん。いや、見たわよ。でもね、様子がちょっと変だったのよ。私、おばあちゃんだけど、異能のおかげで目はいいからね。遠くに、同じような集団がいるの、見えちゃったの。人数? さあ……三十人はいたんじゃないかしら」
◆◇◆◇◆
「そうですか。ありがとうございました」
お礼を言って、タケナカは情報を提供してくれた老父に頭を下げた。彼の家の扉を閉めて、夕日が照らす道を歩き出す。
十数人に質問をしたところ、七割の人から「見たことがある」という返答をもらった。だが、彼らの証言はそのほとんどに差異があった。
ある女性は、三人ほどの少人数と言った。
ある少年は、たった一人の男だと言った。
ある老婦人は、数十人もの集団だと言った。
黒服の男性であり、決して都市に入ってこないというのは共通していた。ただし、人数だけは人によってマチマチだった。異能を使ったという老婆はまだわかるとして、他の人々の証言で、ことごとく人数が違っている。タケナカは、それがどうしても気になった。
(こういうときに、彼が――)
その続きを言いそうになって、ひゅっと反射的に息を吸う。そうすることで、続けそうになった言葉を無理やり止めた。一瞬の後、タケナカは飲み込んだ言葉ごとため息として吐き出した。
「だから、私は……」
弱い。
その一言を紡ぐ代わりに、彼女は無理やり切り替えた思考で、聞き込みの成果を吟味する。
「……何らかの集団、それも組織的な『外部』の集団が、四区に目を付けた?」
なぜ、という疑問は起きない。むしろ、なるほどと納得するくらいだった。
四区は異能者の集まりで、異常性のカタマリだ。非異能者もいるが、だからこそ超能力のような『異能』の特異性は目立つ。そこに興味を持ち、たちの悪いことに『研究対象』などと思われてしまうことは――
「……認めたくはないですけれど、つまりはそういうことでしょうね」
相手がどういった人物で、どういった組織なのかはわからない。そもそも、この推測にだって絶対的な証拠があるわけではなかった。それでも、それはほぼ確信で、断定だった。
――四区が、異能者が狙われている。
その事実は、タケナカの気を引き締め、かつ警戒させるのに十分すぎる材料だった。まったくもって不愉快だと、声ではなく表情に出す。それを見届け受け止める人はいない――はずだった。
「おい、タケ。またずいぶん不機嫌そうだが――何かあったのか?」
聞きなれた声だった。それでも突然かけられた声に、思わずどくりと心臓が跳ねる。平然そうに装って、精いっぱいの虚勢を張って、彼女は声に応えた。
「マサムネ、ですか」
おう、と男は返事した。マサムネ。タケナカの血のつながらない弟にして、二区のトップ。愛刀である刀を携えて、彼はタケナカの前に現れた。
「あれほど、きちんと名前を呼ぶように言っていたでしょう。未だにそれも守れないとは、あなたの脳は綿菓子か何かですか。いえ、それより、なぜトップであるあなたがここにいるのです。自分の区はどうしたのです」
畳みかけるような罵倒を、流れるような雑言を、あいさつ代わりにマサムネへ投げかける。嫌そうな顔をしながらも、マサムネはきちんと一つ一つに応えた。
「うるせぇな。いいじゃねえか、タケで。あと俺のノウミソは別に綿菓子じゃない。区の方は、あー、まあ、大丈夫だろ。厳重な管理とか、やってねえし。いつも通りあいつらは好き勝手するさ」
おや、とタケナカは思う。いつもなら、マサムネは必ずタケナカを「ババア」と言って怒らせる。今回はそれがなかった。マサムネにしては驚くほど――というか、むしろ心配するほど、落ち着いた返答だった。
「ま、マサムネ、何か、へんなものでも食べましたか。落ちているものを拾うなとは言いませんが、せめて、食べられるものと腐っているものとの見分けくらいはつけるようにしなさい。下手になんでも口に入れては――」
「あ? 何言ってんだ? ……やっぱりタケ、お前、変だぞ」
マサムネを心配するタケナカへ向かって、彼は逆に「変だ」と言って心配する様子を見せてきた。「暴言に勢いがねえし、表情は硬ぇし、焦ってる」とマサムネは続ける。
「おいタケ、やっぱり何かあるんだろ。それとも、何かあったのか」
疑問という形をとっていながら、それは断言だった。タケナカは、ぐっと言葉を詰まらせる。図星だった。
それでも「別に、何でもありません」と言ったのは、姉としての強がりで、トップ代理としての意地だった。「ふうん」と答えたマサムネに、それで終わればよかったものを、タケナカの『意地』が余計な一言を付け足す。
「そもそも、あなたには関係ないでしょう。おとなしく二区で暴れていればいいじゃないですか」
ここに、「おとなしくと暴れるは矛盾する」と突っ込みを入れる人間はいない。そっけなく言い放たれた言葉を受け止めたマサムネは、もともとの沸点の低さがあって――そしてそれ以上に『弟』として、彼女の言葉に青筋を立てた。
「ああそうかよ! 結局タケはくそババアってことか!」
「なっ、姉に向かって……!」
「うるせぇな。ああもういい。いいぜ、俺は関係ない。知ったことか。勝手にしろよ、くそババア!」
叫ぶように放たれた言葉は、四区の路地に大きく響き渡った。何事かと住人たちが顔を出すのを無視して、不機嫌だと態度で示したまま、マサムネは四区を去っていく。その背中を呆然と見つめながら、タケナカはなんとか持ち直して、顔を見せた住人に「騒がしくしてすみません」と謝った。そのまま、逃げるように異能を使って自室へ戻る。
(私は、間違ってない)
涙をこらえるように、唇をかみしめてタケナカはそう無音で言う。
(私は、マサムネを巻き込んではいけない)
それは自戒のようで。
(私は、責任がある)
ただ自分を攻撃するだけのナイフだった。
◆◇◆◇◆
それからタケナカは、夜に一人、四区の見回りをするようになった。当然、謎の黒服たちを警戒してのことである。異能を使いつつ、都市の外周にあたる部分を中心として見回りを進めていく。一人でそれをこなすのはなかなかに大変な作業だったが、それでも彼女は誰かを頼ろうとはしなかった。
太陽が沈み、月が昇り、人々が寝静まれば彼女の活動が始まる。朝陽が昇りだして住人たちが見えだすと、こっそりと異能を使って自宅へ帰る。その後、数時間の仮眠をとって何でもないように四区を歩く。当然これも、警戒のためだった。途中で噂を仕入れては、情報を吟味し、そして夜になればまた見回りを始める。
無茶としかいいようがないスケジュールだ。医者や彼女の敬愛するナンバーゼロならば、叱って止めただろう。実際、彼女は日に日に体調を崩していった。五日目の今日だって、重たい体に鞭を入れて見回りをしている。そろそろ限界だろう。そうは思っても、自分が見回りをしなかった日に何かあれば。タケナカはそちらの方が怖かった。
だが、それでも限界というものは存在する。無理だと体が叫ぶことはよくある。明日の昼はゆっくり休もう、とタケナカは決めた。さすがに、無理をし過ぎたようだった。
ふらりふらりと、あてもなくただ四区を歩く。疲労がたまっていても、神経だけはしっかり研ぎ澄ませ、わずかな異変にも気付けるよう努力した。
それが功を奏したのだろうか。タケナカは、すぐに『それ』に気づいた。いや、気づいたというよりは悟ったと、そう表現した方がいいかもしれない。
まず感じたのは違和感だった。いつもはないはずのものがある。そんな違和感。歩みを止めて、ぐるりと周囲を見渡す。寝静まった建物と、荒れた土地。酒場は遠く、月明かり以外の光はなかった。
「……?」
いつもと変わらない景色だ。それでも、タケナカは違和感を覚えた。注意深くあたりを見て、その正体を探ろうと試みる。家に異常はない。荒れた道もいつも通り。明かりもなくて――。明かりが、なくて。
そこで彼女は、ようやくそれに気づけた。
「明るい?」
やけに明るい気がした。満月だから、という理由ではとうてい説明できそうにない明るさだ。もう一度、ゆっくりと周囲を確認する。一度違和感の正体に気づけば、すぐにその原因も見つけることができた。
荒れた土地――都市の『外』にあたるそこに、いくつかの光が揺れていた。強い明かりではない。焚き火を遠目に見ているような、そんな光だった。じっと目を凝らせば、それが小さな明かりの集団だということもわかる。それらはふわふわと揺れながら、少しずつ遠ざかっていくようだった。
タケナカは、二通りの案を思い浮かべた。一つ目は、異能を使い光の正体を確かめること。自分の隣の座標と、あの光のうち一つの座標を入れ替えたならば、すぐにその正体がわかるだろう。
だが、と彼女は思案する。
(リスクが大きい)
光の正体は松明ではないかと、タケナカはあたりをつけていた。何者かが持っている松明。あるいは、それに準ずるもの。問題はその持ち主だが、これはきっと例の噂の男たちだろう。異能を使えば彼らと接触できるかもしれない。だが、そうすれば彼らに自分の異能をばらすことになってしまう。彼らの目的がはっきりしない今、異能の詳細は隠しておきたかった。
リスクとリターンとを図り比べて、タケナカは二つ目の案を取ることにした。静観である。今はまだ何もしない。ただ、明かりが遠ざかっていくのをその目でしっかりと見届けるだけに済ませた。
明かりは次第に小さくなっていく。数分もすれば、それはもう見えなくなった。それほどまで遠くに消えたのか、それとも明かりを消してしまったのかはわからなかったが、ひとまずは大丈夫そうだと、タケナカは息を吐き出す。
(彼らは、私に気づいて遠ざかったのでしょうか)
明かりを持った何者か。複数人だったことは間違いないだろう。タケナカが気づくまで、この都市に接近しようとしていた、という推測も、おそらく間違っていない。
そう考えると、数日前の昼間に立てた推測に繋がってくる部分もある。
四区をうかがっていた謎の男たち。
異能という特異性。
遠くで構えていた複数人の集団。
タケナカを見て遠くへ去った光の群れ。
(そういえば、彼が)
何かを、言っていたような。
思い出そうとしたところで、ぐらりと視界が揺れた。浮遊感と倦怠感が、タケナカを襲う。チカチカと点滅を繰り返すような光が目の前に現れた気がした。この感覚を、彼女は知っている。だからといって抗えるわけでもなく。
(限界、ですか)
黒く、意識は塗りつぶされた。
◆◇◆◇◆
「……」
「えぇっと」
「……」
「そのぅ……」
「……」
「うううううちに何か御用でしょうか」
少女は、不機嫌そうな男を前に、そう縮こまって尋ねた。これがただの男で、そいつがただ不機嫌なだけであれば、ここまでおびえることもなかっただろう。問題は、彼が【将軍】と呼ばれる人物だということだった。
【将軍】マサムネ。少女は彼を知っていた。少女でなくても、都市に住む人間なら彼のことを知っているだろう。彼女の住む四区のサブトップ――タケナカと違い、彼女の義弟であるマサムネは有名だった。
第二区のトップで《災いの死神》の頭。その戦闘能力は、異能者であっても敵わないとされる。なぜそんな人物がうちに来たんだ。少女は心の中で叫ぶ。
「……なぁ」
「はいいいいっ! な、何用でございましょうか!」
不機嫌そうなしかめ面で黙り込んでいた相手に、突然声をかけられて、動揺したまま悲鳴のような返事を返す。やってしまった、斬られる。少女はそう思ったのだが、マサムネは気にしていないようで言葉を続けた。
「オマエ、タケのことはもちろん知ってるんだろ」
「た、タケナカさんでしょうか! もちろん存じ上げてございます!」
「あーじゃあ、さ。あいつがここ最近、ヘンなのも知ってるか?」
「え、タケナカさんが、ですか?」
意外な質問に、思わず恐怖も忘れて聞き返してしまう。少女の質問に、マサムネは「ああ」と頷いた。
「なんか、ヘンなんだよ、タケ。俺はうまく説明できねえけど、とにかくヘンなんだ」
「はぁ、ええと、そうですねぇ……」
宙を見上げるようにして少女は記憶をたどる。ここ数日でのタケナカとの会話を思い出して、その様子をなるべく鮮明によみがえらせようと試みた。
「ええっと、昨日、会話した時は特にヘンな様子は見られなかったと思うんですけど……」
「あ? 本当かよ、それ。俺が五日前に会ったとき、もうあいつヘンだったぞ」
「ひっ、す、すみません!」
思わず頭を下げて謝る。マサムネが「なんで謝ってるんだよ」と聞いてきたが、なぜ謝っているのか、少女にもわからなかった。
「あ、でもそういえば」
ふと、思い当たることがあって少女はぽつりと漏らす。
「タケナカさん、無理しているような感じはありました」
「……どういうことだ」
眉を寄せて尋ねるマサムネに、少女は数日前――具体的に言うならば、五日前の記憶を引っ張り出す。「えっと……」と少女が呟くと同時に、あたりの風景がフィルム映画のように色褪せ始めた。
「あの日、タケナカさん、うちに買い物に来たんです。そう、ペンのインクが切れたって言っていました」
少女の言葉に対応するように、軍服姿の女性が色褪せた室内に現れる。それは紛れもなくタケナカだったが、やはり彼女も色褪せた配色で、体が湯気のように揺らめいていた。
(――異能か)
その不思議な現象を見て、マサムネは瞬時に判断した。この時のマサムネはまだ知らないことだが、少女の異能は『追憶の映画館』と言い、過去を現実に投影するものだった。少女が未熟なためか、異能は無意識に発動されることが多い。投影も完ぺきとは程遠く、おぼろげな幻でしかなかった。おそらく今も、少女は異能を発動している自覚はないのだろう。『無音』という異能の特徴故、気づくこともない。
「インクの替えと、ロール紙を一束。それから、『外』の商人さんから仕入れたメモ帳を一冊買っていかれました」
幻影は、カウンターに近づく。その手には確かに、少女が挙げた三つの商品が抱えられていた。幻影の少女が受け取って、紙袋へそれらを詰める。タケナカが何やら喋って、笑顔で代金を渡した。
「それで――そう。私、タケナカさんに黒服の人たちの話をしたんです。噂を知っているか確かめたくて、知らないなら、伝えなくちゃって思って」
立ち去ろうとしていたタケナカの幻影が立ち止り、再びカウンターに近づく。会話を交わしていたその幻影が、何かを考え込むようにして手をあごへと当てた。
「でも、伝えたら、タケナカさんの纏う空気が、すごくピリピリし出したんです。前から……ゼロさんがいなくなってから、そういうことは何回かあったんですけど、その日は本当にひどかった。タケナカさんに自覚はなかったんでしょうけれど、目の下に隈があって、少ししんどそうでした。それで、心配になって、帰ろうとするタケナカさんに『無理しないで』って言ったんです」
今度こそ立ち去ろうとしたタケナカに、幻影の少女が言葉を投げかけた。もっとも、再生された五日前に音はないので、口の動きと二人の反応からしてそうだ、と予測したに過ぎない。タケナカが、少し困ったような笑みを携えて、店を出た。
色褪せたセピアは、そこで途端にはじけた。五日前から今へと、景色が戻ってくる。そうすることで少女ははじめて、自分が異能を使っていたのだと気づいたようだった。慌てたように――というより、実際に慌てて、マサムネに頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 私、また、無意識に……!」
「いや、いい。つーか、さっきのやっぱり異能なんだな」
「は、はい。私、まだ全然この異能を使い慣れてなくて……ごめんなさい、驚かせましたよね」
「あ? 別に、平気だったぞ。おまえ、タケの異能知ってるだろ? あれの方が心臓に悪いっての」
「え……?」
タケナカの異能――『座標指定』と心臓に悪いという言葉がうまく繋がらず、少女は首を傾げた。四区で異能を使うのは、緊急事態の時だけで、特に心臓が悪いという使い方をされた記憶はなかった。少女の反応を見て何かを悟ったらしいマサムネが、憐みを込めたような視線を送る。
「オマエ……いや、オマエらか。騙されてるんだな、あいつに。かわいそうに……」
「え、え?」
かわいそうに、というのはどう頑張ってもマサムネの本心にしか聞こえなかった。だからこそ、少女は困る。
「あのな、アイツは――」
マサムネが少女に説明しようと口を開いた。「くそババアだ」と続けようとしたその声は、しかし突如開かれた扉によって遮られる。
「おい、親父さんはいるか!」
扉を開けたのは、一人の青年だった。汗を流し、息を切らしている。何事かと目を見開く少女と、言葉を遮られたことで不機嫌になっているマサムネ。その二人を無視して、青年は叫ぶように事実を伝えた。
「タケナカさんが倒れてる! 医者を呼んでくれ!」