前哨戦エピローグ
「ああ、よかった。ちゃんと会えて」
そんな声がネイヴに掛かったのは、夕日が半分ほど沈む頃、夕と夜の境目ともいえる時間のことだった。
先日発売された文庫本と、以前より手配を頼んでいた専門書の二冊を第三区へ取りに行った帰り、白衣の男が区の境界あたりで声を掛けてきた。その声に聞き覚えはない。だが、姿には見覚えがある。
「パトラシアさん、ですか。噂はかねがね。あなたの本も幾つか読ませて頂いています」
「本? ……ああ、あのメモか。まさかあんなものが商品として成り立つなんて、思っていなかったんだけどね。私は自分の為にあれらを記しただけだったから。……いや、そんなことはどうでもいいんだ」
ゆるりと首を軽く振ったパトラシアは、表情を少しだけ堅くしてネイヴの瞳をじっと見つめた。彼が何かを言おうと口を開くよりも早く、ネイヴは言葉を紡ぐ。
「『万能の書』」
その言葉に、パトラシアはさして驚いた様子を見せなかった。予測していたのだろう。ネイヴが彼の接触とその目的を理解していたように、パトラシアもまたネイヴがその事実へたどり着いていることを『知って』いた。天才と名高い青年だ。それぐらいできてもおかしくはない。
「わかっているなら話が早い。ご存じの通り、私はそれを求めている。関連書籍を持っていたという君なら、何か知っているのではないかな?」
ネイヴは眉を潜めた。わかってはいたし、予測もしていたが、いざ書籍について言われると嫌な記憶が蘇る。先日その件で上司を責めたばかりだというのもあるのだろうか。やけに鮮明に記憶が思い出された。
だが、ここでそれについて彼に何かを言う必要はない。伝えるべきことはすでに決まっている。
「パトラシア博士。僕は貴方を尊敬しています。だからこそ、僕があなたに言えることはひとつ。『あきらめろ』、と」
「……それは、どういうことだい?」
「あれを求めてはなりません。今の貴方がしているように、調べるだけなら構わないです。かつての僕も参考書籍を読みあさり、文献を片っ端から調べていった。もっとも、その全てが今は失われていますが……いえ、それは今は関係ありませんね」
くすり、とネイヴは笑う。対照的にパトラシアの顔つきは険しくなっていた。天才と呼ばれた青年は、はじめて『相手を読めない』という状況に陥っていた。
それは何も、ネイヴの語りが上手いとか、ポーカーフェイスができているとか、そういう類いの理由ではない。天才は自分の望むことに対してひどく盲目的だ。ただそれが、悪い方へと作用しているに過ぎない。パトラシアは『あきらめろ』という言葉に拒絶を示し、そこから導かれる筈の予測を自分で塞き止めていた。
そんなことは露も知らず。ネイヴは表情を再び真剣なものへ戻して続きを紡ぐ。
「現在、貴方が聞き回るお陰で多くの噂が出回っています。眉唾と笑われるようなものから、確かな証拠のあるものまで。その噂のほとんど全てが、事実だと思っていい。事実とまではいかずとも、それに近しいものだってあります。火のないところに煙は立たない。……ええ、そうです。第一区で言われていることだって、完璧な嘘とは言えません。ですが、出回っているものだけが全てではない。誰も知らないことだって、事実として存在する。……ふむ、少し言い回しが堅苦しくなりましたね。では、端的に纏めましょう」
ここでネイヴは一息おいて、厳しい目でパトラシアのそれを見つめた。視線が交錯し、二人の間から周りの音が消える。
「パトラシア・J・アルゼフ。貴方が求めているものは危険だ。命惜しくば、あきらめろ」
暫しの間、沈黙が続く。およそ数分の後、それを破ったのはネイヴだった。
「……僕からは以上です。これでもなお情報を求め、果ては実物を求めるのであれば、他を当たってください」
パトラシアは何も言わなかった。じっとネイヴを見つめて、険しい顔つきのまま踵を返して消えていく。ネイヴもまた、その背に声を掛けることはしなかった。
こうして、およそ十分の小さな邂逅は呆気なく終わる。パトラシアが新たに得た情報はなく、ネイヴも尊敬する青年の意思を変えられなかった。ただそれだけの、小さな出来事だった。