ノアの影(1)
「……ゼロ」
「ん? あ、タケナカ。どうしたのさ」
鐘の塔の最上階で、特に何をするでもなく地上を見下ろしていたナンバーゼロは、タケナカに呼ばれて振り返った。いつもの軍服に身を包む彼女の顔はひどく険しい。
「異能を、使いましたね」
「……さあ、どうだろうね」
「はぐらかさないでください」
タケナカの問いかけに、ゼロはわざと大袈裟に反応して見せた。両手をあげて、首をすくめて。まるでお芝居のようなその仕草は、ゼロという人間に限ってみれば珍しいことではない。一々目くじらを立てるようなことでもなかった。だが、今だけは話が別である。タケナカの眉間のシワはますます深くなった。
「わかっているはずです。あなたの異能なのですから」
「うん。そうだね」
「……私も、マサムネも、あの子も……あの人だって、あなたが──」
「言わなくていいよ。わかってるから」
ひらひらと片手を振って、ゼロは再び地上を見下ろす体勢になる。背を向けられたタケナカは、それでも言葉を続けた。
「わかっているのなら、どうして。一体何が──」
「『私の小さな絵本』」
タケナカの話を遮るように、ゼロは一つの単語を口にする。訝しげにシワを深めたタケナカだったが、すぐに何かに気づいたようで「まさか」と小さな声で言った。
「そのまさかだよ。最初はちょっとした違和感。嫌な予感がして自分で使ってみたら──ドンピシャだ。どうもおかしかった箇所が幾つかある。一回気づいたら、それはもう嫌というほど意識する違和感がね」
「──ッ、今、気づきました」
「はは、結局僕らは、役者でしかなかったわけだ。もっとも、今はもう違うけれど」
「……いつから」
「僕が帰って来てしばらく。たぶん、パトラシア・J・アルゼフが動き出した頃」
「……マサムネが、賢者の石という単語を聞いて、すぐに暴れなかったのも、おかしかった」
「僕たちが、あの夜までそれに関する話し合いをしなかったのもだ」
自己嫌悪になるよ、とゼロは言った。タケナカも悔しそうに顔を歪めている。
「……あれは、誰だと思いますか」
ぽつりと、タケナカが呟くようにしてゼロへと尋ねた。わずかに込められた嫌悪に気づけるのは、おそらくゼロとマサムネだけだろう。もっとも、後者はこの場所にいないのでどうにもならないのだが。
「僕の予想だと、あの子だね。正確には、あの子の名前」
「騙っていると」
「うん」
端的に、けれども伝わるように、二人は言葉を選んで会話を交わす。「タケナカ、お願いがあるんだけど」ゼロはそう言って、タケナカに向き直った。
「アインは既に気づいているだろう。だから問題ない」
「……マサムネ、ですね」
「はは、うん、話が早くて助かるよ。頼んでもいい? タケナカが言われて気付けたんだから、マサムネも大丈夫」
「……ゼロはどうされるのですか」
「僕はアリアさんとシャーロに伝えるよ。あ、他はいいからね。知らない子に伝える必要はない」
「わかりました。……では」
一礼した後、タケナカの姿が掻き消える。空中遊歩さながらな移動手段で、マサムネのもとへ向かったのだろう。ゼロはすぐには動かないでしばらく瞳を閉じいた。感傷に浸っているようでもあるが、実際はどうなのだろう。何かに祈りを捧げているようにも見える。
「……お前らがそのつもりなら、僕だってそれ相応の手を打つからね。覚悟しておきなよ」
やがて、瞼を開いた彼はそう呟く。そのままゆっくりとした足取りで鐘の塔の螺旋階段を下りだした。
かつんかつんと、ゼロの義足が音を鳴らす。それに消されるほど小さな声で、だが確かに、彼は言葉を紡いだ。
「──アリシアさん、ごめん」