新しい生活の始まり
書斎から退出して少し歩く。そして振り向き扉の向こうにいるであろうエドワード様の方を見る。
「なんでこんな怪しい俺を置いてくれるんだろう……」
ポツリと呟いた。
正直なところエドワード様の判断が全く読めない。初対面の俺をなぜ信じられるのか、その理由が分からないのだ。
あの目の奥に感じたもの、それが関係していると思うが分からない。アレは何だったのか、いまだに胸に引っかかっていた。
「そりゃエドワード様だからだよ」
こんな廊下の真ん中で言葉を漏らしたのがまずかった。廊下の先にいた屋敷の兵士に聞かれたらしい。
こちらに近づいてくる。手入れのされた皮鎧が鈍く光り、背の高い堂々とした体格に見下ろされる形で俺は少しだけ身を竦めた。
女になった影響を改めて実感する。性差うんぬんと言う前に単純に身長が低い。これはある意味で女になってから知った男と女の絶対的な違いだった。
「あんた、エドワード様に目を見られただろ? あれ、俺も一度だけ体験したことがあるんだが……嘘は通じねえんだよな、あの目には」
「嘘……?」
「そうさ。ヴルド峠の時も伏兵を見破った。ああ、嬢ちゃんには難しい話かもな」
兵士は苦笑しながら剣の柄を撫で、遠い目をする。
俺も一応そこそこの軍事知識はあると自負してますよ? ただこの言い方は生きた知識としての話だな。俺には縁のない遠い世界の話だ。
それにこの人の口ぶりだと、人を見るのも戦局を見るのも同じってか? うーん、そういう事もあるのかな?
「お前さんがどんな訳ありか知らねえが、エドワード様が置くと決めたならそれで間違いない。安心して働けってこった。……まあ、あんまり妙なことはしないほうが身のためだがな」
「……とりあえず今は言われたことに集中します。新入りですからね」
俺は社会人だぜ。当然その心得はある。
まずは余計なことをしないのが肝要だ。でも指示待ちしてると文句も言われるのが社会人のきびしい所だ。まあその辺はフィーリングでなんとかするさ。
「ああ、それが良い。それに……リーナだったか? 嬢ちゃんの名前。エドワード様が名付けたと聞いたが」
「ええ、そうですよ。でもなんで知ってるんですか? さっきエドワード様からそう名乗れと言われたばかりなんですけど」
「嬢ちゃんがエドワード様と話している時に家令がみんなに伝えたんだ。エドワード様がそう決めたってな。最初から嬢ちゃんをリーナと呼ぶつもりだったんだろう。エドワード様が決めたんだからな。それでいいさ。そんじゃまぁ、お仕事がんばんな。あの部屋に侍女長がいるからそこで指示をもらえ。ではな」
俺と入れ違いに兵士は書斎に入っていった。なんだかんだで気にかけてもらってるのかな?
そして侍女長のいる部屋に行き指示を貰う。今日はこれでお休みだ。体はともかく精神的にはへとへと、これほどの気疲れは生まれてきて五指に入るといっても過言ではない。
そうして客室に案内され体を横にすると、俺はすぐに寝入ってしまった。
翌朝。
仕事が始まる。女になって異世界? にやってきた新しい俺の仕事だ。
支給されたメイド服に袖を通すと女装している気持ちになって気恥ずかしい。
「リーナ。あなたの仕事はこちらです」
侍女長に指示を受ける。昨日も一目みて思ったが、貫禄のあるおばちゃんメイドだ。とてもじゃないが逆らう気なんて起きそうにない。あの兵士は妙な事だなんだと言っていたがそんなの無理だ。格と威厳がまるで違う。
そんな侍女長に案内されたのは広々とした屋敷の廊下の一角だ。そこには掃除用具が所狭しと並び、手入れの行き届いた家具や装飾品が目を引く。
そしてちんまいお子様メイドがそこに一人いる。肩口で切り揃えられた赤髪が特徴的な子だ。日本だと児童なんたら法で雇用者がしょっぴかれそうだが、この世界にそんなもんあるはずがない。
「マリア。新人のリーナです。仕事を教えてあげなさい。いいですね」
「はい! 侍女長!」
「よろしい。では頼みましたよ。リーナ。あなたもしっかりおやりなさい」
そう言いつけて侍女長は消えていった。そして残されるのは俺とこの子の二人だけ。
「わたしがあなたに仕事を教えるマリアよ! びしばし指導するから頑張って覚えなさい!」
張り切った声が響く。マリアが掃除用具を手にこちらを見上げていた。
「あなたが来たおかげで、私もやっと下っ端じゃなくなったの! よろしくね、リーナ!」
「……ええ、よろしく。マリアさん」
リーナという名前にもまだ慣れず、少し引っかかりながら返す。
掃除用具を受け取り、指定されたエリアを手伝うことになった。高級な調度品や美しい絨毯に気を遣いながら、埃を払い、磨き上げていく。
「ここは応接室。高価なものがいっぱいだから注意してね! 何が高価かは教えてあげるから、その周辺はやらなくていいわ。それ以外を隅までしっかり掃除してね!」
「分かったよ、マリアさん」
「マリアさん……いい響きねぇ。でもマリアでいいわ。同じ下っ端だしね」
「そう? ならマリアで。それで次はどうしたらいい?」
「そっちはねぇ、これを使ってやるのよ」
ここは素直に従い仕事をする。年下でも仕事で先輩ならそこは素直に指導を賜るのが社会人というものだ。
でもその先輩がマリアみたいな子供ならまた違った感想が出てくる。中学生、もしくは小学校高学年くらいの歳だろうか? 一生懸命なその姿は微笑ましさが先にきて、指図を受けても気に障りはしない。
「ここも終わったよ」
言いながら、窓際の埃を払い終える。見渡すと、他にも細かい部分に手が届いていないところが多いことに気づいた。
「マリア、ここは普段どうやって掃除してるんだ?」
指で上部の窓を指さしてマリアに聞く。
そんな俺をみて彼女は小さく肩をすくめた。
「そんなの、手が届かないところは諦めてるに決まってるじゃない! できるところまでやったら侍女長に報告するのよ。最後は侍女長が仕上げるのよ」
今回やった仕事を思いだす。マリアは壊したらとんでもないと言っていた調度品類があるにはあるけど、それらを掃除はしていない。そこはメイド長が最後に仕上げるというわけか。
しかしそれでも応接室なんてヘマをしたら大変なところを任せるあたりマリアは期待されているってことか?
まあいいか。しかしここまでやったんだ。少し工夫すればはたきを延長して埃を落とす程度はできるだろう。
「仕事はこれで終わりなんだな? なら少し見ててくれ」
「何々? どうしたの?」
趣味で覚えたロープワークだ。ちょうどいい感じの紐もあったし、これを活かして掃除道具を延長する。少々不格好だが、これならマリアでも使えるはずだ。
「えっ、なにそれ! ダサいけど上までとどくじゃない」
ダサいって……確かに不格好だがな。まあ俺は大人だから気にしないが?
「ほら、これ使ってみて。埃を落とすくらいの強度はあるから。これだけもやっておけば侍女長の助けにはなるでしょ?」
「そうね。ふふっ。お母さん褒めてくれるかな」
「えっ……!?」
娘だったんかい! 言われてみれば少し似てるか? 歳は結構離れているように見えるが、高齢出産とか? もしくは子だくさんとかだな。俺のひいばあちゃんも八人産んだらしいし、昔はそんなもんかも。
一通り掃除を終えると、マリアが満足げに言った。
「リーナ、なかなかやるじゃない! これならもう一人前の侍女……は言い過ぎね! でも期待できる働きぶりよ!」
「ありがとう、マリア。でも、これからも教えてもらうことが多いと思うから、よろしく頼むよ」
いきなりの高評価は嬉しい物だがヘマして評価を下げたくないという欲求が生まれてしまう。これじゃあ安易に手は抜けないな。仕事なんて手を抜いてなんぼだが、そんな考えじゃ駄目そうだ。
「任せて!」
得意げに胸をたたく彼女の顔を見て俺は微笑む。この仕事がいつまで続くかは分からないが、やるべきことをやるしかない。
それにリーナ、か。本当にこの名前に慣れる日は来るんだろうか。
胸の奥でわずかな違和感を覚えつつも、このあと幾らかの作業をやって初日の仕事はこうして幕を閉じた。
そして向かうは俺の部屋だ。
この部屋は狭く、古びた木製のベッドが一つあるだけの簡素な部屋だった。壁には亀裂が走り、床には年季の入った木材がむき出しだしで窓も粗末な板窓だ。
ここが下っ端メイドの居住空間だということが嫌でも伝わってきた。
「まあ……寝るだけなら問題ない」
ベッドに腰掛けると、年季の入った木枠が軽くきしんだ。ふかふかの布団などあるはずもなく、毛布らしきものが一枚あるだけだ。だが、案外その薄さが心地よくも感じる。
応接室の後も仕事は続いた。他の部屋の掃除に加えて、慣れない作業を色々とこなしたはずなのに、体の疲れは驚くほど少ない。
いや、むしろ軽い。これまでの自分とは明らかに違う。
体が違うのは当然だけど……そう自分に言い聞かせたが、どこか違和感が残る。
「深く考えても仕方ないか」
ベッドに横たわり、薄暗い天井を見つめる。日が沈めばあとは就寝の時間だ。
どうやら光源となる物はあるようで、光が漏れる部屋もある。この部屋には当然何もないけどな。
したっぱメイドである俺の一日はこれで終わりだ。
これまでの日常が遠い夢のように思えてくる。異世界での勤労一日目でしかないのにこれかよ。
乾いた笑いがでる。頑張って適応しないと駄目だなこりゃ。
「明日も……ちゃんとやらないとな」
ぽつりと呟き、毛布を引き上げる。
そこでふとTSした時のお約束展開が思い浮かぶ……手を下半身に伸ばそうとして、だが、すぐに止まる。
何故かそういう気になれない。肉体的な疲労はそんなにないんだけどな。精神的なものか?
そんなことを考えながら瞼を閉じる。すると思いのほか早く眠気がやってきて、意識が遠くなっていった。