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Gin

ビジュー

作者: 志摩


 空は青く澄んで、太陽の光が目に眩しい。

十一月の半ば過ぎ、朝晩の冷え込みが厳しくなってきたが、日中の日差しのおかげかまだ暖かい日が続いていた。

澄んだ空気のおかげか、パイプオルガンの音が遠くから響いて来る。音を追ってみると、ウェディングチャペルがあった。

しばらくしてドアが開き、そこから続々と人が出て来た。

若い男女が集まって、新郎新婦を囲む。皆嬉しそうに口を開き、話に花が咲く。

付き合って十年の記念日だからと、真冬の寒々としたこんな日に、豪華な式をやっていた。

その輪から外れた場に一人、男が立っていた。

煙草を吸いながら、空を見上げている。

線の細めの、弱そうな体躯。二十歳とも四十歳とも、言われればそう受け取れる顔立ちだった。長く吸うのを我慢していたのか、吸い終えてすぐに次に手を出す。メビウスだった。

この男、金子といった。

あとは食って飲んで騒いで、楽しまなければ損だ――金子はつまらなそうな顔をしてそう考えていた。

花嫁の傍に立つ新郎は会社の同僚に、こんなに綺麗な奥さんだよ――と鼻高々に自慢していた。

金子はチャペルから移動して、披露宴会場に入った。

金子と式を挙げた二人は、高校時代からの顔馴染みであった。したがって金子へ紹介は不要のため一人先に移動して、自分の席に着いていたのだ。

十年の間に何度も付き合っては別れを繰り返していたこのカップルも、散々揉めた末結婚した。

きっとまたすぐに喧嘩するのだ。旦那も嫁も金子の元を訪れ、相手への不満や悪口を言うのだ。金子は悲しい未来を思い描き、めでたい席だというのに半眼になっていた。

今年だけでも、社内で七組が結婚した。金子自身も同僚や後輩の結婚式に四回ほど出席していた。

来年もまた結婚式だらけなのだろうかと、少々鬱陶しくなるほどである。

金子が社会人になって八年。知人が続々と結婚していく中、この男は思っていた。

「金が飛ぶぜ」

「――全くだよ」

 右隣の席に座った同僚、菊池が金子の呟きに同意した。そう言う菊池も、二年前に社内結婚をしていた。金子の顔に不満が表れていたのか、菊池は苦笑いをした。

「まあ、時期だな。みんな三十路前に結婚したいんだろうよ」

「そういうもんかね」

二人が話している傍ら、ぞくぞくと人が流れて来た。すぐに空席が埋まり、部屋全体が賑やかになる。

 金子にはこれまで恋人がいたことがない。そのため菊池の言ったような気持ちがよくわからなかった。眉間に皺を寄せ、鬱陶しそう菊池の話を聞いていた。

「お前もそのうち結婚するだろうよ。よく観察しとくんだな。女は五月蠅いぞ」

 菊池は呆れ顔で溜息を吐く。

結婚式に披露宴、今日ではやらない人も多いが、こだわる人も多い。菊池の妻はそういうことに五月蠅い女だった。それだけのことである。

 目前に並ぶナイフとフォーク、スプーンにグラスたち。その眩しさに菊池は目を細めた。今でこそ慣れた手つきで扱うようになったが、初めて来た時は使い方がわからずおどおどしていた。食器類に触れる緊張感もなくなり、今では給仕の若い女に茶々を入れるくらいだった。

間もなく新郎新婦が入場するようだ。ドアのところにスタッフが待機していた。

 部屋が暗くなり、ライトアップされた二人が歩く。幸せそうな、優しい笑顔だった。



 その日の二次会は、会社の近くにあるバーで行われた。女主人がひとりで営む小さな酒場である。その為貸切で行われ、顔見知りしかいない。皆陽気に会話を楽しみ、ハイペースで呑んでいた。そんな中、酒が弱い金子は早々に酔っ払い、一人カウンターに突っ伏していた。

 大声を出していないと会話もできないほどの騒ぎよう。眠りそうな金子の頭には、ただの騒音としてがんがんと響いていた。

「――お兄さん、お兄さん。起きなさいな、楽しい席なのにもったいない」

 金子に声をかけたのは女主人だった。低めの声が良く通るが、頭に嫌な痛みを与えない不思議な話し方だった。

金子が顔を上げると、すぐ傍らに女の顔があった。金子よりも少し年上というくらいで、細い瞳が笑んで見える。儚げで色っぽかった。

「最近は結婚式ばかりで。もう騒ぎ疲れてますよ」

金子が吐き捨てるように嘆き、呟く。

女は唇を上品に吊り上げ笑った。

「いいじゃないの、結婚って。私には縁がないもの」

 金子は舐めるような目つきで、女の姿を見た。

こんなに美人でも独身なのか――そう考えていた。

 女は疑っている視線を受け、嘆息した。

「そんな顔しないで頂戴」

頬杖をつき金子を見据えると、意味深げに微笑んだ。

 たまらなくそそられる顔であった。相手を誘うような、食われてしまいそうな。

「訳ありですか、お姉さん」

 金子は思わず身を乗り出して食らいついた。

「そうねぇ、ちょっとね。聞きたいのかしら?」

 首を傾げるその様子が、まるで絵のように様になっていた。

「これもなにかの縁です、是非」

 金子は躊躇うことなく答えた。女はその様子に少し驚いた顔をした。だんだんとその顔が小さくなっている、女が後退している――金子はそう感じた。

「そう。じゃあ、約束するわ。また今度お店に来て頂戴ね」

 女はウィンクしながら答えた。星がついていそうな仕種であった。

金子の一言は簡単にあしらわれた。女は少し楽しそうな顔をして金子の答えを待つ。

三十路前、独り身の男。浮ついた話の一つくらいほしいものだ。ごくりと唾を飲み、覚悟を決める。

「その誘い、乗ります。また来ます、必ず」

 金子は満面の笑みで答えた。瞳の中の女が笑止――女のそんな姿が小さくなって、ぼんやりと暗闇に消えていく。

金子の眠気が限界に達し眠りについた。情けなく椅子から後方へ倒れ落ちた。

その大きな音に、金子の周りに人垣ができる。同僚たちが心配して様子を見に来たのであった。

二次会が終わる頃合まで放っておこう。そういう話になり、話の中心が女主人へと向けられる。

その美しい容姿に惹かれて、金子のことなどおかまいなしである。

傍らで大勢が話していても、金子は目を覚ますことはなかった。お開きの時間になっても、である。金子は男手に担がれ、情けない去り姿を周囲に晒した。



年が変わりもうすぐ雪解けの頃だった。

 悲しい去り様を金子が誰からも教えて貰えない中、菊池が新しい結婚式の話を持って来た。

同じ部署の後輩が、地元にいる彼女と結婚したらしい。

そういえばと、金子は先の結婚式のあと、二次会の記憶が曖昧だと話した。

菊池はにやにやと貧のない笑みを湛える。

女主人と良い雰囲気で話していたな、その後進展ありか――菊池は言った。あえて卒倒したことは伏せて。

金子はその話を聞いて少々浮かれて見えた。いそいそと仕事を終わらせ、その店に向かった。



「こんばんは」

「あらお兄さん、遅かったわね」

「ごめんなさい、忙しくて」

 仕事帰りにすぐに行った為か、他に客はいない。ぎりぎり夕方の時分であった。

二人きりだと気分を良くした金子は、カウンターに座り笑顔で話しかける。

「なにか美味しいお酒をくださいな。ジンが好きなので、ジンベースの軽いやつ」

「はいはい」

 女は笑顔で頷き、てきぱきと酒を作り始める。

金子はその姿をじっと見て、改めて美人だと思った。酔のためのまやかしではなかったのだと。

 先の女の笑顔が、懲りずにこの前と同じ席に座った金子を笑ったものだと当人は知らない。

 気分の良い金子は笑顔で口を開く。

「お姉さん。お話、聞かせて下さいよ」

「……そうねぇ、なにから話そうかしら」

 話しながらも手は動く、慣れた手つきだった。

「ピュア・ラブよ。良い名前でしょ」

 桃色がかった褐色のカクテルが出された。

「私はねぇ、今でこそ真っ当にお店をやっているけど、前は風俗とかそんな仕事を転々としていたの」

「性風俗、ってことですか?」

 女は少し寂しそうな顔をした。どこか遠くを見つめ、思い返すように話す。

「友人と一緒にね。あの子は良いとこ育ちのお嬢様だった。そんなところは羨ましかった。けど結局は私と同じ。いいえ、もっと酷い人生だったのかもしれない。私は母親もそっちの人で、良い暮らしなんてしたことなかったから。その違いに悩むことはなんてなかった」

「……その人は、今どうしてるんですか?」

 瞬間、女の顔が、空気が凍りつく。

金子は眉間に皺を寄せ、心中で舌打ちをした。

失敗した、話し方を間違えた――二人共に己の失態を悔いた。

「ごめんなさい。ちょっとあってね、あの子」

 なんとか笑顔を作った、そのような顔であった。美しく儚げで、とても悲しそうな歪んだ顔だった。

「聞いちゃまずいですか?」

 金子のそれは、単純に興味からの言葉だった。

女は顔を伏せると、重心を後ろへと反らした。大きく深呼吸すると、躊躇いがちに顔を上げる。金子の目を見て、決心したように瞼を落とした。

「ごめんなさい、話すと約束したんだものね……あの子は……朋江って、言うんだけど。自殺したの、大事な息子を残して、一人で」

 それは金子の想像を大きく逸脱した答えであった。

友達を差し置いて、自分一人が真っ当に生きている。そのくらいだろうと高を括っていたのだ。

「……死んじゃった、んですか」

「ええ。息子を私に預けていなくなって。発見された時にはもう手遅れだった」

「そう、ですか」

 目を見開いて呆けた顔をしている金子だが、瞼を閉じている女には見えていない。

かける言葉が見つからず、金子はなにも話せない。ごくごくと酒を呑んでみるが、場は繋げない。

そうこうしている間に、女の閉ざされていた瞼がゆっくりと開く。

「――これはちょっと置いといて、少しあなたの話をしましょうよ」

 不意に話しかけられ、金子は硬直する。瞬きでどうにか場を繋ぎ、返す言葉を探す。

「突然っすね、俺の話ですか」

 話を聞きに来たのに、どうして? ――それが前面に出ている調子であった。女は未だに硬い顔のままだが、それを隠すように唇だけで笑む。

「ピュア・ラブにちなんで。恋バナとか聞きたいわね」

「恋バナですか……」

 沈黙する金子に、女は少々逡巡する。

「彼女にふられたばっかりだった?」

 金子は場の空気を戻すために提供された、軽めの話題にもついていけない。つくづく駄目な男だった。

彼女のいない自分には無縁の話――そう逃げればよいのに、顔を背けその眼をぐるぐる動かしている。

金子は手を伸ばし、グラスをぎゅっと握る。景気づけに酒を吞み干し、息を吐く。

覚悟を決めた様子の金子は、顔を上げられないままであったが口を開いた。

「ふられたに近い話です、かね。彼女じゃなくて幼馴染みなんですけど。ずっと、ずっと好きだったけど、彼女は俺を選ばなかった」

 あの男を選んだ、俺じゃなくて――金子はそう吐き捨てた。

 女は、自分の選んだ話題が悪かったようだと、そっと金子から視線を逸らした。

「そうなの、それは残念ね。片思いしてたの?」

「そうですね、初めて会った時からずっと。ずっと、好きだったのに……」

 女は金子の握り締めた手中にある、可哀想なグラスを取った。

「これもなにかの縁よ。話してくれない? 今日はもうお店閉めちゃうわ、そんな気分。ゆっくり二人で呑みましょう」

金子はただ、カウンターの木目を見つめている。唇を噛み締めて。

女はふっと息を吐き、足音を立てずそっと外へ歩いて行く。すぐに金子の前に戻って、肩をちょんと叩いた。

「――貸切にしちゃったから、もう誰も来ないわよ」

 相手を安心させるような優しい笑みだった。

これが大人の女か――金子はそう驚いた。

そして同時にこの女は自分に気があるのだろうとも。女の情けに、残念な勘違いだった。

「――彼女に初めて会ったのは、近所の喫茶店でした。店長の姪っ子がよく遊びに来て手伝ってて、それが彼女。明るくて可愛い女の子で、一目惚れでしたよ」

「年下なの?」

「ええ、五つも。でも最初はそれに気がつかなくて、かなり大人びてた」

 いつも甘えていた、年下なのに妙に大人びた彼女に。笑顔に癒され、愚痴を言っては聞いてもらい。

「――いい子なのね。あなた今、すっごく幸せそうな顔してるわよ」

「え?」

 金子の緩んだ頬に女の人差し指がささった。指摘されてから紅潮していくのがわかって、さらに恥ずかしさが込み上がる。

「はいどうぞ、バーテンダーよ」

話を聞きながらも女の手は働いていたようだ。

バーテンダー、赤っぽい色のカクテル。金子でも聞いたことがある名だった。

「これもジンなんですね」

「そうね、さっきよりは強いわよ」

 女のウィンクに金子は吹き出した。コロコロと変わる女の表情に、彼女の姿が重なり、涙が出そうだった。

 笑われた女は不機嫌になり、出したグラスをそのまま引っ込めようとする。金子は慌ててそれを取ると、口に含んで顔をしかめる。苦味が喉に痛かったのだ。

金子は泥酔する様を描き、頭を振る。

女は楽しそうに声を上げ笑った。

「朋江もね、育ちのせいか大人びてる子だったわ。十九で妊娠して。婚約者もいたのに、それで家を追い出されたって」

「駆け落ちですか?」

「違うのよ、男は逃げちゃって。一人で育ててた」

 惚れた男が甲斐性なしだった。酷い話である。

 女の敵よ、世界のごみよ――女は嘆き、静かに怒っている。表情は変わらずとも、気配がそれを伝えた。

同じ男として情けなく思う――金子はそれを口にはしない。話がややこしくなる、そんな気がしたのだ。

「朋江は人前では品良くにこにこしてるけど、影では泣いてる子だった」

 女が一人影で泣く、金子は自分の思い人の姿を重ねてみた。

彼女の泣いている姿を金子は一度も見たことがなかった。強くて賢い子、泣くという心配をしたことがないほどに。

視点の定まらない様子の金子を見て、女は小さく笑う。自身も遥か遠くへ思いを馳せた。

「息子がある程度大きくなって小学校に上がる、って頃ねぇ。朋江がいなくなって、帰って来ることはなかった。やっぱりこの世界から逃げるには死ぬしかないのかなって、私も思っちゃった。悲しかったわ」

金子は女の声で現実に戻った。

ふと見た女の悲しそうな顔の傍らに、自分ものとは別のカクテルグラス。いつの間にか女も酒を呑んでいたのである。つまみにと豆類も置いてあった。

「それはなんていうんですか」

 指で示し、問うと女はひどく驚いた。

「マティーニを知らないの? カクテルの王様よ」

 金子は酒に弱く、一人ではあまり呑まない。当然のように詳しくない。

聞けばなんとなく知っている名だが、見たことも吞んだこともない。言葉が出ない、それが肯定だった。

「まあいいわよ。今度はそっちの番よ」

 女はグラスを軽く金子の方へ傾け、話を振った。

「俺の話、ですか? そうですね、彼女が中学生の頃の話でもしますかね。なんだか捨て猫拾ったらしくて。俺と遊んでくれないし、その猫の話ばかりするし。いつもうきうき楽しそうに、そんな話ばかりして」

 金子はそこまで一息で話し、嘆息した。

心が痛かった。遊んでくれなかった、そもそも逢ってくれなかった。心の中で呟いているつもりの言葉は、ぼろぼろと口から溢れていた。

「あらら、大変じゃない。やきもち焼くところが多いと。もてるの? 彼女」

「そうみたいですよ、周りに男が寄って来るみたいで。叩き落としてもどんどん湧いてきて」

 金子はかりかりと焦燥していた。

勢いに任せグラスを空にする。その様子に女は苦笑いである。

――そうだ、この人もこんなに美人なのだ。男に寄って来られて苦労しているのだろう。

金子は女をぼうっと見つめ、不満そうに唇を曲げていく。目が据わってきて非常に人相が悪い。

「……大丈夫?」

 女の心配そうな顔を見て、金子はどうしてか怒りが煽られた。ばんとカウンターを叩き、身を乗り出す。

「大丈夫じゃないですよ! 蠅が多くて! 今でも張りついてますし。どうしても叩き落とせない蠅が一匹!」

「そうじゃないけど……まあいいわ。それでその蠅はどうなったの?」

 女は後ずさりしながら、控えめに言った。

金子は眉を顰め、唇を捻って閉ざす。ふいっと首を振って、女から顔が見えないようにした。

「あらら。それじゃあ今度は私の番かしらねぇ」

 女は苦笑いしながらも、次の酒を作っていた。

金子はそれを横目で見ながら、自分にくれるものと期待していた。しかし女は金子に渡すことなく呑んでしまう。

せっかく反らした顔を正面に戻し、物欲しそうにその様子を眺める。

あなたはちょっと休憩よ――そう女に窘められる始末。

「私の息子って言うとあれだけど、朋江の子供ね。私が引き取って育てたから、もう息子のようなものなんだけど。私に反発して出てっちゃったの。ちょっと過保護すぎたのかもしれないわ。そもそも私が親っていうのが間違いだったのかも」

「家出ですか?」

「そうなのよ。もう困っちゃって」

 思春期の子供なら、誰しも一度は家出したいと思うのではないだろうか。

金子にも経験のあることだった。高校時代、友達の家に泊まりに行くという、小さな家出をしたことがあった。

「私が育てるから、私と同じように育つのよ。同じ場所で同じように。私が言うのもあれだけど、親が親だから。でも私より酷いのよ、勝手に高校辞めるし。最初はなんでも言うこと聞く良い子だったけど、手のつけられない暴れん坊になっちゃって」

 女は金子のことを放っておいて、自分の酒を作っては呑んでいく。金子ではもう倒れているくらいの量だろう。

蚊帳の外の金子は遠目に見ているだけである。

ひどく浮ついた酔った頭で、金子は話についていけなかった。女の声が右から左へと流れるだけ。

金子にはもうなにもない、豆しかない。ひたすら豆に手を出すのみだった。

「朋江のようになってほしくない。絶望して、この世を捨てて逃げる。そうならないように、檻に閉じ込めるように育ててしまった」

 金子は豆を咀嚼しながら、女の言葉も飲み込もうとする。

「……私の配慮全てが逆効果だったようよ。あの子は飛び出しちゃった。でも良い出逢いがあったようで、思いがけず良い方に転がったから。良かったけれど……」

金子は豆を食べながらふわふわと視線を上げた。

金子の視線と女の視線がぶつかり、時が止まったような錯覚が起こる。

金子は女の話が理解できていないのが知られそうで視線から逃げたが、少し遅かったようだ。女は嘆息し、謗るように笑った。

 金子は怯えて俯いているため、そんな女の嘲りに気づく余裕はない。

 女は話を止め、可愛らしく唇を尖らせる。

「そんなに難しい話かしら?」

「……ちょっと。でも話してくれれば、酔った頭でも頑張って考えますから」

 金子が無邪気に笑うと、女も小さく微笑み返した。

「私から逃げたんじゃない、外に羽ばたいてった。そう思えるようになるまで時間がかかった。きっと新しい、素晴らしい生き方を見つけたんだって……私は息子から教わったの。諦めないで外へ向かう、檻から出る希望と勇気を」

 女は一通り話しきったのか、満足そうな顔をしていた。

「んで、どう? わかったの? 私の話は」

 上目遣いで試すように、女は金子を見つめた。

「……あなたと同じように檻に閉じ込められた息子が、自分から力ずく檻を破って逃げてった。んで、あなたも倣って外に出た?」

金子は不安そうに答えを吐き出した。

 女は人差し指を立て、くるくると宙に円を書きながら口を開く。

「うーん、五十点ね。もうちょっと大人になればわかるわよ、微妙なニュアンスの違いが、それに力ずくっていうのはいけない。檻にはちゃんと出口があるの、それを見つけて出ないと、また新しい檻が現れることになる」

 女は立てた人差し指で、金子の額を小突いた。

ご褒美よ――女はそう言って艶笑を湛え、金子に酒を作った。

「ビジューよ。宝石のことね」

 琥珀色の、サクランボが入っているカクテルだった。

「幼馴染みのこと、辛いかもしれない。けれどそれは今だけよ。きちんと向き合って、現実を受け入れて。時間はかかるかもしれないけど、そうすればきっと良い思い出になるから」

 確かな自信がある、女の顔がそう告げていた。

「私もね、息子のことすっごく憎く思ってた時期があったわ。私の元にいれば安心で安全で、怖いものは全部取ってあげるのに。なんで、どうしてって。でもそれはあの子が望んだことじゃなかった。たくさん考えたの、なにが悪かったのか、駄目だったのか。そうして自分の間違いを認めて、息子の話を聞いて……いろんな話をした。今ではちゃんと和解してる。良い関係とは言えないかもしれないけど、そんなに悪い関係でもないわ。もう好き勝手やってるわよ、うちの馬鹿息子」

 口では嫌そうでも、女は幸せそうな母の顔だった。酔いの力か、少なからずのぼせているようだ。

「傷つくことは悪いことじゃないの。傷ついて、泣いて、苦しんで。その傷をゆっくりと癒して。そうして成長するのよ。だからたくさん傷つきなさい。そうやって人生は豊かになっていくから」

 女は笑う、綺麗な眉を歪ませて。

「……傷つく、ですか」

 金子は少しだけ、女の話に関心を持ったようだった。

「そう、傷つくの。そして自分の弱さを認めて、受け入れて。きちんと傷と向き合って、己の過ちを省みる。そうすればその傷は癒えるから。かさぶたは残っても、それは成長の証となる。醜い傷ではなくて、輝かしい勲章よ」

 女はグラスを手に持ち、じっとそれを見つめながら話した。そしてふと、その瞳を金子に向けた。

「いいじゃない、傷ついたって。その幼馴染みのこと、大切だったんでしょう? それだけいいじゃない。愛することを、嫉妬することを、他にもたくさんのことを学んだ。大切な幸せな日々だった。そんな宝物にしたら」

「大切な思い出……」

女の言葉を通して、金子は彼女の姿を描く。

「……心で鈍い痛みを放つこの思いが、黒い感情を引き出す刺が、いつか宝石のように輝くことができるんでしょうか。この傷が癒えて、宝物に昇華させることが……」

「新しい恋でも探してみなさい、まだまだ若いんだから」

 女の優しい笑顔に、俺を狙っているのか? ――と金子の想像が空回る。いやいやと手を振り、金子はにやけ顔で口を開く。

「お姉さんもまだまだこれからでしょ?」

 女は首を傾げ、口を抑えながら大きく腰を曲げた。金子は声高らかに笑われ、居心地が悪くなる。

「私はもう四十半ば。どれだけ若く見積もってんのよ、もう。息子も二十八になったわよ」

「え? 息子さん、まだ学生かと思ってましたよ。それじゃあ俺とためじゃないっすか」

「あなた、見かけより歳いってるわね」

 身を乗り出して食いつく金子に、女は先とは逆に腰を反らし笑う。笑いすぎて涙が出ていた。

女の笑いがなかなか止まらず、金子は唇を尖らせ年甲斐もなく拗ねた。

「そうそう、今度息子が結婚するのよ。招待状が届いたの。嫌われてると思ってたから、呼ばれることはないと思ってたのに」

だんだんと睨むような目つきになった金子に、女は動じることもなくさらっと話題を変えてきた。

どこかにあるわ――女はそう言って、招待状を探しに店の奥の方へ行く。

金子は子供のようにうじうじするのはみっともないと思い、女の策に嵌ることにする。

「……そうなんですか。俺の幼馴染みも今度、結婚式なんですよ。偶然ですね」

 遠くにいる女に向けて、少々声を張りながら言った。

金子も鞄に手を伸ばし、招待状を探す。

 女は戻って来ると、カウンターに見つけてきた招待状を置いた。面白そうに金子の様子を伺っている。

金子もようやく見つけたそれをカウンターに置いた。

 置かれたそれらを見て比べ、二人は声もなく笑った。

「なるほどね」

「そういうことか」

出された招待状は同じ柄の包み。

 お互いに相手のものに手を伸ばした。

 広げてみると、現れたのは赤い花にふちどられた桃色の招待状。明記された名は――藤原 護・酒野 尋。

「運命かしら、面白いわね。でもまあ、うちの馬鹿息子をよろしくお願いします」

「こちらこそ、うちの幼馴染みをよろしくお願いします。幸せにしないと怒りますよ」

 二人で見合い、笑いながら頭を下げた。

不思議な出逢いもあるものだと、苦笑するしかない。

「一足先にお祝いしましょうか」

「そうですね」

 女はシャンパンを取って来て、ぱんと良い音を鳴らしながら栓を抜いた。

満たされたグラスを掲げ、女は声をかける。

「二人の幸せな未来に――」

「「乾杯」」


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