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幸せな門出

作者: 苗奈えな

 鐘が三度鳴った。

 重く鈍い音が、石造りの建物の中をゆっくりと這っていく。

 その音に呼応するように、三から十六の番号が割り当てられた部屋の扉のロックが同時に開き、中から少年少女たちが一斉に姿を現した。

 誰も喋らない。誰も急がない。

 眠気に指で目をこすりながら、足元を確かめるように歩き出す。

 静かな足音だけが、長く伸びた廊下に揃って響いていく。

 整列は、訓練されたわけでもないのに、自然とそうなっていた。

 列は静かで、正確で、無駄がなかった。

 

 アイロネア院。

 この施設では、生まれたばかりの赤子から十六歳までのどもたちが暮らしている。

 決められた時刻に起き、顔を洗い、食事をとり、作業をして、眠る。

 その繰り返しに疑問を持つ者はいない。皆がそうしているから、自分もそうするのだ。

 それが、ここでの日常だったし、なんの不満もなかった。

 

 リナもまた、列の中にいた。

 十六歳。施設では最年長にあたる。背丈は平均より少し小柄で、いつも無表情ぎみなせいか、一見すると感情が薄いような印象を与える。だが、よく見るとまつげは長く、目元がくっきりしていて、静かに存在感を放っていた。

 彼女の制服は、他の者と同じく灰色で、乾いた布地の手触りが視覚にまで伝わってくるようだった。

 ただ一つ、髪の片方にだけ、そこに似つかわしくない色があった。

 淡いピンクのリボン。使い古され、端が少しほつれているが、それでもリナは毎朝丁寧にそれを結んでいる。

 そのリボンは、かつてこの施設を“卒業”していった先輩――ニアから譲り受けたものだった。

 ニアは、やわらかい声と、絹のような髪を持つかわいらしい少女で、いつも左右対称にツインテールを結っていた。

 去年、リナが十五歳のとき、十六歳になったニアは施設を出る日を迎えた。

 前日の会話を、リナは今でも覚えている。いつも明るく、どこか自由な雰囲気をまとったニアのことが、リナは大好きだった。

『ニアちゃん、外行ったらなにするの?』

 廊下の窓から外を見ながら、リナがぽつりと問いかけた。普段と変わらぬ調子で聞いたつもりだったが、心の奥では、この時間が終わってしまうことに寂しさを感じていた。

『パン屋さんをやりたいなって思ってたの。リナもこの施設から出たら遊びに来てよ』

『うん! 絶対行く』

 リナの返事に、ニアの笑顔がさらに柔らかくなった。そして彼女は、ツインテールのうちの片方を解き、リボンをゆっくりと外した。

『これあげる。これつけてきてくれたら、何個でもパン奢るよ』

 リボンを差し出しながら、ニアは冗談めかしてそう言った。

『ほんと!? 毎日つけて、絶対なくさないようにする』

 リナは目を輝かせて答えた。寂しさでいっぱいだった胸が、小さな約束に火が灯るような気がした。

 あれから、言葉通りリナはずっとそれを身につけていた。朝の身支度をするたび、あの会話とニアの笑顔が、胸の中によみがえるのだった。今日もまた、それを整えてから列に並んだ。

 ――いよいよ、明日だ。

 数人前を歩いていた小柄な少年が、振り返ってこちらに手を振ってくるのが見える。

 リクだった。年齢は十五で、リナによく懐いている。彼の目はいつも明るく、人懐っこい笑みを絶やさない。どこかニアのようで、リナも好きだった。

「おはよう」

 口パクでそう言っているのが分かった。声に出すことはないが、その仕草には確かな温かさがあった。

 リナは無言のまま、小さく微笑んでほんのわずかに頷いて見せる。

 列の先頭が角を曲がり、鉄の扉の前で立ち止まった。

 食堂である。

 今朝もまた、焦げたようなにおいが、廊下の隙間から漏れている。

 リナは深く息を吐き、列の進みに合わせて一歩を踏み出した。目の前の鉄扉の向こうには、いつもの朝が待っているはずだった。

 食堂の中は、静かではあったが、まったくの無言というわけではなかった。

 それぞれが与えられた皿の上のパンをつつきながら、隣同士で小さく言葉を交わす声が、ぽつりぽつりと聞こえていた。

「今日のパン、昨日よりちょっとやわらかくない?」と誰かが言えば、「スープに変なの浮いてる」と返す声がある。

 そんな他愛もないやりとりが、あちこちで繰り返されていた。

 それは、ここでのわずかな“自由”の時間であり、息抜きでもあった。リナもまた、その静かなざわめきの中に身を置きながら、自分の皿を見つめていた。

 リナの向かいに座ったリクが、声を潜めて話しかけてくる。

「ねえリナ、僕のパンさ……ちょっと焦げてるよね」

 パンの表面には、たしかに黒い部分が混じっていた。リナは硬いパンをひとかじりして、「そうかも」と答える。

 リクは唇を尖らせ、「やっぱり」と続けた。その声に、どこか子どもらしい不満と甘えがにじんでいた。

「わたしのと交換してあげようか?」

 リナは、うっすらと笑う。別に、食べられるのなら焦げていようが気にしない。自然と出た言葉だった。

「本当に!? ありがとう」

 リクは目を輝かせ、嬉しそうにパンをちぎった。その手の動きも、どこか弾んでいた。

 やがて、食事の時間が終わる。

 誰から言われるでもなく、全員が食器を戻し、席を立つ。その一連の動きも、まるで一つの決まり事のように、自然と流れていった。

 そのまま作業室へと向かう列に加わる途中で、構内放送が入った。

「部屋番号16の者は、午前の作業を終えたあとに職員室へ集まること」

 一斉に、数名がわずかに顔を上げた。

 リナを含め、最年長の少年少女たち。十人。

 アイロネア院では、年齢ごとに部屋番号が割り振られており、3歳から16歳までが収容されている。

 そして16歳になった者は、“試験”を受けて施設を出ることになっていた。内容については何も知らされていない。十六歳を迎えた者全員が、同じ日同じ時間に一斉に受けることになっている。

 それがこの施設での、唯一の“卒業”だった。

 皆一様に、反応は薄かった。誰も驚いたりはしない。毎年恒例。ただ、呼ばれる時が来ただけだ。

 その光景に気づいた周囲の年少たちは、一瞬だけ沈黙し、それからまた作業に向けて足を動かした。誰も「かわいそう」とは思わない。ただ、順番が回ってきた者として見るだけだ。

「リナ、頑張ってね」

 リクの応援に、力強く頷いた。

 午前の日課は、リナは施設の子ども達の洗濯物を畳むことだった。

 無地の制服や下着、タオルを正確に、寸法どおりに折りたたんでいく。何百回と繰り返してきた手順だ。慣れきった動作の中に、リナの指先は少しだけ硬さを帯びていた。

 周囲の子どもたちも同じ作業に集中している。話しかけてくる者はいない。いつも通りの静けさだったが、空気の奥にかすかな緊張が混ざっているようにも感じられた。

 作業が終わりのチャイムを迎える頃、リナは心の準備を終えていた。胸の内には、何かが少しずつ重く沈んでいたが、それを押し込めるようにして立ち上がる。

 リボンをそっと結び直し、手を膝に揃える。心の中で深く呼吸を整えてから、チャイムに応じて席を立った。

 職員室の前で、十六歳の子どもが全員揃うのを待つ。全員が揃うと、先頭の扉が開き、白衣を着た先生が無表情で出迎えた。

 先生は、確認のために一人ひとりに割り当てられた番号を呼んでいく。

「七番」

 番号が呼ばれた瞬間、リナは反射的に返事をして手をあげた。全員が揃っていることを確認すると、先生は続けて試験について伝える。

「対象者は本日十五時、第一試験室へ集合してください。持ち物はなにも必要ありません」

 その言葉は、読み上げるだけの機械のようだった。

 それだけを伝えると、先生は無言のまま扉の奥へ消えていった。

 誰も話さなかった。その場には、かすかな足音と、曖昧な沈黙だけが残った。

 やがて、それぞれがばらばらに散っていく。

 リナは最後まで動かず、しばらく廊下の静けさに身を置いた。壁にもたれることもなく、ただまっすぐに立ち尽くしていた。

 

 十五時少し前。

 第一試験室へと案内されると、リナを含めた五人が中へ入った。

 室内は広くも狭くもなく、白一色の壁と、天井からの淡い照明が空間を満たしている。音を吸い込むような無機質な空気が、全員の呼吸を浅くする。

 中央には十脚の椅子が、均等な間隔で並べられていた。

 前から番号順に着席する。誰も言葉を発しない。視線さえ交わらない。

 ただ、空間に流れる静けさと、張り詰めた緊張感だけが、全身を包んでいた。

「このあと、映像が再生されます。良いというまで、そのまま着席してください」

 スピーカーからそのような指示が流れてくる。

 部屋がかすかにざわついた。

「え? 映像見るだけ?」

 隣の少年が、思わず声を漏らした。少しだけ眉をひそめながら、リナの顔をちらりと見る。

「どういうことだろう?」

 声には戸惑いが滲んでいた。事前の想定では、もっと複雑な試験があると思っていたのだ。たとえば、外の世界で必要とされる知識や判断力を問われるような。

 リナもまた、少なからず肩透かしを食らったような気がしていた。

 しばらくすると、部屋の明かりがすっと落ちた。わずかな静寂が空間を包み込み、天井のスピーカーが短い作動音を鳴らした。

 一瞬で、誰もが口を閉ざす。

 そして、スクリーンがゆっくりと光を帯び、映像を映し始めた。

 最初に現れたのは、光だった。

 空。青い空。どこまでも広がる空の下、風に揺れる木々。

 その合間を駆け回る子どもたち。笑い声。誰かの名前を呼ぶ声。

 家庭の食卓。焼きたてのパン。白い皿に乗った果物。

 笑顔。笑顔。笑顔。

 リナは動かなかった。

 でも、目が画面から離せなかった。

 これまでの人生で見たことのない光景が、目の前に広がっていた。

 そんな映像が、次々と流れていく。

 柔らかなベッド。ふかふかの毛布。

 母親らしき人に抱きしめられる子ども。髪を撫でられる少女。

 安心したような表情。ゆるやかに瞬く瞳。

 リナは、困惑していた。映像の中の温もりが、まるで刃物のように鋭く心を刺してくる。

 柔らかな光、優しい声、当たり前のように差し出される手――そのどれもが、リナの中の何かを震わせた。

 リナは、その光景を「欲しかった」と思ってしまった。自分には、それがない。先生は、そんなことをしてくれていない。

 思い返しても、何一つ、似た記憶が浮かばない。

 ――これが、外の世界の普通なの?

 心の奥底で、軋むような音がした。

 それは、信じていた“日常”がひび割れる音だった。

 隣の椅子に座った少女が、わずかにすすり泣く音を立てた。

 リナは気づいたが、視線をそちらに向けることはなかった。代わりに、自分の髪に手をやる。その指先には、リボンがそっと触れられている。

 それは、外の世界に出る楽しみの象徴だったはずなのに、今はただ――ひどく遠く感じる。

 胸が締めつけられて、目の奥が熱くなる。

 気づけば、頬を涙が伝っていた。

 理由は、もう分かっていた。

 自分が生きてきた世界が、どれほど“満たされていなかったか”を、初めて思い知らされたからだ。

 誰も声を上げない。

 けれど、その静けさの中で、それぞれの涙が静かに落ちていた。

 スクリーンはやがて白くなり、映像が終わった。

 誰もが椅子に座ったまま、動けなかった。

 翌朝も、鐘はいつものように三度鳴った。

 部屋の扉が開き、少年少女たちは黙って廊下に整列する。

 その光景は、日常と何も変わらなかった。

 ただ一つ違ったのは、リナを含めた十六歳の少年少女が列に加わらなかったことだった。

 昨日試験を受けた者は、この日食事にも作業にも授業にも参加しない。

「リナ・・・」

 リクは、寂しそうに小さく呟いた。

 

 リナたちは別の部屋にいた。番号が書かれた籠の中に、荷物の入った小さな鞄と、外套が置かれている。

 自分の番号が書かれた籠の中からそれを受け取ったリナは、部屋で静かに着替えを済ませ、ゆっくりとリボンを結び直した。

 ピンクのリボンは、少し色が薄くなっていた。それを指先で整えるうち、胸の奥に鈍い痛みが広がっていく。

 なぜだろう。あのときニアが笑顔で結んでくれた形に、少しでも近づけたくて、リナは繰り返し結び直す。けれど、リボンの手触りが、昨日までの意味とは違って感じられた。

 鏡はない。髪型を確認するすべもない。だから、リナはただ感触だけを信じて、外套のフードをそっとかぶった。

 外は少し曇っていた。

 風が吹くと、冷たい空気が襟元に入り込んでくる。

 外へと続く門は、施設の一番奥にある。普段は近づくことさえ許されていない場所。でも、今日だけは、その扉が開かれる。

 門の前には、すでに他の九人の姿があった。

 皆、荷物を抱え、無言で門を見つめている。

 門の横にあるスピーカーから、先生の淡々とした口調が漏れて来た。

「門は自動で開きます。この扉をくぐった先は、あなたたちの“新しい生活”の場所です。これ以降当施設からの支援、介入は一切ありません。――それでは、お元気で」

 それだけを言って、先生は背を向けた。

 数秒後、門が重々しい音を立てて開いた。

 錆びた鉄の匂いが、湿った空気と一緒に流れ込んでくる。

 リナは、一歩を踏み出した。

 門の向こうに広がっていたのは、荒れた草地だった。

 舗装はされておらず、所々に土の塊が転がっている。

 建物は見えない。人の気配もしない。

 ただ、風の音と、枯れ草が擦れる音だけが響いていた。

 そして、その草むらの中に――倒れた人影が見えた。

 一人。二人。三人……

 リナは息を止めた。

 どれも、どこかで見たことのある人達だった。

 ニアと同じ年に出て行った少年、二つ年上だった少女。服の色褪せや皮膚の土色の変化、草に埋もれかけていたり虫に食べられた輪郭によって、そこで息をやめてから長い時が流れたことを感じさせる。

 そして、その中に――見覚えのある姿があった。

 服は汚れ、顔や体はほとんど白骨化していて元の形がない。でも、その骨の近くにはピンクのリボンがあった。

 何年も近くで見てきた。間違いなく、ニアだった。

 彼女は、パン屋になんてなっていなかった。

 リナは震える手で、髪のリボンを押さえた。

 それは、今もきちんと結ばれていた。

 けれど、その感触が、刺すように痛い。胸が軋む。

 思い返されるのは、あの日の笑顔と、やさしい声。そして、それがもう二度と戻らないこと。

 目の奥が熱くなる。

 それでも、彼女は唇をきゅっと結び、視線をまっすぐ前に向けた。

「……わたしは、こうはならない」

 そう呟いて、リナは死体を踏まずに歩くように、ゆっくりと歩き出した。

 

 翌年の同じ日、鐘が三度鳴った。

 リクは支給された外套を羽織り、荷物を手に門へと向かった。

 他の者たちと一緒に歩きながら、心の中ではずっと問いかけていた。

 リナは、どうしているだろう。

 本当に、あの先に「何か」があるのだろうか。

 昨日見た映像のような、温かい場所が。

 ――リナは、あの場所で幸せになれたのだろうか。

 胸の奥に、不安と期待が入り混じった重たい塊が沈んでいた。

 門は開き、外の空気が流れ込んできた。

 光が、地面を照らしていた。

 リクは、ぎゅっと荷物の紐を握りしめる。踏み出す一歩に、これまでにない重さを感じていた。

 最初に目に飛び込んできたのは――死体だった。

 地面に倒れた人影。枯れ草の隙間から覗く手足。

 凍りついたように、リクの足が止まった。

 その中に、見知った顔があった。

 ピンクのリボンをつけた、痩せた少女。

 視界が揺れる。鼓動が耳の奥で暴れた。

 どこかで見た――そうだ、あれは。

「……リナ?」

 風が吹いた。

 リナのリボンが、ほつれかけた髪に絡まっていた。

 その姿は、かつての面影をかろうじて留めていた。

 手には、小さな紙片が握られていた。

 それは破れかけのメモで、そこには震える筆跡で、たった一行だけ書かれていた。

『わたしは幸せになれない』

 リクは、震える手でそれを読み、そして顔を伏せた。

 息が詰まり、喉の奥が焼けるように熱かった。

 

 ある研究所の地下階。灰色の壁と天井に囲まれた空間には、白衣をまとった科学者たちがずらりと並んでいた。照明は控えめに落とされ、発光するモニターの光だけが彼らの表情を浮かび上がらせている。

 壁一面を覆う無数のモニターには、施設内で黙々と作業を続ける子どもたちや、門をくぐって外の世界へ出ていく姿が順に映し出されていた。どの映像も音はなく、機械的な切り替わりが続くばかりだ。

 誰もがモニターを見つめながら、メモを取ったり、無言で画面を切り替えたりしている

【実験名:アイロネア】

 部屋の中央には、赤く光るタイトルがモニターに表示されていた。

「第36回試験体、十名中九名の死亡確認。うち一名は殺人の罪で刑務所に収容されています」

 白衣を着た若い研究者が、手元のタブレットを見ながら淡々と報告する。背後のスクリーンには、施設から出た研究対象の識別番号と経過記録が並んでいた。

「“幸福な映像”を見せてからの対象たちの心理変化率は、大方予測通りですね」

 別の研究者が椅子をくるりと回し、モニターに映る映像を指さす。そこには、試験前後の脳波データや行動記録がリアルタイムで流れていた。

「不幸な人間が、自分が不幸であることに気づかずに生きる。それこそが、最も安定した“幸福”であるという仮説は、かなり有力だな」

「しかし、幸福な人生を送れる可能性があるのに、またあの施設に戻ろうとする人間が多いこと多いこと」

 理解できないとでもいうように笑いながら、椅子の背にもたれた男が脚を組む。彼の目は天井を仰ぎながら、何かを皮肉るように揺れている。

「仕方ないさ。不幸なところで生きてきた人間が、そう簡単に幸福に慣れるわけがない。または、幸せに貪欲になりすぎて自ら破滅する」

 指で机を軽く叩きながら、誰かが言った。その音が、静まり返った室内に微かに響く。

 少し離れた位置にいた研究者が、ふと思い出したように声を上げた。

「一昨年にいた、パン屋を営もうとした研究対象はなかなか興味深かったですな」

「何を言う、当然の結果だろう。硬かったり焦げていたりする無味のパンしか食べてこなかった者のパンを、誰が食べたいと思う?」

 別の研究者が鼻で笑いながら応じる。

「いや、あれはそれこそ不幸だっただけだろう。ちゃんとパンの作り方を教えてくれる人物が手を差し伸べてくれていれば、結果は変わったはずだ」

 しばし沈黙が流れる。だがその沈黙に、誰も罪悪感の色は浮かべなかった。

「脳は“比較”でしか快楽を測れない。あいつの方が金を持っている。あいつの方が楽しそう。あいつの食べ物の方が美味しそう、みたいにな。他を“知った”瞬間から地獄が始まる」

 視線の先には、かつて笑っていた子どもたちの記録映像が流れていた。その無垢な表情が、今はただ虚ろに見える。

「“素材”はいくらでもいる。気長に研究を続けていこうじゃないか」

 モニターの一つには、部屋番号15から16へ移動する準備をしている子どもたちの姿が映っていた。誰も言葉を発さず、誰も疑問を抱いていない。まるで、そうあることが当然だと刷り込まれているかのように。

 みんな一緒のことを、ひたすら繰り返す平等な檻で彼らは生きている。それが、どれほど異常なことかを知る術もなく。

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