プロローグ
ヴァリエンタ帝国の上級貴族であるヴァレンロート侯爵。
領有するヴァレンロート領の領都ラメル・ヘインの主城から少し離れた一角には、彼の配下たちが暮らす重厚な住宅街が広がっている。
その中でもとりわけ威容を誇る石造りの邸宅。高窓から射し込む朝の光が、深紅の絨毯と磨き抜かれた真鍮細工の調度品を静かに照らし出していた。
澄みきった静謐が室内を満たすなか、二人の貴族が対峙している。
上座に座るのは、帝国本領南部を治めるアルドリック・エクス・ヴァレンロート侯爵。
壮年に差しかかる年齢で、いくつもの修羅場を越えてきたその顔には、苦労の刻まれた皺が刻まれている。
実年齢よりも老成して見え、整えられた黒髪と氷のように冷たい蒼い瞳は、戦争を俯瞰する目を持った統率者の威厳と理知を宿していた。
低く抑えた声音や静かな佇まいには、長年の政務と戦争の中で磨かれた揺るぎない自信が滲んでいる。
対するは、ヴァレンロート領のさらに南、広大な湿地アルテ・マーシュ一帯を治めるクライブ・エクス・マルシュライン伯爵。
三十路に入ったばかりの若さと落ち着きをあわせ持ち、かつては剣と魔法で戦場を駆け抜けた経歴が、その鋭い眼差しやしなやかな体つきにも色濃く残っている。
現在は冷徹な戦術家として知られ、年齢以上の知略と内省を感じさせる雰囲気をまとっている。
この二人は帝国の外征派に属し、マルシュライン伯は序列上、ヴァレンロート侯に仕える立場であった。
二人の間には、氷のような静けさと、灼けつくような緊張が漂っている。
ヴァレンロート侯は広間の奥、威厳をたたえた椅子に深く身を預け、黙してマルシュライン伯の言葉を待つ。
卓上には淡い朝日が差し込み、銀の燭台に置かれた封蝋の赤が妙に鮮やかに浮かび上がっていた。
マルシュライン伯は、静かに一礼し、手元の文書を差し出す。
その顔に浮かぶのは、硬い表情と、どこか諦観を帯びた眼差しであった。
「アルドリック様……いえ、失礼しました。ヴァレンロート侯爵閣下」
「気にするな。話を続けよ」
マルシュライン伯の謝罪を、ヴァレンロート侯は軽く受け流し、話を促す。
本来なら私的な場では互いに名前で呼び合う間柄だが、今はそうした気安さを許さない状況だった。マルシュライン伯もすぐにそれを悟り、あらためて礼節を正したのだ。
「辺境のアリオン家の令嬢、セシリア・アリオンが聖女であるという情報が入っております。ヴェリウス辺境伯の陣営に潜ませていた間諜が、この情報を持ち帰りました。これは私の信頼できる配下によりもたらされた信憑性の高いものです」
静かな言葉が広間に落ちる。ヴァレンロート侯は微かに眉を上げ、そのまましばし沈黙した。
やがて、ぽつりと呟く。
「聖女……」
マルシュライン伯は黙って頷く。その目には尋常ならざる真剣さが帯びていた。
そして正確な報告のために説明を始める。
「はい。本来であればこの情報は皇室と四守家に速やかに伝達されるべき重要事項ですが、現時点では私と、そしてヴァレンロート侯爵閣下のみが把握している状態です。配下からの報告によれば、神業としか思えぬ光が突如として現れ、それによってルミナシア軍の重騎兵が瞬く間に撃滅されたとのことでした。その力が完全にセシリア・アリオンの制御下にあるかは現在調査中ではありますが、自らの意思により攻撃を行ったことは確定であるとのことです」
言葉を重ねるマルシュライン伯の声に熱はない。ただ淡々と事実だけが告げられる。
ヴァレンロート侯は、机上の書簡に視線を落とす。
封蝋の赤を指でなぞるようにしながら、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「……ルミナシアがあれほど性急に戦を始めた理由。それが何なのか様々な議論が交わされていたものだが、それが聖女に関係することであるなら全てが腑に落ちる」
語尾が静かに消え、しばしの間、場に沈黙が満ちる。
ヴァレンロート侯は目を閉じ、思索の底に沈む。外からは遠く鳥の声さえ聞こえず、時が止まったかのようだった。
やがてゆっくりと目を開き、再び言葉を紡ぐ。
「一昨年の大開晴の儀が延期になったのも、昨年の大快晴の儀が何度も日程が変更された理由も、そして今年度の儀式の日程が未だ定まらぬのもすべてはそれで説明ができる。現聖女アリシアに『聖女の力』はなく、ルミナシア聖王国は聖女の力を喪失した」
そこまで言い切りヴァレンロート侯は一瞬だけ沈黙する。
それは思考を纏めるための時間だったのか、すぐに言葉が続く。
「……聖女という存在が、あの国の信仰、そして政治をも支えている以上、強硬的な手段を選ぶしか道はない。例えそれが国家存亡を賭けた戦争であってもだ」
ヴァレンロート侯の声には、感情の波を押し殺したような硬さが滲む。
「これは対ルミナシア協定に抵触する重大情報です。上級貴族であるなら外征派内政派問わず、共有すべき情報ということになります」
マルシュライン伯は視線を少し伏せ、肩の力をほんのわずか抜いて言葉を重ねる。
その声の奥には、淡い諦念の色が宿る。彼の瞳には、遠い未来の戦火がすでに映っているかのようだった。
「聖女の力によって建国され、その威信もまた聖女の名に支えられてきた国がルミナシアです。彼らがどのような犠牲を払ってでも動くのは当然のことかと」
マルシュライン伯は静かに語り。広間には再び沈黙が満ちる。
ヴァレンロート侯はゆっくりと顔を上げ、まっすぐマルシュライン伯を見据えた。その瞳は冷たく、どこか遠い過去を見ているようだった。
「そういうことだ。聖女の奇跡とはつまり、全てを無に帰す『滅びの光』だ。その力の在り方が変わってしまったというのなら、否応なく歴史は動く。……つまりは本気の大戦争の始まりというわけだ。ヴァリエンタ帝国の総力を結集する必要がある。これには内政派も参加せざるを得ないだろう」
重い言葉が発せられた後、部屋の空気がさらに冷たく締まる。
「それは……そうでしょう。内政派とはとどのつまり自らの領地を第一に考える者たちの集まりです。ルミナシアによる侵攻に対して、我ら外征派より苛烈な反撃を行う者たちも多く出るはずです」
マルシュライン伯の声は静かだが、その脳裏には敵対派閥の貴族の姿や言動が浮かび上がるかのようであった。
「だろうな。どれだけ気取って平和の尊さを口に出しても、本質は我らと変わりはしない。領主とはそういうものだし、だからこそ長きにわたる内乱を生き抜くことができたというわけだ」
ヴァレンロート侯の言葉に続いて、再び沈黙が訪れる。
その静けさのなか、彼は卓上に広げられた地図を引き寄せ、指先でゆっくりとその表面をなぞる。
その指はヴァレンロート領から始まり、湿地帯アルテ・マーシュを避けるようにして曲がりくねった街道をたどり、やがてモラント子爵領で止まった。
「ルミナシアが本気なのだとしたら、モラント子爵領はもたないだろう。当主と嫡男はすでに戦死している。家を継ぐのは三男のローワンと言う話だが」
地図の一点に触れたまま、低い声で続ける。
「成人前の子供を担ぎ出すしかない状況。これでは領地防衛など、とてもではないがおぼつかないだろう」
「援軍はすでに送っています。本来ならカステリス防衛のための兵力ですが、街道の封鎖なら戦力として十分なはずでは? モラント子爵家の問題があったとしても、突破は容易くないはずです」
マルシュライン伯の反論を受け、ヴァレンロート侯は小さく鼻で笑う。その表情には、わずかな苛立ちと諦めが混じっていた。
「ルミナシアが本気を出したということは、その戦力には高地人傭兵も数える必要がある。森の街道を抜けた先で待ち構えれば良い? その程度の想定もなしに戦争など始めるものか。さらに付け加えるなら、ルミナシアに蓋をしていたヴェリウス辺境伯領が落ちれば、ルミナシアはどの方向に戦力を送るかを自由に決めることができる。仮に街道防衛が成功したとしても、迂回して攻撃されれば一網打尽だ」
彼の指が、地図にある森林地帯を迂回するようになぞる。
「しかし迂回機動には時間がかかります。我らの援軍が間に合えば戦線の構築は可能なのでは?」
マルシュライン伯の指摘に対し、ヴァレンロート侯は短く息を吐いた。
「クライブ……軍隊における時間感覚の差は同じではないのだよ。それは政治制度にも左右されるものだが……いや、今は軍議の講義をする時間ではない。ルミナシアが本気であるのならモラント子爵領が落ちる可能性が高いということだけ覚えていれば良い」
「はっ! 承知しました」
マルシュライン伯が短く頭を下げる。その所作には、もはや迷いも反論もない。
ヴァレンロート侯によって会話が打ち切られたが、それは終わりを意味するものではなかった。
静かな広間には、次なる重大な問いがすでに潜んでいる。
「それで、セシリアとやらが仮に本物の聖女だとして、使えるのか?」
ヴァレンロート侯の問いが低く響く。静けさがふたたび部屋に満ちる。
「それは調査が必要でしょう。繰り返しになりますが、部隊が全滅しかけた最後の時になってようやく力を使ったということです。つまりは予定されていた反撃であるとは考えにくい。自らの意思ではあるものの、それは突発的なものであると言えます」
マルシュライン伯は目を伏せ、淡々とした声で答える。
「聖女の力に覚醒したとはいえ、それは短期間であると考えるのが妥当だろうな。だがルミナシアが聖女の力を喪失した事実は我らが帝国にとっては朗報であるし、再現性のある力の行使であるとするならば……時代が動く」
ヴァレンロート侯の声には、歴史の転換点に立ち会う者の重みがこもる。
「時代……つまりはルミナシア軍を撃退するだけでなく、その先まで行くということですね」
マルシュライン伯が呟く。
ヴァレンロート侯は静かに椅子から身を起こし、窓辺へと歩み寄った。高価なガラス越しに外を眺め、南方の空に目を細める。
窓の向こうには、澄み渡る青空が広がっている。その景色をひとしきり見つめ、ヴァレンロート侯はゆっくりと口を開いた。
「ああ。しかしルミナシアは必死になって攻撃をするであろう。そしてその矛先は帝国本領南部を守護する我らに向いているのだ。我らの思うように戦局が運ぶとは限らん。だが、聖女の力を効果的に使用できるというのならば……かつて父祖らが味わった恐怖をそのままルミナシアが受けることとなる。それは奴らにとっては大いなる皮肉だろうな」
「ヴァレンロート侯爵家が指揮していた一軍が、聖女の放った光によって一瞬で殲滅されたという、あの逸話ですか……」
「父祖から脈々と継承された手記にはこうある。『聖女とは絶対に戦うな』とな。ではその聖女がヴァリエンタ帝国の手の内にあるならば?」
「恐るべきものは、何もない……」
マルシュライン伯の呟きを受け、ヴァレンロート侯は振り返り、鋭い視線をマルシュライン伯に向けた。
その眼差しには、長い歴史のしがらみと新たな時代への期待がないまぜになっている。
「そうだ。聖女の力を持たぬルミナシアなど恐るるに足らず。魔導戦力を営々と鍛え、整えてきた我々こそがオルドミニア最強の軍勢だ。ルミナシアが聖女の力を失うなど、まさか想定すらしていない事態ではあるが、この好機を逃すこと罷りならぬ。皇帝だとしても首を横には振れないだろうし、内政派ですら心変わりさせることも容易かろう。帝国に侵入してきたルミナシア軍を撃退して、そして後は、我々外征派がルミナシア本土に攻め入り必ずや勝利を掴む。その偉業は長きに渡る歴史としてオルドミニア全土に輝く威光となるのだ」
熱を帯びた宣言に、室内の空気が張りつめていく。
「……閣下のお言葉、胸に刻みます」
マルシュライン伯はわずかに頭を垂れる。その声音には消えぬ不安の翳りが滲んでいる。
(確かに、外征派にとっては好機かもしれない。内政派にも心変わりをする者たちが多数出るだろう……だが、私にとってはやりたくもない戦に巻き込まれるという事実があるだけだ。聖女の奇跡も、帝国の勝利も、ただの災厄に過ぎない。そしてルミナシア軍を撃退したら本土に攻め入るだと? そんなことをする余裕が我らに残るのか? 外征派との血縁に縛られたこの関係を終わりには……できないのだろうな)
気炎を上げるヴァレンロート侯とは対照的に、マルシュライン伯の心はひどく冷え込んでいた。
胸の奥にじっとりとした重さが広がり、どこか遠くで自分だけが取り残されていくような感覚に囚われる。
邸宅の静けさの中、耳を澄ませば、自分の浅い呼吸さえもやけに大きく感じられた。
やがてマルシュライン伯は、ごく小さく息を吐く。その白い吐息は朝の冷気にすぐ消えて、広間の空気と同じ静けさへと溶けていく。
高揚する声が響いたあとの、空虚な静寂。
そのなかで、マルシュライン伯の小さな吐息だけが虚しく掻き消されていった。




