ノアの影(3)
「こんにちは、シャーロ」
「……、あんたか」
「うん。僕だ」
音も、気配もなく、その人物はシャーロの背後に現れた。商館の一室、シャーロに与えられた部屋でのことだ。神出鬼没な彼──ナンバーゼロのことをよく知るゆえ、シャーロは声をあげて驚きはしなかった。それでも唐突すぎる訪れに一瞬だけ息を詰まらせる。目を細めて、シャーロはゼロを見た。
「いきなり背後に立つのはやめてくれ。俺はあんたたちと違って、人の気配を感じることなんてできないんだ」
「ああ、ごめん。それより、アリアさんいるかな」
顔にはいつものように笑顔が浮かんでいる。だが、その口調はどこか焦りを感じさせた。常に──非常に苛立たしくもあるが──余裕な態度でいるゼロにしては珍しい。「残念だが、あいつは今ここにはいないぞ。商談に出掛けている」初めははぐらかそうかと考えたシャーロも、その様子を見て真実を伝えた。
「へえ、商談。大変だね」
「今回のはかなり重要なものだからな。あいつがいけば、間違いなく有利に進められる」
「ああ……そうだね。アリアさんは、あの人と同じで下手に終わらせること 、ないもんね」
含みのある言い方に、シャーロはすぐ気づいた。ゼロの指す『あの人』が誰なのかにも気づいて、何とも言えない表情をした。
「あの人は今、関係ないだろう」
「直接はね」
「……? おい、あんた、それはどういう……」
「ねえ、『私の小さな絵本』って言って、君は何を思い浮かべる?」
「…………、……ああ。なんだ、それが、あんたの伝えたかったことか」
シャーロが動揺を見せたのは、瞬き一回にも満たない時間だけだった。思案するように目を伏せた彼は、しばらくして呟きを漏らす。
「パトラシアの時から、だな。それと一区」
「うん、やっぱりそうだよね。……僕は独自に動くけど、どうする?」
「アリアに伝えて、それから決める。最終的な判断はあいつに任せるつもりだ」
「ふうん。そう。わかった。それじゃあ、よろしくね」
ゼロは窓に近寄って、そこに足を掛けた。飛び降りる寸前で、思い出したように彼は「そうだ」と声をあげる。
「ねえ、シャーロ。別に、ゼロって呼んでいいんだからね。僕は、別に君を恨んだりしてない」
「…………ああ。あんたは、そういう人だ」
頷いてそう返したシャーロに、ゼロは小さく肩をすくめた。だが、それ以上はなにも言わずに、静かに窓の外へと身を踊らせる。一人残されたシャーロは、小さく息を吐いてから窓を閉めた。ここからゼロの姿を確認することはもうできなくなっていた。