目覚め2
「歩くのに支障はなさそうだな。手を放しても問題はないか。怪我はなし、しかし疲労かな? 念のため屋敷で診てもらうといい。こんな森でその軽装で倒れていたのだからな」
エドワードさんの声は低く落ち着いており、その言葉に不思議と安心感を覚える。
「ここは……どこなんですか?」
震える声で問いかけると、エドワードさんは歩みを止め周囲を見回した。
「ここは私の領有する森だ。息子と鍛錬に使う場所でね。澄んだ空気が心を整えてくれる」
彼はどこか懐かしむような目で森を見渡す。鍛錬をしているというのは本当だろう。引き締まった体をしているのが分かる。その立ち姿も武人然とした凛々しさが確かにある。
「鍛錬……ですか」
自然とこぼれた言葉に、エドワードさんは微かに微笑んだ。
「ああ。武門の家に生まれた者として、心と体を鍛えるのは欠かせない。息子のエリックとよくここで剣を交えるのだが……今日は一人で心を整えに来たところ、君を見つけたというわけだ」
うん? 武門の家……もしかしてエドワードさんって。
「貴族……なんですか?」
「ああ。私の名はエドワード・アリオン。アリオン男爵家の当主だ」
「あ、う……失礼をしました。態度がなっておらず、すみません」
社畜人生で学んだ直角おじぎ謝罪! とりあえずこれで乗り切る! っていうか貴族かよ! どういうタイプの貴族か分からないからどういう対応すりゃいいか分からないよ! 無礼打ちなんて嫌だぞ!
「いいさ。顔を上げなさい」
エドワードさん。いやエドワード様か? 彼は少しにやけた顔でそう言った。
しかしすぐにこちらを見る目が変わる。その目はまるで何かを探るようにこちらを見ていた。
「それにしてもだ。ヤブキン・ヤシコーン……だったか? 実際の発音はもっと違うようだったが……どこの生まれかはわからんが、このあたりでは聞かぬ名だ」
困惑を隠しきれない様子のエドワードさんがそう呟いた。
日本人的に考えてみよう。思わず笑ってしまう系だと、オニャンコポン! これはアフリカのどこかの神様の名前だったはず。フィンランドとかでもアホネンさんとかいるしね。
そこまではいかないかもしれないが。聞き慣れないだろうな。
「ええ、まあ……遠くの方から来たんです」
答えた。嘘は言ってない。少し冷静になってきたが今の俺はなんだ? 異世界転生者だ。多分な。もしくは転移とか憑依とかだけど、そのあたりの細かい設定はどうだっていい。今の自分の現状把握が重要だ。
そこでなんとか答えられるのがこの答えだ。再度自分に言い聞かせる。嘘は言ってない。俺は嘘をつくのが得意なほうではない。なら真実を混ぜればいい。こう答えるしかない。
「フム。今はまだ詳しくは聞かないことにしよう。それは屋敷に着いてからでよい」
そう言うと、エドワードさんは小さく笑った。その配慮に俺は少しだけ気持ちが軽くなった。
森を抜けると、遠くに小高い丘がありその上には幾らかの建物が建っていた。西洋建築の家屋のようだが、石垣に囲まれていて厳かだが派手さはなく、むしろ堅実な趣を漂わせている。
「私の屋敷だ。とりあえずはお前が元気になるまで、ここで過ごすといい」
「はい……」
その言葉に、俺は反射的に頷くしかなかった。
屋敷に近づくにつれ、複数の使用人たちが忙しそうに働いているのが見える。彼らはエドワードさんを見るなり一斉に頭を下げ、敬意を表している。
「旦那様、お戻りですか」
一人の使用人が駆け寄ると、エドワードさんは軽く頷いた。
「少し面倒な事情でな。この娘を見つけた。まずは怪我がないか確認してやってくれ」
そう言ってエドワードさんは俺に目を向けた。その瞳に浮かぶのは、不思議な親しみの色だった。
「とにかく今は体を休めるんだ。そして一息ついたらでいい。私の書斎に来なさい。詳しい話を聞こう」
屋敷に到着して間もなく、診察が始まり、ついには素っ裸になって体を調べられた。
自分の体のはずだが……現実感がない。昨日まで、昨日なのか? とにかくここで、この世界で目を覚ます前の俺は男だったのだ。それが今ではこの少女の体だ。
あまりにも理解が追い付かず羞恥心すら湧かない。そんなことを考えている間に診察が終わった。どうやら目立った外傷も病気もないようだ。そして使用人たちに促されて食事を取り、ようやく一息つける場所を与えられた。
いつもしているような食後のコーヒーブレイク。なんて気の良い物はない。だが、心を落ち着けるには十分な時間が経過した。
「旦那様が書斎で待っておられます。お話があるそうです」
俺が人心地ついた頃、メイドと思わしき人にそう伝えられる。彼女に付いていき書斎まで案内される。重厚な木の扉を叩き、室内に入った。
書斎は広く、壁一面が本棚で埋め尽くされている。その中心にある大きな机を前にエドワードさんが座っていた。彼は静かにペンを置き、こちらに目を向ける。
「そこ座りなさい、君と話をしたい」
指示に従い、室内にある指定された椅子に腰を下ろす。だが、落ち着くどころか心臓が高鳴るばかりだ。この状況で何を言われるのか、まったく想像がつかない。
そしてエドワードさんが俺の前にやってきた。ローテーブル越しに向かう形になる。
「さて……君の話を聞かせてくれないか。どうしてあの森で倒れていたのか。そして、どこから来たのか」
問いかけは穏やかだったが、その鋭い視線が逃げ道を許さない。どう言えばいいのか分からず、言葉を探した。しかし駄目だ。なんの方便も出てこない。こうなればもう真実を話すしかない。良くある記憶喪失です! なんて言えっこない。絶対ボロが出るに決まってるからだ。
一度目を伏せて深呼吸をする。心を整理するためだ。何が起きても大丈夫なように、覚悟を決めできるだけ丁寧に言葉を選びながら話し始めた。
「信じてもらえないかもしれませんが……俺は、ここではない場所……たぶん遠い、すごく遠い場所。そう、こことは全然違うところにいました。一応住んでいた国の名前は言えます。日本です」
エドワードさんの眉が僅かに動く。だが、彼は口を挟まず続きを待っている。
「そこで……成人した男として普通に暮らしていました。でも、どうしてか、気が付いたらあの森で倒れていて……今のこの姿になっていたんです」
話しているうちに、自分でも改めて状況の異常さを突きつけられる。異世界転移系主人公はつらいよな……きちぃよこの状況。この言葉をどう受け取るか分からない。ないのだが、ここで嘘をついても先がない。
「理由は分かりません。何が起きたのかも。でも、もう戻れないんだろうな……」
呟きながら、肩を落とした。異世界転生物の小説が好きだったせいで妙に冷静だ。それとも自暴自棄か? とにかく現状を認識して受け止めている自分がいる。
あれはフィクションだから楽しめたのであって、いざ自分がそうなるときつ過ぎるぜ……しかもおまけにTSもついてるときたもんだ。今の俺は女の子だからね! ちっきしょう!
エドワードさんは黙って話を聞いていたが、しばらくの間、口を開かなかった。やがて低く静かな声で言った。
「確かに、信じがたい話だ。しかし君がそれを真剣に話していることは分かる。そしてこの話を誰かに漏らすつもりもない」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。信じてくれたのか? こんな話を?
だけど、それなら!
「ありがとうございます……それで、その……」
意を決して頭を下げる。ここが勝負だ。俺が生き残るために勝負をかける!
「働きます! ここで暮らさせてください! 何でもしますから!」
許してください! なんでもしますから! まさかこのセリフを本気になってリアルで言うことになるなんて、人生何が起こるか分からなさすぎる!
エドワードさんはしばらく考える素振りを見せた後、ゆっくりと頷いた。
「ならば、しばらくここで暮らすといい。ただし、何でもすると言った以上、その言葉に責任を持つのだ。役に立つと証明できれば、正式に迎え入れることも考えよう」
「本当ですか……ありがとうございます!」
「そしてこの屋敷で働くなら名前が必要だ。お前の名前は言い辛い。なので私が名を用意しよう。リーナと名乗るといい」
「リーナ……ですか? わかりました。俺はこれからリーナと名乗ります」
「今日はもう遅い。使用人の仕事もほとんど終わっているし、いきなり使用人の受け入れなどもできん。それ故今日のところは客として扱おう。その旨はすでに侍女長に話してある。まずは彼女のとこへ行きなさい。屋敷の人間に聞けばわかる。では下がって良し」
リーナ、随分可愛い名前だ。やっぱり俺って女の子なんだな……ん? 可愛い名前というのはいいんだけど今の俺の顔ってどんな感じなんだ? 顔もちゃんと可愛いの? せっかくTSしたんだから可愛くないと嫌だよ!
でもそれはそれとして首の皮一枚でつながった。それゆえホッとし、ピンときた。もしかして、TSしていたおかげで助かったのか? これがもし20代後半の冴えない男の姿だったら、エドワードさん、いや、エドワード様の態度も全然違ったに違いない。
リーナって名前も可愛いからつけてもらえたとかあるのか?
兎にも角にも、この屋敷での生活することを許され安堵の息が出る。未来への不安はあるが、なんとかなるさ!
……という感じに前向きに考えよう。じゃないとメンタルヘルスがレッドゾーンに突入しちまう。