崩壊
堡塁には、重苦しい空気が満ちていた。
不利な戦いであることは分かっていた。それでも、味方の重騎兵の大半が討たれたという事実は、これからの行動に重くのしかかる心理的な足枷となった。
とくにヴィクターには大きな動揺があるように見えた。
モラント家の重騎兵は喪失し、意図の分からない突撃を目にすればそうもなるだろう。
だが、それは過ぎ去った悲劇にすぎない。
重要なのは……今、どのように行動するかだ。
「エリック様。それでこれからどうします? 敵の迎撃ですか?」
私は努めて冷静な声を出し、魔想具を構える。
まだ敵の戦列は遠いとはいえ、すぐに魔法の射程に入る。迎撃をするなら準備を整えておく必要があった。
それに、このような事態だからこそ、私だけは冷静でいなければならない。
今こそ、精神的な年長者としての務めが試される時だ。
「……おそらく迎撃は無駄だ。先ほどの戦術魔法によって左翼陣地が突破されたら、軽歩兵が背後に回り込むだろう。迫りくる敵への対処は必要だが、最終的にはこの陣地を放棄して逃げるしかない」
その言葉は重苦しく皆の胸に響く。
胸の奥に沈み込むような心苦しい言葉だけど、まさに正論だ。
戦記物でよく目にするフレーズを思い出す。
『宝石よりも価値のある時間が、無為に流れていく』。
それだけは……避けなければならない。
「ならそうしますか。指揮所でもその議論がされているんじゃないですか? ヴィクター様を派遣してみてはいかがでしょう?」
私の言葉に、俯きかけていた顔を上げたヴィクターがエリックに視線を向けた。
「そうだ! リーナの言う通りに親父が何か策を考えているかもしれない。俺はそれを確認しに行く。そしてエリックはどんな命令がきても、部隊をすぐに動かせるように統率する。これしかない!」
「……ああ、その通りだ。ではそのように行動する! ヴィクターは指揮所の様子を見に行ってくれ!」
「承知!」
先ほどの呆けた表情は消え去り、使命感を帯びた表情でヴィクターは走り出した。
それを見届け、エリックは残っているアンナを見る。
「アンナはどうだ? エリザベス様のいる中央陣地へ向かうか、ここで以前の命令の通りに迎撃戦闘を行うか。どうする?」
「えっと、どうしましょう? ここで戦えとしか言われてなくて……逃げるなとも言われてないから、逃げてもいいとは思うんですけど……」
はっきりしない命令は戦場に不慣れなことの証明か。
しかしそれを言っても仕方ないし、アンナが視線を向けているのは私だった。
迎撃の準備をしている私を置いて逃げることに抵抗がある。そういう表情だ。
ミリーをはじめとする団員たちも同じ気持ちなのか、皆の視線が私に集まっていた。
「よし、なら俺の指揮下に入れ! 敵が接近したら魔法を乱射しろ。それで少しでも足止めして、無理だと思ったらエリザベス様のいる本部へ逃げろ。俺たちに対する援護はそれくらいでいい」
「わ、わかりました! 皆、リーナと一緒に戦うよ! 攻撃指示は私が出すから構えて!」
皆で並んで魔想具を構える。
エリックはそれを確認すると、急ぎ自らの指揮する部隊の元へと走っていた。
敵の戦列はすでに私の魔法の射程に入っている。だけど他の皆の射程はまだ遠い。
魔法の使い方を目線でアンナに問うと、すぐに返事が返ってきた。
「精神力の問題もあるから、魔法は一緒に使った方がいい。私たちの『熱火』で目くらましすれば、リーナの『水礫』がもっと当たりやすくなるはず。その作戦でいこう!」
納得し、無言で頷く。集中力を高めて、敵のさらなる接近を待つ。
こちらの陣に圧力をかけようと詰めてくる敵兵の戦列。命令への順守か、それとも覚悟をしているのか。すでに私の魔法の射程内に入っているのに、ひるむことなく前進してくる。
全面に長槍兵を押し立て、その後方にはいくらかの軽歩兵と側面は重騎兵で固めている。その層の厚みによって狙えるのは長槍兵だけだ。どう考えても高価値目標とはいえない。おそらく戦列歩兵のように、前の者が倒れたら後ろの者が前に出てくるはずだ。
『水礫』の狙撃は、あまり効果がないかもしれない……。
またしても、自分の魔法の限界を思い知らされる。長槍兵を倒すには魔法だけじゃ駄目だ。剣術を併用した攻撃をして初めて優位に立てるんだ。
「……今! 放てぇ!」
アンナの指示で皆が魔法を放つ。
それに一拍子遅らせて、ライフル弾をイメージする『水礫』を放つ。
おそらくは命中。あの倒れた敵がそうだ。しかしその戦列が歩みを止めることはない。
わかりきった結果だけど、それでも焦りが募る。でも、今はこれしか手段はない。
何度かの魔法攻撃。精神力の問題か、威力がどんどん弱まっている。敵を倒せずに痛みを与える程度の威力しかない。
敵の進軍は止まらず、ただ時間だけが過ぎていく。
そんな苦しい魔法戦を続けていると、陣地からの通路を抜け、ヴィクターが堡塁へ駆け込んできた。
「撤退命令だ! 俺とエリックが交互に兵を指揮して戦列を敷きながら撤退する! エリックにはこの命令を伝えた! 今は陣地で防御を固めている! エリザベス騎士団は即時撤退! エリザベス様が堡塁に配置した団員を待っているからすぐに行け!」
「は、はい! 皆! 行くよ! リーナ、私たちは逃げるから、ごめんね!」
「うん、早く逃げなよ。ここからは私たちが……いや、俺たちの仕事だから」
アンナ達が撤退していく。その後ろ姿を最後まで見てから、ヴィクターと一緒に堡塁を出る。
もう魔法は放てない。それに持ち運ぶのには魔想具は嵩張り邪魔になる。
魔想具を放り投げ、鞘から剣を抜き、刀身に映る自分の顔を見つめる。
ああ、そうだ。この顔だ。これはリーナじゃない。靖彦の顔だ。特に意識することなく、男の心に戻っていたようだ。
……魔法の威力が弱かったのはこれか。年長者の自覚ってのが悪かったかもしれない。それは靖彦としての精神だし、心の在り方だからな。
だが、この状況ならむしろ都合が良い。どのみち精神力が切れかかっていたのに変わりはないからだ。
剣を鞘に戻す。心の準備は万全だ。
「この状況で女らしくってのは無理です。魔法は使えなくなってしまいますが、それはご勘弁を」
「いや、精神力の消耗もある。今は剣士として戦えるほうが良い。俺と指揮下の部隊は第二線陣地へ向かう! 撤退してくるエリック隊を収容できるように防御陣を敷く!」
ヴィクターに付いて堡塁を出ると、そこにはヴァルガとヴィクターの指揮する兵たちが通路に並んでいた。
視線を右翼陣地に向けると、そこではエリックとカイルが守備についているが、部隊を半分に分けたから、今いる軽歩兵は百人を切るくらいだろう。
そして残りの兵力は魔法を使えない平民兵で、彼らは元は長槍兵だ。陣地に籠るために今は短槍が主な装備で、その後方には弓兵が五十人ほど存在し弓を構えている。
兵力は二百に満たないか? 戦力としては心もとない。
だが、陣地を守るためでなく、時間稼ぎをするならなんとかなるのか? 指揮に疎い俺には分からない。
陣地に籠る兵士たちの顔のほとんどは恐怖と困惑に彩られているが、中には達観したような表情の者もいる。それはついにこの時が来たか。そう考えているかのようであった。
ヴィクターの兵たちも同じだ。今のところ、浮足立つ様子はない。部隊の統率に問題はなさそうだ。
「俺は陣地に向かう! リーナはヴァルガに付いて遊撃だ! エリック達の撤退を援護してくれ」
そのような命令をして、ヴィクターと彼の指揮する部隊は第二線陣地に向かっていく。
陣地の位置はここからでも見える。遠目からでも粗末な陣地にしか見えないが、ないよりかははるかにマシだろう。
ヴァルガが俺の傍にやってくる。ハルバードを装備しての完全武装だ。
その顔は……俺たちと殺しあった時と同じ、本気の顔をしているように見える。
「リーナ! お前は俺の後ろにつけ! 俺たちはヴィクターの指揮下に入るが独自に行動して敵をかき乱す。お前の刹那の心域を活かせば、十分にやれるはずだ!」
「そうは言うけど、訓練不足なのが厳しいな。乱戦でない一対一なら少しは自信があるんだけど」
「そこは俺に任せろ。場は俺が作ってやる。お前はお前にできることをしろ」
ここからはヴィクターとは別行動だ。俺とヴァルガは遊撃をしてエリック隊の撤退を援護する。
ヴァルガが向かう先は第一線と第二線陣地の中間にある岩場だった。この岩陰に隠れながら、臨機応変に動くという。
「ここで待ち構えて追撃をかけてくる敵を迎撃して、味方の撤退を援護する」
「分かった。ヴァルガの後ろに付けばいいわけだな?」
「そうだ。判断は俺がするから、リーナはいつでも動けるように準備しておけ」
わざわざ第一線陣地で防御をせずにこの中間地点で身を潜めるのは、流動的な戦場に対応するためだ。
これは重要な任務だ。何よりも問われるのは判断力。俺にできるのは、ヴァルガの経験を信じることだけ。
ヴァルガはこの戦場にあっても揺るがず、目を閉じて音の変化を探っていた。
対して俺はどうだ? ……心臓は早鐘のように鳴り響いている。
これから殺し合いをするのだと体が叫んでいるかのようだった。俺に冷静沈着なんて似合わない。いいさ、それでこそ俺らしいってもんだ。
心臓の鼓動を感じながら待機していると、陣地に動きがあった。
弓兵が第二線陣地へ向かうために岩場の脇を足早に通り過ぎる。ちらりと見れば、どの弓兵も矢筒の中は空に近い。中には一本も残っていない者もいる。
続いて短槍を持った平民兵が撤退し、騎士や従騎士などの軽歩兵が続く。エリックやカイルはまだ陣地で指揮を取っているようだった。
完全に秩序だった撤退は難しい……ところどころ綻びが見え、そこから敵の軽歩兵が侵入してくるのが分かる。
ルミナシア軍の作戦は長槍兵で陣地を圧迫して、開いた穴から後方に控えていた軽歩兵を侵入させることなのだろう。重騎兵が侵入できないように陣地構築がされていたことだけは唯一の救いか。
「来た……俺が出たら後に続け、お前がやれそうな奴は選別してやるから確実に仕留めろ……行くぞ!」
ヴァルガが岩陰から出て前進した。俺もそれに続く。
視界には、撤退する味方とそれを追う敵の軽歩兵が見えた。
その識別は簡単で、敵兵は皆ルミナシア聖王国の紋章を刻んだ胸甲や革鎧を着けている。
ヴァルガがハルバードを一閃させると、敵兵の首が飛ぶ。
これほど容易く殺せるのは、ヴァルガの技量だけではない。魔法を絡めた動きがあるはずだ。
『幻影』と『朧』。それと本気で対峙したことのない俺には分からないが、敵は自分がなぜ死んだのかすら、分からないかもしれない。
「リーナ! そいつをやれ! 俺はさらに前に出る!」
そう言ってヴァルガは前進し、俺の前にはおこぼれが転がり込んできた。
エリックと同年代の敵兵だ。その顔は恐怖に歪み、こんな戦場で給仕服を着ているの俺を見ても、その怯えは変わらなかった。
意識を集中して極限の中に入る。
そして、慈悲もなく剣を胸甲の隙間へと滑り込ませ、脇腹を貫いた。敵兵は声も上げずに崩れ落ちる。
恐怖で剣先が鈍った斬撃なんて、極限に入れば簡単に避けられた。
おそらくこいつは新兵。本能のままに武器を振ることしかできず、機動魔法や反射発動魔法を使う余裕もなかったのだろう。
「激戦をくぐり抜けた意味がここで出たな。心臓はともかく心は冷静だ」
あえてそう口にすることで、無理やり余裕を装う。つまらない自己暗示だが、今は少しでも余裕が必要だった。
ヴァルガとともに敵を迎え撃ち、味方の援護に徹していると、ついにエリックとカイルの姿が見えた。
二人は無事だ! 怪我もなくここまで切り抜けてきたようだ。
「俺たちで最後だ! お前たちも一緒に引け!」
「了解です! エリック様! ヴァルガ! 引くぞ」
「おう! ヴィクターが陣を構えて待っているはずだ。早く戻るぞ!」
この撤退戦の行方は? どれほどの者が生きて帰れるのか?
それはこれからの俺たちの働き次第といったところか。
それを考えるほどに冷静な者は、おそらくこの場にはいないだろう。俺たちはただ、生き残ることに必死なのだから。